板橋宿から日本橋へ⑭・・・神田川(昌平橋・万世橋)
神田明神の参詣を終え、旧中山道を進みます。といっても旧街道の面影はなく、拡幅された国道17号線を日本橋目指して進みます。 長かった旧中山道歩きもあとわずかとなりました。陽が陰ってきましたので先を急ぎます。 神田川にかかる昌平橋(しょうへいばし)です。ここに橋が架けられたのは、寛永年間と伝えられ、そのころは「相生橋」と呼ばれていたようですが、元禄4年(1691)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂(先に記事にしました)を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで「昌平橋」と改名されました。 この周辺は、かって「神田旅籠町」と呼ばれていました。というのも江戸幕府は、五街道の中でも京に通じる東海道と中山道の整備に力を注ぎ、その中山道と将軍が日光参拝の際必ず通った日光御成街道の街道筋として、旅籠が数多く建ち並んでいました。そんなことから「旅籠町」と呼ばれていたと伝えられます。 しかし、天和2年(1682)に発生した江戸の大火(浄瑠璃や歌舞伎で有名な八百屋お七の大火)により焼失します。そんなこともあって幕末のころには、旅籠はほとんど姿を消し、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増え、活気あふれる商人の町として発展します。 現在の橋は、昭和3年(1928)に架け替えられたものです。 昌平橋の下流に架かる万世橋(まんせいばし)です。万世橋の歴史は、延宝4年(1676)に架けられた筋違橋に遡ります。この筋違橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋でした。明治6年に架け替えられた時、「萬世橋:よろずばし」と命名されたのですが、次第に「まんせいばし」と音読みされるようになったそうです。 現在の橋は、大正12年(1923)の関東大震災後の昭和5年(1930)に架け替えられたものです。 万世橋を渡り、中央道通りを真っ直ぐ進めば日本橋です。町並みにも灯が入りました。 日本橋ももうすぐです。 2011.10.21