旧中山道の難所、そして日本武尊ゆかりの地でもある碓氷峠を降り、東(あずま)に入ります。東(あずま)というようになったのは、『日本書紀・巻第七』によれば、東国を平定凱旋の帰途、碓氷峠から遠くの海を眺め、亡き妻を偲び、「吾嬬者耶(あずまはや…あぁ!我が妻よ)」と嘆いたといいます。このことから東国をさして「あずま」というようになったとか。もっとも『古事記』によれば、碓氷の嶺ではなく、足柄の坂としています。
 
 東の国、旧中山道上州路は、坂本宿から新町宿までの7宿です。
 
 
 
 碓氷峠からどんどん降りますと、「覗(のぞき)」と呼ばれる展望のいいところがあり、麓の坂本宿が一望のもとに見降ろせます。
 
        坂本や 袂の下の 夕ひばり       小林一茶
 
イメージ 1
 
 
 碓氷峠といえば信越本線の難所中の難所でした。今は廃線となりましたが、残ったトンネルなどが往時を偲ばせます。
イメージ 2
 
 
 「碓氷峠鉄道文化村」には、信越本線時代に活躍した列車が保管・展示されていました。
イメージ 8
 
 
 その横川駅といえば、名物「峠の釜めし」が思い出されます。
イメージ 9
 
 
 今も人気で、スーパーの駅弁大会でもあっという間に売り切れます。
イメージ 10
 
 
 
 麓には双体道祖神が建てられています。道祖神は、集落の境などに祀られる路傍の神です。全国的に広く分布しているようですが、甲信越地方や関東地方に多いといわれています。古い時代から近世に至るまで、時代によって様々な信仰・宗教と習合した民間信仰です。双体道祖神は、道祖神の中でも古い時代の物とされているようです。
イメージ 7
 
 
 碓氷関所跡。明治に入って廃止されます。
イメージ 11
 
 
 
 街道から妙義山が霞んで見えます。                                                       
イメージ 17
 
 
 翌日その妙義山中間道を歩きました。稜線を歩くのは、ちょっと危険です。
イメージ 18
 
 
 路傍には、「庚申塔」や「二十三夜塔」などが建っています。木曽路や信濃路・上州路では、庚申塔も文字で刻んだ物が多いように感じましたが、武州に入ると像を刻んだものが多くなるように感じました。庚申信仰もいろんなものと習合したのでしょうね。
 
 「二十三夜塔」など月待信仰もいろいろで、街道歩きをしてますと、その地域に広がった民間信仰のありようがわかり面白いですね。月待信仰も、「十三夜」「十五夜」「十六夜」「十九夜」「二十三夜」「二十六夜」などがあるようで、地域的偏りがあるとか。
イメージ 12
 
 
 
 建物も地域性があることは、信濃路の思い出(雀脅しの棟飾りの載る本棟造り)にも書きましたが、上州路では煙だし越屋根のある建物がいくつか目につきました。これは養蚕と深い関係があるのでしょうね。
イメージ 13
 
 
 その養蚕によってつくりだされる生糸の近代的製糸工場、旧富岡製糸場(重文)も深く印象に残っています。 
イメージ 14
 
 
 安中宿にある蔵造りの建物です。棟のどっしりした建て物が印象的です。
イメージ 3
 
 その安中にある新島襄ゆかりの安中教会(新島襄記念会堂)です。 
イメージ 4
 
 
 縁起だるま発祥の寺、「小林山達磨寺」がありました。張子だるまが所狭しと奉納されています。
イメージ 5
 
 
 
 大都市高崎を過ぎれば倉賀野宿です。連子格子と深い軒、大きな屋根が重厚な趣きを造り出している、旧脇本陣須賀家です。
イメージ 6
 
 
 そして上・武二州を分ける神流川を渡れば、いよいよ武州に入ります。
イメージ 15
 
 この神流川については、英泉描く浮世絵があるのですが、この絵に描かれた常夜燈は、本庄側では商人の寄進により、新町側では専福寺の住職が発起人となって募金を集め建立されたものだったそうです。
 
 この常夜燈の寄進について、当時ここを通りかかり、新町宿に泊まった小林一茶が、『一茶七番日記』に・・・雨の疲れに眠りこんでいると、突然専福寺と染めた提灯を持った男に起こされ、「神流川に燈籠を建てたいので少しでも良いから施主に連なれ」といわれ、「旅人一人ぐらい見逃しても菩薩様も咎めないだろうから勘弁してくれ」と詫びたが、しつこくせがまれ、さながら閻魔さまの前にうずくまるように思え、十二文寄進した。と書き残しています。
 
     手枕や 小言いふても 来る蛍     一茶                   
 
                  
イメージ 16
 
 大名も、皇女和宮も、そして一茶も英泉も歩いた中山道。歴史を訪ねながらの街道歩きは、本当に楽しいものでした。