ぼくは占い師じゃない -43ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

久しぶりに平日に休めることになったので、
飲み友達のMさんにメールした。
その後お店も予約したと返事もいただいた。

その翌日くらいだったか、足踏み感というか、
表現はしにくいのだが、
なんとんなく抵抗感のようなものを感じて、
やっぱりおことわりしようかとメールまで書いたが、
自分から誘っておいてやはり失礼かと、
出さずに保存しておいた。

釈然としない感じだったので、
その飲みについて「なにか問題でも?」と、
卦をたててみる。

ぼくは占い師じゃない-ju3

得られたのは「61:需」の九三。

大ざっぱにいって需は(恵みの雨を)待つ、待たされる卦で、
それぞれの爻は「どのように」待たされるのか、
そのシチュエーションのいろいろである。

爻辞によれば、九三は「ぬかるみにて待つ」、
上下卦の境手前で前に(上に)行こうとする
はやる心があるが(陽位に陽爻)、
足がとられてままならない感じである。

まあ、なんというか、
自分の心理状態が反映されただけか……
などと軽く考えて、その日はおしまい。

いつもそんなに精密に卦を読み込んでいるわけでもなく、
ケッコーイイカゲンなのである。

約束前日の夜、保存してあったメールは消した。

完全にいく気になったわけで、
状況も変わったとみて、再度同じ占的で卦をたててみる。

一般的に同じ占的でなんども卦をたてることはよくないとされる。

まあでも、充分な時間がたったかあるいは、
充分に状況も変わったと判断できる限りにおいては、
その必要があればいちおうは、よし、ということにしている。

それで、でた卦が、

ぼくは占い師じゃない-hi2

「18:否」の六二である。

否は「否定」の否でもあるが、
経路などが「ふさがる」意にもとれる。

ちょうどケータイの電池の減りが早くなりつつあり不調に思えたので、
翌日つまり約束の日の当日、お店でみてもらい、ちょっと掃除してもらって、
大丈夫でしょうということで、家に帰って一応フル充電してからでかけた。

連絡経路(ケータイ)が「ふさがれて」
アタフタするようなことでもあるのかなと、
またしてもテキトーに判断。

結局その日は、Mさんの仕事が忙しくなって、
ぎりぎりになって飲みはお流れになった。

それがなんだというわけでもない。
日常生活の一場面である。

それだけのことなのだが、
Mさんの身体もしくは都合が「ふさがって」、
キャンセル=「否」になった、と。

そういえば昔、あんまり受けたくないプログラミングの案件で、
お客さんが要望する工数とこちら想定する工数の条件が合わなくて、
結局流れたことがあった。
そのときにも「否」がでた。
陽気はひたすら上昇し、陰気はひたすら下降する。
モノワカレである。
小さな案件だったので営業に怒られることもなかったが。

たいていの場合「否」は(ぼくの場合は)、
単純に「NO」または「ネガティブ」の意味にとっておけばよさそうだ。
経路がふさがれるだのなんだの、
よけいなことを考えることはないのである。


今回のことで気づいたのは、卦の読み方云々よりも、
「占おう」と思ったときにはその動機をよく吟味した方がよい、ということだ。

今回の場合、それはある種の違和感であったわけだが、
これがいわゆる直感というやつではないかと。

『月曜の飲みは、先方が忙しくて流れまっせ。
休みの日にしたほうがええんちゃいます?』

とまちがえようのない言葉でも聞こえてくればいいのだが、
そういうことはたぶんきわめてまれ。
そんなことが起こるとすればよほどの緊急時かなにかだろう。

日常的な問いについては、その問いを発したときに、
コトバではなくむしろ感覚……
イメージ、匂い、触感、味、などといった複数の感覚が、
重層的になったなにかかがもたらされることの方が
多いのではないだろうか。

そのなにかが「確信」ならもはや占う必要はない。


サイを振る前には、ストップ!

いったん手を止めて、なにがそうさせようとしているのか、
よく考えた方が……いや、感じてみた方がいいかもしれない。


しっかし、こうして書き出してみると……

易システムとも、
なんちゅうラフなつきあい方をしているんだろうか、と思う。

それでもとりあえず、テンバツが下ることもなく、
こうしてのうのうと生きながらえていることに気づくにつけ、
易のカミサマの寛大さをひしひしと感じる今日このごろなのである。

類書はたぶんたくさんあるのだが、めずらしく心を動かされた。

「今この瞬間への旅」
レナード・ジェイコブソン 著
今西礼子 訳
ナチュラルスピリット
2010/12/25

言葉は時系列の世界に属するもので、「今この瞬間」にあるものではなさそうだ。

その言葉で「今この瞬間」のことを描写しようとすれば、かかる行為は、はなから矛盾をはらんでいることになる。

「今この瞬間への旅」というタイトルそのものが、そもそも矛盾を含んでいる。

「今この瞬間」といえば「今この瞬間」だ。

時間はない。

一方、「旅」は時間のかかるもので、時間のないところにいくのに時間がかかるのはいったいどういうわけだろうか。

著者がいうには、リアルなのは「今この瞬間」だけであり、それ以外はすべて幻想で……

「今この瞬間」に参入するには、ふたつのステップを踏むだけでいい、という。

ステップ1.
「実在(する)」

ステップ2.
「真のマスターの意識をもつ」

ステップ1では主に五感を入り口にして「今この瞬間」に気づく。やってみるとわかると思うが、これは存外容易にできる。

今聞こえる音、今味わっている味、今見ているもの、今入ってくる香り、今感じている身体感覚。

たとえば、これは今年の元旦の空。

ぼくは占い師じゃない-kakizome

朝起きて窓を開けたらいきなり飛行機雲の書き初めだったわけだが、こういうのをばーんと見るとしばらくは「今この瞬間」にいることができる。

しかしやがてハラが痛いことを思いだし、その感覚にとどまっていればまだいいが、ほどなく、意識せずに、忘年会でいい気になって食いまくった生ガキの思い出に巻き込まれていくのである(寝正月でした)。

