- 前ページ
- 次ページ
- 20Aug
お知らせ!
近々Amebaブログに移ります。 https://ameblo.jp/houzan1/
はじめまして
yahooブログより移ってきました。よろしくお願いいたします。yahooブログ時代の記事は、そのうち移します。
- 23Mar
おしらせ!
FC2ブログに引っ越しました。 https://houzan1.blog.fc2.com/blog-entry-2581.html
- 01Jan
謹賀新年
あけましておめでとうございます。 新しい年が、希望に満ちた年でありますように。 昨年の北陸路の旅の途次訪れた、越前鯖江の名刹誠照寺の「駆け出し龍」・・・左甚五郎作
- 30Dec
松飾り(しめ縄)も飾ったし・・・
あと二つ寝るとお正月。、松飾りも飾ったし、鏡餅もお供えしました。我が家の迎春準備も終わりました。 今年は激動の一年でした。来年が希望に満ちた年でありますように。 皆さま良いお年をお迎えくださいませ。 2011.12.30
- 25Dec
鳴門金時の焼き芋
今日はクリスマスですが、我が家ではとくにかわったこともなく、普通の日です。 朝から小雪が降っています。我が地方で今冬初の雪です。積もるほどではないのですが、とっても寒いです。雪国では大雪のようですね。 そんな寒い時期になると登場するのがおなじみの、反射式石油ストーブです。赤い火が暖かさを感じさせます。石油温風ヒーターもあるのですが、なぜか使いません。エアコンもあるのですが使ったことがありません。 お湯も沸かせ、煮物も作ることができます。 今日は、わが菜園で作ったさつま芋「鳴門金時」を反射式石油ストーブで焼きました。甘くてほかほか、とっても美味しいです。 2011.12.25
- 23Dec
蕎麦めぐり・・中山道信濃路・下諏訪宿、苔泉亭 萩月庵千ひろ
長野県諏訪郡下諏訪町は中山道の宿場町であり、温泉もあって諏訪大社下社とともに栄えました。また甲州街道の出発点でもあります。その中心地の下諏訪町大社通に「苔泉亭 萩月庵千ひろ」はあります。 古い土蔵を改装したなんだか懐かしい雰囲気のあるお店です。 この時は、昼のセットメニュー先付3品・わさびアイス付き、「天婦羅もり蕎麦」を食べました。 麺の太さは細麺。そば粉とつなぎの配合割合8割。鰹節を贅沢に使った昔ながらの濃い目のつゆが自慢とか。信州穂高産の生わさびを、サメ皮のおろし板で自分でおろすのもツンとする辛味があっていいですね。店主からの一言・・・その時期でもっともいい状態の国産そば粉を厳選し、気温や湿度の違う季節に合わせて 手打しています。 2009.06.09
- 21Dec
蕎麦めぐり・・京旭屋清水坂店
「京旭屋・清水坂店」は、京都清水寺の登り口にあります。 旭屋といえば、朽木街道にある鯖ずしの老舗。鯖はもとより、米・こぶ・酢・砂糖を厳選し、こだわりの鯖ずしを提供していると評判のお店です。 ㊟この清水坂店は現在撤退しているようですが、鯖ずしと十割蕎麦は、三十三間堂店・高台寺店・JR京都伊勢丹店、そして朽木本店で味わえます。 この時は「ニシン蕎麦」と鯖ずしを食べました。ニシン蕎麦は京都との思い込みが私にはあります。石臼挽き十割蕎麦と京風のだしが特徴です。 2009.05.16
- 19Dec
蕎麦めぐり・・中山道木曽路・平沢、手打そば ていしゃば
「手打そば ていしゃば」は、長野県塩尻市木曽平沢、国道19号線沿いにあります。塩尻市といっても奈良井宿に近いところです。 暗くなってから入ったので、店舗の写真はありません。 この時は、「すんき蕎麦」を食べました。「すんき」は一般に冬の物ですが、このお店ではこの時期(7月)でも提供しているようです。麺の太さ2.0~3.0mm、そば粉とつなぎの配合割合8割。利尻昆布と鰹節のつゆがまろやかな仕上がりです。 すんき漬け・・・信州特産の赤カブ菜(アグラナ科)などを、塩を使わずに漬けこんだ漬け物で、乳酸発酵による酸味が特徴です。塩が手に入りにくかった山国で、冬の野菜不足を補うための知恵として伝承されてきました。京都上加茂に有名な「すぐき漬け」がありますが、塩を使う京の「すぐき漬け」に対し、塩を使わない木曽の「すんき漬け」の違いがあります。 日本の伝統的発酵食品の中でも、植物性乳酸菌だけで作る「すんき」は、乳酸菌作用による整腸作用・免疫活性化作用があるとされ、健康面からも注目されているようです。 お店からの一言・・・標高1320mの日和田高原と開田高原の最高級玄そばを、 石臼により自家製粉しています。 2007.07.13
