平成18年(2006)秋に、友人と歩き始めた旧中山道歩きも、いよいよエンディングを迎えました。思えば長い道のりでした。もっとも平成14年(2002)に始めた日本一周の旅(こちらは単独行)も同時に進めていたこともあって、5年の年月がかかってしまいました。京都三条大橋から江戸日本橋まで、直線距離にして135里2町、約534㌔です。周辺地域の観光地なども廻っていますので、実際はその5割増し、いや倍近くを歩いていることでしょう。
 
 
 
 地元商店街では、「日本橋架橋百年祭」のイベントが行われていました。現在の日本橋が架橋されて100年になるのですね。江戸幕府のおひざ元であった日本橋界隈は、日本経済の中心地として発展します。大正12年(1923)の関東大震災で破壊されますが、その後の復興事業により続々と近代ビルが建設され発展します。日本橋の街が誕生して400年あまり、もちろん江戸時代の街並みを見ることはできませんが、明治から昭和初期に建てられた日本銀行本店・日本橋高島屋など優美な佇まいを見せると同時に、「日本橋再生計画」が進められ、今でも発展し続けています。日本橋地区は伝統と革新が共存する街です。
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 日本橋三越本店本館です。前身は江戸時代の延宝元年(1673)、三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって創業された呉服店「ゑちごや」です。江戸中に広告を配り・・①店前現銀売り(現金による店頭販売)②現銀掛値無し(正札販売・定価販売)③小裂何程にても売ります(反物販売から切り売り)・・など画期的な商法で人気を得て発展します。同時に両替商を開き、現在の「三井住友銀行」へと発展します。
 現在の商号「三越」は、その「三井家」と創業時の「越後屋」からつけられたものだそうです。
  
 この建物は、大正3年(1914)に鉄筋コンクリート造り地上5階地下1階建として建てられ、エスカレーターやエレベーター、暖房換気などの最新設備を備え、採光天井のある壮麗な中央ホールなど大きな話題を呼び、日本における百貨店建築のパイオニアとして称賛を浴びます。昭和2年(1927)に関東大震災による修築に加え増築、外装も現在のルネッサンス様式に一新されます。「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。
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 正面入り口の上の像は、商業の神・イタリアのキュリー像です。
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 旧中山道歩き、最終目的地江戸日本橋につきました。ここが最終目的地なのは、日本橋が日本の街道の起点だからです。ここに橋が架けられたのは、徳川家康の命によって慶長8年(1603)架橋のことです。翌年に日本各地につながる五街道(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)の起点として定められたことから、江戸の中心・日本の中心であるとして「日本橋」と呼ばれるようになりました。日本橋が架かる日本橋川は、全国各地から届いた物資を、隅田川から江戸城に運ぶ水路で、橋の周辺は人と物が集まり江戸一番の賑わいを見せ、浮世絵の風景がにも描かれることが多くなります。
 江戸城の玄関口として、徳川幕府によって整備されたのが日本橋界隈。京をはじめ各地から集められた一流の職人や商人たちが軒を連ね互いに品質を競いました。江戸時代にこの地に創業した鰹節の「にんべん」や、江戸前の海苔を扱う「山本海苔店」などなど、こだわりの逸品、本物がそろう街です。
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 その舟運都市として賑わう江戸時代の日本橋を描いた錦絵『東京名所画帳ー江都日本橋之圖ー』です。
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 現在の橋は、明治44年(1911)に架けられた20代目の橋です。今年100周年を迎えました。
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 石造二連アーチ橋で、橋長49m、幅27m、です。設計は米本晋一、装飾様式妻木頼黄、装飾制作渡辺長男。平成11年(1999)重要文化財に指定されました。
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 日本橋親柱の獅子装飾像は、東京市の守護を願い・・・
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 日本橋中央の麒麟装飾像は、東京市の繁栄を願って作られたとか。
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 日本橋が日本各地につながる道路の起点であることは先に書きましたが、その日本橋の中心に埋め込まれているのが「日本国道路元標」です。昭和42年に埋め込まれたもので、裏面には当時の総理大臣佐藤栄作の名が刻まれているそうです。もっとも交通量が激しく現物を見ることはできませんが、レプリカが展示されていました。
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日本国道路元標(レプリカ)に並んで建っているのが、「東京市道路元標」です。元々は日本橋の中央に建っていて、都電の架線柱として使用されていました。都電廃止に伴い移されたものです。その跡に埋め込まれたのが上記のプレートです。
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 英泉描く 「木曾街道続ノ壹 日本橋雪之曙」です。中央唐傘の「池仲」「伊勢利」は、あとを引き継いだ版元。最初は『東海道五十三次』を企画した版元の一つ「霊厳島」「竹内」が版元だったそうです。 
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 ここは日本橋魚市場発祥の地でもあります。江戸地中で消費される鮮魚や塩干物が荷揚げされる魚河岸がありました。ここで開かれた魚市は、一日に千両の取引があったとも伝えられます。大正12年の関東大震災後に築地に移り、東京中央卸売市場へと発展します。
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 日本橋の飾り電灯にも灯が入りました。長い月日をかけた私達の旧中山道歩きも、終わりの時が来ました。風光を楽しみ、歴史を楽しみ、歩く楽しみを堪能した5年間でした。
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                                                            2011.10.21