存外容易にできると書いたが、できるのは(ぼくの場合)ほんの一瞬である。

その状態にとどまっていることはむずかしい。

ステップ2は、「今この瞬間」にいる状態をより日常化し、より深めていくステップである。

「今この瞬間」にいることにもグラデーション、程度の差があるらしい。

エゴ(利己性)が利用しようとする、心にため込まれたさまざまタネを発芽させ、水をやり、育て、その一生をまっとうさせてやるプロセスが主となるが……

これに時間がかかる。

タネにはさまざまあるし、一生をまっとうさせる前に、プロセスそのものに巻き込まれてしまい、たいがいはまた新しいタネをたわわに実らせる。

利用するタネがなくなると、ようやくエゴは静かになり、「今この瞬間」にいるときだけかいま見ることのできた「おおいなる自己」との共同作業が、やっと可能になるそうだ。

エゴは消えない。

消そうとするのはまちがい、とある。
本来の機能にもどしてやるのである。

なにをどうしたらいいか、なぜそうするのか、メカニズムはどうか、どれぐらいそうすればいいのか、あるいは、結果がでるまでどれぐらいかかるのか。

そのへんのことに関する明確な示唆に富んでいるのもこの本のいいところだろう。

くりかえしが多いが、テーマの性質上やむをえない気もする。

ところで、「今この瞬間」だけがリアルで、それ以外は幻想、ということなら、易システムは幻想なのだろうか。

そのとおり。

では意味がないのか、といえば、

そうでもない。

二元性(幻想)について書かれた部分があるので引用してみる。
これはこのまま、易システムの存在意義ととらえこともできると思う。

『わたしたちが時間の世界の中で体験するすべては、二元性の範囲内で体験することです。わたしたちが知っているすべては、二元性の範囲内で知ることです。(中略)「幻想」がなければ「真実」を、どのようにして知るのでしょうか。「愛の欠如」がなければ「愛」を、「神の不在」がなければ「神」を、「分離」がなければ「一体性(ワンネス)」を、どのようにして知るのでしょうか。
二元性はわたしたちの教室であり、人生はわたしたちの先生なのです。』

ここまで書いて思い出したのは、何の本だったか忘れたが、師匠と弟子の話だ。

アイマイな記憶なので、話の細かなところはちがっているかもしれないがご容赦。

その師匠の師匠が亡くなったおり、その師匠はそれこそ恥も外聞もなくみっともなく、オンオン泣いていたそうだ。

みかねた弟子が、

「先生、先生はこの世でおきることや死は幻想だと言っていたではないですか。なぜそんなにお泣きになるのですか」

答えて言うに、

「ああそのとおり。幻想だ。先生の死は一番悲しい幻想だ」

と、そのまま、その師匠は再びオンオン泣き続けたそうだ。

幻想は時間と密接な関係がある。

よどみに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて。

幻想は、期間限定だが、たぶん味も匂いもしっかりとあるのだろう。

★妻からのメールのコピー。
タイトルは「今日の法話から」

>今の夫は今のあなたにちょうどよい。
今のあなたには今の夫がちょうどよい。
だってさニコニコ


☆ぼくの返信

ちょうどいい、
というのは
いかにも曖昧な表現だね。

もし、
きみがいまのぼくを通じて
学ばなければならないことを
学びそこねたとすると、
仮にぼくと別れたとしても、
宇宙は、今生か来世で、
またふたたび同じような
課題をあたえるだろう、
ただそれだけのことだ。

