ぼくは占い師じゃない -42ページ目

ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press

最近は、昔に読んだ本をまた買いなおして読んでいることが多い。

中でも*1、*2は、ほとんど忘れていて、ほぼ初めて読んだに等しかった。

中心となるアイディアはざっと次のような感じですっきりした概念である。
著者であるボーネルの説明は、どの著作でも一貫している。


○ 創造はその根源から二元的である。
ダイアード(物質意識)とトライアード(魂)。

○ トライアード(本源由来、自存的)は本源の縮図として創られ三位一体の構造をとる。意識、エネルギー、衝動。
そのまままで完全なので進化の必要はない。またそれ自身、物質創造の能力をもつ。
特定の太陽系、時間に拘束されない。

○ ダイアード(本源由来、物質相関的)は物質の自己組織化にともなって最終的にはトライアードと同等レベルまで進化する。
原則として輪廻、時間、特定の太陽系に拘束される。空間的な制限についてはトライアードと結合している場合はその限りではない。


手元に置いておく本もあるが、売ってしまう本もある。

*1、*2は、出たばかりの頃にざっと読んでそのまま売ってしまったかと思うが、まあ、それにしても、まるっきり忘れていたとはいえ、そしてもちろん、故意にパクったわけではないが、ぼくが易システム絡みで想ってみたこととあまりに符合していることが多くて、ちょっとガクゼンとした。

用語のちがいはある。

C嬢へ 」では、創造されたものの物質的側面すべてに遍在する基盤をスピリットと呼び、そこに結合する本源の分身をソウルと呼んだが、これはほぼそのまま、ダイアードとトライアードにあてはまる。

ぼくは、魂も物質のバリエーションに応じて区分され遍在するというイメージでとらえているが、ボーネルの説明ではそうではなく、トライアードは結合してグループ化することはあるものの、基本的に自己充足しており、区分されることも、その必要もなさそうだ。

トライアードがダイアードと結合するには、そのダイアードがトライアードを受け入れるだけの複雑性=ホロン深度に達していることが条件になる。
「犬に仏性はあるか」というのは有名な公案だが、仏性=トライアードとするなら、犬にダイアード意識はあるが仏性はないことになる。

犬の仏性はともかく、人間はダイアードとトライアードが結合した存在であり、この、ダイアードとトライアードの調和がとれていないこと……これをボーネルは「葛藤」と呼ぶ。

C嬢へ 」では生命活動一般をカタナと鞘があわない日本刀にたとえたが、「葛藤」は「C嬢へ 」で描いた鞘とカタナのガタツキにあたる。

このカタナと鞘は最初から合わない。

そいうふうにできている、というところも一緒。
ボーネルによれば、トライアードとダイアードは結合した時点で、すでにある程度の葛藤を抱えることになるという。

C嬢へ 」では、このカタナと鞘のガタツキを無限に小さくしていくことが、強いていえば生命活動の目的であるとしたが、無限の活動であるかぎりそれは終わり無きプロセスであることになる(無限については前回ブログ を参照してください)。


大成卦を一個の人間としてみたてるなら、上下卦のどちらかをダイアードとし、どちらかをトライアードにみたてる、とうことになるだろうが、ここはすなおに、トライアードを天=上卦とし、ダイアードを地=下卦とするのが至当なのではないだろうか。

そのようにとらえてみると、「葛藤」=カタナと鞘のガタツキは、上下卦で爻が応じていない、その度合だということになる。

たとえば、85:地風升だと初と四のみが不応である。

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すべての爻が不応、ということになると、これは純卦になる。

ぼくは占い師じゃない-huou55

「やべー、葛藤、マックスだぜっ‼ 」

という解釈もなりたたないことはないが、純卦となるとまた別の意味合いを帯びてくる。

魂と肉体が同じ八卦であらわされているのだ。
その意味をどうとらえるかがポイントになる。

魂が肉体であるということか。
あるいはまた肉体が魂であるということか。
肉体にシフトした魂。魂にシフトした肉体。

ボーネルによれば、ダイアードとトライアードが完全調和した存在は「菩薩」であるという。

易システムには8人の「菩薩」がいる。

易システムではこれを先天大成卦と呼び、地上的存在=人間の、一種の最高状態であると位置づけた。
だから「魂のテンプレート 」では、「N」ナビゲーターと呼ばれる。

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【ツイストペア・ホイールの中心部。
図では最外縁にあるのが先天大成卦】

天は上、地は下、どちらがいいわけでもわるいわけでもない。
この観方に絡んで、易システムと日常世界の位置を示す次のようなマンダラを、ハンドブックの次の本のために描いたが、まったく同じような図が*2に載っていた。

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【マンダラ。バリアントスペース は、ゼランドによるアカシックに近い概念】


ぼくは占い師じゃない-daitri
【*2より。緑と赤の書き込みはぼくの落書き】

まいっちゃったなあ、おい。
くりかえしになるが、パクったわけじゃないのになあ。

でもまあもっとも、クロスする三角形と逆三角形というモチーフはいろいろと他のものにもみられる。

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【*3、*4より】

ところで、トライアードは最初から完璧に完成されたもので進化の必要はない、というのであれば、易システムはまちがいなく、ダイアード、物質、肉体、日常世界サイドの象徴システムである。

そのシンボルは爻からはじまり、両儀(原初のゆらぎ)、四象、八卦、六十四卦……と複雑性を増し、進化し、ホロン深度を深め、mRNAのコードで連綿と受け継がれるダイアードの基盤たる「血」を象徴し、この地上から天を見あげるコトバになる。

テンプレートは魂と肉体の重なりを描く地上のコトバだが、「易システムハンドブック」のなかでは、丸に十字のシンボルであらわした。

天をあらわすタテ線。地をあらわすヨコ線。その交点たるあなた。
時は円環をなし、あなたをとりかこむ。

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これも、パクったわけではないのだけれど、ネイティブアメリカンのシンボルだったり、地球をあらわす記号だったり、楽章の終りの記号、コーダだったり、島津の家紋だったり……

島津以外は全部あとから知ったことで。

まあもっとも、アンジェラス・アライエンの本によれば(*5)、円も十字も元型的なシンボルで、世界中で共通してみられるそうだから、その組み合わせの丸に十字のシンボルなんていうものは、パクったというより、だれもが自然に思いつくものなのかもしれない。

以下はボーネルによる、魂・トライアードのシンボル。

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【*6より。部分】

絵はきったないノートのラクガキでもうしわけないが、ボーネルのトライアードのシンボルは、易システムにおける「魂のテンプレート」のシンボルと、わりとキレイに重なる。

ぼくは占い師じゃない-triad-iching
【トライアードのシンボルと易システムのシンボル】


まあ、にんげんばんざい、ってところでしょうか。

いきろ、にんげん。

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*1
「アトランティスの叡智」
ゲリー・ボーネル著
大野 百合子訳
徳間書店
2004

