サイを振る前に | ぼくは占い師じゃない

ぼくは占い師じゃない

易経という中国の古典、ウラナイの書を使いやすく再解釈して私家版・易経をつくろう! というブログ……だったんですが、最近はネタ切れで迷走中。

久しぶりに平日に休めることになったので、
飲み友達のMさんにメールした。
その後お店も予約したと返事もいただいた。

その翌日くらいだったか、足踏み感というか、
表現はしにくいのだが、
なんとんなく抵抗感のようなものを感じて、
やっぱりおことわりしようかとメールまで書いたが、
自分から誘っておいてやはり失礼かと、
出さずに保存しておいた。

釈然としない感じだったので、
その飲みについて「なにか問題でも?」と、
卦をたててみる。

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得られたのは「61:需」の九三。

大ざっぱにいって需は(恵みの雨を)待つ、待たされる卦で、
それぞれの爻は「どのように」待たされるのか、
そのシチュエーションのいろいろである。

爻辞によれば、九三は「ぬかるみにて待つ」、
上下卦の境手前で前に(上に)行こうとする
はやる心があるが(陽位に陽爻)、
足がとられてままならない感じである。

まあ、なんというか、
自分の心理状態が反映されただけか……
などと軽く考えて、その日はおしまい。

いつもそんなに精密に卦を読み込んでいるわけでもなく、
ケッコーイイカゲンなのである。

約束前日の夜、保存してあったメールは消した。

完全にいく気になったわけで、
状況も変わったとみて、再度同じ占的で卦をたててみる。

一般的に同じ占的でなんども卦をたてることはよくないとされる。

まあでも、充分な時間がたったかあるいは、
充分に状況も変わったと判断できる限りにおいては、
その必要があればいちおうは、よし、ということにしている。

それで、でた卦が、

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「18:否」の六二である。

否は「否定」の否でもあるが、
経路などが「ふさがる」意にもとれる。

ちょうどケータイの電池の減りが早くなりつつあり不調に思えたので、
翌日つまり約束の日の当日、お店でみてもらい、ちょっと掃除してもらって、
大丈夫でしょうということで、家に帰って一応フル充電してからでかけた。

連絡経路(ケータイ)が「ふさがれて」
アタフタするようなことでもあるのかなと、
またしてもテキトーに判断。

結局その日は、Mさんの仕事が忙しくなって、
ぎりぎりになって飲みはお流れになった。

それがなんだというわけでもない。
日常生活の一場面である。

それだけのことなのだが、
Mさんの身体もしくは都合が「ふさがって」、
キャンセル=「否」になった、と。

そういえば昔、あんまり受けたくないプログラミングの案件で、
お客さんが要望する工数とこちら想定する工数の条件が合わなくて、
結局流れたことがあった。
そのときにも「否」がでた。
陽気はひたすら上昇し、陰気はひたすら下降する。
モノワカレである。
小さな案件だったので営業に怒られることもなかったが。

たいていの場合「否」は(ぼくの場合は)、
単純に「NO」または「ネガティブ」の意味にとっておけばよさそうだ。
経路がふさがれるだのなんだの、
よけいなことを考えることはないのである。


今回のことで気づいたのは、卦の読み方云々よりも、
「占おう」と思ったときにはその動機をよく吟味した方がよい、ということだ。

今回の場合、それはある種の違和感であったわけだが、
これがいわゆる直感というやつではないかと。

『月曜の飲みは、先方が忙しくて流れまっせ。
休みの日にしたほうがええんちゃいます?』

とまちがえようのない言葉でも聞こえてくればいいのだが、
そういうことはたぶんきわめてまれ。
そんなことが起こるとすればよほどの緊急時かなにかだろう。

日常的な問いについては、その問いを発したときに、
コトバではなくむしろ感覚……
イメージ、匂い、触感、味、などといった複数の感覚が、
重層的になったなにかかがもたらされることの方が
多いのではないだろうか。

そのなにかが「確信」ならもはや占う必要はない。


サイを振る前には、ストップ!

いったん手を止めて、なにがそうさせようとしているのか、
よく考えた方が……いや、感じてみた方がいいかもしれない。


しっかし、こうして書き出してみると……

易システムとも、
なんちゅうラフなつきあい方をしているんだろうか、と思う。

それでもとりあえず、テンバツが下ることもなく、
こうしてのうのうと生きながらえていることに気づくにつけ、
易のカミサマの寛大さをひしひしと感じる今日このごろなのである。