それは
またふたたび
ぼくのような奴と結婚する
ことかもしれないし、
そうでないかもしれない。
それはそのときいる世界の
社会的文化的文脈による。

以上の話は君の視点からの話だが
実はそれはおたがいさまで
ぼくからみても状況はかわらない。

なぜ変わらないかというと
それが宇宙の法則だからだ。

これを称して「カルマ」いうが、
もっとわかりやすく
「さだめ」といってもよい。

ぼくは個人的に、
易システムは
この「さだめ」を
非常に雄弁に記述できる
言語だとおもっている。

これが
易システムについて
こだわりつづける
大きな理由のひとつになっている。

きみには
おっさんの道楽にしか
みえないかもしれないけれど。
たまにはブログらしく、
日常雑記的なものも。


○ かんばれ猫山先生

医事新報というお医者さんの雑誌に
連載されている医者マンガ。

医者マンガといえばドクター秩父山か
ブラックジャックしか知らないが、
いずれも現実離れしたイシャである。

このマンガの猫山太郎先生は……

ぼくは占い師じゃない-neko

「等身大の医者」とかどっかに書いてあったが、
等身大すぎて笑えないことも多々あり、
そこがまたオモシロイ。

4コマに連ドラ形式を持ち込んだのは
相原コージだったかなあ。


○ スピリッツ

腹が減ったので、
どこかへしまいこんだはずの
ペヤングをさがしていたら、
未開封の古いジンがでてきた。

ぼくは占い師じゃない-jin

ライムはなかったので
残ったロックアイスに
もらったカボスしぼって
飲んだら存外うまかった。

ジンのかたわらの実は
近くの公園でひろってきたドングリ。
ぷっくりしてうまそうなやつは
つい拾ってきてしまう。

食えないのに。

つまみにもならん。


○ リファレンス・ブック

以前に、

易システムのハンドブック を作った。

その後、

おまえのゴタクはいらないから、
八卦と六十四卦のリストだけをくれ。

というリクエストがあり、

ハンドブックのリファレンス部分だけ
抜き出した本を作った。

体裁は同じだが、ボリュームは半分の、
200ページあまりになった。

ページ間の依存関係は
比較的疎だったので
リコンパイルは楽だったが、
ぼくのゴタクまでは完全分離できない。

シンボルとコメントから成る易システム。

基本的にそのコメントは
主観にならざるを得ない。

願わくば、
このリファレンスを手にした人が
これを踏み台にして(足蹴にしないで)
ご自分のコメントをつけられんことを。


○ ハチドリ

チョット前の話になるが、
10月の初旬に巾着田へ行った。

曼珠沙華に代わり、
コスモスが咲いていた。

ぼくは占い師じゃない-kosmos

庭のテラスをオープンカフェに
している喫茶店があって、
そこでコーヒーを飲んでいたら、

だれかが、

「ハチドリ、ハチドリ」

というので見に行った。

↓のようなやつが
ホバリングしながら
花の蜜を吸っていた。
ぼくは占い師じゃない-haneyB
ハチドリなんて日本にいるわけない、
温暖化もついに……

などと思いつつ、
一応ネットでしらべたら……
「オオスカシバ」というガの仲間。

こいつが変わったやつで、

・羽化後まもなく羽のリン粉がとれて
 羽が透明になってしまう。

・主に日中活動する。

というガらしくないガ。

ガの羽が透明になってしまえば、
あのヌイグルミのような
胴体だけが残って見える寸法。

ハチドリにまちがえられることも
多々あるそうで、まあ……
さもありなん、やむをえまい。

なにはともあれ、このブログに

ハチドリ!ハチドリ!

と書かなくてよかった。

英語では、

「ハニーバード・モス」

というそうだ。

そのまんま。


○ 仕事場

仕事場は今は2カ所のかけもち。

下の写真は、季節はちがうけど、
いずれも仕事場の近く。

ぼくは占い師じゃない-inaka

【夏】

週2日は上で、週4日は下。

ぼくは占い師じゃない-city

【秋】

日曜だけはかろうじて休みだが、
組合の寄り合いやボランティアがあると
すぐつぶれてしまう。

勤めていた頃のような
キリキリした忙しさこそないものの、
まとまった自由時間はなかなかとれず、
身分も不安定だ。

安定、不安定。

閑、忙。

田舎、都会。

バランスとってんだか、
くずしてんだか。


○ 朝起きたら

なんとなく朝早く目を覚ましてしまって、
なにげなく外を見たら……

おおっ。

ぼくは占い師じゃない-ufo

正体はリビング奥、
廊下の照明。
ニセUFO写真。


○ 易的玩具

K-DRON。

ブルックリンのアパートでの眠れない夜、
数学者の頭に突然舞い降りてきた、
白と黒に二分割された立方体。

くわしくはHP を参照。
その様は立体太極図である。

ぼくは占い師じゃない-kdron1

遊び方は……
いろいろありそうだが、

とりあえずは、

立体タングラムのようなもの。

ぼくは占い師じゃない-kdron2

38416とおりのパターンが組めるそうだが、

『きれいダナ』

と感じられるパターン数は
ぐっと限られてくるだろう。

ぼくは占い師じゃない-kdron3

単純なユニットから
複雑なパターンができるところも
易システムみたいだ。

ぼくは占い師じゃない-kdron4

とりとめもなく、今回、これまで。

なっ……中身がない……


前回に引き続き、トランサーフィン……
というか、バリアント空間にまつわるお話。

内容は易とは離れてしまうが……

バリアント空間については
イメージをめぐらせればめぐらすほど、
さまざまに興味深い話題にたどりつく。



◆ 夢。


夢の中の時間は、物理的現実の時間とくらべるとはまったく異質に観える。


トランサーフィン・モデルによれば、バックエンドセルフ(魂)は、ダイレクトにバリアント空間にアクセスできるとされる。

フロントエンドセルフ(理性)は、バックエンドセルフを介することによってバリアント空間をうかがい識ることができるだけだ。


ゼランドによれば、夢は脳が創りだした仮想現実などではなく、フロントエンドセルフのタガがはずれたバックエンドセルフがバリアント空間を気ままに旅した結果である。そこには通常の意味での時間はない。

バックエンドセルフ(魂)が、すでに他の意識(かならずしも人間とも地球上の存在とも限らない)によって現実化されているセクターに迷い込んでしまうと、その人自身は、そのセクターで現実化されることになり、二度と戻ってはこれないという。


もどっては……これないだろう。


なにせバリアントの数は無限である。


ただ、舵取りをバックエンドセルフ(魂)にまかせている分にはその危険は少ない。バックエンドセルフ(魂)は、自分にとって不適切なフィールドを敏感に察知する性質があるからだ。これをトランサーフィンでは「魂の不快」という。


リスクが高くなるのは、フロントエンドセルフ(理性)が夢をコントロールしだした場合で、これをルシッド・ドリーム、明晰夢という。


夢をフロントエンドセルフの狭い視野でコントロールしようとすることには、予想以上におおきな危険がともなうということだ。これを荒唐無稽なタワゴトととるかシリアスな警告ととるか、ゼランドの著作では判断は読者にまかされている。



◆ デジャブ。


夢でみたシーンや経験を、現実に繰り返して経験することをデジャブ(既視感)という。

バリアント・モデルからいえば、バックエンドセルフがあるセクターを訪れた後に、そこが現実化されたものがデジャブの経験ということができる。


この場合、そこを見た、あるいは経験したことが短期の記憶として残っているわけだから、現実化されて今いるセクターと、夢で見たときにいたセクターはバリアント空間内の「比較的近い」ところにあるのだろう。



