前回のブログ『新年のご挨拶と共に 鏡餅と霧島連山と矢立と世界最古の稲作と・・』より
続きます。

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
郷土の方々が、そして故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております
 

 

この2年近くで、私達は様々な事を学びました

さらに、2年前と違うのは、飲み薬や抗体カクテル等の治療薬が今はあります。

 

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

負けんばい!!

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

1月8日は、亡くなった私の伯父(父の兄)の命日でした。

伯父は、昭和22年の1月8日に、わずか10歳で天に召されました。

 

私の祖父が32歳の若さで亡くなった後

宮原家の長男として、弟達の面倒を見て、祖母を助けていた伯父ですが

正月飾り用の何か?を取ろうとしたのか・・

竹藪に入り、切られていた竹の腐った切り口が足にささり

破傷風により亡くなりました

 

もしも、医学が発達した今であれば、破傷風ワクチンも接種していたでしょうに

すぐに、病院で処置を受ける事が出来たでしょうに

助かる命であったと思います

 

だからこそ、私は、医学の進歩に敬服するのです

 

仏壇には、戦後すぐで、食べられなかったであろう、お菓子を沢山

そして、大人になられたら、きっと飲まれていたであろうビールをお供えしました

 

私は仏壇に手を合わせながら

いたらない姪ですが、お父さんを支え、主人と一緒に宮原家を守ってまいります

と伯父にお伝えしました

 

 

💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐💐

 

 

 

今回のタイトルは

今、強く感じる事と、新春の球磨盆地と旧久米村

 

 

新しい年を迎えて、若輩者の私ですが、強く感じる事を今年の初めに

書かせて頂こうと思います <m(__)m>

 

次回は、

家の氏神神社「岡原霧島神社」と戦艦球磨の艦内神社
さらに、久米族と久米物部氏について等

かなり深いお話を書きます

 

その為の序文だとお考え下さい。

 

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

Fearless Motivation - Principles (Epic Music)

 

 

 

 

1.初めに

皇紀について、僭越ながら、私の考えをあらためて書かせて頂こうと思います

 

今年は

西暦2022年であり

 

皇紀2682年であります

 

とても、ありがたい事ですが、私のブログを続けてお読み頂いている方々は

ご記憶にあられるかもしれません。

何せ毎回文章が長いので・・目に止まらなかった・・

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが・・

 

 

㉘保存版(番外編)元気の秘密と球磨の三善、久米の聖観音菩薩様

を書かせて頂いた時の事です

※もし、未だお読みではいらっしゃらない御方は、お時間があられる時にでも御覧になられて下さい。

以下に私が書く事が理解出来ない・・とおっしゃる方も、ぜひ、あらためてお読み頂きたいと

お願い申し上げます。

 

 

 

 

球磨に残る三善地名の記述から・・

弘安6年7月3日の関東下知状案(平河文書/県史料中世3)によると,

 

広元(大江)の預所補任は建久3年8月であり,その時の下文には

「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」

「永吉〈于時三善〉并西村可為預(衍カ)預職云々」とあったと見え,

 

当荘は三善とも呼称されていたことが知られる

 

ここから

陰陽天文に明るい(精通した)、革命勘文・辛酉改元の端緒を開かれた

三善清行公 について勉強させて頂き・・

 

 

神武天皇即位紀元について

三善清行公は

革命勘文の中で神武天皇の即位が辛酉の年であったことにも言及している

事を学ばせて頂き・・

 

そして・・私が強く感じた事はとは

 

神武天皇即位紀元

日本国が安泰であり続ける為には、神武天皇さまのご即位紀元はとても大切な事だと

強く感じます。

 

 

神武天皇さまのご即位紀元は

考古学的なお話とは切り離して考えなければならない・・!

強く感じます。

 

 

日本国が安泰であり続ける為には

日本国にとって とても大切な事!です

 

強く感じます。

 

と・・・

㉘保存版(番外編)元気の秘密と球磨の三善、久米の聖観音菩薩様

の中で書かせて頂きました。

 

今でも、その気持ちは より増しています。

 

 

 

 

その理由は・・

 

2.日本の正史をもっと真摯に紐解きたい

 

記紀を編纂なさった御方々を、現代人は侮られて(あなどられて)いると思います

 

現代のように、インターネットにより、膨大な情報を得る事が出来る時代では無かった

奈良時代に、膨大な書物を読まれ、日本各地の伝承を集め

そして、海外の史書も熟読なされ、そして、記紀完成後、200年程後の

陰陽天文に明るい(精通した)三善清行公をも納得なさる陰陽天文に精通した方々

記紀編纂を行われた方々なのです

 

だからこそ

神武天皇さまのご即位紀元は

日本国が安泰であり続ける為には、神武天皇さまのご即位紀元はとても大切な事だと

強く感じます。

 

 

今年は

西暦2022年であり

 

皇紀2682年であります

 

