最近、中沢新一氏の本を二冊読んだ。
共通していえることなのだが、
この著者の文はどの本も、
どことなく麻薬的なドライブ感がある。
「精霊の王」
中沢新一著
講談社
2003/11/21
この本は、
知人から教えてもらったもの。
内容は金春禅竹という能役者が残した「明宿集」という、
能の所作を哲理から説いたようなドキュメントを中心に
能の主たるキャラクターである翁について
独自の考察を加えたもの……
というのは、一面的な観方で
本当の主役はその翁がシンボライズする、
宇宙の背景にひそむパワーで、
これがすなわち精霊の王というわけだ。
易システムをつきつめていくと、
その根幹である両儀(陰陽)に到達する。
この本に描かれているのは、その両儀以前、
混沌といって片づけてしまうには
あまりに豊穣でハイポテンシャルな
マトリクスのエネルギーが
実体をともなって姿をあらわす、
その「境界(「サカ」イ)」に
関するストーリーなのである。
これを読んだ頃ちょうど、
易の各卦名を「字統」で確認するという作業をしていて、
精霊や翁やあるいはケルトの人形がみな一様に
帽子や布(えな)を頭にかぶってあらわれる
ということをこの本で読んだとき、
即座に思い出したのは「兌」の文字だった。
「兌」は会意文字で、
「兄」は神への祝詞(のりと)を入れる
器(サイ)を頭に乗せて祈る人の形で、
神につかえる祝(はふり)をいい、
「兌」はその祝に神が降り下った形だという。
八卦の「兌」にはよろこびという意味があるが、
こうしてみるとこの卦名の原義は、
たんなる、かろやかな喜びなどではなくて、
自身の背景たるマトリクスと合一を果たした
一種のエクスタシーとでもいうべき「よろこび」である。
喜悦、もだえ、うちふるえる「よろこび」だ。
兄の上のハは神気であり、
「えな」とはちがうのかもしれないが、
それにしてもぼくの中では
「精霊の王」と、「兌」はよくひびきあった。
「東方的」
中沢新一著
せりか書房
1991/03
中沢氏による講演や雑誌記事などを
一定のテーマのもとにあつめたアンソロジー。
一定のテーマってなんだよという話になると、
「東方的」というタイトルがついてはいるものの、
人によって微妙に異なると思う。
ぼくの場合はやはり、
日常にたたみこまれた「高次」に
どうしても目がいってしまう。
点における長さ。
直線における面積。
平面図形における高さ。
どれもこれも、学校では「無限に小さい」
ということになっている、と習うが、
無限に小さいということは「ない」ことではないし、
無限に小さいからといって
無視していいということにはならない。
こういう「高次」がぼくたちの身の回り、
あらゆるところに遍在している。
そして、遍在しているだけではなく
この高次こそがこの世の母体なのではないか。
この日常世界におけるあらゆるものは、
その母体の射影、一側面に過ぎないのである。
とはいえ、
年はおいくつですか。
どこの学校を出ましたか。
お住まいはどちらですか。
戸建てですか、マンションですか。
お仕事は。年収はおいくらですか。
海外旅行はどこに何回いかれましたか。
財産はいくらですか。預金残高は。
それをすることは損ですか得ですか。
こういった視点からでは、
おそらく高次はいつまでたっても
無限に小さいままだろうと思う。
でも心配することはなさそうだ。
人間にはこの高次を感じ取る能力が
アプリオリに組み込まれているようだから。
なぜなら先にも述べたように、人間という存在自体も、
高次という母体の切片にほかならないからだ。
人間の、高次おける母体とはいったいなんなのだろう。
どんなかたちをしてるのだろう。
「わたしはだれか」
と問うとき、その質問の矛先は、
たぶんこの母体に向けられているのだろう。
タテ・ヨコ・タカサ。
生きて、経験する道は、
この他にもたぶんある。
そういう意味ではこの本も、
希望の書といえないことも
ないのかもしれない。