◆ 半物質的存在。


妖精や精霊といった存在をバリアント・モデルに照らし合わせてみると、半物質的なこれらの存在は、半現実化されたセクターの存在と観ることができるかもしれない。


この場合、妖精や精霊のパターンがあるセクターは、観察者がいる現実化されたセクターと「きわめて近い」と思われる。


バリアントは意識に選択されることにより現実化されるが、ある敷居値的段階からデジタル的に突然に現実化されるわけではなさそうだ。直近のセクターは、すでに現実となっているセクター、すなわち器世間に、じわじわしみいるように実体化していくのではなかろうか。精霊はそのプロセスのただ中にある存在なのだ。

現実化(選択)の過程にはある種の段階、グラデーションがあるのかもしれない。



◆ 輪廻。


バックエンドセルフはダイレクトにバリアント空間にアクセスできる。これはおそらくは、バックエンドセルフ(魂)の出自がバリアント空間にあるからだろう。


バリアント空間は実在しない。


実在しない、ということの意味は、現実でない、ということであり、あらゆる意味で「ない」ということではない。あるかないかでいえば、バリアント空間は「ある」のだ。


ただし、現実ではない。


バリアント空間はぼくたちの本質をなすソウルのふるさとだ。ぼくらはバリアント空間から生まれ、物質世界を堪能した後、ふたたびそこへもどっていく。


C嬢へ。 」ではこの基底となる領域を、個別化したソウルがその経験をためこむ貯蔵庫として描いたが、そもそもためこむ必要はない。


すべては最初から変わることなくそこにあり、これからもあり続けるのだ。「そこ」を貯蔵庫と呼ぼうとアカシックと呼ぼうとタオと呼ぼうとそれはなんでもかまわない。


人間は……いや、ソウルは、誕生の際にバリアントの海からやってくる。現実化されたセクターでボディを所有し、そのソウルも独自にバリアントの現実化をはじめ、器世間の構築に参加する。


セクター内の物理法則は粗く、鈍重で、ゼランドにいわせればまとわりつくタールのようで、なにをするにも一苦労だ。バリアント空間にいたころのように、バリアントの間を軽やかに飛び回るようにはいかない。


加えて、物理次元の活動には時間という性質がともない、何事にも期間、ライフスパンがある。


しかし、そこで活動することは存外おもしろい。


フロントエンドセルフ(理性)がどう思っているかはともかく、ソウルとしてはもっとそこにいたいのだが、時間制限により肉体を所有しきれなくなると、ソウルは否応なしにふたたびバリアント空間に帰っていかざるをえない。


しかし、多くの個別化されたソウルはふたたびこのゲームに戻ってくる。


自殺は、フロントエンドセルフ(理性)とバックエンドセルフ(魂)の最大級の乖離である。



◆ 魄-魂-霊


すでにすべてはそこにある。


では、あらためて、生命の……生きることの根本的な目的とはいったいなんなのだろうか。


C嬢へ。 」では、生命はカタナだった。このカタナの剣と鞘との間のガタツキを最小にもっていこうとするあがきが生命現象であるとした。


すべてはそこにありつづける。


以前も。


今も。


これからも。


ずっと。


だったら、最初からなにもする必要はないのではないか。


オリジナリティという言葉がある。


「独創性」ということになるのだろうが、バリアント空間を前提とする限り、真のオリジナリティはありえないようにみえる。実体化していないかもしれないが、そこには、「すべて」が「もれなく」すでにあるのだ。バリアント空間にすべてがある以上、独自の、新しい、なにか別のものを創ることはできない。


新しくなにかを創りだしたと思ってもそれは錯覚で、バリアント空間にもともとあったものが取り出されだけのことだ。


いつもすべてはそこにある。


たしかにそうだ。ただし、物理的現実としてあるわけではない。物理的現実として在ることができるのはおそらくはごく限られたセクターだけだ。


この限られた、現実化された部分が、どのように、どういう順番で現実化されていくか……そのパターンは無限にある。


オリジナリティはここにあるのだ。


カミサマはそのパターンというか、プロセスそのものを楽しんでおられるとだとすれば、その楽しみには、バリアント空間と同様、終わりはない。


個々の生命活動/人生におけるひとつらなりのバリアントの現実化、そのパターンの組み合わせこそは唯一のオリジナル、すなわち、カミサマの独創なのではないだろうか。


こうして眺めてくると、カミサマ→バリアント空間→各個別のソウルというのはひとつづきのものとらえるのが適当ではないかと思えてくる。


あまりにも自明すぎて認識することすらできないかもしれないが……


光の中の光は、なかなか判りづらいものなのだろう。

「トランサーフィン
 鏡の「超」法則」

ヴァジム・ゼランド著
須貝正浩訳
ほおじろえいいち監修

トランサーフィン・シリーズも4冊目になった。
最初は、理系的タームで彩どられた単なる願望実現モノの一種かと思っていた。

まあ……基本的にはそうなのだが、ずっと読み継いでくると深いところではそうではないような気もしてくる。

理系的タームで彩られてはいるものの、この本で示されているモデルが描こうとしているのは、物理的・工学的世界ではなく、主に、事象のもうひとつの側面、目に見えない方、形而上学的世界である。


◆トランサーフィン・モデル

このシリーズの骨子になっている二大概念は「振り子」と「バリアント空間」である。

振り子は、複数の生命体が同じ方向でものを考えるときに発生するエネルギー情報体で、小さなバーストであれば人と人とがすれちがうだけで発生する(フラッシュ振り子)。
一度発生するとエネルギーが得られる限り自律的に存続し続ける。
シリーズではおおむね悪いものとして描かれているが、実は生命活動を調律する目に見えない「なにか」でもあり、シェルドレイクの形態形成場や神智学でいうエグレゴールと本質的には同じものらしい。

バリアント空間は、SFではおなじみのパラレルワールドの概念に似ている。
たとえば、今あなたが着ているTシャツの色だけが違う世界が同時にある。同様に、めがねのフレームの色だけが違う世界がやはり同時にある。以下同様に……

今あなたがリアリティだと知覚している世界の、考えうる限りの無限のバリエーションが同時に実際に存在しているのがパラレルワールドだ。

バリアント空間はもうすこしスタティックなイメージで、過去、現在、未来すべてのパターンが存在する、無限の情報空間である。「セクター」は生命体によって現実化されるバリアントの一部分を指すが、セクターからセクターへ、バリアント空間を滑走することをトランサーフィンという。
一言でいってしまえばその方法について書かれている本なのだが、魂と理性、夢、占術、輪廻などなど、話題は多岐にわたる。


◆易?あたらないよ!