日本国が安泰であり続ける為には

日本国にとって とても大切な事!です

 

 

 

さらに記紀は

海外にも向けた書物である事を忘れてはいけません。

 

海外に向けた内容をそのまま理解してしまい、全否定なさる事は

国内に向けた、今で言う所のヒントが全く見えていない・・と若輩者の私は感じます

 

国内に向けたヒントを紐解く事により、「真実」が見えるように、作られた記紀 

だと私は強く感じます

 

 

球磨、この地に居ると、その事を強く感じる、理解する事が出来るのです

 

記紀に記されたヒント・・例えば 

彦火火出見尊 さま

 

日本書紀では彦火火出見尊さまのご年代が500年続いた

との内容が記されています

 

私は、500年間の間に彦火火出見尊 と名を代々受け継がれた方々が

何名もいらっしゃった

と若輩者ですが受け止めております

 

 

記紀に記されたヒント・・例えば、

弥生時代後半を例にすると

 

「討たれた」と書かれた方々の多くは

「その地に、当時、こういう力を持った人達が住んでいましたよ」という意であり、

「討った」と書く事は海外に向けた言葉・・

 

「討った」と書かれた方々の後裔の人達の同意の上・・

義の上で成り立っている事

 

 

日本全国に記紀完成後、「その方々」の伝承が記紀に基づいて残っているのでは・・?

 

日本全国、各地に、

縄文時代から弥生時代、そして古墳時代にかけて、

素晴らしい遺跡の数々が現在も残っている事が、その証拠では・・

 

もしも、討たれたのであれば、素晴らしい遺跡の数々は、おそらく残されていない・・

と私は考えます

 

もちろん 球磨も同様です

 

後漢書、さらに魏志東夷伝『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条、、北宋版『通典』、等を原文で熟読なさった方々が、古事記や日本書紀の原文を熟読なされば、きっと一目瞭然であろう・・と思います

 

西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた倭(委)奴国や

後漢書 『 倭面土國王師升』

『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条 『倭面上國王帥升』

北宋版「通典」 『倭面土國王師升』

と記された

西暦107年に後漢に朝貢した師升

 

 

例えば「師升」この方が一体どこにおられたのか

古事記や日本書紀の原文と年代を照らし合わせて熟読なされば、一目瞭然なのです

しっかりと、地域を限定して記されています

 

 

後漢書や魏志東夷伝に描かれた

倭人の方々の生活や風景、地形、そして風習、家並み、服装、家の造り等

 

古事記や日本書紀の原文と年代を照らし合わせて熟読なされば、一目瞭然なのです

しっかりと、地域を限定して記されています

 

 

多くの方々が目をそらしていらっしゃるように

私は感じます・・

 

※ど素人の私なりに、詳しく検証した結果は「いつか必ず」書かせて頂きます。

 

 

 

日本が統一されるにあたって

私は、数え切れない倭族同士の衝突があったとは考えられません

 

何故なら、この国は、

北から南、東から西、全て

遠い古、超古代から

神様を崇拝なさる

崇高な民族が住まわれる

世界最古の高度な製法で作られた石器や

世界最古の土器を作られる

崇高な民族が住まわれた土地

だからです

 

 

例えば

縄文時代を生きた人達と、水稲稲作を持ち込んだ方々との衝突など殆ど無かった・・

球磨がそれを証明しています

 

球磨の昔話 何度もご紹介致しました。

 

球磨の小纚川(こさで川)流域の田代村の昔話

 

1992年 人吉市政50周年事業実行委員会様 発行 

『九州相良 むかしがたり』 より 97ページ 

 

お龍っつあん

 

昔々、ず~っと遠いその昔、人が未ぁだ米作りをば知らんじゃったその昔の事じゃったげな。

 

お龍っつあんな此の田代村の人達に稲作りば教えぎゃあ来ないたとげな。

 

今日も村の人達ば連れて、龍の前で水田作りに精出して、何時も同ン処に来てよけまんばしをんないたげな。(※ よけまん = 休憩。おやつ)

 

そっで近頃まで、お龍っつあんのよけないた処ちゅうて塚が残って居り、「モミ」の古木が生えて居った。

 

その開拓の神様が何時の間にか、水神様やら蛇の神様にきゃあしなったとにゃあ色々事情もあって、こぎゃんこともあったげな。(※きゃあしなった=そうなってしまった)

 

・・・以下物語は続きます<m(__)m>

 

以上 『九州相良 むかしがたり』 より 97ページ 

 

 

昔々、ず~っと遠いその昔、

人が未ぁだ米作りをば知らんじゃったその昔の事じゃったげな。

 

お龍っつあんな此の田代村の人達に稲作りば教えぎゃあ来ないたとげな。

 

 

古代、田代村の人達のご先祖様方は

 

お龍っつあんから稲作りを教えてもらいながら

 

一緒に休憩して和気あいあいと過ごしていたのです

 

お龍っつあん御一行も、一生懸命に稲作りを教えて下さった

 

これが球磨の昔話です!