- 18Dec
蕎麦めぐり・・中山道木曽路・日義、お食事処 巴
「お食事処 巴」は、長野県木曽郡木曽町日義、国道19号線沿いにある道の駅「日義木曽駒高原・ささりんどう館」内にあります。 この地は、中山道の東西中間点です。後に中央アルプスが聳えます。 この時は、地元で採れたきのこがたっぷり入った「きのこ蕎麦」を食べました。麺の太さ2.0mm未満。そば粉とつなぎの配合割合8割。本醸造醤油をベースに鰹節をたっぷり使った本格つゆです。 お店からの一言・・・地元産の玄そばを石挽きし、すべて自家製の地粉100%の蕎麦です。権兵衛街道開設の祖、権兵衛さんの伝説に由来の味が好評です。 権兵衛伝説…平成18年木曽谷と伊那谷を結ぶ権兵衛トンネルが開通し、通年通行が可能になりました。そのトンネルが開通する以前は、権兵衛峠が両地域をつなぐ道として利用されてきました。権兵衛街道の開祖古畑権兵衛は、楢川村に居住し、牛を使った物資の輸送で生計を立てていました。木曽谷と伊那谷をつなぐ峠道を、両谷の有力者に働きかけ改良に成功、功労者である権兵衛の名が冠せられました。権兵衛は力自慢で天下に知られ、「牛を持ち上げて大名行列をやり過ごした」とか「男衆10人がかりでも動かない、道を塞いでいた大きな落石を、一人で寄せてしまった」など数々の伝説の持ち主でした。そのエネルギーの源は、この日義近郊で収穫されるそばで、権兵衛はその蕎麦の大食いが大変自慢であったと伝えらてています。 2006.10.13
- 17Dec
蕎麦めぐり・・中山道木曽路・福島宿、くるまや本店
「くるまや本店」は、長野県木曽郡木曽町福島にある老舗です。代々福島関所を治めた山村代官屋敷に仕え、製粉・精米業を営んでいた水車小屋だったそうです。 現在のお店は、明治43年からあった建物を譲りうけたものだそで、伝統を感じる外観です。 この時は「冷あげ玉蕎麦」を食べました。冷水にさらした蕎麦につゆをかけ、海苔・わさび・ねぎ、そしてあげ玉をのせたもの。サクサクッとした食感と香ばしい味わいが食欲をそそります。 麺の太さ・・2.0~3.0mm未満。そば粉とつなぎの配合割合7割。濃厚で少し甘めのつゆが、太めの麺によく絡み、蕎麦の味を引き立てます。 冬季限定の「すんき蕎麦」もお薦めだそうです。 お店からの一言・・・代々伝わる製法で自家製粉したそば粉を使い、つゆとのバランスを考えた味作りをしています。 2006.09.13
- 16Dec
蕎麦めぐり・・中山道木曽路・馬籠宿、そば処恵盛庵
日本一周の旅も、旧中山道歩きも終わってしまい、記事にすることがなくなってしまいましたので、旅や街道歩きで食べ歩いた「蕎麦」を記事にしています。 「そば処恵盛庵」は、岐阜県中津川市馬籠、旧中山道馬籠宿にある老舗蕎麦屋さんです。中山道歩きのとき訪ねました。 お店の前は石碑も建ち、絶好の記念写真の撮影ポイントとなっています。 この時は「ざる蕎麦」を食べましたが、「山かけ蕎麦」もお薦めです。麺の太さ・・3.0mm以上。そば粉とつなぎの配合割合8割。枕崎産の本節を使用した少し濃いめのつけ汁です。 お店からの一言・・・長野県産の玄そばを店内の石臼で自家製粉、少し短く太めで不揃いの麺ですが、石臼挽き粉の独得の風味と歯ごたえをお楽しみください。 2006..10.12
- 13Dec
旧中山道歩き・・武州路の思い出
