意味はどこから | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

数秘術大全
アンダーウッド・ダッドリー著
森 夏樹訳
青土社

数秘術の指南書……ではなく、数学読み物といった方がいいだろう。著者は数学者で、この本の主張をぼくなりに要約するとこんなふうになるだろうか。

「神サマが数を創って、数をものごとすべての奥深くに埋めこみ、数が、数自体が、みえないけども抗いがたい影響力を、この世の事象すべてに与えている……『などということはない』」

著者は30年以上数秘術について研究しているいうだけあって、網羅している事例は非常に幅広く、ピタゴラスに始まり、最後にはバイオリズム(なつかしいなあ)批判にまで到る。

書名は忘れてしまったが、台湾か中国の算命術の本(日本語版)で、同様に非科学的なものを批判する趣旨で書かれた著作を見たことがある。算命のことを詳しく書きすぎてしまって、逆に算命に関する資料的価値の方が注目されてしまった、という皮肉な本だったような……

この本もなんだかそんな感じ。

数秘に興味のある人は、読んでみて、まあ……損はないと思う。

日本ではあまりなじみのないオースチン・コーツのグリッドシステム(翻訳版ではキャロル・アドリエンヌの著書の中でこれを紹介しているものがあったと思う)や、中世に流行したという数を使ったボードゲーム(おもしろそうだが複雑)の言及もある。

ぼくにとってはそれよりも、事物に意味をもたらす主体について考えさせられる本だった。


○ 寡黙なシステム

上記の本の(ぼくなりの解釈による)主張における「数」を、「易」というコトバにおきかえてみる。

「神サマが易を創って、易のしくみをものごとすべての奥深くに埋めこみ、易が、易自体が、みえないけども抗いがたい影響力を、この世の事象すべてに与えている……などということは、おそらく、ない。」

まあ……それはそうだと思う。

それでも易のシンボルはときとして神秘的な魅力を放ち、なにかをしでかしそうに見えることもある。

しかし、シンボルはシンボルであり、記号であり、易という言語の文字である。人間がこの宇宙を認識するためのツールのひとつだ。易卦はそれ以上のものでもなければそれ以下のものでもない。

易システムは「ある問いをたて、それに対する回答として無作為に選ばれた大成卦には、問いに対する回答としての意味がある」という前提によってなりたっている。

だからといって「すべてに」意味ある、というわけではない。

易システム自体、そんなことを主張しているわけではないと思う。


○ この世に「意味」は?

すべてに意味があるということはない。

では、すべてに意味がないのかというと、そうでもない。

すべてに意味がない、とやってしまうと、ニヒリズムへの坂を転がり落ちていってしまうか、「じゃあ、なにをしてもいいんだ」とか、「とにかく今さえ楽しければいい」といった、お世辞にもあまり美しいとはいえないデタラメな状態に安住することになりかねない。

意味があることもあるのである。

そもそも、この「意味」とはいったいなんだろう。

どこからやってくるのか。

実はこれ、人間独特の方便なのではないかと、今はそんなふうに考えている。人間が、外界……この宇宙を、認識するための一般的な手段、という意味での方便。

外界(または身体内部)から入ってくる感覚、または内側から起こってくる想念・睡眠中の体験など、まずはこれらをなんらかのカタにはめないと人間は物事を認識することができないのではないか。

ダイレクトなナマの入力は、そのままではシグナルとはなりえない。まあ、ぶっちゃけ、ノイズと一緒で、人間にとっては混沌そのものだ。混沌を混沌のまま受け止めることは、ヒトにはできない(だから、穴をあけたがる。穴をあけたとたん「混沌」は死んでしまう)。

認識という作業はこの混沌にカタをはめるという作業である。この作業が行われて初めてノイズはシグナルとしてカタチを成す(あ~、やっぱりあけちゃうんだ、穴)。

S/N比は混沌をどれだけシグナルとして認識できたか、その比率である。

ヒトからヒトへものを伝えようとするとき、この作業は必須となる。カタにはめて、パッケージングして、情報は手渡される。情報は「インフォメーション」だが、「インフォメーション」は、すなわち、「イン」・「フォーム」(in-form)=「カタにはめる」ことである。

この「カタ」チこそ、意味の正体なのではないか。そんなふうに思う。

意味の出所はほかでもない、人間そのものなのだ。

人がものごとをカタにはめる……

そう考えるとこの宇宙には、元来意味はないことになる。


○ 創造される現実

人がこの宇宙に意味をあたえる。

どうもこれは人間の特性のようで、食べるもの、着るもの、住むところの次ぐらいに、意味を求めはじめる。

家庭、学校、会社、社会における自分という存在の意味。

そして、生きる意味。

ところがそれはいくらそこらへんををさがしてもみつからない。

何冊本を読もうと、何カ国放浪しようと、何杯酒を飲もうと。

先もいったように、己の外には元来意味などないからだ。

探すところがまちがっている?

いや、そもそも「探す」ものではないのだ。

創出、クリエイトするものなのである。

意味を通したこの宇宙の認識……その認識の結果、私たちの前に立ち現れてくる世界が「現実」なのだとしたらどうだろうか。

そうだとすれば、「現実」はひとつではなく、意味を生み出す意識の数だけ……いや、極端に言えば意味の数だけあることになる。

もっと踏み込んで言えば、意味を創出することはすなわち、新しい「現実」を創出することだといえるのではないだろうか。

易システムは言語ともいえるが、言語は混沌をカタにはめる強力な道具である。

言語は意味を創出し、意味は「現実」を創出する。

となると、易システムは現実を創出するともいえるのではないか。

そうかもしれない。

易システムは普段使っている言葉が創出する現実とはまた一味違った現実を創出する。

それはまた、あなたという意識のオーダーメードの現実でもあるのである。