 

人と人の心の触れ合い

暖かく思い相う心

 

 

どこに敵対したと言った

俗世にまみれた言葉が見えますか!?

 

 

(独り言)

最近・・歴史、特に日本の古代に関する言葉

その他

ネット上や書籍等でよく目にする

勝者の歴史

滅ぼされたものの悲哀

敵対・・

対立・・

 

そういう言葉を発する方々の中に

一部の海外の人達の心根を見るようで

一部の海外の人達の心根(邪心)が

その人達の心の中に知らず知らずの間に

こっそりと入りこんでいるようで・・

 

本当は

うんざりしています

 

 

崇高な心を持ち続けた日本の人達が

何千年も妬みや嫉みで生きていた

と思われているのだろうか・・?

 

本当は

うんざりしています

(独り言でした・・)

 

 

それから・・

熊曽国 = 球磨曽於国・・

 

あくまでもど素人の私の考えですが

熊曽国が日向(ひむか)であったのでしょう・・

だから、

現在の西都市、そして

諸縣、夷守(小林)、熊縣と続けて記されていたのではないのでしょうか・・

 

 

書かれているではありませんか・・

ある一文の中に

賜於火国造 ・・と

 

熊縣は後に賜於火国造

つまり火国の領域となった・・

 

 

残るは・・曽国

日向のまま ですね・・

(日向国・大隅国・薩摩国)

 

詳しくは追々書かせて頂きます

 

 

 

 

 

それから・・

移動・・

 

地名・伝承、そして人と共に「氏族」の祖神であられる氏神様も、

氏神様をお祀りになられる神社様も

移動するのです・・

 

だからこそ、

古代に興味を持たれる方々、古代を探求なさっていらっしゃる方々は

奈良時代以降、江戸時代までの中世の歴史をしっかりと勉強なさる必要があるのだと私は思います

 

私もまだまだ勉強不足です

地元の古代を知りたいと強く願うからには

中世の歴史も、もっともっと、しっかりと勉強したい!と新年あらためて強く誓いました。

 

 

未熟者の言葉でした・・・

 

 

 

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3.球磨盆地の新春

 

年末年始と仕事だった主人ですが

5日から7日まで、ようやく正月休みを取る事が出来ました😊

(私は6日・・ボランティアのお仕事だったのですが・・)

 

主人が早く帰宅出来た3日には、岡原霧島神社に初詣に出かけました😊

岡原霧島神社の主祭神は

天津彦彦火瓊瓊杵尊 さま です

 

持病を持った私が、ワクチン成分のアレルギーがすでに判明していた事により

昨年の6月病院より、ワクチン接種は不可能と診断された事は過去ブログで書いております

 

コロナ禍前は、

地元の氏神様「岡原霧島神社」にお参りした後で、

青井さん(国宝青井阿蘇神社)、鹿児島の霧島神宮にお参りさせて頂く事が

我家の通例となっていましたが、コロナ禍以降、私は結界の張られた球磨盆地から外に出る事を控えてまいりました・・😢

 

昨年末に市房山が無上ノ霊地と記されていた事に気が付いた事がきっかけとなり

岡原霧島神社にお参りをして、私が全く気が付いていなかった大正時代の事が解りました。

 

 

ようやく・・戦艦球磨の艦内神社様の「真実」に気が付いたのですが、

そして・・

古代、この地は久米族の元祖的本拠地であり、

さらに・・

久米物部

つまり古代物部氏の元祖的本拠地であったのだろう!と強く感じたのですが・・

 

その事は次回、詳しく書かせて頂きます<m(__)m>

 

 

 
7日、七草がゆを食べた後、主人と多良木町久米、旧球磨郡久米郷久米村の
妙見山展望所に出かけて来ました\(^o^)/
 
よく聞くのですが(p_-)
人吉までは行った事はあるけど、その先、球磨盆地中心部には行った事がない
(ー_ー)!!
というお言葉を・・
 
 
という事で😊😊
私が住む、標高1000メートル級の山々に囲まれた
平野部が標高200メートル近い球磨盆地の全景を
妙見山展望台より撮影して参りました\(^o^)/
 
皆様、どうぞご覧下さい。
私が住む盆地中心域の風景です😊
 
 
 
 
 
写真もご覧下さい<m(__)m> 😊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私が住む、あさぎり町岡原、旧球磨郡久米郷宮原村の宮麓も、妙見山の真下に見えました
 
 
 
おそらく・・
多くの方々がご想像なさっていらっしゃった風景より🙄
平野でしょう 😊
 
 
ここに住んでいると・・
自分が標高1000メートル級の山々に囲まれた地に居る事を忘れてしまうのです・・😊
平野部でも標高の高い地である事を・・忘れてしまうのです・・😊
 
