じぶんでつくるものがたり | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

○ テレクトノンふたたび

黄色い自己存在の種の年
スペクトルの月
黄色いスペクトルの種の日。

黄色い年、黄色の日、
魔術のカメの日。

グレゴリオ暦ではせんだっての
ゴールデンウィーク中にあたる。

飲み友達のMさんが酒を持って家にきた。

お互いの近況が肴。
Mさんと飲ると気分がよくなる。

ぼくは例によってまた途中で、
よくわからなくなってしまう。

まあたぶん前世でもこうやって
ふたりで飲んでいたのだろう。

酒は好きで適当に量も飲むが、
じつは弱いのかもしれない。

ええと、酒のハナシじゃなくて……

そんな中、テレクトノンの話が出て、

ぼくのは人に譲っちゃったんですよ~、

てなことを言ったら、Mさんが
「うちにあるよ」と言うので、
酔ったイキオイで思わず、

「じゃ、ください」

といってしまった。

ほどなくして、立夏。

青い磁気の手の日。

テレクトノンがとどいた。

磁気は必要なものを引き寄せ、
「手」はバーチャルなものでなく、
実際にふれられるものをあらわす。

ぼくは占い師じゃない-テレクトノン

テレクトノンはボードゲームだ。
勝ち負けのないゲームである。
ボードには「意識の平面」に、
模式的にあらわされた太陽系と、
地球と天王星をつなぐ
「通話管」が描かれている。

テレクトノンは暦のゲームだ。
「通話管」は13月の暦のひと月を
カウントできるようになっており、
そこには人類がたどってきた歴史が
フラクタルに圧縮されている。

テレクトノンはラブストーリーだ。
映画のように観客席から
それをながめるのではなく、
あなたは自らその中に参加する。

しばらく遠ざかっていたけど、
改めてやってみると、やっぱりいい。

なにが?

ときかれてもうまく説明できないけど、
自分がそこに参加しているところ……
かな。

RPGをするために
ディスプレイに灯を入れ、
マシンを立ち上げる必要はない。
テレクトノンという
ゲーム/クロノメーターがあれば、
日々の生活/その積み重ねである
わたしたちの人生は、
そのままRPGになる。

「自分が参加して創るストーリー」
といえば、もうひとつこんなのがあった。


○ 話はサバ折り的に、また易システムへ

ぼくは占い師ではないが、
自分で自分のことはよく占う。

眼前にあらわれるシンボルは
切れた線とつながった線のデジタルで、
観ようによっては何にでも観えるし、
経文には吉凶悔吝が
書いてあることもあるが、
いったいに易の経文は謎めいていて、
とおり一遍の解釈を許さない。

こういう易独特の特徴は、
いつもつかっていない
どこかの筋肉を使うことを
占者に強いる一種のヨガである。

易経は聖典である、
というのは前にも書いたが、
その構造においても
他の聖典とくらべて特殊だ。

翼伝をのぞくその内容には
全体をつらぬく「物語」という
枠組みがない。
もちろんあるひとつの大成卦の中や、
爻辞の文中にささやかなストーリーが
あることもあるが、
全体をつらぬくお話は、ない。

すべてが断片的、リファレンスであり、
読む順番はきまっていない。

なぜこんなことになっているのか。

それはたぶん、問いをたてて占い、
ある特定の大成卦を無作為に選ぶ、
その作業が前提になっているから……
だろうと思う。

この聖典には、
全体をつらぬくストーリーがない。

ストーリーはシステム・ユーザが
独自に創りあげていくものなのだ。

経文のほんとうの意味は、
システムを実地に使ってみなければ
わからないもので……
それも一定していない。

万事フレキシブルで可塑的である。

易が森羅万象を語る仕組みのカギは
たぶんこんなところにあるのだろう。

いやまて、森羅万象を語っているのは
ほんとうに易システムなのだろうか。

どんなことでも識っているのは
ほんとうはだれなのだろう。

安焼酎に溶けていく氷を
ぼんやりながめる夜。

ときにはそんなことも
考えてみるのである。

……って、
酒のハナシじゃん、結局。