ところで、易の六十四卦は、易システムというモデルの上では森羅万象、「すべて」をあらわすということになっている。

ということは、六十四卦で構成されるマトリクスは、トランサーフィン・モデルに照らしあわせてみると、バリアント空間に相当するということになるが……

考えてみれば、たった64種類のシンボルで、無限の情報空間をあらわそうというのだから無茶な話だ。

占うということは、現実化される可能性のある直近のバリアント/セクターを読むことであり、大成卦と大成卦の間にある無限の間隙は占者が埋めなければならないのである!

自然数というインデックスで無理数を含む数全体を読み解こうとするような、それこそ無理矢理な気がしないこともないが、易システムというモデルはそのようなものなのである。

いいわけをするわけではないが、これじゃあ、あたらないことがあるのはアタリマエで、いやむしろ、あたらないことの方が自然なのかもしれない。

とはいえ、トランサーフィン・モデルによれば、脳はバリアント空間にアクセスするためのインデックス情報を処理しているということなので、ひょっとしたら、六十四卦のパターンはその処理を効率化する足しぐらいにはなるのかもしれない。

バリアントの情報は無限なので有限の構造である脳には格納しきれない。
だから脳は情報そのものではなく、インデックスあるいはポインタの処理をして、たぶん情報そのものはストリーム的に扱うのだろう。

トランサーフィン・モデルによれば、夢は理性のタガがはずれた魂がバリアント空間を気ままに旅した結果である。
また、バリアント空間には過去、現在、未来、すべての、無限のバリエーションがあるということなので、アカシックレコードととらえることもできるだろう。


◆バリアントの流れ

セクターが現実化されていく方向には一定の傾向があり、これを「バリアントの流れ」という。ほうっておけばそうなる、もっとも抵抗の少ない道筋だ。

易システムでいえば、さしずめ十二消長卦……というより、もう少し一般的にとらえて、下から順番に爻の陰陽が反転していって、上爻まで行ったらまた初爻から同じように陰陽を反転していく操作で得られる一連の大成卦……ということになろうか。

たとえば「85:地風升」の四爻が得られたとすると、そのままバリンアント流れに沿っていけば、次にあらわれるのは「45:恒」であり、そのまま流れに身をまかせていると、次が「25:大過」であらわされる状態に至る。

ぼくは占い師じゃない-バリアント空間
【トランサーフィン・モデルにおける形而上学的空間】


◆全体像と「占う」ことの意味

上のミンコフスキー図もどきの絵では、バリアント空間に時間方向の厚みはない(無限小)。バリアント空間は、時間というものがないか、もしくはその埒外にあるところに位置していることをあらわしている。
そこにあるのは永遠の現在のみであり、魂はそこから物質化されたセクターに生まれ、一定期間を経てふたたびバリアント空間にもどっていく。

ある特定の易卦は現実化されたバリアントをあらわす。
バリアント空間には、特定の易卦ではなく六十四卦全体がまるごとひとつのものとして対応している。

占うということはその人の人生ラインの、バリンアント空間における位置を特定し、その後のセクターの傾向を読むことである。

変爻が少なければ少ないほど、現実化されるセクターは近くにあり、多ければ多いほどその卦が指し示すセクターは遠くにあることになる。

いずれにしても、ささいな問いからシリアスな問いまで、卦を起こすことはひとつの転機である。梅花心易などでは占うタイミング(占機)を非常に重視するが、周易でもそれを重視してはいけないという理由はない。

「ささいだけど、いつもとちがう、ふだんはあまり起きないこと、あるいはそのように感じること」はセクターの流れに変化がおきるか、セクターを乗り換える兆候である(トランサーフィン・モデルではサインと呼ばれる)。
そのタイミングで得られた卦はサインに付加情報を与える(か、あるいはその卦自体がサインとなる)。

映画「マトリクス」ではデジャヴがそのようなサインになっていた。マトリクスがリアリティを修正するときにわずかなタイムラグが生じる。これが、巻き戻されたリアリティを2度経験するようなズレとして、人間には知覚される。



◆深いところでは……

現実化されたセクターは鈍重で粗い性質を持つ物理法則が支配する領域である。
ここで物事を成し遂げようとするのは容易ではない。
一般にいわれる「努力」はこの範囲内で目的を実現しようとすることだ。

トランサーフィン・モデルによれば所望のセクターに乗り換えて目的を達成する方が効率的ということになるが、これには「努力」とはまったく異質の、ときに禅的でさえあるスキルが要求される。

また、わたしたちは振り子によって眠らされてもいる(飼いならし)。
ある意味宿命でもあるのだが、結局のところ、このシリーズがうったえているのは、願望実現というより、ほんとうの「自分」というものも含んだ、そういった宿命をこえる「目覚め」であるような気がしてならない。

「鞄心理学」
中山和彦
先端医学社
2010/5


○ カバン病

カバン病は、
ほとんどビョーキ(死語)
である。

ぼく流に見分けるとするなら、
リュックを含めて、3つ以上、
カバンを持っていたらカバン病だ。

だって、手は2本、
ふつう足には
カバンを持たせないから、
背中(リュック)と両手で3つまで。

と、ここまで書いて、
うちの中を調べてみる。

ショルダー×3
ミニバッグ×3
リュック×5
(山用のバックパックを含む)
ガーメントバッグ×1
スーツケース×1
カーゴバッグ×1
ブリーフバッグ×1
ウエストバッグ×1