旧中山道最後の道筋武州路です。武州とは武蔵の国のことです。武州路は、本庄宿かtら江戸日本橋までの10宿です。 上・武二州を分ける神流川を渡り本庄宿に入ります。 旧本庄警察署です。明治の時代は、地方も西洋文明の夜明けだったのですね。 このあたりも養蚕が盛んだったのでしょうか。 深谷は渋沢栄一が操業開始した煉瓦の町。そこここに煉瓦が使われています。 熊谷宿にある「熊谷寺(ゆうこくじ)」。熊谷直実が世の儚さを悟り、法然上人に帰依し、生まれ育ったこの地に庵を建てたのが始まりとか。 熊谷宿を過ぎますと荒川堤に登ります。このあたり荒川は広いですね。 埼玉(さきたま)古墳群にも寄りました。その中の一つ「稲荷山古墳です。さきたまは、埼玉県の県名発祥の地とされています。この古墳から「金錯銘鉄剣(国宝)が発見された古墳です。 桶川宿にも、印象に残る建て物がいくつか残っていました。江戸時代紅花商人として活躍した矢部家です。 上尾宿の庚申塔です。武州に入って庚申塔もいくつか見ましたが、武州路の庚申塔は青面金剛が彫られたものが多いように感じました。道教に由来する庚申信仰ですが、日本に入って神仏と習合し、地域の人々に信仰された民間信仰でした。 明治に入って、政府によって迷信と位置付けられたためと、街道の拡幅工事により撤去や移転がされ、開発をまぬがれた旧道や寺社にわずかに残されています。 大宮宿にある武蔵国一之宮「氷川神社」です。大宮の名もこの神社が由来です。 浦和を過ぎ蕨宿です。この蕨は、明治に入って鉄道の施設に反対したため、開発からまぬがれ、旧道には旧宿場の面影が残っています。 街道は荒川にぶつかります。かって戸田の渡しがあったところです。ここが埼玉県と東京都の境です。かすかに建設中の東京スカイツリーも望めます。 日本橋から最初の宿場は板橋宿です。その名の由来となった石神井川に架かる板橋です。街道の起点は日本橋ですが、実際の旅はここ板橋宿が起点でした。 新撰組局長近藤勇がこの近くの刑場でで処刑され、首は京に送られましたが、胴体がここに葬られました。 特別名勝「六義園」も印象深い庭園でした。 あこがれ?の東大赤門(重文)。加賀藩邸の名残りです。 湯島聖堂も印象に残っています。 そして最後の目的地、日本橋です。 街道歩きも人それぞれ、スポーツとしてのウオーキングを楽しむ人、歌碑や句碑、あるいは道祖神を訪ね歩く人、歴史を訪ねる人・・・などなどです。いろんなものに出会い、感動し、勉強させられ、街道歩きの面白さを体験できた旧中山道歩きの5年間でした。 おわり。
- 11Dec
旧中山道歩き・・上州路の思い出
旧中山道の難所、そして日本武尊ゆかりの地でもある碓氷峠を降り、東(あずま)に入ります。東(あずま)というようになったのは、『日本書紀・巻第七』によれば、東国を平定凱旋の帰途、碓氷峠から遠くの海を眺め、亡き妻を偲び、「吾嬬者耶(あずまはや…あぁ!我が妻よ)」と嘆いたといいます。このことから東国をさして「あずま」というようになったとか。もっとも『古事記』によれば、碓氷の嶺ではなく、足柄の坂としています。 東の国、旧中山道上州路は、坂本宿から新町宿までの7宿です。 碓氷峠からどんどん降りますと、「覗(のぞき)」と呼ばれる展望のいいところがあり、麓の坂本宿が一望のもとに見降ろせます。 坂本や 袂の下の 夕ひばり 小林一茶 碓氷峠といえば信越本線の難所中の難所でした。今は廃線となりましたが、残ったトンネルなどが往時を偲ばせます。 「碓氷峠鉄道文化村」には、信越本線時代に活躍した列車が保管・展示されていました。 その横川駅といえば、名物「峠の釜めし」が思い出されます。 今も人気で、スーパーの駅弁大会でもあっという間に売り切れます。 麓には双体道祖神が建てられています。道祖神は、集落の境などに祀られる路傍の神です。全国的に広く分布しているようですが、甲信越地方や関東地方に多いといわれています。古い時代から近世に至るまで、時代によって様々な信仰・宗教と習合した民間信仰です。双体道祖神は、道祖神の中でも古い時代の物とされているようです。 碓氷関所跡。明治に入って廃止されます。 街道から妙義山が霞んで見えます。 翌日その妙義山中間道を歩きました。稜線を歩くのは、ちょっと危険です。 