「今この瞬間への旅」
レナード・ジェイコブソン 著
今西礼子 訳
ナチュラルスピリット
2010/12/25
言葉は時系列の世界に属するもので、「今この瞬間」にあるものではなさそうだ。
その言葉で「今この瞬間」のことを描写しようとすれば、かかる行為は、はなから矛盾をはらんでいることになる。
「今この瞬間への旅」というタイトルそのものが、そもそも矛盾を含んでいる。
「今この瞬間」といえば「今この瞬間」だ。
時間はない。
一方、「旅」は時間のかかるもので、時間のないところにいくのに時間がかかるのはいったいどういうわけだろうか。
著者がいうには、リアルなのは「今この瞬間」だけであり、それ以外はすべて幻想で……
「今この瞬間」に参入するには、ふたつのステップを踏むだけでいい、という。
ステップ1.
「実在(する)」
ステップ2.
「真のマスターの意識をもつ」
ステップ1では主に五感を入り口にして「今この瞬間」に気づく。やってみるとわかると思うが、これは存外容易にできる。
今聞こえる音、今味わっている味、今見ているもの、今入ってくる香り、今感じている身体感覚。
たとえば、これは今年の元旦の空。
朝起きて窓を開けたらいきなり飛行機雲の書き初めだったわけだが、こういうのをばーんと見るとしばらくは「今この瞬間」にいることができる。
しかしやがてハラが痛いことを思いだし、その感覚にとどまっていればまだいいが、ほどなく、意識せずに、忘年会でいい気になって食いまくった生ガキの思い出に巻き込まれていくのである(寝正月でした)。
存外容易にできると書いたが、できるのは(ぼくの場合)ほんの一瞬である。
その状態にとどまっていることはむずかしい。
ステップ2は、「今この瞬間」にいる状態をより日常化し、より深めていくステップである。
「今この瞬間」にいることにもグラデーション、程度の差があるらしい。
エゴ(利己性)が利用しようとする、心にため込まれたさまざまタネを発芽させ、水をやり、育て、その一生をまっとうさせてやるプロセスが主となるが……
これに時間がかかる。
タネにはさまざまあるし、一生をまっとうさせる前に、プロセスそのものに巻き込まれてしまい、たいがいはまた新しいタネをたわわに実らせる。
利用するタネがなくなると、ようやくエゴは静かになり、「今この瞬間」にいるときだけかいま見ることのできた「おおいなる自己」との共同作業が、やっと可能になるそうだ。
エゴは消えない。
消そうとするのはまちがい、とある。
本来の機能にもどしてやるのである。
なにをどうしたらいいか、なぜそうするのか、メカニズムはどうか、どれぐらいそうすればいいのか、あるいは、結果がでるまでどれぐらいかかるのか。
そのへんのことに関する明確な示唆に富んでいるのもこの本のいいところだろう。
くりかえしが多いが、テーマの性質上やむをえない気もする。
ところで、「今この瞬間」だけがリアルで、それ以外は幻想、ということなら、易システムは幻想なのだろうか。
そのとおり。
では意味がないのか、といえば、
そうでもない。
二元性(幻想)について書かれた部分があるので引用してみる。
これはこのまま、易システムの存在意義ととらえこともできると思う。
『わたしたちが時間の世界の中で体験するすべては、二元性の範囲内で体験することです。わたしたちが知っているすべては、二元性の範囲内で知ることです。(中略)「幻想」がなければ「真実」を、どのようにして知るのでしょうか。「愛の欠如」がなければ「愛」を、「神の不在」がなければ「神」を、「分離」がなければ「一体性(ワンネス)」を、どのようにして知るのでしょうか。
二元性はわたしたちの教室であり、人生はわたしたちの先生なのです。』
ここまで書いて思い出したのは、何の本だったか忘れたが、師匠と弟子の話だ。
アイマイな記憶なので、話の細かなところはちがっているかもしれないがご容赦。
その師匠の師匠が亡くなったおり、その師匠はそれこそ恥も外聞もなくみっともなく、オンオン泣いていたそうだ。
みかねた弟子が、
「先生、先生はこの世でおきることや死は幻想だと言っていたではないですか。なぜそんなにお泣きになるのですか」
答えて言うに、
「ああそのとおり。幻想だ。先生の死は一番悲しい幻想だ」
と、そのまま、その師匠は再びオンオン泣き続けたそうだ。
幻想は時間と密接な関係がある。
よどみに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて。
幻想は、期間限定だが、たぶん味も匂いもしっかりとあるのだろう。