上の家
℡)0558-85-1056
往訪日:2024年1月19日・20日
所在地:静岡県伊豆市湯ヶ島176‐2
開館時間:10時~15時(毎月第1・第3土日のみ公開)
協力金:400円
アクセス:東名高速・沼津ICから約40分
駐車場:なし(天城会館を利用)
《小説「しろばんば」の舞台》
ひつぞうです。作家・井上靖のゆかりの場所を訪ねる旅の続きです。まずは長泉町の井上靖文学館から。とは言っても撮影NGなので備忘録中心で。
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井上靖の小説で読んだものといえば『しろばんば』『あすなろ物語』『天平の甍』『氷壁』。そして少年小説と歴史小説の短篇群。圧倒的に未読の作品が多い。良い読者とはいえないが、その生涯を追ってみることにした。
井上靖文学館の開館は1973年。66歳を迎え『額田王』『後白河院』など円熟期の歴史長編を刊行した頃。当時の文学界の重鎮だった。
井上靖(1907‐1991)。旭川生まれ、伊豆育ちの小説家。京都帝大哲学科卒。大阪毎日新聞の美術担当記者を経て短篇『闘牛』で芥川賞受賞。現代物の中間小説から、中国や日本の歴史に材を取ったスケールの大きな作品を多数発表。戦後を代表する作家としてノーベル文学賞候補にもなった。
小説『しろばんば』のなかに、洪作がおぬい婆さんと一緒に、父母が暮らす豊橋に向かう汽車に乗る場面がある。その旧三島駅が今の現御殿場線、下土狩駅(長泉町)なのだ。縁といえば縁かな。
「駅が変わったのきゃ」
文学館除幕式の様子。植樹も若くて建物が巨大に見える。先生自身、何度も足を運ばれた。この日の企画展は《わたしを変えた井上靖のことば》。
美術記者だけあって加山又造、平山郁夫、舟越保武など一流の芸術家と親交があり、著書の装幀などにも関わりをみることができる。意外だったのは建築家・村野藤吾との接点。村野が設計した新高輪プリンスホテルの宴会場《飛天の間》は井上の命名らしい。
彫刻家・舟越保武は新聞連載小説『流砂』の挿絵を担当している。慣れない連載の仕事は苦労が絶えなかった。だが「カットのようなものでもよい」という井上のアドバイスに従って“いつも描いているようにほとんど女の顔ばかり描きました”という舟越の言葉には愉しんでいる口振りを感じる。最後は“木炭で描きましたのでだんだん木炭の使い方に馴れて来て巧くなりました”と茶目っ気も。羨むべき関係だ。
だが、一番心を打たれたのは、先日物故された小澤征爾さんとのやりとり。
1959年の秋。パリのブザンソン指揮者コンクールで一位に輝いた小澤は、端正なその顔を憂鬱で曇らせていた。その日、毎日新聞パリ支局長の角田氏の計らいで、外遊中の井上を紹介されながら、幾ら一位になったからといって仕事もカネもないのですと、初対面の大作家にいきなり愚痴をこぼした。
(1963年当時の小澤さん)
“コンクールに受かっても仕事は来ないし、音楽関係の友人も無し、どうもだめだから日本に帰って何か仕事を探したい”とすっかりしょげていた。すると井上は“しばらく私の顔を眺めながら例のゆっくりした、だが、強い調子で「文学者は外国人に読んでもらうためには、どうしても翻訳が必要だ。音楽の場合は自分の勉強したことがどの国の人にでもすぐ通用する。こんな素晴らしいことはない。君のような音楽家が羨ましい」”と云った。
それは偽らざる本音だった。小澤のその後の活躍は今更語るまでもない。だが、もし井上との奇蹟の対面と励ましがなかったら、あの意思堅固な小澤のことだ。本当に仕事を変えていたかもしれない。
僕らが高校生の頃、ノーベル文学賞に一番近い日本人作家と言われたのは安部公房と井上靖だった。1981年に有力候補だと報道されると、大勢のカメラマンが世田谷の自邸に押し掛けた。しかし、受賞に至らず。すると酒豪で“横綱”の綽名のあった井上は「今夜は無礼講。ノーメル賞だ」といって、取って置きのブランデーをふるまったという。
「御相伴にあずかりたい」
関係ないでしょ。おサルは。
だが、2020年に「スウェーデンアカデミー内で1969年の候補にあがっていた」事実が明らかになった。この年の受賞者は不条理劇の第一人者S・ベケット。だが、井上が受賞に至らなかったのは作風云々よりも本人が憂えたように翻訳語の絶対的不足にあったと思う。