ただ・・寒いですよ~!!
昼間は暖かくても、放射冷却現象で・・
年末の寒波の時の最低気温は あさぎり町上(うえ)で
氷点下 8.2℃
 
毎朝のように氷点下6℃~氷点下4℃前後の気温が続く事もあります
 
おそらく・・九州全体でいっても
阿蘇と変わらないくらい朝は寒いのだと思います😱
 
だけど、湧水 つまり球磨弁で湯川(ゆご・ゆがわ) ※湯=斎
は今の時期、温かいですよ😊
 
 
 
 
湧水で思い出したのですが(p_-)
もう一つの球磨に対する勘違いアルアルを<m(__)m>
4.古代球磨の水稲稲作の開始は・・
 
 
遺跡と火山灰土がセット?になったような調査報告書が多いので思い違いをなさっていらっしゃる方々も多くいらっしゃると思うのですが・・
球磨盆地全域が火山灰土に覆われている・・
 
(ー_ー)!! 違います!
 
 
例えば・・
球磨郡水上村から湯前町を過ぎ
久米郷と言われた地域から錦町にかけての山の麓から扇状地一体
米作りに適した土壌で火山灰土は多く広がっていません(ー_ー)!!
 
さらに、盆地一体に湧水が至る所から湧き出る地です。
 
その理由は 活断層にあります
 
例えば先に書いた地域には
人吉盆地南縁断層が20キロメートル程にわたっています
 
最終活動期は7000年前~3200年前の間です
 
その時に、水が湧き出る
つまり、水の都になったと私は想像しています
 
球磨は、自然と一体化して、命を繋いできた土地なのです
 
 
球磨川北岸にも、複数の活断層があり
もちろん、湧水に恵まれた土地です
 

うちの宮原家が代々所有し水の神々様へのお務めをさせて頂いている

湯川(ゆがわ・ゆご)

 

 

 

 
 

神に関する古語の研究の中で林兼氏は

「ゆがわ」 の本来の意味

本来の漢字表記を

「斎川」 (ゆがわ)

 

とお書きになられていらっしゃいました。

 

ゆがわ とは 「斎川」

斎祀る 川 ゆがわ

 

 

私の勝手な推測ですが・・

球磨では遅くても3200年前からは水稲稲作が可能な環境は

揃っていたのでは・・と思うのです

 

 

球磨の縄文時代晩期の地層から出土した有肩打製石斧

 

実は、有肩打製石斧は球磨盆地の至る所から出土しています

 

有肩打製石斧 

稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。

 
 
熊本県球磨郡相良村深水(旧深水村)で
井上猪一郎さんが発見されていた有肩打製石斧
 
 
 
 
有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握る
と言われる、有肩石斧が盆地内の各地で出土しているにもかかわらず
水稲稲作の伝来と球磨盆地について、国内では全く議論されていない事が・・
私には不思議でなりません・・
 
 
 
 
今回、久米の妙見山に登った事がきっかけで、
昭和18年に編纂された
久米村史蹟
をあらためてじっくりと読んでいて初めて知った事がありました。
 
 
5.久米の古墳と球磨の地名
 
久米村史蹟によると
旧久米村字小田原、にあった 小田原古墳(小田古墳)
 
形状は封土式古墳(高塚式古墳)であり
すでに発掘された後で、昭和18年当時は原型を有せず
單に朱塗りの板石のみを存してゐる
 
発掘當時内部から
刀剣・馬具類・御領式土器
を出したといふ事である
 
と記されています
 
御領式土器?は縄文晩期の土器ですが・・・何故だったのか・・?
 
ここで(p_-)
学者様の中には、旧球磨郡久米郷は隼人の乱の制圧に、久米氏が入って形成された・・
と論じていらっしゃる方々もおいでのようですが・・
 
上記の古墳から解るように、「この地」には朱塗りの板石を持った封土式古墳(高塚式古墳)に埋葬される方々が隼人の乱より、ずっと以前から住されていた・・
という事が解ります
 
 
さらに、この地では
先史時代(旧石器時代~縄文時代にかけて)の遺物が出土したようで
 
1.石斧 2、叩石 3、石砥 4、石環 5、石錐 6.石槍 7.石鐘 8.石臼 9.石杵 
10.凹石 11.円板石器 12.磨石 13.十字形石器 14.石鏃 15.石匙 16.糸巻型石器 17.紡錘車石 18.半戴球状石器
 
が発見されたと記されていました。
 
 
出土石器をご覧頂くと、お解りになられると思いますが
「この地」の石器文化はかなり進歩的であった事が見える・・と私は考えます。😊
 
 
そう言えば・・
みつみつしい久米の子は 石斧を持っていらした
のでは・・😊😊
 
 
久米には思川
という地名が残っています
 
さらに、久米村史蹟を読んで初めて知ったのですが
 
橘 南谿(たちばな なんけい)の西遊記の中に
『肥後国薗木(ツコギ)ノコナタニ小田トイフトコロアリ。・・』
(以下省略・・内容は追々ご紹介致します)
 