*2
「超入門 アカシックレコード」
ゲリー・ボーネル著
大野 百合子訳
徳間書店
2004

*3
「13 の月の暦・手帳」
こよみ屋
2011

*4
「自然現象と心の構造―非因果的連関の原理」
カール・グスタフ・ユング、W.パウリ著
河合 隼雄訳
海鳴社
1976

*5
「運命のサイン―望みをかなえる5つの手がかり」
アンジェレス・アライエン著
金田 広志訳
ワニブックス
2003

*6
「アカシックレコードカード」
ゲリー・ボーネル 原画
安部繭子 イラスト
大野百合子訳
株式会社ゲリーボーネル・ジャパン
2011

ぼくは占い師じゃない-mandala1111

「<無限>のエクスタシー」
石村多門著
窓社 1998年


☆ 大学の哲学。

表面的なところからいうと、
半期分の哲学の講義である。
タイトルの上に
「実況中継 大学の哲学」
と書かれているが、
まったくそのとおりで、
文章は話しコトバそのまんまだから
必然的に大部の本になる。

哲学だから、
多少込み入ったコトバやハナシだってあるが、
全般にわかりやすく書かれている。

そりゃあねえ。
先生が話して聞かせてくれているわけだから。

ちなみに(こんなとこでバラさなくたっていいのだが)、
ぼくは大学というところに、いったことがない。

半期分の講義が定価3400円。
電大近くの古本屋でその半分。
それだけもオトクなのである。

著者謹呈の赤紙がはさまっている。
おおかたどこかの学生が売っちゃらかした
(ただしくは「打遣らかす」だそうです)
ものだろう。

ひとまわり昔の本なので、
たとえやギャグやダジャレは
当時の世相を反映しまくりである。

それもまたよし。


☆ 哲学ってなに。

この本によれば、
哲学とは子供の(ガキの)学問である。

「なんで?なんで?」
「どうして?どうして?」

と、攻めてくる子供の質問には際限がない。

そんな質問はなかったことにして
高下駄をはくのが
すなわち大人になることなのだが、
哲学はその高下駄の下を覗き込む。
高下駄の歯が依って立つ
大地のかたさをたしかめようとする。

子供の質問にかかれば、
易システムも穴だらけである。

このブログでも、無限とか森羅万象、
なんつうコトバを
それこそ深い考えもなく乱発しているが、
さして確固たる定義もなく
「だいたいこんなイミでしょ~」的な
日常会話レベルのあやふやなイメージのもと、
お話を進めているのである。

これも高下駄の一種だ。
ヒジョーに安定はわるいが。


☆ 「無限」にもいろいろあって。

まあ、なんていうんですか。

「大成卦が森羅万象をあらわす」

なーんて、このブログでいっている程度では
無限にはほど遠いわけで、それはつまり、
とっにかくぎょーさん、数えきれんわ~
っちゅう程度のことであり、
こういうのは無限ではなく、
「有限多」というそうだ。

日常生活ではこのレベルで無限、
といっておけばこと足りる。

占術は日常生活と密着しているから、
だいたいこのへんでOK!
……といういうこともできなくはないが、
やっぱりこれは仮の、
実用的な森羅万象である。

もうひとつ。
常になにものか(+1)が
その(n)外のある(n+1)、「無限」。

これもほんとうの無限ではなく
「仮無限」と呼ばれる。

C嬢へ 」では生命活動を、
たどりつくことのないニンジンを追いかける馬にたとえたが、
これはモロ、馬がnで、ニンジンが+1だ。

無限のつもりで書いたが、
てんで無限ではない。
仮無限だったのである。

ほんとの無限は……
その、+1のような、
それ、n よりも大きなものが
あっちゃあいけないんじゃないか。

これが「実無限」だ。

やっとでてきた、真打ち登場!

話はそんなところから始まる。

この本ではすべてのものの
(「もの」といっても
通常の意味の「もの」ではない。
ものを物だと誤解すると
またヤヤコシイ問題が発生する。
くわしくは、読んでください)
根源をこの実無限としての自存的実在に求めていく。


☆ 時間の話。

とても書ききれるボリュームではないので、
内容紹介はムチャクチャはしょっている。

あいすまんこってす。

そんなことで、本の中では最後の方になるけど、
どうしても避けて通れない話に時間の話がある。

時間には大きく分けてふたつの種類がある。

ひとつは客観的、量的な線形時間であり、
もうひとつは主観的、質的な時相時間である。

この時相時間が文化的文脈に位置づけられると
さまざまな時間意識を生む。

本の中であげられているのは、
狩猟民型、農耕民型、遊牧民型、旅商人型などがあるが、
いずれにしても時間は、グレゴリオ暦もしくは
学校の時間割が押しつけようとしているドグマのように、
だれにとっても同じように流れているものではない。

これが、易システムにおいて
ツイストペア・ホイールのさらに外縁に
暦としてのリング、
「ベゼル」を置いた理由である。

しかし、線形でも時相でもいいけど、
時間は一体どこから発生するのだろう。


☆ オメガポイント。

これからこのブログで
おいおい書いてゆこうと思ってはいたのだが……

「呼吸」こそがもっとも根源的なものであると思っていた。

いや、今でもそう思っている。

とはいえ、

呼吸は、この本で説明されている
「実在→現象→認識」の三分法でいけば、
根源に近いものではあっても、
現象であることには変わりない気もする。

その先に実在があるはずだ。

本ではこの自存的実在を「運動」であるとし、
デカルト、ニュートン、アインシュタインを経て、
実無限である光の「運動」こそ実在であるとしているが、
これは、物理時空のハナシであるともしている。

線形時間が生じるのは物理時空だが、
時相時間が生じるのは精神時空だ。

そして、時空は実在が現象したものだ。

現象している物理時空の実在が、実無限としての光の運動なら、
現象している精神時空の実在……とはなんだろう。

これが……

思考する「私」ではなく、

その「私」を超えた<私>なのである。

「私」には感覚や経験はあるが<私>にそれらはない。

感覚する、経験する、主体がないからだ。

絶対的な静寂を経験することは原理上できない。

いやー、そんなことないよー、
だって、毎回じゃないけど、
瞑想したときにそういうことあるよー、

という向きもいらっしゃるかもしれないが、

感覚できる、経験できる、
そしてその経験を想起することができる以上、
それは対象化されたナニモノカであって、
そこには主体と客体の分離がある。

一方、<私>に分離はなく、
みるものもみられるものもないわけだから、
<私>には感覚も経験もないはず。

なるほど、述語がなくて主語しかないんだ……

ではなくて、

そもそも、主語も述語もないのだ。

じゃ、その、瞑想中の「静寂」という、
想起できる経験っていったいなによ?

