「シンクロニシティが起きるとき」
スーザン・ワトキンス 著
佐藤志緒 訳
VOICE
のっけからこんなことをいうのは気がひけるが、とくに目新しいことが書いてあるわけではない。
ハウトゥ本としてとらえるとしても、目から鱗のすごいやり方満載!というわけでもない。
では、なにがおもしろいのかというと、「シンクロニシティ」という一つの言葉でくくられてはいるが、この本で紹介されているのは、実は個人の内面的生活全般の話である、というところだ。
そんなわけで、夢や想念のキャプチャ、それらによる一種の予知、テレパシー、死者からのメッセージなど、とりあげられている現象は多岐にわたる。一概に分類できない現象も多いが、ここに書かれているすべては人間(主に著者)の内面世界と外界との関わりにおいて生じている。
物事の意味はかならずそこに人間がいて成立する。
みんながみんな、まったく同じひとつの世界を共有しているにようにみえるが、深いところではそうではない。
もちろん共通部分もあって、常識(まさしく「コモン」センス)やコミュニケーションなどはそのレベルおよびその周辺で成り立つ。唯識ではこれを「器世間」という。合意の上に成り立っている「うつわ」である。
しかし、深いところにおける実態においては、各自独特の世界観、ものの観方がそれぞれの人にある。
つまるところ、そこに人がいなければシンクロニシティは起きない。人がいなくてもなにかは起きるだろうが、それをシンクロニシティとはいわない。
外界の認識は内面世界において行われる。
その意味からいえば、人は自分の内面世界から逃れることはできない。そして、「じぶんでじぶんのかたちをさがそう」でも書いたが、この内面世界には各人独特の「かたち」が存在する。
この本の記録を眺めていると、その「かたち」の柔軟性を問われているような気がするのだ。
あまりガチガチに固まって、いついかなるときも特定のかたちでしかものごとをとらえられないのは困る。
そうかといって、逆にフニャフニャでは、外界の認識がしょっちゅう変わって、なにが起こっているのかわからなくなってしまう。
まあ、適度なしなやかさのある「かたち」が理想ということだろう。
いくつか気がついたことを。
☆「できすぎ」ぐらいがちょうどいい。
かみさんが同じ本を読んで、「これちょっとできすぎじゃない??」といっていた。
そうかもしれない。
だけどこれくらいのことがなければ「シンクロニシティ」とはいわないのかも。
どれぐらいが「これくらい」なのかは本を読んでほしいと思うが、針小棒大にとらえるというか、単なるパターン認識とシンクロニシティをごっちゃにして、なんでもかんでも「シンクロ」にしてしまうのもどうかと思う。
パターン認識につかわれる「かたち」とシンクロニシティの「かたち」はちがう、ということだろう。
この点にについては本の中でふれられている。
☆「ふとした思いつき」の積極的利用
このブログでもなんどかふれたが、わたしたちは一日それこそ無数のことを「ふと思う」。
もちろん全部をひろいあげるわけにはいかないから、そこから一定の基準で選択することになるのだが……
どれを選んで記録に残せばいい?
これも明確な基準をさだめることはむずかしい。
なにをもって、「これひかえておく必要があるな」と思わせるかは、各人の中にある「かたち」による。
☆シンクロニシティの「かたまり」
シンクロは単発で起きることもあるし、連続的な「かたまり」として起きることもある。
これはこの本で知った、とても興味深いシンクロニシティの「かたち」である。
タロットなどでもそうだと思うが、易システムを利用していると、この縮小版のようなことが起こることがある。
時を変え、場所を変えて、比較的短い間に同じ卦に、なんどもなんどもでくわすような場合がそれだ。
あきらかになんらかのメッセージ性があるような気がするのだが、たいていの場合、記録することをおこたっていたり、そのメッセージをさぐろうという姿勢も維持できない。
ある日、ふと我にかえると環境の奴隷に逆戻りしている自分に気がつく、といったあんばい。
☆「かたまり」は更新される
シンクロニシティの「かたまり」は時を経て、新たな出来事を付加されその意味がより明らかになったり、深みがましたりすることがある。
この「かたち」は、長年にわたって系統的に記録を取り、シンクロニシティの意味をさぐる情熱を持ち続けることのできた著者ならではのものだろう。
ただこれ、ここまでの認識に至るのは、だれにでも真似できることではないような気がするが……
なんか、ユニークなソフトでもあれば、
長続きするかもしれないなあ(ぼくの場合は)。
☆記録すること
ノートでもなんでも、
まずは「記録する」こと。
これが、大前提である。
とはいえ、その場その場の想念や感情、出来事が、時を越えて縦横にリンクする可能性のあるシンクロニシティをとらえるには、ノート形式のリニアな記録にも限界があるのではないかとも思う。
なにせ2000年開けこの方、こういった類のことが起こる頻度は加速され、情報はどんどんオープンになっているそうだから、もっとつっこんでシンクロニシティを調べようとすると、この本で紹介されているノートやリマインダーだけではカバーしきれないときがくるかもしれない。
なにかもっと俯瞰的な、マトリクスとして日常世界をとらえることのできるツールが必要だと思う。
記録は「時間」と切っても切れない関係にある。
時間は決してリニアでも有限でもない。
「銀河ツール」や「みわたす手帳」、「マンダラート」「マインドマップ」など有望なツールはいくつかある。
内側にしろ外側にしろ、これらはすべて世界をとらえる「かたち」である。
ここはやっぱり、マトリクス的に、俯瞰的に、事象のリンクおさえられるようなアプリケーションがほしいところだ。
現状入手可能なアイディアプロセッサの類を探してみれば、適当なものか、あるいはそれに近いものがみつかるのかもしれない。
開発者はまさかシンクロニシティの記録・俯瞰のために、自分のソフトが使われることは想定していないだろうけれど。
パソコンをなにに使おうとそれは各個人の自由だ。
だけど、30年前には想像すらできなかった広大な記憶空間とハイスピードを単なるネット端末や映像再生装置として娯楽的にだけ使うというのは、あまりにももったいなくはないだろうか。
パソコンは「パーソナル」コンピュータの略だ。
娯楽だってもちろん「パーソナル」なものだが、シンクロニシティや生きる目的、人生の意味も、「パーソナル」なものなのである。