タイトル……
みなさんは読めただろうか。
「ひもと」く。
ぼくは読めなかった。
☆
唐突だが……
そして、
前に書いたことがあるかもしれないが、
「ウラナイ」というコトバがあまり好きではない。
理由は自分でもあまり釈然としないのだが、
たぶん、なんとなく胡散臭い感じがするからだろう。
易に興味のある者のものいいとしてはおかしなものだ。
なぜって……
これも、
前に書いたことがあるかもしれないが、
易はまず第一に占いの書だからだ。
易には特定のストーリーがない。
これがなにを意味するかというと、
通読するものではないということだ。
ビギナーズクラッシック
中国の古典
「易経」
三浦國雄著
角川文庫
平成22年初版
三浦版易経、昨年の新刊である。
一般的な解釈とは少々異なる。
代表的なところでは、
「貞」を、占って「問う」の意味にとる、
「孚」を、「捕虜」の意味にとる、
「壮」を、「傷つく」の意味にとる
……などなど。
独特のバイアス(といっていいのかわからないけど)がかかる。
だけどそんなこと、あまり問題じゃない。
「読む」のではなく「使う」ことを第一に書かれているところに好感が持てるのだ。
意味、読み下し文、原文がコンパクトにまとめられ、ほぼすべての卦に短い占例がついている。先天図、後天図、八卦の卦徳表、六四卦序列、小さいけど必要な図はすべて入っている。
これがふつうの文庫本で、ふつうの本屋さんで、860円でふつうに手に入るのだから、まあ「安い」といっていいのではないだろうか。
ああ、それで、
ストーリーがなくて通読できない特殊な古典だというのなら、いったいどうやって読めばいいんだよ!
というハナシだが、こりゃもう、「使う」しかないのである。
どうやって?
それはこのブログをアタマから参照していただいてもわかると思うが(笑)、そんなメンドーなことをしなくても、簡単にではあるが上の本の「解説」にも書いてある。
易の使用法の基本は「問い」と「回答」からなっている。
易という古典はその「回答」の方をまとめたものだ。
「問い」はあなた自身が発する必要がある。
つまり「易という古典を読む」とうことは、他ならぬ「あなた」が参加して初めて成立するのだ。
というより、「あなた」が参加することが前提となっているのである。
「問い」は……しょっちゅう変わる。
「問い」の内容、
「問い」を発する状況、
「問い」を発したときの年齢、
「回答」を解釈するときの年齢……
おっと、これは前記年齢と一致しているはずだが……
「問い」に対する「回答」はすぐわかることもあるが、たとえば、四〇のときにたてた「問い」に対する「回答」が、五〇になってようやくわかる……
なーんてことだってあるかもしれない。
いや、あったっていい。
「問い」は実質、無限にある。
「回答」も無限にある。
経文自体はその字面は基本的にはかわらない。
ということは、易というテキストは、たとえ字面がいっしょでも、実質無限の意味を持っているということになる。何度読み返しても、そのたびに意味が異なってくるのだ。
こんなにおもしろいものはほかにはないのではなかろうか。
古典は多かれ少なかれ同様の性質を持っている。
それが、長きに渡って読みつがれる古典の古典たる所以だ。
易の場合はその性質が前面に押し出されている、
というより、その構造の一部になっているのだ。
さてこんなふうにして、自分と自分の人生を巻き込んで古典を読み込んでいくこと……
これははたして「ウラナウ」ということなのだろうか。
日常的に使われる「ウラナイ」という言葉の意味の範囲では到底収まりきれない感じがする。
☆
で、「繙く」。
ぼくらは、易を使って自分が発した「問い」についてウラナウのではなく「繙く」のだ。
辞書を引くと
「書物の帙(ちつ)の紐を解く、一般に書物をひらいて読む」
とある。帙はブックケースである。
コトバは「繙く」の方がカタいけど、なんか「ウラナウ」っていうよりも「繙く」のほうがワクワクする。
そろそろと包みをあける。
きっといいものが入ってる。
そんな感じがする。
あなたはあなたの易経を繙く。
あなたはあなたの「問い」を繙く。
あなたはあなたの人生を繙く。
「繙く」。
上で紹介した本の解説のはじめの文にもこのコトバがある。
だいじょうぶ。
ちゃんとカナがふってあるから、読めないことはない。
さすが、「ビギナーズクラッシック」。