ということになるが、
たいがいは「私」がつくりだしたフェイクだ。

「私」は、絶対的静寂(のようなもの)すら、
つくりだすことができるのである。

すごいね。

その調子だと多分、
「サトリ」もつくることができるのだろう。

まいったな。


☆ オチはあるのか

さて、なんでもかんでも混ぜると怒られそうだが、

「私」から<私>への真摯な問いは、
やはり、ラマナ・マハリシの

「わたしは誰か」

ではなかろうかと思うし、

物理時空・精神時空は、どうしたって、
創造はその根源から二元的であったとする、
ボーネルのダイアードとトライアードを連想させる。

物理時空と精神時空で光と<私>というちがいはあっても、
その根源は、どちらも自存的実在としての無限の「運動」である。

それがこの本の、一応の結論、ということになるのだろうが、

「運動」って……

やっぱり「呼吸」じゃないの。

でもって、

ダイアード、トライアードであるというよりまえに、

現在のぼくは人間である。

そういう意味では、今日ただいまのぼくは、
ダイアードでもなければトライアードでもない。

「人間」という「機能」なのだ。

人間だから、こんなことをカンガエルわけで、
こんなこと考えてると夜も寝らンなくなっちゃうンである。

ところで、

本のハミ出しで、2度ほどふれられていたかと思うが、
この本の続編、つまり後期の講義はどうなったのだろう。

調べてみたけど、どうも本としては出ていないようだった。

ま、一応、この本はこの本で、
感動的に完結してはいるんだけど。

続きをききたければ、
ダイガクにいかなきゃなんないンだろうか。

う~ん、ヤッパリ、夜も寝らンないや。

500円玉がたまったので、iPadを買うことにした。
決して安い買い物ではないので、一応卦をたててみる。

占的は、

「ほんとうに今のぼくにとって役立つモノかどうか。
無駄な買い物にならないだろうか」

   ☆

せっかく半年かかって貯めた500円玉だ。
無目的に衝動買いというわけにはいかないし、もとよりそんな余裕もない。
iPadを買おうと思ったのはその上で動くiMandalArtを使いたかったからだ。

マンダラートはアイディアツールの一種(ほんとはそれ以上!)なのだが最初は手帳として創られた。

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【マンダラート手帳。もう売ってない。いくらしたの?
妻に聞かれたが、おそろしくてとてもいえない値段】

この「マンダラ」は、金剛界曼陀羅と同じく9つのマス目(セル)からできていて、中心セルに記入したテーマ(問い)から周囲8つのセルそれぞれに連想を広げていく。
必要に応じて、各周辺セルをそれぞれ独立した中心セルとして新しいマンダラをつくり、階層化することができる。

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【今泉浩晃「創造性を高めるメモ学入門」日本実業出版社より。
ナナメっちった。ゴメン】

中心セルを除いた周辺セルは全部で8つあり、易システムと相性がいいのは一目瞭然である。

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【ノートに描いてあった大成卦のマンダラ。
日付を見ると97年10月、とあった。
よっぽどマンダラが好きだったのだろう】

だからというわけではないが、結構気にいっていて、手帳の頃からずいぶんお世話になっていた。

電子版ではその後、Mac(ハイパーカード)版、Newton版、Windows(VB)版、PalmOS版がリリースされた(順番はイイカゲンかも)。
カイシャのパソコンがWindowsだったので、Windows版をよく使っていた。

電子版のマンダラを持ち歩きたかったので、当時絶滅の危機にあり20万近くしたNewtonを買おうかどうしようか本気で悩んだりもしたこともあった。
この時点ではPalm版は出ていなかったと思う……記憶はアヤフヤである。
なんせ昔の話だ。

そんな時代も去って、専らマインドマップを使うようになっていたのだが、iPad上でマンダラートが動くことを知って、またマンダラートも使ってみようかな、と思った。インターフェースも新しく、持ち歩ける。
iPadなら分厚い「易システムハンドブック」も一緒に持ち歩けるだろう。

   ☆

それで、卦をたてて得たのは「86:地水師」の五爻。

ぼくは占い師じゃない-shi5
師の五爻は、「狩りして獲物あり」。

だからまあいいだろう、と。

辞占というのもおこがましい、雑駁な読みだ。

「師」は、たったひとつの陽爻である二爻が陰爻である他の四爻を統べる象である。
二爻が隊長、師団長であり、二爻よければすべてよしというわけ。

それはそうだ。もちろんそれだけじゃないけど、ヘッドがしっかりしていなければ軍隊は用をなさない。

で、それがその、占的である買い物の是非とどう関係があるの?

ようするに「師」=軍隊というイメージと、それが買い物の相談にたいする回答であるということがうまくかみ合っていない感じが残ったままになっていた。

こういう感じを残したままというのは、ほんとはあんまりよくない。
コロコロ代わるどこかの国の総理大臣みたいに、放り出すクセがついてしまう。それではいつまでたっても活断はできない。とりあえずコジツケでもいいから、観じたことについては一定の結論を出し、できれば記録しておくことがのぞましい。

   ☆

iPadを使ってみてまずめんくらうのは、アプリケーションに「終了」という概念がないのと、ファインダーやエクスプローラといった、OSが提供するアプリケーション間共通のファイル管理ビューがないことである。

前者は、ぼくのような、限られたメモリ空間で生きてきた旧世代の人間にとっては、ケツをふかないままトイレを出るようなもので、最初は非常に落ち着かない。
後者の仕様(というよりカルチャー)は、パソコン上で使っていた同じアプリケーションを、iPadで使うとなるとよけいにめんくらうことになる。

マンダラは「どこに」保存されるんだ??

デスクトップ?

いやいや、Palmでもそうだったが、iPadでも一見デスクトップに見える画面は、じっさいのところはデスクトップというよりアプリケーション・ランチャである。

Windows版ではどこでも好きなところに好きなようにマンダラファイルをつくって保存しておけばよかった。
それらマンダラの保存場所、カテゴライズや整理はユーザーにまかせれおけばよかったのである。
ところがiPad版ではそうはいかない。

ユーザーが創ったマンダラを管理する枠組みは、アプリケーションが提供する必要がある。
ユーザーが創った任意の深さのマンダラを、ただただ、のべたんにリスト管理するという選択肢もあったかと思うが(こういうのを「フラットランド」という)、iMandalArtではそうはなっていない。

「マンダラート」であるからにして、ユーザが創るマンダラ管理のフレームも当然、マンダラなのである。

ここに来て、ようやっと、「師」の意味が判ってきたかな、という……

なんだかしまりのない占例の話になってきた。

   ☆

「師」の二爻は他の四爻を統べる。

ポイントはこの二爻がなにをあらわしていると観たてるかだが、それがこの、マンダラを管理するマンダラではないのか、と思ったのである。
話は占的のiPadからマンダラートにズレてしまっているように思われるかもしれないが、マンダラートを使うためにiPadを買ったわけだから、そこはまあ、よしとする。

マンダラを管理するマンダラはiMandalArtの場合はトップにある。

このマンダラは、

ユーザが創るマンダラへの入り口(GET)、
テーマつきのユーザが創ったマンダラへのショートカットおよび時系列マンダラへの入口(MANDA)、
ユーザが創ったマンダラへのショートカット(LA)、
そしてヘルプ(ART)でできている。

ぼくは占い師じゃない-topMandala02
【iMandalArtトップビュー】

このへんが「師」の二爻にあたるんじゃないのかなあ、と。
ここんとこがシッカリしていれば、すべてよし。
この師団長がイイカゲンだと、なんじゃこのアプリは、ということになるのである。

Windows版には、ヘルプのマンダラはあったが全体を統べるようなマンダラはなかった。
創りたければユーザが自分でつくればよかった。
「師」でいうと二爻がないわけで、二爻のない「師」は「坤」になる。

