前回に引き続き、トランサーフィン……
というか、バリアント空間にまつわるお話。
内容は易とは離れてしまうが……
バリアント空間については
イメージをめぐらせればめぐらすほど、
さまざまに興味深い話題にたどりつく。
◆ 夢。
夢の中の時間は、物理的現実の時間とくらべるとはまったく異質に観える。
トランサーフィン・モデルによれば、バックエンドセルフ(魂)は、ダイレクトにバリアント空間にアクセスできるとされる。
フロントエンドセルフ(理性)は、バックエンドセルフを介することによってバリアント空間をうかがい識ることができるだけだ。
ゼランドによれば、夢は脳が創りだした仮想現実などではなく、フロントエンドセルフのタガがはずれたバックエンドセルフがバリアント空間を気ままに旅した結果である。そこには通常の意味での時間はない。
バックエンドセルフ(魂)が、すでに他の意識(かならずしも人間とも地球上の存在とも限らない)によって現実化されているセクターに迷い込んでしまうと、その人自身は、そのセクターで現実化されることになり、二度と戻ってはこれないという。
もどっては……これないだろう。
なにせバリアントの数は無限である。
ただ、舵取りをバックエンドセルフ(魂)にまかせている分にはその危険は少ない。バックエンドセルフ(魂)は、自分にとって不適切なフィールドを敏感に察知する性質があるからだ。これをトランサーフィンでは「魂の不快」という。
リスクが高くなるのは、フロントエンドセルフ(理性)が夢をコントロールしだした場合で、これをルシッド・ドリーム、明晰夢という。
夢をフロントエンドセルフの狭い視野でコントロールしようとすることには、予想以上におおきな危険がともなうということだ。これを荒唐無稽なタワゴトととるかシリアスな警告ととるか、ゼランドの著作では判断は読者にまかされている。
◆ デジャブ。
夢でみたシーンや経験を、現実に繰り返して経験することをデジャブ(既視感)という。
バリアント・モデルからいえば、バックエンドセルフがあるセクターを訪れた後に、そこが現実化されたものがデジャブの経験ということができる。
この場合、そこを見た、あるいは経験したことが短期の記憶として残っているわけだから、現実化されて今いるセクターと、夢で見たときにいたセクターはバリアント空間内の「比較的近い」ところにあるのだろう。
◆ 半物質的存在。
妖精や精霊といった存在をバリアント・モデルに照らし合わせてみると、半物質的なこれらの存在は、半現実化されたセクターの存在と観ることができるかもしれない。
この場合、妖精や精霊のパターンがあるセクターは、観察者がいる現実化されたセクターと「きわめて近い」と思われる。
バリアントは意識に選択されることにより現実化されるが、ある敷居値的段階からデジタル的に突然に現実化されるわけではなさそうだ。直近のセクターは、すでに現実となっているセクター、すなわち器世間に、じわじわしみいるように実体化していくのではなかろうか。精霊はそのプロセスのただ中にある存在なのだ。
現実化(選択)の過程にはある種の段階、グラデーションがあるのかもしれない。
◆ 輪廻。
バックエンドセルフはダイレクトにバリアント空間にアクセスできる。これはおそらくは、バックエンドセルフ(魂)の出自がバリアント空間にあるからだろう。
バリアント空間は実在しない。
実在しない、ということの意味は、現実でない、ということであり、あらゆる意味で「ない」ということではない。あるかないかでいえば、バリアント空間は「ある」のだ。
ただし、現実ではない。
バリアント空間はぼくたちの本質をなすソウルのふるさとだ。ぼくらはバリアント空間から生まれ、物質世界を堪能した後、ふたたびそこへもどっていく。
「C嬢へ。 」ではこの基底となる領域を、個別化したソウルがその経験をためこむ貯蔵庫として描いたが、そもそもためこむ必要はない。
すべては最初から変わることなくそこにあり、これからもあり続けるのだ。「そこ」を貯蔵庫と呼ぼうとアカシックと呼ぼうとタオと呼ぼうとそれはなんでもかまわない。
人間は……いや、ソウルは、誕生の際にバリアントの海からやってくる。現実化されたセクターでボディを所有し、そのソウルも独自にバリアントの現実化をはじめ、器世間の構築に参加する。
セクター内の物理法則は粗く、鈍重で、ゼランドにいわせればまとわりつくタールのようで、なにをするにも一苦労だ。バリアント空間にいたころのように、バリアントの間を軽やかに飛び回るようにはいかない。
加えて、物理次元の活動には時間という性質がともない、何事にも期間、ライフスパンがある。
しかし、そこで活動することは存外おもしろい。
フロントエンドセルフ(理性)がどう思っているかはともかく、ソウルとしてはもっとそこにいたいのだが、時間制限により肉体を所有しきれなくなると、ソウルは否応なしにふたたびバリアント空間に帰っていかざるをえない。
しかし、多くの個別化されたソウルはふたたびこのゲームに戻ってくる。
自殺は、フロントエンドセルフ(理性)とバックエンドセルフ(魂)の最大級の乖離である。
◆ 魄-魂-霊
すでにすべてはそこにある。
では、あらためて、生命の……生きることの根本的な目的とはいったいなんなのだろうか。
「C嬢へ。 」では、生命はカタナだった。このカタナの剣と鞘との間のガタツキを最小にもっていこうとするあがきが生命現象であるとした。
すべてはそこにありつづける。
以前も。
今も。
これからも。
ずっと。
だったら、最初からなにもする必要はないのではないか。
オリジナリティという言葉がある。
「独創性」ということになるのだろうが、バリアント空間を前提とする限り、真のオリジナリティはありえないようにみえる。実体化していないかもしれないが、そこには、「すべて」が「もれなく」すでにあるのだ。バリアント空間にすべてがある以上、独自の、新しい、なにか別のものを創ることはできない。
新しくなにかを創りだしたと思ってもそれは錯覚で、バリアント空間にもともとあったものが取り出されだけのことだ。
いつもすべてはそこにある。
たしかにそうだ。ただし、物理的現実としてあるわけではない。物理的現実として在ることができるのはおそらくはごく限られたセクターだけだ。
この限られた、現実化された部分が、どのように、どういう順番で現実化されていくか……そのパターンは無限にある。
オリジナリティはここにあるのだ。
カミサマはそのパターンというか、プロセスそのものを楽しんでおられるとだとすれば、その楽しみには、バリアント空間と同様、終わりはない。
個々の生命活動/人生におけるひとつらなりのバリアントの現実化、そのパターンの組み合わせこそは唯一のオリジナル、すなわち、カミサマの独創なのではないだろうか。
こうして眺めてくると、カミサマ→バリアント空間→各個別のソウルというのはひとつづきのものとらえるのが適当ではないかと思えてくる。
あまりにも自明すぎて認識することすらできないかもしれないが……
光の中の光は、なかなか判りづらいものなのだろう。