路傍には、「庚申塔」や「二十三夜塔」などが建っています。木曽路や信濃路・上州路では、庚申塔も文字で刻んだ物が多いように感じましたが、武州に入ると像を刻んだものが多くなるように感じました。庚申信仰もいろんなものと習合したのでしょうね。 「二十三夜塔」など月待信仰もいろいろで、街道歩きをしてますと、その地域に広がった民間信仰のありようがわかり面白いですね。月待信仰も、「十三夜」「十五夜」「十六夜」「十九夜」「二十三夜」「二十六夜」などがあるようで、地域的偏りがあるとか。 建物も地域性があることは、信濃路の思い出(雀脅しの棟飾りの載る本棟造り)にも書きましたが、上州路では煙だし越屋根のある建物がいくつか目につきました。これは養蚕と深い関係があるのでしょうね。 その養蚕によってつくりだされる生糸の近代的製糸工場、旧富岡製糸場(重文)も深く印象に残っています。 安中宿にある蔵造りの建物です。棟のどっしりした建て物が印象的です。 その安中にある新島襄ゆかりの安中教会(新島襄記念会堂)です。 縁起だるま発祥の寺、「小林山達磨寺」がありました。張子だるまが所狭しと奉納されています。 大都市高崎を過ぎれば倉賀野宿です。連子格子と深い軒、大きな屋根が重厚な趣きを造り出している、旧脇本陣須賀家です。 そして上・武二州を分ける神流川を渡れば、いよいよ武州に入ります。 この神流川については、英泉描く浮世絵があるのですが、この絵に描かれた常夜燈は、本庄側では商人の寄進により、新町側では専福寺の住職が発起人となって募金を集め建立されたものだったそうです。 この常夜燈の寄進について、当時ここを通りかかり、新町宿に泊まった小林一茶が、『一茶七番日記』に・・・雨の疲れに眠りこんでいると、突然専福寺と染めた提灯を持った男に起こされ、「神流川に燈籠を建てたいので少しでも良いから施主に連なれ」といわれ、「旅人一人ぐらい見逃しても菩薩様も咎めないだろうから勘弁してくれ」と詫びたが、しつこくせがまれ、さながら閻魔さまの前にうずくまるように思え、十二文寄進した。と書き残しています。 手枕や 小言いふても 来る蛍 一茶 大名も、皇女和宮も、そして一茶も英泉も歩いた中山道。歴史を訪ねながらの街道歩きは、本当に楽しいものでした。
- 09Dec
旧中山道歩き・・信濃路の思い出
旧中山道、木曽路・美濃路・近江路を歩き終わり、いよいよ塩尻から東に向かいます。信濃路は、本山宿から軽井沢宿までの15宿です。 旧街道を広域に歩いていると、生活や文化に大きな違いがあることを感じます。食べ物についても地域性を感じますが、建物にもそれを強く感じます。 塩尻宿付近を歩いていると、「本棟造り(ほんむねづくり)」という建物に出会います。長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する建築様式です。切妻造り妻入り、ゆるい屋根勾配が特徴で、屋根には「雀脅し」とも「雀がえし」とも「雀おどり」とも呼ばれる大きな棟飾りがついてます。 古中山道小野宿(三州街道)「小野家」です。ここにも「雀脅し」の棟飾りがのっています。この棟飾りの大きさを競うかのようなところが見受けられ、財力の象徴のようにも見受けられます。うだつに通じるところもあるのでしょうか。 難所の一つ塩尻峠を越えますと、眼下に諏訪湖が広がり感動します。この道を進めば「下諏訪宿」です。 下諏訪といえば甲州街道との分かれ目。甲州街道は甲府を経て日本橋です。その下諏訪には諏訪大社下社が鎮座しています。 下諏訪は諏訪大社の門前町であり、宿場町です。そして温泉町でもあります。その下諏訪温泉で、47℃前後の高温で人気の『旦過の湯』という外湯があります。 諏訪大社下社春宮近くに鎮座する「万治の石仏」です。なんともユニークな石仏です。 さらに旧中山道を進みますと、諏訪大社下社、御柱祭のクライマックス、「木落とし坂」に至ります。御柱祭は斜度35度の急斜面を滑り降りる勇壮なお祭りです。 ここを進めば中山道最大難所の一つ和田峠に至ります。