ぼくは占い師じゃない-shi-konn

これもまたオモシロイ。坤は大地。ハハ。オフクロ。袋である。

だれも、なにも、統べるものなどない。

時につれ、折にふれ、創られたマンダラは、一般的には、MyDcumentと呼ばれる「袋」の中へ、とりあえずゴチャっと放り込まれていた。

「師」の二爻は他の四爻を統べる。
ポイントはこの二爻をなにに観たてるか、だ。

経文をみているとついつい特定の「人」だと思い込みがちだが、出来事や概念、今回のようカタチのない「設計」なんてものでもいいわけだ。
卦や爻は、特定のものと一対一に一義的に結びついているわけはではない。アイマイである。
いってみれば、そのアイマイさが易卦が森羅万象を指し示すための仕組みになっているのである。

   ☆

で、結局、買ってみて使ってみてよかったのか悪かったのか。

これがまだ、エラソーに評価できるほど使い込んでいないのでなんともいえない。

買って間もなく、ジョブズは他界するし、OSが5とかいうやつにカッテにバージョンアップされるし(てかまあ、「更新」を選んだのはワタシですが)。

5は、iCloudとかいうのがウリらしいが、iPadオンリーのユーザーにはあまりご利益がなさそうな、それこそ雲をつかむような仕組みだ。

「師」の五爻変、伏卦は「坎為水」となる。形勢はなお流動的である。

ぼくは占い師じゃない-shi-kann
ジョブズも雲の上。

そういや、雲も水蒸気、「水」。

   ☆

しかし手帳にチクチク細いボールペンでマンダラを描き込んでいたころから思うと、手垢のついた言い回しだけど、隔世の感がある。
洗練されたインターフェースで、ちゃっちゃとマンダラを展開し、階層をたどっていくのは一種爽快でもあり、オールドユーザーにとっては感動ですらある。

以下はこのブログ のために起こしたマンダラ。

ぼくは占い師じゃない-blogmanda

思いつくことを周辺セルにランダムに書き出し、記述のためにリニアに並べなおす。

上のマンダラはセルを並べなおしたあとのものだが、このやり方は、最も基本的なマンダラートの使用法である。

手帳だとモサモサするが、iMandalArtならスマートに、すぐできる。
マンダラ上で「リニア」を表現するには、提唱者の定石によれば、右回りの「の」の字に並べる。

得卦の判断でいきづまったときは、マンダラの真ん中のセルに得られた大成卦を置いて、じっとにらむと……

周辺セルにヒラメキがあらわれる……かもしれない。

ぼくは占い師じゃない-shimandala

さてあなたには、周辺セルになにが観えますか。

テレビで聞いたのだと思うが、
「日本酒とワインのちがい」について、
だれかがこんなことをいっていた。

ワインが一本テーブルにあって、
二人がそのテーブルをはさんでいるとする。
二人ともワインを飲んでいるのだが、
そこにあるのは、ワインとA氏、ワインとB氏という、
それぞれが、それぞれのワインと対する関係である。

それが「ワイン」なのだ、と。

ぼくは占い師じゃない-wine

ところがこれが日本酒になると事情が変わる。
日本酒というお酒はA氏とB氏の、
その、「間」にあるものなのだという。

ワインのように、A氏、B氏それぞれが日本酒と一対一に対する、
そういうお酒ではなく、対するのはA氏とB氏で、
日本酒はあくまでもその、「間」にある。

それが「日本酒」なのだ、と。

ぼくは占い師じゃない-pon

おもしろい話だと思った。
易卦にも似たような対応がある。

   *

ある易卦Aを構成する爻すべての陰陽を反転させてできたもうひとつの易卦Bがあったとする。このABの組み合わせを、ぼくは勝手に「ツイストペア」と呼んでいる。
伝統的な易においては互いに「裏卦」と呼ばれる関係にある易卦どうしの組み合わせである。
ツイストペアという概念については、以前の記事 でザックリ説明してはいるものの、もう少しつっこんだ話をすると……

易システムにおいて、ある大成卦をとりまく環境とは、すなわち他の大成卦だ。

ある単体の大成卦Aに別の単体の大成卦Bが対応している場合、AからみてBは、もっとも基本的な「環境」であるともいえる(逆も同様)。

AとB、主体と環境に相互作用が生じると、その間、AB間にAにもBにも属さない「見えない中心」ができる。
日常的においてはある種の連帯感、共感といってもいいかもしれない。たとえば、ふたりでやるダンス、セラピーの際に生じる、そのどちらの参加者にも属さない「中心」である。
どちらにも属さないわけだからA、B単体では生じ得ない。しかしそれが生じているときははっきりと感じることができる。

ぼくは占い師じゃない-mienai

かくしてこの感覚を踏み台として「自己の境界(*3)」はひとつの大成卦から、その大成卦とペアをなす二つの大成卦というホロンへと創発していく。
原則としてどの大成卦であろうと、ある特定の大成卦とペアであるということはできるし、そうしてはいけないというルールがあるわけではない。

ぼくは占い師じゃない-kands

ただし、ツイストペアは、互いの爻が陰陽反転したものどうしの組み合わせである。いわば、すべての爻が「応じて(*1)」おり、陰陽は引き合うという法則に照らしあわせるなら、その引き合う力が最大であるペアで、当然だが、ある大成卦とツイストペアになる大成卦は他の63卦中、ひとつしかない。
易システムにおいては、先に述べた「見えない中心」がもっともわかりやすく、もっとも容易に生じる組み合わせがツイストペアである。

ぼくは占い師じゃない-sandm

いいかえると、ある特定の大成卦からみて「自己の境界」の拡大がもっともおきやすい環境がこの「ツイストペア」の関係であるということだ。
「自己の境界」というものが拡大するものであるということを識るのも多くの場合、まずはこのツイストペアの関係から、ということになる。

見えない中心の例……「自己の境界」が広がる例として、ふたりでやるダンス、セラピーをあげたが、これはあまり一般的な例ではなかったかもしれない。
イキモノとしての陰と陽、女と男、恋人、夫婦といった関係のほうが、よりわかりやすく、一般的な例となるかもしれない。
もっと広げて、パートナーシップというふうにとらえれば、同性のパートナーである仲間や友人、いや、かならずしも人である必要はない。

あなたと仕事、あなたと会社のような組織、あなたとあなたが経験したある出来事……その経験はパートナーというよりあなたの一部をなすアイデンティティのようなものになっているかもしれない。
そんなアイデンティティ、あるいは、あなたと、あなたがいつもポケットにいれて持ち歩いているなんの変哲もないひとつの石。

およそいかなるものであれ、あなたの相棒となりえるものである限り「見えない中心」を創りだし、自己の境界を広げるきっかけになりうる。

そんなふうに想像してみると、自己の境界を広げるきっかけとなるペアが、いたるところにころがっている……ような気がするが、どうだろう。
易システムでいえば、陰陽は根源的な「ツイストペア」であるということもできるかもしれないし、何度かこのブログでも話題にした「問い」と「回答」は、典型的なツイストペアということができるだろう。

   *

ぼくの日常生活でいえば……
気心の知れただれかとサシで飲るお酒だろうか。

たぶん日本酒。

さて、はたしてヨッパライの「自己の境界」が拡大しているかどうか。
それはさだかではないけれども(*2)。

----------
*1【応】
通常は、単一の大成卦内の上下卦(八卦)間における爻の関係についていう。「応」は対応する爻が陰陽の組み合わせで引き合う関係、「不応」は対応する爻が陰陰、または陽陽で反発する(応じない)関係。
ここでは、ペアになる大成卦における同位の爻との関係に拡大解釈している。

