奇妙な読書 | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

「平行的な知覚に忍び寄る技術」
ルハン・マトゥス 著
高橋 徹 訳
ナチュラルスピリット

なんの予備知識もない状態で読みはじめたが、
なんとも奇妙な後味を残した本だった。

まず、なにが書いてあるかさっぱりわからない。
一応書いてあるのは日本語なんだけど。

日常的な意識・知識ではまったく理解できない。

「読む」という作業についてだけいえば、
はっきりいって苦痛である。

だから、おすすめはできない。

似たような感覚は、P.K.ディックの作品や
A.ベイリーの著作を読んだときにも
感じたような気がする。
このふたつを同列にならべるのもなんだが。

出てすぐ読んだからもう半年になる。

上記のような事情だからアマゾンのコメントも
現時点で、まだひとつしかついていない。

曰く、「不必要に難解」。

けだし、ごもっとも。

けどこうして
「書棚」のテーマでこの本のことを書いているのは、
やはりその読書体験が興味深かったからである。

しんどかったけど、
わからないけど、
なんだかしらないけれど、
結局最後まで全部読んでしまった。

ぼくはドンファンも呪術もしらない。
加えて、日常的理解のおよばない内容だから、
以下は、ぼくのまったくの独断と偏見と、
とりとめのない主観的経験ということになる。

ご容赦ください。


○ 平行的な知覚

日常的な意識の流れとは別に、
普段は知覚できないもうひとつの流れがある。

「夢見」の状態がそれ。

流れが複数(多重)であることについては、
確かにそうだと思う。

ぼくらは一般に、目覚めた状態にウエイトを置きすぎる。
ひょっとしたらそれは
全体のほんのわずかな一部分かもしれないのに。

この本を読んでいる間は奇妙な夢ばかりみた。

どんな夢だったとはうまくいえない。
著しく具体性に欠ける夢で、
自分のあずかり知らぬところで、
自分自身について、
なにかが起こっているような夢。

なにやらとてつもないこと・ものを
流し込まれたような気がする夢もあったが、
それがなんなのかさっぱり思い出せない。わからない。
ただ何かが起きていたという感覚と疲れだけが残る。

そんな感じ。

まあ、本を含めて、外部の刺激からは
影響を受けやすいたちなので、
それだけの話かもしれない。

でも、人生はふだん思っているより
重層的であることはまちがいなそうだ。


○ 忍び寄る

そもそもなぜ「忍び寄る(ストーキング)」
必要なんかがあるのだろう。

それはたぶん……

「忍び寄る」対象が微妙なものだからだろう。

POPにおけるフラートや、
筮竹を使わず卦をたてるときの材料選び、
なにかがおるき前兆(サイン)、デジャブ……

こういったものはふつうに日常的な意識を向けたとたん、
縁日で口に放り込んだワタアメのかたまりみたいに、
消えてなくなってしまう。

「影」についてのてがかりもまたしかりで、
日常生活レベルよりもはるかに精妙な領域で起きることだ。

粗っぽく、ふつうにつかみとるわけにはいかない。

蚊を落とすのにバズーカ砲はつかえない。

だから、「忍び寄る」。


○ 影

物語の大半はこの「影」との苦戦について
書かれているような印象を持った。

「影」は、
(ぼくの勝手な解釈では)
「区分/分離」かすすんだ
ソウル・スピリットの間に生じる、
自己保存、自己増殖(拡大)機能と、
それらへのとてもつよい執着を持った
自律プログラムである。

ミーム、ペインボディ、振り子……

これらはみんな「影」かその仲間ではあるまいか。

ミソクソはよくないのかもしれないが。


○ ヒエログリフ

カバーの絵にもなっているが、
これまた奇妙な「ヒエログリフ」なるものが
描かれている。
なにかの封印のようにもみえる。
ピラミッドの石室の断面のようにもみえる。

ぼくには易卦にみえる(笑)。

ビフォーアフターのようにふたつのパターンがある。
ビフォーは「影」その他にじゃまされれて
身動きがとれないカタチ。

これをみて思い出したのが屯卦で、
以下ふたつをならべてみる。

ぼくは占い師じゃない-グリフ1

「屯」はその字の形のとおり、
奮い立って地面から芽吹こうとする新芽が、
硬い地面か氷かそんなものに邪魔されて
なかなか上へと伸びることができない様子である。

ぼくは占い師じゃない-グリフ2

アフターは覆いがはずれて自由になったカタチ。
屯卦の上下卦をいれかえた解卦をあてはめて、
以下ふたつをならべてみる。

「解」はリリースの意味である。
障害やら厄介な関係から解放され、ときはなたれるカタチ。

屯と解はその上下卦を入れかえた関係にある大成卦である。
ヒエログリフもビフォーとアフターでは
その構造の一部が「逆」になっている。

ちゃんと検証したわけではないが、
上下卦をいれかえることで
その意味もを逆になる卦というのは
あまり多くなさそうだ。
ざっと思いつくところで解ー屯以外では、

否ー泰
既済ー未済

など。

これらは根源的な4つの力(20の銘板)である。


○ プランはあるのか。

「影」は、「自律的」とはいっても
それ自体で生き続けることはできない。

ウイルスのような寄生体で、
自己を存続させるためのエネルギーは
宿主から得る必要がある。

だれも見向きもしなくなれば、自然消滅する道理だが、
分離したものどうしがひしめきあうこの社会では、
どうしてなかなか、そうはいかない。

ときに「影」は、主役とみまごうばかりである。

ところで、「影」は本源(神サマ)の
創造プランに入っていたのだろうか。

じっさいに、いま、この世界に実在している、ということは、
プランのうちであることはまちがいないのだが、
この「プラン」のとらえかたがくせもので、
「プラン」はおそらく、
徹頭徹尾びしっと厳密に決められた
実行計画というものではないのだろう。

シンプルないくつかの基本ルールを設定しておいて、
あとはその働きにまかせる。

分離(区分)されたソウルに必要な
試練も苦しみも、いわゆる「悪」も、
その予測不可能な動きの中から生じた結果なのだ。

あらかじめ決められて
創られたものではないところがミソ。
そのように設計され、創られたのではなく、
いわば、「発生」したのである。

こうして得られた多様性は、
本源に無限の経験のバリエーションを供給する。

前回のくりかえしになるが、
やはり、この世にムダなものは、
なにひとつないようだ。