その和田峠も今はトンネルがつくられ、車で行けば簡単に抜けることができます。 和田峠(古峠)は標高1600m。峠には爽やかな風も吹いていましたが、冬季は寒気も強い上に雪深く、冬の和田峠越えは想像を絶するものがあったことでしょう。 和田宿本陣そして 長久保宿 信濃路もひろいです。ここまで来ると浅間山が望めるようになります。そもそも信州は、東日本と西日本の境界、太平洋側と日本海側との境界に位置し、東西南北の文化の接するところで、異質で多様な文化が重層的に積み重なっているのでしょう。 信濃路で目につくのが双体道祖神です。道祖神は木曽路あたりから東でよく見かけたのですが、信濃路に入って双体道祖神が目につきます。この写真の道祖神は、「祝言道祖神」と名付けられています。 追分宿の「別去れ」です。北国街道(善光寺街道)の分岐点です。一般に街道の分岐するところを「追分」というのですが、ここでは「分去れ」と呼んでいます。この道を進めば信濃善光寺に行けるのだと思うと、何かときめきを感じます。 追分宿には、作家堀辰雄がこよなく愛したという石仏があります。小首を傾げたなんとも素朴な石仏ですが、地元の人は「歯痛の石仏」と呼んでいるとか。 「軽井沢銀座」と呼ばれる軽井沢宿です。観光客であふれています。 昭和10年に建てられた「聖パウロ教会」です。軽井沢の人気の場所の一つで、結婚式を挙げる人も多いです。 信濃と上州を分ける碓氷峠。「木曾のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくば良い」と謡われた旧中山道の難所中の難所です。ここを降れば上州です。
- 07Dec
旧中山道歩き・・近江路の思い出
美濃路から国境を越え近江路に入ると、名峰伊吹山が近づきます。伊吹山は薬草の豊富な山です。 その伊吹山の麓「柏原宿」には、伊吹山で採れた艾(もぐさ)を、今も売っている老舗がありました。「伊吹堂:亀屋左京」商店です。 広重の・・『木曽海道六拾九次の内 柏原』・・にも描かれた福助人形が、150年も前から座り続けています。 伊吹山の麓「醒井宿」には、梅花藻が揺れる清流が流れています。 そこはまた、伊吹に住む魔物退治に出かけ、深手を負った日本武尊の歴史の地でもあります。 摺針峠に至ると、望湖亭から琵琶湖が望めます。かっては目の前まで湖が迫っていたようですが、しかし今は埋めたてられ、湖面ははるか向こうです。 近江といえばまさに琵琶湖です。言うまでもなく日本一の淡水湖です。近江の人の暮らしはこの琵琶湖が大きくかかわり、生活も文化も政治も琵琶湖抜きには考えられません。 その摺針峠を一気に降りれば、「鳥居本宿」です。ここから京三条大橋までは比較的平坦な街道です。その鳥居本宿に今も続く薬屋「赤玉教神丸本舗」がありました。 近江といえば「近江商人」が思い浮かびます。蒲生氏郷について松坂へ行動を共にし、成功した三井家の越後屋などの多くの商人も、その源は近江商人にありました。一口に近江商人といっても、五個荘商人、八幡商人、日野商人などと地域名で呼ばれ、取り扱った商品などそれぞれの個性があったようです。・・「売り手よし、買い手よし、そして世間よし」・・という「三方よし」が近江商人の理念だったとか。その豪商たちが造った街並みが色濃く残っています。 近江八幡の八幡堀の風景、近江八幡の繁栄は、琵琶湖の水運とも大きくかかわりました。 その琵琶湖が育んだ「子あゆ」の飴煮です。 中山道は草津宿で東海道と合流します。ですから本来中山道はここまでですが、一般に京三条まで「中山道六拾九次」と呼んでいます。 ・・「瀬田へ廻ろか 矢橋へ下ろか ここが思案のうばがもち」・・と謡われた草津名物「うばがもち」です。家康も芭蕉も広重も蕪村も食べた「姥が餅」です。 ・・「もののふの 矢橋(やばせ)の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」・・と詠まれた瀬田の唐橋です。「急がば廻れ…」の語源となった連歌師宗長の歌です。この橋を渡ると京の香りが強く漂うような思いがしました。 大津宿を過ぎ、日ノ岡峠を一気に下れば蹴上げ、そして京です。 京三条大橋、旧中山道西の終点です。