その後もモンブランのマイスターシュトック149や(川端も愛用した)満寿屋の銘なし原稿用紙など遺品を見て回る。井上靖がいない時代に生きていることに、遠く取り残されてしまったような孤独を感じた。このあと長泉から湯ヶ島に移動した。
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井上靖資料室(市民活動センター内)
℡)0558-85-1056
往訪日:2024年1月19日
所在地:静岡県伊豆市湯ヶ島117-2
開館時間:10時~15時
観覧料:無料
アクセス:東名高速・沼津ICから約40分
駐車場:あり
湯ヶ島の市民活動センターに資料室があると聞いて訪ねてみることに。
小説の舞台になった旧湯ヶ島小学校は少子化で廃校になっていた。
今は地域の交流センター、主に図書館として利用されていた。
その二階の奥が資料室になっている。
部屋の一隅に世田谷の家が再現されていた。ちなみに本物は旭川の記念館に移築されている。
通知表(複製)も展示されていた。図画、教練も含めてオール甲。旧制中学受験に苦労する場面が小説にもでてくるが、実際は浜松中学には首席で入学。その後、第四高等学校に進み、柔道と詩に明け暮れ、勉学そっちのけだったらしい。
「うちのパパリンも柔道一直線だった」
それでも九州帝大文学部に進学。しかし、どうも九大は好きになれなくて、京都帝大に移籍している。スタッフに「京大に入るくらいだから優秀だったんですね」と訊くと「この時代は無試験で移籍できたんですよ。あんまり勉強はできなかったといいます」と、屈託なく上から目線で断じたのには恐れ入った。それではまるで九大の学生はアホみたいである。
これはふみ夫人愛用の文机。貴重な品だが、遺族には寄贈が最善の策なのだろう。15年以上前だった。名古屋で城山三郎の記念講演に参加した。そこでは本人の蔵書を自由に手に取ることができた。多くの書き込みや付箋があって一級の資料といえたが、皆雑扱うからボロボロ。しかし、パネラーの次女・紀子さんは気にしていなかった。それでいいのかも知れない。
「モノは大事にするものではなくて使うもの」
ですな。
ふみ夫人の父、足立文太郎氏も高名な医学者だった。
名作『しろばんば』は雑誌「主婦の友」に連載された。そのためだろうか。文学的に凝った表現は少なく、平易な文体で書かれている(逆にエピソードをスピンアウトした短篇小説の方が香気豊かである)。
「結構長い小説だよにゃ」
挿絵は小磯良平。表紙にも注目してほしい。この独特の色気に満ちた女性。そう。間違いなく宮永岳彦である。本業の油彩よりも挿絵やカット画で比類ない才能を示した(と個人的に思う)。鉄道ファンには小田急ロマンスカーのカラーリングでおなじみだ。
連載開始前に小磯画伯ともども湯ヶ島の生家、上の家(かみのいえ)を井上は訪ねていた。
その上の家に向かう。地域交流センターからは歩ける距離だ。
実はここ、第1第3土曜・日曜だけの限定公開。この日は金曜。当然閉まっていた。翌日は雨の予報だったので周辺の散策だけ先に済ませることにした。
「閑なやつだのー」
1873(明治6)年頃に井上の曾祖父・潔が建て、その後、祖父・文次が呉服店を営んでいたそうだ。
玄関までは入っていいのかな。ボランティアが管理・運営しているんだよね。
庭も奇麗に剪定されている。と、この時だった。
隣家の二階から僕の姿を捉えたらしく、大柄な老爺が家人に向かって大声で喋っている。どうやら不審者と見做されたらしい。間もなく写真を撮っているだけだと理解したようだが、タイミングを見計らったかのように「見慣れない人から子供たちを守りましょう」と役場の場外放送が流れ始めた。
「通報されたね」
やはり小さな集落での誤解を招く行動は慎もう。
「そりゃあんたが悪い」
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ということで翌日。温泉宿を後にして定刻の10時に再訪した。優しそうな女性スタッフが迎え入れてくれた。寄付金の400円を納めると「間もなく案内してくれる方が来ますので」といい、すぐにその人物が雨に濡れた袖を振るいながら、勝手口から入ってきた。昨日の御仁だった。だが、僕があの“犯人”とは気づいていないようで意気揚々案内してくれた。
「『しろばんば』読んだことある?」
「ないです」 キッパリ!