*2
多くの場合、そんなことはない。

*3
「自己の境界」については前出記事 参照。

タイトル……

みなさんは読めただろうか。

「ひもと」く。

ぼくは読めなかった。

   ☆

唐突だが……

そして、
前に書いたことがあるかもしれないが、
「ウラナイ」というコトバがあまり好きではない。
理由は自分でもあまり釈然としないのだが、
たぶん、なんとなく胡散臭い感じがするからだろう。

易に興味のある者のものいいとしてはおかしなものだ。

なぜって……

これも、
前に書いたことがあるかもしれないが、
易はまず第一に占いの書だからだ。

易には特定のストーリーがない。

これがなにを意味するかというと、
通読するものではないということだ。


ビギナーズクラッシック
中国の古典
「易経」
三浦國雄著
角川文庫
平成22年初版


三浦版易経、昨年の新刊である。

一般的な解釈とは少々異なる。

代表的なところでは、

「貞」を、占って「問う」の意味にとる、
「孚」を、「捕虜」の意味にとる、
「壮」を、「傷つく」の意味にとる
……などなど。

独特のバイアス(といっていいのかわからないけど)がかかる。

だけどそんなこと、あまり問題じゃない。

「読む」のではなく「使う」ことを第一に書かれているところに好感が持てるのだ。

意味、読み下し文、原文がコンパクトにまとめられ、ほぼすべての卦に短い占例がついている。先天図、後天図、八卦の卦徳表、六四卦序列、小さいけど必要な図はすべて入っている。

これがふつうの文庫本で、ふつうの本屋さんで、860円でふつうに手に入るのだから、まあ「安い」といっていいのではないだろうか。

ああ、それで、

ストーリーがなくて通読できない特殊な古典だというのなら、いったいどうやって読めばいいんだよ!

というハナシだが、こりゃもう、「使う」しかないのである。

どうやって?

それはこのブログをアタマから参照していただいてもわかると思うが(笑)、そんなメンドーなことをしなくても、簡単にではあるが上の本の「解説」にも書いてある。

易の使用法の基本は「問い」と「回答」からなっている。

易という古典はその「回答」の方をまとめたものだ。

「問い」はあなた自身が発する必要がある。

つまり「易という古典を読む」とうことは、他ならぬ「あなた」が参加して初めて成立するのだ。
というより、「あなた」が参加することが前提となっているのである。

「問い」は……しょっちゅう変わる。

「問い」の内容、
「問い」を発する状況、
「問い」を発したときの年齢、

「回答」を解釈するときの年齢……

おっと、これは前記年齢と一致しているはずだが……

「問い」に対する「回答」はすぐわかることもあるが、たとえば、四〇のときにたてた「問い」に対する「回答」が、五〇になってようやくわかる……

なーんてことだってあるかもしれない。

いや、あったっていい。

「問い」は実質、無限にある。

「回答」も無限にある。

経文自体はその字面は基本的にはかわらない。

ということは、易というテキストは、たとえ字面がいっしょでも、実質無限の意味を持っているということになる。何度読み返しても、そのたびに意味が異なってくるのだ。

こんなにおもしろいものはほかにはないのではなかろうか。

古典は多かれ少なかれ同様の性質を持っている。
それが、長きに渡って読みつがれる古典の古典たる所以だ。
易の場合はその性質が前面に押し出されている、
というより、その構造の一部になっているのだ。

さてこんなふうにして、自分と自分の人生を巻き込んで古典を読み込んでいくこと……

これははたして「ウラナウ」ということなのだろうか。

日常的に使われる「ウラナイ」という言葉の意味の範囲では到底収まりきれない感じがする。

   ☆

で、「繙く」。

ぼくらは、易を使って自分が発した「問い」についてウラナウのではなく「繙く」のだ。
辞書を引くと
「書物の帙(ちつ)の紐を解く、一般に書物をひらいて読む」
とある。帙はブックケースである。

コトバは「繙く」の方がカタいけど、なんか「ウラナウ」っていうよりも「繙く」のほうがワクワクする。

そろそろと包みをあける。

きっといいものが入ってる。

そんな感じがする。

あなたはあなたの易経を繙く。

あなたはあなたの「問い」を繙く。

あなたはあなたの人生を繙く。


「繙く」。

上で紹介した本の解説のはじめの文にもこのコトバがある。

だいじょうぶ。

ちゃんとカナがふってあるから、読めないことはない。

さすが、「ビギナーズクラッシック」。

「ユーザーイリュージョン
   ―意識という幻想」

トール・ノーレットランダーシュ著
柴田浩之訳

紀伊国屋書店
2002年


意識に関する本である。

一口に意識といっても、
そのレベルはさまざま。
この本で語られる意識は、
きわめてせまい範囲における意識だ。

「マインド」とか顕在意識、
エゴなどと呼ばれる範囲の意識にほぼ近いかもしれない。

これはこれでないと困る。

自己の感覚、その統一性、
社会性、時間感覚はこの意識をつうじてもたらされるからだ。

もちろんそれがすべてではない。

にもかかわらず、この意識は

「われこそはすべて」

であるようにふるまう。

諸問題はそこから発生する。

お話は、その意識を焦点として、
きわめて多角的に、多岐に、物理の話から始まって、
情報、哲学、心理、生物、自由意志、政治、経済、宗教……
果ては宇宙開闢にまで至る。

この本では、せまい範囲の意識を<私>、
この<私>を含む、より広大な、<私>があずかりしらぬ、
いわゆる無意識を含む自己全体を<自分>、
と呼んで、区分する。

つまるところ、どこまでが<私>なのか、
その「境界」がカギであるような、そんな気がした。

   ☆

大成卦をひとつの自律したシステムとして観たてるならば、
その6本の爻でできたまとまりが境界を構成する。

時間などの影響により各爻は
終始その陰陽を変化させるものの、
6本の爻という「まとまり」には変わりはない。
これが7本になったり8本になったりすることはない。

大成卦を<私>として観たてるなら、
爻6本というこのまとまりが、
易があらわすところの、一般的な「<私>の境界」である。
ぼくは占い師じゃない-self

この境界は至極当然に思え、
また一見変化がないようにも見える。
ぼくらはふだんそれを意識することもない。

<私>とは、皮膚で区切られたこの内側だ。

ほかになにがある?

