―意識という幻想」
トール・ノーレットランダーシュ著
柴田浩之訳
紀伊国屋書店
2002年
意識に関する本である。
一口に意識といっても、
そのレベルはさまざま。
この本で語られる意識は、
きわめてせまい範囲における意識だ。
「マインド」とか顕在意識、
エゴなどと呼ばれる範囲の意識にほぼ近いかもしれない。
これはこれでないと困る。
自己の感覚、その統一性、
社会性、時間感覚はこの意識をつうじてもたらされるからだ。
もちろんそれがすべてではない。
にもかかわらず、この意識は
「われこそはすべて」
であるようにふるまう。
諸問題はそこから発生する。
お話は、その意識を焦点として、
きわめて多角的に、多岐に、物理の話から始まって、
情報、哲学、心理、生物、自由意志、政治、経済、宗教……
果ては宇宙開闢にまで至る。
この本では、せまい範囲の意識を<私>、
この<私>を含む、より広大な、<私>があずかりしらぬ、
いわゆる無意識を含む自己全体を<自分>、
と呼んで、区分する。
つまるところ、どこまでが<私>なのか、
その「境界」がカギであるような、そんな気がした。
☆
大成卦をひとつの自律したシステムとして観たてるならば、
その6本の爻でできたまとまりが境界を構成する。
時間などの影響により各爻は
終始その陰陽を変化させるものの、
6本の爻という「まとまり」には変わりはない。
これが7本になったり8本になったりすることはない。
大成卦を<私>として観たてるなら、
爻6本というこのまとまりが、
易があらわすところの、一般的な「<私>の境界」である。
この境界は至極当然に思え、
また一見変化がないようにも見える。
ぼくらはふだんそれを意識することもない。
<私>とは、皮膚で区切られたこの内側だ。
ほかになにがある?
というわけだ。
でもたとえば、あなたが営業の仕事をしていて、
見積りと契約書を持って客先に単身乗り込んでいった、
と想像してほしい。
単身、だ。
そばにはサポートしてくれる同僚も
傘になってくれる上司も
細かい話が得意な技術担当もいない。
少し大袈裟かもしれないが、
お客から観たあなたの一挙手一投足はすべて、
あなたではなく、「あなたの会社」の言動に映るだろうし、
あなた自身もそのつもりで慎重に行動する。
さて、このときあなたの「<私>の境界」は
やはり自身の皮膚で区切られたその内側「だけ」なのだろうか。
あなたはあなた自身として、
6本の爻のまとまりとして相変わらずそこにある。
だがそれと同時に、「あなたの会社」というところまで
その境界はひろがってはいないか。
ひろがったこの境界はさらに大きくなることもあるし、
自社にもどって上司に首尾を報告する頃には
またもとの大きさ(自分の身体の区切りと同等のレベル)
にもどっているかもしれない。
上の絵の例のように「85:地風升」が普段のあなただとすれば、
単身客先に放り込まれたときのようないわば「異常な事態」によって
<私>の境界が拡大したときには、
同時にその観たても拡大して、
同じ「85:地風升」をあなたの会社全体として
観ることもできるかもしれない。
少なくとも「大成卦は森羅万象をあらわす」
という原則からすればそうしてはいけない理由はない。
しかし、観たての範囲をホログラフィックに拡大するこのやり方は、
当然のことながらその範囲が大きくなればなるほど
「解像度」は粗くなり、シンボルの負担は重くなる。
「<私>の境界」は環境との相互作用により
フレキシブルに伸び縮みする。
易システムの場合、環境とはつまり、
フォーカスされている大成卦以外の他の大成卦である。
大成卦それ単体で自律した単位ではあるものの、
実際はそれ以外の大成卦のネットワークに取り囲まれている。
というより、自身もそのネットワークに参加している。
<私>の境界の拡大にともない、大成卦ひとつで観るのではなく、
テーマとなる大成卦をとりまく複数の大成卦を
それとなく考慮しておかなければならないのではないか……
そんなところから、
ひとつのテーマを複数の大成卦で観るやりかたとして、
易システムハンドブックでは「ツイストぺア」と
「(魂の)テンプレート」を想定した。
☆
<私>とは明確に意識できる自己の範囲である。
<私>の背後にある会社……
などというものは明確に意識できるものではないので、
<私>ではない。
<私>の境界は伸び縮みなどしない。
そういうふうにいわれてしまえばそれまでだ。
見積もりを持った営業担当のたとえは、
会社と個人の境界がアヤフヤで、
おそらくは、<私>と<自分>の境界も同じくらいアヤフヤで、
場合によっては主語は省略可能な
日本語という言葉を使う人間の腑に落ちることはあっても、
欧米の人たちにはわかっていただけないかもしれない。
日本ではどうしてこういう本が
ベストセラーにならないのだろう……
とも思ったが、
ひょっとしたら、「ユーザー・イリュージョン」は
ひどく西洋的な本なのかもしれない。
それはさておき、
ここには書ききれないほどの、
さまざまな示唆に富んだ本であることはまちがいない。
個人的には秩序と乱雑さの観方から導かれる「外情報」
の概念などが大変興味深かった。
それによれば、大成卦の「情報量」は6ビットなどではなく、
営業のたとえにもあるようになにをどうみたてるかという
コンテキストにもよるが、その数十万倍ということになる。
6ビットというのは「情報量」などではなく
「(そういう言葉はこの本にはないが)記号量」で、
従来の情報工学は、この「単なる記号量」を
モノサシにしていることになる。
まあ、それはそうだ。
ネットワーク屋さんにとって問題になるのは、
通常は、トラフィック=「線の中を行き交う
符号のボリューム」であって、
その符号が意味する情報の「深さ」はカンケーない。
ご興味があれば、是非、繙かれるといいと思う。