「<無限>のエクスタシー」
石村多門著
窓社 1998年
☆ 大学の哲学。
表面的なところからいうと、
半期分の哲学の講義である。
タイトルの上に
「実況中継 大学の哲学」
と書かれているが、
まったくそのとおりで、
文章は話しコトバそのまんまだから
必然的に大部の本になる。
哲学だから、
多少込み入ったコトバやハナシだってあるが、
全般にわかりやすく書かれている。
そりゃあねえ。
先生が話して聞かせてくれているわけだから。
ちなみに(こんなとこでバラさなくたっていいのだが)、
ぼくは大学というところに、いったことがない。
半期分の講義が定価3400円。
電大近くの古本屋でその半分。
それだけもオトクなのである。
著者謹呈の赤紙がはさまっている。
おおかたどこかの学生が売っちゃらかした
(ただしくは「打遣らかす」だそうです)
ものだろう。
ひとまわり昔の本なので、
たとえやギャグやダジャレは
当時の世相を反映しまくりである。
それもまたよし。
☆ 哲学ってなに。
この本によれば、
哲学とは子供の(ガキの)学問である。
「なんで?なんで?」
「どうして?どうして?」
と、攻めてくる子供の質問には際限がない。
そんな質問はなかったことにして
高下駄をはくのが
すなわち大人になることなのだが、
哲学はその高下駄の下を覗き込む。
高下駄の歯が依って立つ
大地のかたさをたしかめようとする。
子供の質問にかかれば、
易システムも穴だらけである。
このブログでも、無限とか森羅万象、
なんつうコトバを
それこそ深い考えもなく乱発しているが、
さして確固たる定義もなく
「だいたいこんなイミでしょ~」的な
日常会話レベルのあやふやなイメージのもと、
お話を進めているのである。
これも高下駄の一種だ。
ヒジョーに安定はわるいが。
☆ 「無限」にもいろいろあって。
まあ、なんていうんですか。
「大成卦が森羅万象をあらわす」
なーんて、このブログでいっている程度では
無限にはほど遠いわけで、それはつまり、
とっにかくぎょーさん、数えきれんわ~
っちゅう程度のことであり、
こういうのは無限ではなく、
「有限多」というそうだ。
日常生活ではこのレベルで無限、
といっておけばこと足りる。
占術は日常生活と密着しているから、
だいたいこのへんでOK!
……といういうこともできなくはないが、
やっぱりこれは仮の、
実用的な森羅万象である。
もうひとつ。
常になにものか(+1)が
その(n)外のある(n+1)、「無限」。
これもほんとうの無限ではなく
「仮無限」と呼ばれる。
「C嬢へ 」では生命活動を、
たどりつくことのないニンジンを追いかける馬にたとえたが、
これはモロ、馬がnで、ニンジンが+1だ。
無限のつもりで書いたが、
てんで無限ではない。
仮無限だったのである。
ほんとの無限は……
その、+1のような、
それ、n よりも大きなものが
あっちゃあいけないんじゃないか。
これが「実無限」だ。
やっとでてきた、真打ち登場!
話はそんなところから始まる。
この本ではすべてのものの
(「もの」といっても
通常の意味の「もの」ではない。
ものを物だと誤解すると
またヤヤコシイ問題が発生する。
くわしくは、読んでください)
根源をこの実無限としての自存的実在に求めていく。
☆ 時間の話。
とても書ききれるボリュームではないので、
内容紹介はムチャクチャはしょっている。
あいすまんこってす。
そんなことで、本の中では最後の方になるけど、
どうしても避けて通れない話に時間の話がある。
時間には大きく分けてふたつの種類がある。
ひとつは客観的、量的な線形時間であり、
もうひとつは主観的、質的な時相時間である。
この時相時間が文化的文脈に位置づけられると
さまざまな時間意識を生む。
本の中であげられているのは、
狩猟民型、農耕民型、遊牧民型、旅商人型などがあるが、
いずれにしても時間は、グレゴリオ暦もしくは
学校の時間割が押しつけようとしているドグマのように、
だれにとっても同じように流れているものではない。
これが、易システムにおいて
ツイストペア・ホイールのさらに外縁に
暦としてのリング、
「ベゼル」を置いた理由である。
しかし、線形でも時相でもいいけど、
時間は一体どこから発生するのだろう。
☆ オメガポイント。
これからこのブログで
おいおい書いてゆこうと思ってはいたのだが……
「呼吸」こそがもっとも根源的なものであると思っていた。
いや、今でもそう思っている。
とはいえ、
呼吸は、この本で説明されている
「実在→現象→認識」の三分法でいけば、
根源に近いものではあっても、
現象であることには変わりない気もする。
その先に実在があるはずだ。
本ではこの自存的実在を「運動」であるとし、
デカルト、ニュートン、アインシュタインを経て、
実無限である光の「運動」こそ実在であるとしているが、
これは、物理時空のハナシであるともしている。
線形時間が生じるのは物理時空だが、
時相時間が生じるのは精神時空だ。
そして、時空は実在が現象したものだ。
現象している物理時空の実在が、実無限としての光の運動なら、
現象している精神時空の実在……とはなんだろう。
これが……
思考する「私」ではなく、
その「私」を超えた<私>なのである。
「私」には感覚や経験はあるが<私>にそれらはない。
感覚する、経験する、主体がないからだ。
絶対的な静寂を経験することは原理上できない。
いやー、そんなことないよー、
だって、毎回じゃないけど、
瞑想したときにそういうことあるよー、
という向きもいらっしゃるかもしれないが、
感覚できる、経験できる、
そしてその経験を想起することができる以上、
それは対象化されたナニモノカであって、
そこには主体と客体の分離がある。
一方、<私>に分離はなく、
みるものもみられるものもないわけだから、
<私>には感覚も経験もないはず。
なるほど、述語がなくて主語しかないんだ……
ではなくて、
そもそも、主語も述語もないのだ。
じゃ、その、瞑想中の「静寂」という、
想起できる経験っていったいなによ?
ということになるが、
たいがいは「私」がつくりだしたフェイクだ。
「私」は、絶対的静寂(のようなもの)すら、
つくりだすことができるのである。
すごいね。
その調子だと多分、
「サトリ」もつくることができるのだろう。
まいったな。
☆ オチはあるのか。
さて、なんでもかんでも混ぜると怒られそうだが、
「私」から<私>への真摯な問いは、
やはり、ラマナ・マハリシの
「わたしは誰か」
ではなかろうかと思うし、
物理時空・精神時空は、どうしたって、
創造はその根源から二元的であったとする、
ボーネルのダイアードとトライアードを連想させる。
物理時空と精神時空で光と<私>というちがいはあっても、
その根源は、どちらも自存的実在としての無限の「運動」である。
それがこの本の、一応の結論、ということになるのだろうが、
「運動」って……
やっぱり「呼吸」じゃないの。
でもって、
ダイアード、トライアードであるというよりまえに、
現在のぼくは人間である。
そういう意味では、今日ただいまのぼくは、
ダイアードでもなければトライアードでもない。
「人間」という「機能」なのだ。
人間だから、こんなことをカンガエルわけで、
こんなこと考えてると夜も寝らンなくなっちゃうンである。
ところで、
本のハミ出しで、2度ほどふれられていたかと思うが、
この本の続編、つまり後期の講義はどうなったのだろう。
調べてみたけど、どうも本としては出ていないようだった。
ま、一応、この本はこの本で、
感動的に完結してはいるんだけど。
続きをききたければ、
ダイガクにいかなきゃなんないンだろうか。
う~ん、ヤッパリ、夜も寝らンないや。