というわけだ。

でもたとえば、あなたが営業の仕事をしていて、
見積りと契約書を持って客先に単身乗り込んでいった、
と想像してほしい。

単身、だ。

そばにはサポートしてくれる同僚も
傘になってくれる上司も
細かい話が得意な技術担当もいない。

少し大袈裟かもしれないが、
お客から観たあなたの一挙手一投足はすべて、
あなたではなく、「あなたの会社」の言動に映るだろうし、
あなた自身もそのつもりで慎重に行動する。

さて、このときあなたの「<私>の境界」は
やはり自身の皮膚で区切られたその内側「だけ」なのだろうか。

あなたはあなた自身として、
6本の爻のまとまりとして相変わらずそこにある。
だがそれと同時に、「あなたの会社」というところまで
その境界はひろがってはいないか。

ひろがったこの境界はさらに大きくなることもあるし、
自社にもどって上司に首尾を報告する頃には
またもとの大きさ(自分の身体の区切りと同等のレベル)
にもどっているかもしれない。

上の絵の例のように「85:地風升」が普段のあなただとすれば、
単身客先に放り込まれたときのようないわば「異常な事態」によって
<私>の境界が拡大したときには、
同時にその観たても拡大して、
同じ「85:地風升」をあなたの会社全体として
観ることもできるかもしれない。

ぼくは占い師じゃない-campany

少なくとも「大成卦は森羅万象をあらわす」
という原則からすればそうしてはいけない理由はない。

しかし、観たての範囲をホログラフィックに拡大するこのやり方は、
当然のことながらその範囲が大きくなればなるほど
「解像度」は粗くなり、シンボルの負担は重くなる。

「<私>の境界」は環境との相互作用により
フレキシブルに伸び縮みする。

易システムの場合、環境とはつまり、
フォーカスされている大成卦以外の他の大成卦である。

大成卦それ単体で自律した単位ではあるものの、
実際はそれ以外の大成卦のネットワークに取り囲まれている。

というより、自身もそのネットワークに参加している。

<私>の境界の拡大にともない、大成卦ひとつで観るのではなく、
テーマとなる大成卦をとりまく複数の大成卦を
それとなく考慮しておかなければならないのではないか……

そんなところから、
ひとつのテーマを複数の大成卦で観るやりかたとして、
易システムハンドブックでは「ツイストぺア」と
「(魂の)テンプレート」を想定した。

   ☆

<私>とは明確に意識できる自己の範囲である。
<私>の背後にある会社……
などというものは明確に意識できるものではないので、
<私>ではない。
<私>の境界は伸び縮みなどしない。

そういうふうにいわれてしまえばそれまでだ。

見積もりを持った営業担当のたとえは、
会社と個人の境界がアヤフヤで、
おそらくは、<私>と<自分>の境界も同じくらいアヤフヤで、
場合によっては主語は省略可能な
日本語という言葉を使う人間の腑に落ちることはあっても、
欧米の人たちにはわかっていただけないかもしれない。

日本ではどうしてこういう本が
ベストセラーにならないのだろう……
とも思ったが、

ひょっとしたら、「ユーザー・イリュージョン」は
ひどく西洋的な本なのかもしれない。

それはさておき、

ここには書ききれないほどの、
さまざまな示唆に富んだ本であることはまちがいない。

個人的には秩序と乱雑さの観方から導かれる「外情報」
の概念などが大変興味深かった。

それによれば、大成卦の「情報量」は6ビットなどではなく、
営業のたとえにもあるようになにをどうみたてるかという
コンテキストにもよるが、その数十万倍ということになる。

6ビットというのは「情報量」などではなく
「(そういう言葉はこの本にはないが)記号量」で、
従来の情報工学は、この「単なる記号量」を
モノサシにしていることになる。

まあ、それはそうだ。

ネットワーク屋さんにとって問題になるのは、
通常は、トラフィック=「線の中を行き交う
符号のボリューム」であって、
その符号が意味する情報の「深さ」はカンケーない。

ご興味があれば、是非、繙かれるといいと思う。

前回の記事では少々書き足らないことがあったので追記しておきたい。


○ 魂のテンプレート

「魂のテンプレート」についてざっと。

ずいぶんと大それたネーミングだが、なんのことはない、易システムハンドブックの中で設定した4つの易卦のことである。

4つの易卦にはそれぞれ、OD、I、N、Gという略字をあてた。

もっとも基本になるのはODであらわされる易卦で、残りのI、N、GはODをもとに求める。

ODの各爻の陰陽を反転すると(裏卦をとると)Iが得られる。
ODの下卦を構成する各爻の陰陽を反転して上卦とするとNになる。
ODの下卦をそのまま上卦としてできた純卦がGである。

前回の絵の使い回しで恐縮だが、OD=「85:地風升」だったとすると下の絵のようになる。

ぼくは占い師じゃない-tmp

ODは誕生日と、その誕生日という点が属する座標である暦から導かれる。

座標=暦=時間のカタチ=「システムユーザーの意識」を変えるとODは変わる。ODが変われば当然、I、N、Gも変わる。つまり、魂のテンプレートはスタティックな青写真ではなく、間接的ではあるけれどもシステムの利用者が選ぶことのできる動的なフレーム、利用者が今生を楽しむための窓なのである。

ODとIは、上の絵では「t」と描かれた円であらわされる、12消長卦のルールで変化する一連の易卦のグループに属している。tはぼくらが普段意識している日常時間をあらわす。

OD、I、N,Gの意味は「ハンドブック」では以下のように設定した。

OD
今生で利用者が乗り回す(OD=オーナードリヴン)卦であり、利用者そのもの。

I(インバース)
ODよりはじまるt上の経路から観るなら、ターニングポイントである。
意味的には、乗り越える必要のある課題ということになる。


ODからみた理想の姿であり、ODを導くもの(N=ナビゲータ)。


通奏低音のように鳴り響く背景を提供する。
OD、I、Nの、今生における舞台である(グラウンド)。


○ テンプレートと夢

易システムハンドブックにおけるたいがいの着想のソースは、自分がみた夢である。

ただ、魂のテンプレートのルーツは夢ではなく、易システムハンドブックのひとつの帰結である「ツイストペア・ホイール」から導かれたものだ。
「ツイストペア・ホイール」は下の絵のようなものだが、このホイールについての説明はまた別の機会にゆずりたい。

ぼくは占い師じゃない-tpw

ホイールはともかく、前回記事の「ベクトル歩行」のあと、ふと、「魂のテンプレート」は、別に、特に、「魂の」となどとやらかさなくても、ただ「テンプレート」として一般化してつかってもいいのではないだろうか、と思いついた。

すなわち……なんでもいい、たとえば占って得られた卦をODとして、そこから得られるI、N、Gに相当する卦を補足する情報として利用することもできるのではないか、と。

その場合のOD、I、N、Gの意味ってどうなるのかなあ……

と思っていたら、「夢」、自分の夢にあらわれる基本的なモチーフがそのまま対応することに気がついた。
モチーフというより話が展開する舞台・場所といった方がいいかもしれないが、日記をみていると舞台になるのはおおむね4つの場所だ。

ひとつは家。実家や旅館、寮など。
もうひとつは、学校、会社、職場。
3つ目は、電車やバスなどの乗り物。
4つ目は、海、波、など水にかかわりのある場所。

他の人の夢は知らないが、ぼくの夢にはこの4つが頻出する。

最初は意味がよくわからなかったが今はだいたいわかっていて、「家」は自分自身であり、「会社」は外界でり、「電車」はフローに乗って目的地に向かっている(うまくいっている)ことで、「水」は内面奥深くに横たわる「場」をあらわしているのではないか、と思っている。

一般的にいって夢のシンボルの意味はきわめて個人的なもので、ここではあくまで「ぼくの場合は」という条件つきになる。

これを「テンプレート」にあてはめると以下のようになる。


【 OD 】
最初に得られた卦。その人自身、またはその人の内的世界。


【 I 】
ODの各爻を陰陽反転する。その人の外的世界、社会的側面。


【 N 】
ODからみちびかれる、下卦の八卦と、上卦の八卦の爻が陰陽反転した関係にある大成卦。64卦中8種類ある。これを「ハンドブック」では「先天大成卦」と呼んだ。