- 05Dec
旧中山道歩き・・美濃路の思い出
旧中山道木曽路歩きを東に向かって歩き始めたのですが、冬場に向かっていたこともあって(木曽の冬は寒いですからね)、ほぼ同時に旧中山道美濃路を西に向かって歩き始めたのです。いわば落合宿から東西にほぼ同時に歩き始めたということです。 一般に「美濃路」といわれるのは、尾張熱田の宮宿と中山道垂井宿を結ぶ脇往還をさすようですが、ここでいう「美濃路」は旧中山道美濃路のことです。 一口に「美濃」とていっても、中津川・多治見を中心とする「東濃」、関・美濃など長良川中流域の「中濃」、大垣を中心とする「西濃」と、広域にわたっていて、生活も文化も大きな違いがあります。その広域を東西に貫いているのが「旧中山道美濃路」です。美濃路は東濃の落合宿から西濃の今須宿までの16宿です。 旧街道を歩けばうだつの上がる街並みに出会えます。うだつも各地で見かけますが、これも京から街道を経て伝播したものでしょうか。 中津川宿のうだつの上がる造り酒屋です。 中津川といえば「栗きんとん」発祥の地ですね。季節限定のお菓子です。 大湫宿脇本陣保々家・・家紋が浮かび上がる漆喰壁が印象的でした。 ・・木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい・・と謡われた木曽川の太田の渡しです。 太田宿脇本陣(重文)にもうだつがあがっていました。防火というより権威の象徴のように思えます。 美濃といえば斎藤道三、そして織田信長ですね。金華山に聳える岐阜城です。 その岐阜城から眺める長良川です。 旧中山道美濃路は、木曽を源流とする「木曽川」、北濃を源流とする「長良川」、西濃の山間部を源流とする「揖斐川」と三つの大河が流れ、豊かな農地をはぐくむと同時に、たびたびの災害をもたらしてきました。中山道の道筋でも、水との戦いが随所に見られ、堤防のそこここに水神が祀られていました。 美濃路で忘れてならないのが「関ヶ原の戦い」でしょう。この戦いが天下を分けました。 関ヶ原古戦場・・石田三成陣地からの眺めです。 関ヶ原を過ぎればれば「今須宿」。この先は近江の国です。
旧中山道歩き・・木曽路の思い出
木曽や信州は、私の青春の故郷です。独身時代には四季を通じて木曽・信州に遊んだもので、登山やスキー、ドライブと木曽の村々を訪ね歩いたものです。馬籠や妻籠の宿場を観光として訪ねたこともたびたびでした。 その木曽路(旧中山道:落合宿~贄川宿)を、旧街道歩きを目的として歩いたのは、平成18年(2006)の秋、落合宿~馬籠宿~妻籠宿~三留野宿と歩いたのが初めてのことでした。 馬籠宿「但馬屋」 木曽路といえば藤村の 『夜明け前』 です。・・「木曽路はすべて山の中である・・・」で始まる小説の舞台です。まさに木曽路は山の中の道です。そしてその山の中の道は、美しい自然に満ち溢れていました。 大妻籠「つたむらや」 妻籠宿「いこまや」 後ろに聳える中央アルプス。 旧街道は、時代の流れで拡張されたり、新しい道が造られたりして、人の足が遠のき、草木に埋もれて忘れ去られたところもあります。旧中山道は五街道の一つ、江戸と京を結ぶ主要街道でした。この道は、参勤交代の大名行列や、お茶壷道中、皇女和宮が降嫁した道でもあります。峠道を歩いていると、この道を馬を連ね駕籠をかついで通過する光景が目に浮かびます。 鳥居峠の石畳 街道沿いの家並みの美しさも魅力の一つです。出梁造りの民家が連なります。格子が造り出す見事な造形も、京の文化が街道沿いに浸透してきたものでしょうか。 奈良井宿の街並み 奈良井宿の「ゑちごや」 今ではほとんど見かけなくなった木曽路の置き石の家など、地域の文化を見ることができます。 贄川関所跡 木曽路の美味しいものといえば、「蕎麦」と「五平餅」でしょうか。
- 04Dec
中山道・武州路を歩く、のまとめ。