とあるが、薗木とは、今の小田、覚井の公曾堂のある所で
都古木 または 都合木と書く・・
 
と記されていました
薗木(ツコギ)
の地名も面白いな~と以前から思ってはいたのですが
 
本来は(p_-)
都古木
都合木
だった事を知り・・さらに 面白い!と思いました(p_-)
 
都古木
 
 
球磨の地名を今後、もっとご紹介したい!と思います。
 
 
地名と言えば・・🙄
以前からご紹介していますように
球磨村の球磨盆地の入り口、
地名は
那良口 (ならぐち)
那良(なら)もあり、那良(なら川)もあります
(上流は鉄鉱石の産地です)
 
さらに、同じく球磨村一勝地(旧一勝地村)※いっしょう地
には・・
大坂間(おおさかま)
という地名が残っています
 
大坂間村 です
 
なら ・ おおさか
 
とか 面白い!と皆様思われませんか?
😊・・・(p_-)・・・😊
 
 
 
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次回の序文のつもりで書いていたのですが
長くなってしまいました(^▽^;)
<m(__)m>
 
ここまで
1.初めに(僭越ながら・・)
2.日本の正史をもっと真摯に紐解きたい
3.球磨盆地の新春
4.古代球磨の水稲稲作の開始は・・
5.久米の古墳と球磨の地名
といった内容を書かせて頂きました。
 
次回は、家の氏神神社「岡原霧島神社」と戦艦球磨の艦内神社
さらに、久米族と久米物部氏について等を
書きたいと思っています。
 
 
あっ!そう言えば・・
あさぎり町上(うえ)の谷水薬師様について新情報が!
 
谷水薬師様の氏子さん達は、お祭りの際に
顔に朱を塗って祭を行われる
 
そうです!
 
詳しくは次回に😊
 
 
 
皆様、最後までご覧頂き
ありがとうございました。
 
くれぐれもお身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい
 
 
私も気を付けます!
 
 
負けんば~い!!
 
 

皆様

だんだんなぁ~!!

 

 

 

球磨の地より ひろっぷでした😊

 
次回『最重要 ㊻日国禪(ゆずる)月國狭霧尊 初めてお出ましになられた神様と氏神様』
に続きます
 
前回のブログ『再々投稿 ㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家』より続きます
 
 
 
謹んで新春のお喜びを申し上げます
 
 
皆様方のご多幸をお祈り致しますとともに

普通の生活が、当たり前ではなく「ありがたい」と心から思える日が

穏やかな日が 一日も早く訪れる事を心からお祈り致します

 
拙いブログですが
本年もどうぞよろしくお願い致します
 
 
ひろっぷ こと 宮原
 
 

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今年最初のブログタイトルは
鏡餅と霧島連山と矢立と世界最古の稲作と・・
 
音楽と共にお付き合い下さい😊
Fearless Motivation - Become Who You Are - Song Mix (Epic Music)
 

 

 

 
 
 
 
私の家から見た初日の出です😊
 
球磨郡久米郷の象徴と言われる黒原山(くろばる山)
古代久米族の守護山と言われる黒原山です😊
 
 
 
 
 
この歳になって・・初めて、元旦の初日の出は黒原山の真横から昇る事に気が付きました。
(^▽^;) ・・・・😊
 
 
 
 
 
父のお友達が、庭に咲くお花をくださったので、床の間と玄関に菊の花と共に飾りました。
年末、飾ってすぐに写真を撮ったので、周囲をかたずけていませんねぇ・・お恥ずかしい(^▽^;)
 
 
写真を撮った時に片づけていなかった絵皿は祖母が飾っていたもので、
思い出に、今でも普段飾っています😊😊
 
仲よき事は美しき哉
祖母が好きだった言葉です
 
主人は医療機関に務めていますので年末年始はお仕事で、今朝も早朝出勤。
昨晩は私が作った心ばかりのお節料理を食べて
父と共に親子3人で穏やかな元日の夜を過ごしました。
 
 
 
 
 
1.鏡餅の干し柿
 
日本全国、地域ごとに、又、ご家庭ごとに鏡餅の飾り方が受け継がれていると思います😊
 
私の住む、球磨地方では、多くの家庭が鏡餅に干し柿を飾ります。
家もそうです😊
 
橙(もしくは小蜜柑)と干し柿が家の鏡餅
 
ただ・・北九州に住んでいた時、あまり、干し柿を飾っているご家庭を見た事が無かったので
干し柿の風習って何だろう??
と思い、調べてみました😊
 
すると・・
関西では干し柿を飾るご家庭が多い
という記事を複数目にする事が出来ました。
 
面白くなったので、さらに調べた所、干し柿のとても大切な意味をご紹介なさっていらっしゃるサイト様を見つける事が出来ました😊
 
 
 