ODがフローにのった状態。目的かもしくは目的に向かって順調に進んでいる状態を示す。

電車・バスはぼくにとって、プロが運転する安全な乗り物である。自分の力を無駄に浪費することなく、時間どおり目的地につく。最小作用の道、心ある道のシンボル。


【 G 】
ODからみちびかれる純卦。これも8種類ある。

水圏は地球上の生命の故郷である。
GはODが意識していないかODが属するより広大な「場」を示す。あるいはまた一生影響をうける基本となる傾向……ベクトルかもしれない。


伝統的な易とは異なる部分もある。
たとえばI=裏卦は、伝統的解釈では経緯・背景・隠された意図などの意味にとる。
しかしまあ、タロットをあつかう占者は、タロットという伝統をあつかいつつも、独自にスプレッドを創出したりもする。
同じようなことを易をあつかう人間がやってはいけないという法律もないだろう。

たいした内容ではないが、ひょっとしたらこの着想は「ベクトル歩行」の成果だったのかもしれない。
そうだったとしたら、「ベクトル歩行」はエクササイズをやっている最中ももちろんだが、少したってから、いわば時間差で気づきがもたらだれることもあるのだろう。


「大地の心理学」
アーノルド・ミンデル著
青木 聡 訳、富士見 幸雄 監訳
コスモスライブラリー



まじり気なく晴れあがった今時分の朝。
菊坂を自転車でくだりおりるのは、
ためいきがでるほどここちよい。

   *

そんな自転車が出てくるお話を書いたことがあった。

お話にでてくる社会では主な交通手段は
自転車になりつつあって……

その自転車は「大地との同意」にもとづいて、
自然が大地にはりめぐらせた「経絡」沿って、走る。

そうすると、エンジンも電動アシストもなしに、
人はほとんど力を労することなく、
抵抗をうけることもなく、そして事故もなく、
風のように移動することができる。

   *

「自分さがしの瞑想」からはじまって、
ミンデルの本は過去に何冊か読んだが、
正直ピンとこなかった。

ようやくなんとかわかる(?)ようになったのは
「身体症状に「宇宙の声」を聴く」 からで、
今回久しぶりに読んだミンデルの「大地の心理学」は、
残念ながら、腑に落ちるところまではいっていないが……
よく理解できた、というものでもなく、
なんというか……
このままいけば「腑に落ちる」はずの方に
身体を向けることができた、といった感じなのである。

ええい、どうも、コトバにするとまだるこしい。

ひとつにはミンデルが提唱しているメソッドが、
経験なしには語りえないということ、
そしてもうひとつは、
その経験は、きわめて微細な身体感覚をベースにしている、
というところがひっかかっているのだろう。

「大地の心理学」は端的にいってしまえば、
「ベクトル歩行」の本である。

一定の方向と量を持ったベクトルをいくつか重ね合わせると、
それらのベクトルを合成した大きなベクトルが浮かび上がる。

この「ベクトル」を実際に歩くことによって、
自己の統合をはかっていく。

具体的には、課題に関するいくつかの構成要素をリストアップし、
それぞれの要素を「ベクトル」として、慎重に方向を定め、歩む。

部屋の中でも外でもよい。
動けなければ動きたくなければ、かすかな動作をもとに、
紙と鉛筆でやってもいい。

どっちに?何歩?

すべて身体に問う。

最後にすべての構成要素を重ねあわせた「ベクトル」を歩く。

これこそ、もっとも抵抗の少ない道であり、
「自然は単純を好む」ところの最小作用の道であり、
その道を歩むことはタオの自覚そのものである。

統合がすすめばすすむほど自己の境界は広がる……
というより、拡散し、
最終的には道(タオ)に至る……
というより、帰還する。

実際にやってみると(ぼくの場合)釈然とはしないけれど、
「なにかある」感は、たしかにある。

「大地の心理学」によれば,
こういった微細な感覚に注意を払う能力は、
現代人においてはほとんど眠ってしまっているそうだ。

   *

邵雍(康節)は、いまからおおよそ1000年前、
宋代における梅花心易のマスターだが、
微細な感覚に注意を払う能力(クォンタム・コンパス)に
たけていたのだろうと思う。

それを周囲の人に説明するための方便として、
易をつかっていたのではなかろうか。
そんな気がする。

「大地の心理学」の中には、易も登場する。

ベクトルというツールはさまざまに応用がきく。

たとえば、下の絵は、ODで示される基本の卦から展開される、
I、N、Gという卦を示した「テンプレート」である。
ぼくは占い師じゃない-tmp
【魂のテンプレート】

「テンプレート」は「易システムハンドブック」で考案したもので、
ひとことでいえば個人の資質を示すパターンである。

ODから展開されるわけだから、
I、N、GはいわばODの派生卦であり、
イメージとしては次のようになろうか。

ぼくは占い師じゃない-odhasei
【ODからI、N、Gが派生する】

しかし、ベクトルの重ね合わせというアプローチを考慮するなら、
「派生」ではなくて、実は、ODは、I、N、Gという
「構成要素」から成り立っている、
と観ることができるのではないか。
ぼくは占い師じゃない-voding
【OD=I+N+G】

個人の資質、というのはひとつの「みたて」である。

ODをなんらかの手段で得られた大成卦一般とすれば、
I、N、Gはその大成卦で示されるもの・ことの背景と
観ることができる。

OD、I、N、Gすべてを重ねあわせると、
そこには心ある/大いなる道、Uがあらわれる。
ぼくは占い師じゃない-vu
【あるときのテンプレートとそこから導かれるU】

U、最小作用の「心ある道」、タオの自覚は、
砂絵のように毎回更新される。

更新されるたびに自覚は深まっていくというが、
なんといっても、実際に「卦」そのものを「歩く」ことができる、
というのは、おそろしく新鮮なおどろきである。

まあ、「おどる易者」というのがいても、
おかしくない気はする。

   *

冒頭に紹介した昔書いた「お話」は、
かろうじて「小説」の体をなしていたという程度の、
稚拙なモノだったので、だれも読んでくれなかったが……
思えばそこで描こうとしていたのが、
「最小作用の道」だったのかもしれない。

そして菊坂は、合意的現実の、
「心ある道」である。

『初筮に告ぐ』

「76:蒙」卦の卦辞である。

ぼくは占い師じゃない-mou

易に少しでもふれたことがある人なら、おそらくは誰でも知っている。

超有名な言葉なので、これをしらないという易者がいたら、そのヒトはたぶんモグリだろう。


   *


話はかわるが、ぼくはときどき少々強迫神経症じみた行動に悩まされることがある。

とくに朝、出がけの「カギかけたかな」の確認衝動はがまんできないことがあって、四、五回、玄関の前をいったりきたりするのはわりとふつうで、ひどいときは歩き始めて10分もたってから、家にひきかえしたりする。