旧中山道を歩いてみようと思い立ったのは、平成18年(2006)の秋のことでした。それは学生時代の友人と木曽路の落合宿~馬籠宿~妻籠宿~三留野宿を歩いたことに始まります。 そのときは単にそれだけのことでしたが、歩く楽しさにさらに目的を加え、住まいから比較的近い、木曽路・美濃路の歴史を訪ねながら、歩き通してみようとの想いに至ったのです。 偶然にも歩き始めたのが、木曽路と美濃路の分かれ目「落合宿」だったこともあって、この落合宿を起点に、東(北)と西にほぼ同時進行で歩き始めました。そして街道沿いの名所・旧跡、歴史などを訪ね、歩きを進めましたが、ある時友人が「どうせ歩くなら、いっそ京都まで、そして江戸まで歩こうぜ‼」との一言で、壮大な計画に至ったのです。 以来、東(北)方面の木曽路を、平成20年(2008)7月12日に終え、東方面は一旦中断し、西方面は美濃路から近江路をへて、京三条大橋に至ったのは、平成21年(2009)4月16日のことでした。この時点で京都三条大橋から「近江路」「美濃路」「木曽路」を通して歩いたことになります。 さて、中断していた東の方ですが、平成21年(2009)6月9日、信濃路塩尻宿から再開し、難関の和田峠・碓氷峠を越え、上州に入ったのは平成21年(2009)9月19日でした。そして新町宿を過ぎ、上州と武州の国境である神流川を渡り武州に入ったのが平成22年(2010)5月13日のことでした。ここから武州路です。 新町宿~本庄宿 7.9キロ 22.05.13 同行者P 本庄宿~深谷宿 10.6キロ 22.05.14 〃 深谷宿~熊谷宿 10.8キロ 22.05.14 〃 22.11.10 熊谷宿~鴻巣宿 16.4キロ 22.11.10 〃 鴻巣宿~桶川宿 7.2キロ 23..08.02 〃 桶川宿~上尾宿 3.7キロ 23.08.02 〃 上尾宿~大宮宿 7.9キロ 23.08.02 〃 大宮宿~浦和宿 5.0キロ 23..08.03 〃 浦和宿~ 蕨宿 5.5キロ 23.10..20 同行者P&S 蕨宿 ~板橋宿 8.9キロ 23.10.20 〃 板橋宿~日本橋 9.8キロ 23.10.21 同行者P 武州路はなだらかな道でした。木曽路や信濃路のような険しい峠道があるわけではありませんが、わが家(愛知県)から遥か遠くなり、歩きはじめるまでのアプローチに大変な時間を要しました。 旧中山道を歩き始めたのが平成18年(2006)10月のことですから、歩き通すのに満5年の歳月がかかりました。もっとも日本一周の旅や、山登りを楽しみながらの中山道歩きでしたから、年月を要したのも致し方ありません。まぁ、それだけ長い間街道歩きを楽しんだともいえるのでしょう。
- 01Dec
江戸日本橋(重文)・・・5年をかけて旧中山道を歩き通しました。
平成18年(2006)秋に、友人と歩き始めた旧中山道歩きも、いよいよエンディングを迎えました。思えば長い道のりでした。もっとも平成14年(2002)に始めた日本一周の旅(こちらは単独行)も同時に進めていたこともあって、5年の年月がかかってしまいました。京都三条大橋から江戸日本橋まで、直線距離にして135里2町、約534㌔です。周辺地域の観光地なども廻っていますので、実際はその5割増し、いや倍近くを歩いていることでしょう。 地元商店街では、「日本橋架橋百年祭」のイベントが行われていました。現在の日本橋が架橋されて100年になるのですね。江戸幕府のおひざ元であった日本橋界隈は、日本経済の中心地として発展します。大正12年(1923)の関東大震災で破壊されますが、その後の復興事業により続々と近代ビルが建設され発展します。日本橋の街が誕生して400年あまり、もちろん江戸時代の街並みを見ることはできませんが、明治から昭和初期に建てられた日本銀行本店・日本橋高島屋など優美な佇まいを見せると同時に、「日本橋再生計画」が進められ、今でも発展し続けています。日本橋地区は伝統と革新が共存する街です。 日本橋三越本店本館です。前身は江戸時代の延宝元年(1673)、三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって創業された呉服店「ゑちごや」です。