ウェザーニュース様 サイト
「三種の神器」に見立てた鏡餅 上には何が乗っている? より
 

 

 

 

 

「三種の神器」に見立てた鏡餅 上には何が乗っている? では

神社の宮司様のお話として

 

「三種の神器」に見立てた鏡餅
正月に飾る餅を鏡餅と呼ぶのは、昔の鏡は青銅製の丸形でそれに似ていることにちなんでいます。その上に乗せるものは昔から決まっていました。

「鏡餅の上には、橙(ダイダイ)と串柿(串に刺した干し柿)を飾ります。

 

鏡餅全体を三種の神器に見立てて、

鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)、

橙は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、

串柿は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です」

 

「三種の神器」に見立てた鏡餅 上には何が乗っている?を拝見して理解した事でした。

 

 

そうだったのだ\(◎o◎)/!

知らなかった・・・

 

干し柿は 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

 

毎年、鏡餅をお下げした時に干し柿を食べるのは父・・

だったのですが、今年から、私も、ありがたく頂こう(^^)/と思います😊

 

 

 

 

 

 

2.市房山山頂から見える霧島連山

 

前回のブログでご紹介したサイト様

自然回帰 様 より、市房山山頂のお写真をお借りする事をご了承頂けました!

 

自然回帰 様には心から感謝申し上げます。

 

私は、ご了承して頂き、嬉しくて涙が溢れました

 

 

皆様、ぜひ、

自然回帰 様がお撮りになられた市房山山頂のお写真をご覧になられて下さい。

 

 

自然回帰 様 サイト

県央の盟主、市房山

 

 

 

 

撮影 自然回帰 様

市房山山頂より望む霧島山

 

 

 

無上ノ霊地ナル市房山の山上からは

霧島連山 が見えます・・

韓国岳 が見えます・・

高千穂峰 が見えます・・・

 

 

その先には・・

遥か遠く・・

野間半島かな?

陸地が見えます・・

 

 

無上ノ霊地ナル市房山に

登って見なければ決して解らない風景が

そこにあるのです・・

 

 

からくに が見えました・・

 

 

山に登る人しか解らない事・・

その風景・・

 

素晴らしい風景・・

 

 

 

感動いたしました・・・

 

 

 

 

 

 

 

3.日向国椎葉の矢立

 

 

私の祖母の実家は岡原の平川家

祖母の実家は江戸時代中期まで平河でした。

 

 

祖母の祖父。

つまり、私の高祖父は椎葉村大河内矢立を名前の由来とする矢立家から縁戚関係にあった平川家(平河家)を継ぐ為に子供の頃に養子に入っています。

 

 

伝承では、壇ノ浦の戦に敗れた平家の方々のどなたかが矢立集落に逃げて来られたようです。

 

祖母の直接のご先祖様となられるその御方は、矢立雪矢神社様に御祭神としてお祀りになられていらっしゃいます。

 

※男女対の夫婦神を主神として祀る神社である。

この夫婦神のことを「雪矢さん」と呼ぶ。

 

「雪矢」は「征矢」とも書かれる

 

※真綿にくるまれた木製のご神体

(男性は衣冠束帯、女性は十二単)

 

 

地主堂(じぬしどう)

矢立集会所上の坂道で最初に出てくる人家のすぐ下にある、木造の小さな堂。
神体は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。

 

矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。 

 

4畳ほどの広さのお堂の中に祭壇があり、石造りの像が3つ置かれている(写真左側の石像はその一つ)。 うち2つは古いご神体がそのまま置かれているものであり、本体は一つとみなされる。

 

「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。

 

過去ブログ『見えない大きな力より』 抜粋致しました <m(__)m>

 

 

矢立氏は、相良藩史において、室町時代の記述に藩士としてその名が見えますので

遅くとも、祖母のご先祖様は、室町時代までには、市房山の頂上を望む、標高1000mの

矢立集落から球磨の盆地内に降りて来られているようです・・

 

 

 

過去ブログでもご紹介しておりました。

2017年4月に書いたブログ『矢立集落に行って参りました。』

 

 

 

2017年11月に書いたブログ『見えない大きな力』

 

 

 

熊本県球磨郡水上村湯山を抜け隣接する宮崎県東臼杵郡椎葉大河内矢立集落

 

宮崎県東臼杵郡椎葉大河内矢立集落は、市房山(標高1720m)の頂上付近が
目の前に見える標高1000mの矢立高原にありました。

 

 

 

 

矢立集会所付近の棚田です

 

 

 

 
 