こんなことをやっていると当然遅刻してしまうので、なるべく早くに家はでるようにしている。

四、五回のいったりきたり……は、

まあオーバーだとしても、一度気になり出すとどうにもこうにもそのことしか考えられなくなるのはまちがいない。

以前から使っている易占いのIアプリ
があるが、これを使うとケータイで卦がたてられる。

そんなわけで、家に引き返すのもままならない状況だと、ついつい易にたよってしまう。

占的は前にこのブログでご紹介した例
とまったく同様、

「カギかけたかな?」

である。

こんなくだらないことで質問すること自体、システムに対してシツレイとも思えるが、どうやら易システムには人知を越えた寛容性があるようだ。

で、得られたのは「22:兌為沢」。

ぼくは占い師じゃない-dada


経文をいつも持ち歩いているわけではない。使っているアプリでは、(たぶん)無作為に選ばれた大成卦の名前と形が表示されるだけで、経文は表示されない。

この程度の占的なら、卦爻辞を参照せずともカタチで判断できるだろうと思ったのだが……

得られたのが「兌為択」ではどうもよくわからない。

悦ぶ……というのもしっくりこないし、前例
にならって、大成卦全体を玄関のドアと見立てると、穴が二つあいているのはわかるが(三、上の陰爻)、これは覗き穴とカギ穴で、カギがかかっているかどうかはわからない。むしろ開いているようにもみえてしまうのだが……

その真ん中の陽爻を門扉のカンヌキ(閂)としてみたてることのできる「坎」を含んだ卦でも出ないかなと、

ぼくは占い師じゃない-kan

勝手に期待していたこともあり、自分が卦を読めないことを棚にあげ、ついつい腹立ちまぎれに、

「もうちょっとわかりやすい卦で教えてくれないか!」

とやってしまった。

で、得られたのは「21:沢天夬」。

ぼくは占い師じゃない-kai

説明の必要はほとんどないだろう。

玄関のドアとみたてた兌為沢の三爻、下の穴=カギ穴がふさがっているのである。

つまり、カンヌキ、ラッチ、まあ、なんと呼んでもいいが、ようするにロック機構=カギはかかっているよ、とシステムは明確に示してくれたのだ。

このあたりから邪道に入る。

簡単な操作で卦がたてられる便利さも手伝って、さらに意地悪く、

「もっとわかりやく!」

などと、たてつづけに卦を立てた。

それでもシステムは根気強く、最後の陰爻、択天夬の上爻を陰から陽に変じ、ふさぐことによって、兌為択→択天夬で示したのとおなじカタチの回答をよこした。

そう、得られたのは、「11:乾為天」だったのである。

ぼくは占い師じゃない-kenken

「だからぁ!こうなんだよ」

と、システムはダメおしをしてきたのだ!

これだけでも充分びっくりだ。

あまりにもびっくりしてしまって、このアプリには、なにか、似たようなパターンの卦がたてつづけにでるようなクセでもあるのかなあ……などと思ってしまったのがよくなかった。

確認のつもりでもういっぺん卦を立ててしまったのである。

兌為沢から数えて、同じ占的で、

実に、4回目の立卦。

お察しのことと思うが、この4回目に出たのが、冒頭でご紹介した「76:蒙」卦である。

できすぎ……??

と思われるかもしれないが、易システムを使っていると、こういうことはままあるのである。

冒頭でご紹介した「76:蒙」卦の卦辞の部分は以下のように続く。


『初筮に告ぐ。
再三すれば汚る。
汚るれば、告げず。
貞に利ろし。』

いいかえるとこういうことだ。

『答えは最初にいったとおり。
同じ占的でなんども立卦するのはシステムへの冒涜だ。
冒涜されてまで答える気はない。
ちゃんとしろ。』

おこられているのだ。

師はこんなところにもいた。

師匠の価値を問うてはならないのである。


PS.
もちろんカギはちゃんとしまっていた。
かみさんいわく、

「そういうふうに気になるときはたいていちゃんとカギはかけてるの。アブナイのはそんなこと、気にもしないときだわ」

まあ、そうかもしれない。

ついでにいうとこの卦立てたのは4月の6日で、
13月の暦では、その週のコドン(卦)は、
「兌為沢」。
冗談みたい。

易システムハンドブックのバージョン2.0を作成しました……

という話は以前のブログ で紹介させていただきましたが、

このたび、このハンドブックを
「猫の本屋さん」というところから、
電子書籍としてリリースいたしました!!


ぼくは占い師じゃない-eki-neko


「猫の本屋さん」内の
易システムハンドブックの本棚はこちら です。

ttz形式での配布になります。

ttzファイルは電子書籍出版の草分け的存在である
ボイジャー社が提供するT-Timeというビュアーソフトで、
読むことができる電子本ファイルです。

ビュアーソフトは無償です。
くわしくはこちら をごらんください。

さて、内容は……PDF版と同じですが(アタリマエか)、
猫の本屋さんの本棚 に、
本文から抜粋した内容紹介がありますので
ご興味のある方はそちらをどうぞ。

また、本棚には、無償でダウンロードできる
標準サイズで60ページの「立ち読み版」もありますので、
T-Timeの使いごこちを試したい方、

もちろんハンドブックにご興味のある方は、

ぜひご笑覧ください。


ぼくは占い師じゃない-eki-neko-tachiyomi

この電子本の作成には猫の電子出版、
代表の田邊様の多大なご協力をいただきました。

ありがとうございました。

末筆ながら、感謝いたします。

以下、目次です。
ご参考まで。

----------

第1部イントロダクション

 第1 章 はじめに
  1.1 経緯と謝辞
  1.2 本書について

 第2 章 クイックスタート
  2.1 用意するもの
  2.2 占い方

 第3 章 易システムとはなにか
  3.1 易経の本体
  3.2 占術の役割
  3.3 偶然
  3.4 自分のことは自分で
  3.5 伝統的易経と易システムの関係

第2部 Game of Changes

 第4 章 オ-バービュー
  4.1 なぜこの部が必要なのか
  4.2 オーバービュー
  4.3 本源

 第5 章 顕現
  5.1 無極と本源
  5.2 無極
  5.3 両儀
  5.4 四象
  5.5 八卦
  5.6 六十四卦

 第6 章 顕現の原動力
  6.1 ツイストペア
  6.2 マスターマトリクス
  6.3 八卦はメタフィジカル
  6.4 ミッシングリンク
  6.5 フィボナッチ数列の探求
  6.6 ツイストペア・ホイール
  6.7 創造の6ステップ

 第7 章 帰還
  7.1 ディレクトリとしての易システム
  7.2 魂のテンプレート
  7.3 OD をいかにして定めるか
  7.4 ベゼルという概念
  7.5 ベゼルからOD を導く
  7.6 動的に変化するテンプレート
  7.7 テンプレートをよむ

第3部Book of Changes

 第8 章得卦を読み解くカギ
  8.1 陰陽
  8.2 大成卦の一般構造
  8.3 得卦の判断
  8.4 派生卦
  8.5 十二消長卦一般

 第9 章 八卦リスト

 第10 章 六十四卦リスト

 第11 章 ツイストペアリスト

第4部 その他のトピック・用語集・索引

 易システムのバックボーン
 さまざまなベゼル
 デシジョン・メーカーとしての易システム
 「20 の銘板」と周易の用語対応
 遺伝暗号と易卦の対応
 7:7::7:7の放射子の立方体と「63:既済卦」
 用語集
 索引
 参考文献