トートバッグ……

いやっ、

これはかみさんのだ。

そうしておく。

こうなると「ほとんどビョーキ」
じゃあなくて、「病気」である。

タコだってこんなにもてない。

学校のバザーで、20数個のバッグを売りさばき、
せいせいしたつもりになったのが、何年か前。

病気はまったく治っていなかった。

もとはこんなじゃなかった。

カバンなんてどうでもよかった。

結婚して数年たったころ、
通勤用に吉田のカバンを、
通販で買ったのが始まり。

冒頭にあげた本によると、
数や大きさが増えすぎたカバンは、
肥大した自我の象徴である。

てことは、

吉田カバンのあたりから、
自我は順調に拡大を始めた、
というわけだ。

「鞄心理学」の前半は、
持っている鞄のタイプにより、
その人がどのように自分を
イメージしているのかが
わかるようになっている。

もちろんウラナイではないけれど、
けっこうあたっているんじゃないか……

自我が必要以上に拡大、
つまり、肥大し始めると、
鞄はでかくなる。分裂する。

その辺の様子を、細胞の働きに
なぞらえているところがおもしろい。

はみ出た自我の中核……

「コア」に、話がおよぶと、
おもしろいどころではなくなり、
話は不気味なものになっていく。

もちろん、ぼくにとって、
という意味で。

精神医学の先生が書いたものだが、
本の内容はやさしく、おもしろく、
イラストも豊富である。
決してブキミな本ではない。

「あとがき」だったかに、
「落ち込むからけなさないでくれ」
と書いてある。けなしてませんよ、先生。

ええと、それで、

コア。

どうしてもゆずれない、
はみ出た自我の中核が
外的に投影されたものである。
鞄心理学の文脈でいうと、
細胞核にあたる。

ぼくの場合、
これがインナーバッグになっていて、
まるでタマシーのようにバッグからバッグへと
渡り歩いていた。

なあに、中身は、
たいしたものが入っていたわけではない。

・印鑑
・免許
・13月の手帳
・モールスキン手帳
・八面サイ
・易経(手帳版)
・ケータイの充電器
・電卓
……

鞄心理学を読んだ後、

こいつら……

かためて「常に」持ち歩く必要が
いったいどこにあるのだろう、
とふと思った。

そうしておいて便利だな、
よかったな、助かったな、
と思ったことが、
はたして過去何回あったか。


○ コア解体

結局、全部バラバラにしてしまって、
必要なものを必要なだけ
その都度持つようにした。

いまのところ不都合はない。
なにかを忘れてこまったということも。

もしあれを忘れたらどうしよう!

ではなくて、

そのときはそのときだ、

と思えるようにもなった。
ちょっとさっぱりした気分。
考えてみたらそれがあたりまえなのか。

まあでも、本にあるとおり、
治ったわけではないんだろうな、病気。

ふとしたことですぐ再発するらしいから。


○ 究極のカバン?

広義にとらえるなら、
パソコンもカバンの一種である。

もっと凝縮され、
もっとパーソナルになり、
もっとセキュリティ度が高くなると、
つまりクローズになると、
パソコンというカバンは、
ケータイというカバンになる。

逆のスケールでオープンな方に
たどっていくと、
アタッシュケースは
クラッチバッグになり、
クラッチバッグは、
ソフトなブリーフケースになり、
人によってシュミは異なるが、
帆布バッグなどがこの辺に入って、
さらに常に口の開いた
フタなしショルダーや、
虚無僧バッグや、
トートになり、

やがて……

いきつくところは、フロシキになる。

が、

鞄心理学によるとこれで終わりではなく、
最後は地球という子宮になる。

カバンは消えてなくなる。

両手ぶらり、あしたのジョー。入店垂手。

もう一声。

じゃあもしこれが、

「この宇宙」

という子宮だったら?

自我は消えてなくなる。

この辺の話になると、
言語というツールの
キャパを越えてしまう。

当然のことながらぼくごときには
キャッチアップできない。

だから以下の本をご紹介するにとどめる。

「I <わたし>
   真実と主観性」
デイビッド・R・ホーキンズ
立花ありみ 訳
ナチュラルスピリット
2010/3

矛盾するようだが、
本だから「言語」で書かれている。

言葉にならないことを、
詩でも経典でもなく
ふつうの言葉で説明したもの。

「パワーかフォースか」の著者だから、
基本ツールはキネシオロジーテストだが、
注目すべきはその内容であり、
ツールではない。

この本によるなら、おそらく、
カバンは典型的なコンテントであり、
これが「この宇宙」というコンテクストに、
溶け、拡散して、初めて、

はい、おかえりなさい。

ということになるのだろう。

東の地平ははるか遠く、
故郷への道のりは長い。

長すぎて、

ときどきいやになるが。


易ってなんですか?
ひとことでいうと。

と、たずねられて、

まっさきに出てくるのは、
紋切り型のいつもの回答。

『中国の古典。
まずは占術の書であり、
後に哲理、道徳規範、思想等々
としての観方が付加された』

でも質問者のフォーカスが
もう少し深い部分にあった場合、
上記の回答は、まったく、
もの足りないものとなる。

「実際のところ」
易ってなんなの?
「つまりは」
なんなの?