 
市房山が無上ノ霊地であった事を知ってから
ずっと、矢立集落に逃げて来られた祖母のご先祖様、私のDNAに直接繋がるご先祖様が気になって仕方ありませんでした・・
 
だから、前回のブログで
 

平家の方々が九州中央山地に来られたのは・・

ここまで書いてきた事に繋がっているような気が致します・・

 
と書いていたのです・・
 
 
所が・・!
思いもかけないお話で、天孫降臨にお繋がりの「やたて」の言葉を
目にする事になりました。
 
 
いつも拝見して、勉強させて頂いている
女神物語 ー弥生神代の考察ー asahonmati様のブログ
膨大なご研究内容の一つ
天石門別3 天石門別神:忌部二世神
こちらに、私の心を揺り動かす、お話が記されておりました。
 
asahonmati様
心より感謝申し上げます。
 
 
 
皆様方にもぜひご覧頂きたいと願い、勝手ながらご紹介させて頂きます。
 
天石門別3 天石門別神:忌部二世神

 

 

asahonmati様の 天石門別3 天石門別神:忌部二世神 に記された、

私の心を釘付けになった箇所を勝手ながら転記させて頂きます。

 

asahonmati様申し訳ございません。

 

 

女神物語 ー弥生神代の考察ー 

asahonmati様 の天石門別3 天石門別神:忌部二世神

<1-2> 「天石門別八倉比賣大神御本記」 より

 

 

「天石門別八倉比賣大神御本記」は天石門別八倉比売神社には伝わる古文書ですが、学術的には未だ認められておらず、偽書説が一般的である、と阜嵐健氏は述べておられます。

 この書にも「天石門別神」が登場しています。部分引用(抄訳)は次の様です。
 

・伊邪那岐神と妹の伊邪那美神の二神により、国土・海原・山川や諸々の神が産み出された。
   

・その後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日靈大神、

亦名を八倉乃日靈大神と云う。
   

・最初、高天原で戦に備えた後、天石門別神に勅命を発して

「今後、汝らは吾に代わり戦に備えよ。汝らはこの「羽々矢」と 「御弓」を葦原中國に持って降り、良い場所に奉蔵せよ」と申された。
   

・八倉乃日靈大神も天降り、ここは「天羽々矢」と「天麻迦胡弓」を納めるのに相応の処だ、

と申された。
  

・二神*は高天原より弓矢を持って降り、天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と云い、放った矢が落ちた場所を   

    「矢達の丘」と云う。今は「矢陀羅尾」と云う。
 

・二神*は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉」と呼んだ。

    また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉」と云う。

 ここに云う二神とは箭執神(櫛岩窓命・豊岩窓命、二神は御門の神であり天石門別神とも云う)、及び、松熊神(手力男命・天宇受女命)を指すと思われ、今、天石門別八倉比賣大神に至る登り参道の途中に箭執神社と松熊神社が鎮座しています。

 阿波の降臨伝承は、八倉乃日靈大神(天照大神に擬する)の降臨に天石門別神(箭執神)が随従し、松熊神(手力男命)が登場します。

 

以上

女神物語 ー弥生神代の考察ー 

asahonmati様 の天石門別3 天石門別神:忌部二世神

<1-2> 「天石門別八倉比賣大神御本記」 より 転記させて頂きました。

 

 

 

八倉乃日靈大神も天降り、ここは「天羽々矢」と「天麻迦胡弓」を納めるのに相応の処だ、と申された。
  

二神*は高天原より弓矢を持って降り、天の中ほどに立ち「この矢の止まった所に奉蔵しよう」と云い、放った矢が落ちた場所を   

    「矢達の丘」と云う。今は「矢陀羅尾」と云う。
 

二神*は、この地に矢が落ちた事を覚えておくために「矢乃野)」と名付けて、その矢を奉蔵した倉を「矢乃御倉」と呼んだ。

    また、その弓を奉蔵した地を「弓乃御倉」と云う。

 

 

こちらを拝見して、私は、驚きのあまり、鳥肌が立って、しばらく治まりませんでした・・・

 

放った矢が落ちた場所を   
「矢達の丘」と云う。

 

 

 

無上ノ霊地であり、霧島連山が正面に見える市房山山頂

からくにが見える

市房山山頂

 

その市房山山頂を正面に見る標高1000mの高原、矢立高原

矢立にご鎮座の

雪矢神社

別称

征矢神社

 

 

こういう偶然って本当にあるのでしょうか・・

 

 

女神物語 ー弥生神代の考察ー asahonmati様のご研究のお陰で

私は、また一つ新たなカーテンが開いた・・と考えました。

 

asahonmati様 ありがとうございます。

 

 

 

 

 

4.柳田國男氏と椎葉村そして球磨

 

宮崎県東臼杵郡椎葉大河内矢立集落

 

 

椎葉村大河内集落、矢立集落に滞在して、日本民族の研究をなさった方こそ

柳田國男氏

別名筆名=久米長目

 

 

柳田國男氏は球磨郡あさぎり町須恵、旧須恵村とはとても関わりの深い方です

 

旧須恵村には戦前、アメリカの文化人類学者ジョン.F.エンブリー夫妻が約1年間滞在されて、日本の農村の研究をされていらっしゃいます。

 

須恵村が選ばれたのは柳田国男氏(久米長目 氏)の助言によるものでした・・

 