「いい作品だから読んで」と云いつつも、文学全体に造詣が深い訳ではないらしい。むしろあまり興味はない。そんな感じだが悪い人ではない。
実はここ、案内者のお母さんが近年まで暮らしていた。しかし、築150年が経過。表の漆喰は剥がれ、大黒柱も朽ちるありさま。後世に残そうとクラウドが立ち上げられ、2021年度に改修工事を終えた。手前の土間に談話室が新たに増築されて、市民と訪問者の交流の場になっている。
小説『しろばんば』は井上靖の自伝小説で、旧制中学入学までの少年時代を扱っている。軍医である靖(小説では洪作)の父は転勤が多く、また小さな妹もいたため、靖は母の実家(上の家)の近くの土蔵に住む(曾祖父のお妾だった)かの婆さんに預けられる。このあたりやや複雑。つまり登場人物は母系の一族が主体。なのに靖だけが死んだ曾祖父のお妾と一緒に暮らしているのだ。
井上家は名家だった。だから家もひと際立派だったそうだ。引き出しの片方が短い。奥に隠し物ができる仕組み。
以下、井上靖の係累相関図。
井上家の骨相は祖母たつから受け継がれていることが判る。若くして結核でなくなる叔母のまちは確かに美しい。ちなみに母やゑは兄弟が多かったので、一番下の妹は息子の靖と同学年だった。昔の大家族ではこんなことは普通だったね。案内者は井上家の末裔らしい。とりあえずQさんとでもしておこう。
こちらは井上靖の家族を中心に。
この後Qさんが二階に案内してくれた。
病気で床に伏した洪作少年が、担がれていくおぬい婆さんの棺を見送った窓だ。
このQさん。後から訪れた男性を放置して、われわれ(というよりおサル)だけに熱心に説明してくれるが、いいのだろうか。ありがたいが、なんか気が退ける。
上の家周辺には『しろばんば』ゆかりの寺や営林署跡がある。
その営林署の跡はしろばんばの里公園に整備されていた。Qさんいわく「行政ももう少し頭を使やあええのに。こんなもの造っても子供がおらんでは何の意味もない」。口は悪いが的を射た発言である。小説の中では転勤族の営林署長の娘への洪作少年の淡い恋心が描かれる。
(前日に)土蔵があった場所にも行ってみた。
文学碑があるだけなのだが。
他には冬枯れた花壇があるだけ。勿論土蔵は跡形もない。右端に小説の中に出てくる柘榴がいまも枝を伸ばしていた。
(話は戻って)上の家見学のあと。まあお茶でもとボランティアが誘ってくれるので甘えることにした。するとQさんも当たり前のように一緒に腰を下ろした。他の客の案内はいいのだろうか。それとも爺さんは爺さんが嫌いなのだろうか。
「近くに親戚の方はいるんですかにゃ」
おサルが気を使って質問する。長いこと他県で映写技師をしていたそうで、老いた御母堂を世話するために帰郷したという。「近くに遠い親戚がおるが口もきかん」とQさん、相変わらず毒を吐く。話を続けづらい。
「ご家族は?」
外国人の彼氏がどうにも許せない。そういって音信不通の娘の愚痴をこぼす。聞かされる僕らも一緒になって肩を落とす。こんな話、初対面の観光客にしていいのか…。ちょっと面白いけど。
「日記に書くキミもどうかと思う」
と思いきや(日常の光景なのだろう)他のスタッフは気兼ねする様子もなく、栗原小巻さんの講演会もあるのでまたきてくださいと笑顔で云う。その週はちょうど大阪だ。そんな会話をしているうちに、蚊帳の外のQさんは僕らに興味を失ったらしい。小説の登場人物のようなQさんとのやり取りが強く印象に残った湯ヶ島文学散歩だった。
「次は温泉!」
(旅は続く)
ご訪問ありがとうございます。