と、本気でせまられたら、
ぐっとつまるかもしれない。

それとも、おずおずと
こう答えるか。

「ある種のストレイジ……
保管庫というか貯蔵庫みたいな……」

それは海綿。

スポンジみたいなものだ。

スポンジは水をたくわえる。

水にもいろいろある。
あまいのもからいのも。

含ませる水がどんなものであろうと、
スポンジ自体の構造は変わらない。

水をしぼれば、
また別の水を含ませることができる。

何度でも。

このスポンジ構造を持った格納庫、
これが易システムの本質なのではないか。

スポンジの方。

水のほうではなく。

そういうストレイジとして最初から、
そのように設計されているのではないか、
とさえ、感じることもある。

易システムはストレイジなのだ(*1)。

ストレイジだから、
何を入れてもいいのだが、
入れることができるのは
形のないものである。

だから、入れた人と取り出す人が
別である場合、その二人の意識レベルが
ある程度一致、共感している必要がある(*2)。

そうでないと、
なにかが入っていることぐらいはわかっても
とりだされたものはちんぷんかんぷん……
てなことになる。

ひとたび「共感」が得られれば、
入れた時代と取り出す時代の差は
情報の質にほとんど影響をあたえない。

ぴしゃりと、はまる。
呼応する。わかる。

経年劣化しない情報伝達。

これが、

古典が心に響くメカニズムである。


   ☆


どこのなんの番組だったか忘れたが、
亡くなった旦那さんが書き残した言葉を
家の壁に貼って、おりにふれて、
それを眺めている奥さんが出ていた。

病におかされ、最期を悟った
旦那さんが書き残したものだが、
ごくふつうの言葉で
そんなにスゴイことが
書かれてあるわけではない。

でも、言葉というストレイジの中で、
旦那さんの意識はしっかり活きている。
長年よりそった夫婦なら
「共感」も得られやすいだろう。

だからこそ、墨で書かれた
朴訥な字の向こうにあるものと
対話することができるのである(*3)。

毛筆で描かれたことも、ポイント。
単なるキャラクタとしての文字情報以外の、
故人の周囲をとりまく雰囲気や情感、
表情などの情報が、行間にセーブされている。


   ☆


ずっと以前に、
友人からゆずってもらった
「預言者」(*4)という本がある。

葬儀のときに朗読されることがあるほど、
欧米では有名な著作らしいが、
本邦での知名度はイマイチ。

人生で遭遇するであろう、
ほぼあらゆることに関する回答が
そこにはある。

質問はこうだ。

わたしはつらい。

アルムスタファ、
あなたならなんとこたえますか。


   ☆


易システムには、
質問して、その回答を得る
というプロセスが前提にある。

そのように使うもの、という約束だ。

システムには、
64のフォルダがあり、
各フォルダは、
6つのパーティションに分かれ、
全体はゆるやかに
カテゴライズされている。

フォルダ1番からシーケンシャルに
読み込んでいくものではなく、
質問に応じランダムにフォルダにアクセスする。

易経として知られる古典は、
このストレイジに、占術と、
そのあとから、思想・哲理の情報を
格納したものだ。

たとえば、先の、なくなった旦那さんが、
易システムというストレイジに
自分をたくしていたとしたらどうだろう。

奥さん側の想像力と、
システムに対する慣れも必要だが、
かなり柔軟に質問……対話に応じてくれる
アーカイブになっていたかもしれない。


   ☆


もしそれが許されるなら、自分自身を
このストレイジに格納してみたい。

そうしてできたシステムを
もし使ってくれる人がもしいれば、
ぼくはいつでも機嫌よく
対話に応じることだろう。

答えを無視されても、
対話が途中で終わっても、侮辱されても、
アドバイスにしたがってくれなくても、
なんど同じことを聞かれても、

決してハラをたてることなく。

システムのこんな利用方法も
悪くないかもしれない。

内容を考えるとなると、
けっこう大変な作業になるだろう。
少なくとも一朝一夕にはいかない。

やるんなら、
早めに手をつけておいたほうがいい。

目が見えて、
手が動いて、
頭が動いて、
足腰がたつうちに。

まだぼくが、
今生にいるうちに。


----------

(*1)
「ストレイジ」ではなく「ファイル」
という言葉になっているが、
以下の本でも同様の考えを
支持しているようにみえる。

「完全定本 易占大全」
レイモンド・ロー著
山道帰一監修 鳥内大乾訳

(易占といってもこちらは周易ではなく、
断易の本だが、非常にわかりやすい)


(*2)
この「共感」に、
集合的無意識が果たす役割は大きい。
というより、集合的無意識があるから
「共感」が起こるのだろうか。


(*3)
故人の、いわゆる死後アーカイブを
人工知能的に実現した
コンピュータ・システムを、
数学者でありSF作家の
ルディ・ラッカーが、
「ライフボックス」という名前で
提案している。

「死をデザインする」河出書房新社

過去、拙作ブログにおける同様のネタ でご紹介した。

「思考の道具箱」または「四次元の冒険」工作舎
このどちらかにも、
ライフボックスのことが書いてあったと思う。


(*4)
「預言者」
カリール・ジブラン
佐久間彰訳
至光社

現在は複数の出版社から出ている。
以前は至光社版しかなかった。
宗教的、歴史的バイアスのレベルが低く、
書かれていることは普遍的だ。


一部の方々へ、

ということになってしまいますが、
おしらせです。

易システムハンドブックVer2.0ができました。

ぼくは占い師じゃない-HBV2-01

ぼくは占い師じゃない-HBV2-02

今はあれですね、オンライン入稿というのをすれば、
データを持っていったり、できあがったブツを
よいこらよいこら持ってこなくてもいいんですね。

おそるべし物質/情報文明の異常な発達。

まあ、ラクでいいんですけど。


○詳細

体裁はほとんどビジネス文書そのままです。
TeXで書いたのでお堅いみかけになっています。

【ページ数】460
【用紙サイズ】B5
【印刷】白黒両面コピー
【用紙の種類】ppc用紙
【製本】リング製本
【その他】写真ではわかりづらいですが、
表に透明カバー(ストッククリア)、
裏に厚いカバー(SB黒)をつけました。