江戸中に広告を配り・・①店前現銀売り(現金による店頭販売)②現銀掛値無し(正札販売・定価販売)③小裂何程にても売ります(反物販売から切り売り)・・など画期的な商法で人気を得て発展します。同時に両替商を開き、現在の「三井住友銀行」へと発展します。 現在の商号「三越」は、その「三井家」と創業時の「越後屋」からつけられたものだそうです。 この建物は、大正3年(1914)に鉄筋コンクリート造り地上5階地下1階建として建てられ、エスカレーターやエレベーター、暖房換気などの最新設備を備え、採光天井のある壮麗な中央ホールなど大きな話題を呼び、日本における百貨店建築のパイオニアとして称賛を浴びます。昭和2年(1927)に関東大震災による修築に加え増築、外装も現在のルネッサンス様式に一新されます。「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。 正面入り口の上の像は、商業の神・イタリアのキュリー像です。 旧中山道歩き、最終目的地江戸日本橋につきました。ここが最終目的地なのは、日本橋が日本の街道の起点だからです。ここに橋が架けられたのは、徳川家康の命によって慶長8年(1603)架橋のことです。翌年に日本各地につながる五街道(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)の起点として定められたことから、江戸の中心・日本の中心であるとして「日本橋」と呼ばれるようになりました。日本橋が架かる日本橋川は、全国各地から届いた物資を、隅田川から江戸城に運ぶ水路で、橋の周辺は人と物が集まり江戸一番の賑わいを見せ、浮世絵の風景がにも描かれることが多くなります。 江戸城の玄関口として、徳川幕府によって整備されたのが日本橋界隈。京をはじめ各地から集められた一流の職人や商人たちが軒を連ね互いに品質を競いました。江戸時代にこの地に創業した鰹節の「にんべん」や、江戸前の海苔を扱う「山本海苔店」などなど、こだわりの逸品、本物がそろう街です。 その舟運都市として賑わう江戸時代の日本橋を描いた錦絵『東京名所画帳ー江都日本橋之圖ー』です。 現在の橋は、明治44年(1911)に架けられた20代目の橋です。今年100周年を迎えました。 石造二連アーチ橋で、橋長49m、幅27m、です。設計は米本晋一、装飾様式妻木頼黄、装飾制作渡辺長男。平成11年(1999)重要文化財に指定されました。 日本橋親柱の獅子装飾像は、東京市の守護を願い・・・ 日本橋中央の麒麟装飾像は、東京市の繁栄を願って作られたとか。 日本橋が日本各地につながる道路の起点であることは先に書きましたが、その日本橋の中心に埋め込まれているのが「日本国道路元標」です。昭和42年に埋め込まれたもので、裏面には当時の総理大臣佐藤栄作の名が刻まれているそうです。もっとも交通量が激しく現物を見ることはできませんが、レプリカが展示されていました。日本国道路元標(レプリカ)に並んで建っているのが、「東京市道路元標」です。元々は日本橋の中央に建っていて、都電の架線柱として使用されていました。都電廃止に伴い移されたものです。その跡に埋め込まれたのが上記のプレートです。 英泉描く 「木曾街道続ノ壹 日本橋雪之曙」です。中央唐傘の「池仲」「伊勢利」は、あとを引き継いだ版元。最初は『東海道五十三次』を企画した版元の一つ「霊厳島」「竹内」が版元だったそうです。 ここは日本橋魚市場発祥の地でもあります。江戸地中で消費される鮮魚や塩干物が荷揚げされる魚河岸がありました。ここで開かれた魚市は、一日に千両の取引があったとも伝えられます。大正12年の関東大震災後に築地に移り、東京中央卸売市場へと発展します。 日本橋の飾り電灯にも灯が入りました。長い月日をかけた私達の旧中山道歩きも、終わりの時が来ました。風光を楽しみ、歴史を楽しみ、歩く楽しみを堪能した5年間でした。 2011.10.21

