数秘術大全
アンダーウッド・ダッドリー著
森 夏樹訳
青土社

数秘術の指南書……ではなく、数学読み物といった方がいいだろう。著者は数学者で、この本の主張をぼくなりに要約するとこんなふうになるだろうか。

「神サマが数を創って、数をものごとすべての奥深くに埋めこみ、数が、数自体が、みえないけども抗いがたい影響力を、この世の事象すべてに与えている……『などということはない』」

著者は30年以上数秘術について研究しているいうだけあって、網羅している事例は非常に幅広く、ピタゴラスに始まり、最後にはバイオリズム(なつかしいなあ)批判にまで到る。

書名は忘れてしまったが、台湾か中国の算命術の本(日本語版)で、同様に非科学的なものを批判する趣旨で書かれた著作を見たことがある。算命のことを詳しく書きすぎてしまって、逆に算命に関する資料的価値の方が注目されてしまった、という皮肉な本だったような……

この本もなんだかそんな感じ。

数秘に興味のある人は、読んでみて、まあ……損はないと思う。

日本ではあまりなじみのないオースチン・コーツのグリッドシステム(翻訳版ではキャロル・アドリエンヌの著書の中でこれを紹介しているものがあったと思う)や、中世に流行したという数を使ったボードゲーム(おもしろそうだが複雑)の言及もある。

ぼくにとってはそれよりも、事物に意味をもたらす主体について考えさせられる本だった。


○ 寡黙なシステム

上記の本の(ぼくなりの解釈による)主張における「数」を、「易」というコトバにおきかえてみる。

「神サマが易を創って、易のしくみをものごとすべての奥深くに埋めこみ、易が、易自体が、みえないけども抗いがたい影響力を、この世の事象すべてに与えている……などということは、おそらく、ない。」

まあ……それはそうだと思う。

それでも易のシンボルはときとして神秘的な魅力を放ち、なにかをしでかしそうに見えることもある。

しかし、シンボルはシンボルであり、記号であり、易という言語の文字である。人間がこの宇宙を認識するためのツールのひとつだ。易卦はそれ以上のものでもなければそれ以下のものでもない。

易システムは「ある問いをたて、それに対する回答として無作為に選ばれた大成卦には、問いに対する回答としての意味がある」という前提によってなりたっている。

だからといって「すべてに」意味ある、というわけではない。

易システム自体、そんなことを主張しているわけではないと思う。


○ この世に「意味」は?

すべてに意味があるということはない。

では、すべてに意味がないのかというと、そうでもない。

すべてに意味がない、とやってしまうと、ニヒリズムへの坂を転がり落ちていってしまうか、「じゃあ、なにをしてもいいんだ」とか、「とにかく今さえ楽しければいい」といった、お世辞にもあまり美しいとはいえないデタラメな状態に安住することになりかねない。

意味があることもあるのである。

そもそも、この「意味」とはいったいなんだろう。

どこからやってくるのか。

実はこれ、人間独特の方便なのではないかと、今はそんなふうに考えている。人間が、外界……この宇宙を、認識するための一般的な手段、という意味での方便。

外界(または身体内部)から入ってくる感覚、または内側から起こってくる想念・睡眠中の体験など、まずはこれらをなんらかのカタにはめないと人間は物事を認識することができないのではないか。

ダイレクトなナマの入力は、そのままではシグナルとはなりえない。まあ、ぶっちゃけ、ノイズと一緒で、人間にとっては混沌そのものだ。混沌を混沌のまま受け止めることは、ヒトにはできない(だから、穴をあけたがる。穴をあけたとたん「混沌」は死んでしまう)。

認識という作業はこの混沌にカタをはめるという作業である。この作業が行われて初めてノイズはシグナルとしてカタチを成す(あ~、やっぱりあけちゃうんだ、穴)。

S/N比は混沌をどれだけシグナルとして認識できたか、その比率である。

ヒトからヒトへものを伝えようとするとき、この作業は必須となる。カタにはめて、パッケージングして、情報は手渡される。情報は「インフォメーション」だが、「インフォメーション」は、すなわち、「イン」・「フォーム」(in-form)=「カタにはめる」ことである。

この「カタ」チこそ、意味の正体なのではないか。そんなふうに思う。

意味の出所はほかでもない、人間そのものなのだ。

人がものごとをカタにはめる……

そう考えるとこの宇宙には、元来意味はないことになる。


○ 創造される現実

人がこの宇宙に意味をあたえる。

どうもこれは人間の特性のようで、食べるもの、着るもの、住むところの次ぐらいに、意味を求めはじめる。

家庭、学校、会社、社会における自分という存在の意味。

そして、生きる意味。

ところがそれはいくらそこらへんををさがしてもみつからない。

何冊本を読もうと、何カ国放浪しようと、何杯酒を飲もうと。

先もいったように、己の外には元来意味などないからだ。

探すところがまちがっている?

いや、そもそも「探す」ものではないのだ。

創出、クリエイトするものなのである。

意味を通したこの宇宙の認識……その認識の結果、私たちの前に立ち現れてくる世界が「現実」なのだとしたらどうだろうか。

そうだとすれば、「現実」はひとつではなく、意味を生み出す意識の数だけ……いや、極端に言えば意味の数だけあることになる。

もっと踏み込んで言えば、意味を創出することはすなわち、新しい「現実」を創出することだといえるのではないだろうか。

易システムは言語ともいえるが、言語は混沌をカタにはめる強力な道具である。

言語は意味を創出し、意味は「現実」を創出する。

となると、易システムは現実を創出するともいえるのではないか。

そうかもしれない。

易システムは普段使っている言葉が創出する現実とはまた一味違った現実を創出する。

それはまた、あなたという意識のオーダーメードの現実でもあるのである。