 

2019年8月に書いたブログ

③球磨のモン・クメール系倭人と久米をDNA解析に至るまで検証 祖父母の行動を探る その2

 

 

 

 

2019年9月に書いたブログ

④「菊と刀」と球磨郡(久米)とさらに三国志時代の中国と・・祖父母の行動を探る その3
 

 

 

 

 

しかし・・わたしは

「菊と刀」 について、私は複雑な気持ちがあります

 

※補足

1935年 - 1936年 - アメリカ合衆国の文化人類学者ジョン.F.エンブリー (1908年 - 1950年, John Embree) によって部落社会(※本来集落の意)の構造が実地調査され、

「Suye Mura: A Japanese Village」(Chicago,1939)によってまとめられる。

日本文化理解の教科書、「菊と刀 (1944)」の参考文献として挙げられる。

 

 

須恵村の方々は、

自然体でアメリカの文化人類学者ジョン.F.エンブリー夫妻を心から持て成していました。

 

優しい、暖かい心で、お持て成しをしていました。

 

この方々の心の絆は

大戦中のアメリカの上層部の人達に踏みにじられてしまった・・

「菊と刀」は利用されてしまった・・

球磨の人々の思いは・・

 

私は、その事がとても悲しいです・・

 

独り言でした・・

 

 

 

 

水稲稲作 南方経由説(黒潮ルート)

 (ウィキペディアより)
 

柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。

 

石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。
 

北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。

 

 

球磨で縄文時代後期の地層から有肩打製石斧が発見されたと言う事は

南方経由説(黒潮ルート)との関係が見えたと言う事になるのでは!?

 

と、ブログ『③球磨のモン・クメール系倭人と久米をDNA解析に至るまで検証 祖父母の行動を探る その2

で考えていた私ですが・・

 

今では、その考えが少し違います

 

長江下流域で水稲稲作を開始された方々こそ

超古代に日本列島から移動した人達ではなかったのか!?

 

と、今では強く感じています。

 

 

 

5.世界最古の水稲稲作を開始したのは倭人である!

 

 

かなり、以前、ブログ内でご紹介させて頂いた論文

倭人と倭人文化の謎

 

中国の学者でいらっしゃる作者の方は 以下のように記されています

 

新石器時代の初期、「倭人」が主に暮らしていたのは雲南の滇池一帯であったろう。

 

彼らは水稲栽培の創始者であり、黄河文明と比肩できる長江文明を生み、育てた人々である。

 

と・・・

 

しかし・・

 

作者の方は、初めから長江流域に倭人が住んでいた・・

とお考えのようですが

私は違います!

 

水稲栽培の創始者「倭人」の方々は、日本列島から超古代に大陸に渡った人達である!

 

と私は考えます。

 

 

さらに・・作者の方は、大陸の古代において「倭人が建国したであろう多くの国々」についても

お書きになられていらっしゃいます。

 

そして・・

紀元前213年頃から焚書を行われた御方も・・

実は倭人であったのだろう・・

 

とお書きになられています

 

皆様、ぜひ、ご一読なさってみられては如何でしょうか・・

 

 

 

 

水稲稲作について

かの国の方も言われているのですから

おそらく間違いないと思います

 

世界最古の水稲稲作を開始したのは倭人である!

水稲栽培の創始者「倭人」の方々は、日本列島から超古代に

大陸に渡った人達である!

 

と、私は考えます

 

 

 

今から書く事を不敬だとお考えになられる方もいらっしゃるかと思いますが

ご了承下さい

 

瑞穂の国とは

世界最古の水稲稲作を開始した倭人の故郷

世界に誇るべき日本である

という意味ではないのか・・

と私は考えるのです

 

 

瓊瓊杵尊様のご降臨を水稲稲作と結び付けて、ご降臨の年代を新しく

(すでに水稲稲作が開始されていた時期)と言われる方々に

ぜひご一考して頂きたいのです。

 

 

本質は、もっと深く、

そして

大いなる事、誇るべき事ではないのでしょうか・・

 

※世界最古の水稲稲作を開始したのは倭人である!

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

 

今年最初の拙ブログ

 

1.鏡餅の干し柿

2.市房山山頂から見える霧島連山

3.日向国椎葉の矢立

4.柳田国男氏と椎葉村そして球磨

5.世界最古の水稲稲作を開始したのは倭人である!

 

という内容を書かせて頂きました。

 

 

 

 

 

あの。。

今回のブログ、最後に妙な事を書かせて頂きます・・

 

皆様、すでにお気づきだったかなぁ・・😥

黒原山から昇る初日の出の写真・・

 

青い光が写っていましたでしょう

 

 

以前から、写真や動画に青い光が写る事が度々あって、特に動画では、撮影すると青い光がプカプカと浮かんで移動する事もあり・・

 

何だろう(?_?)

と思っていたのですが・・しかし(ー_ー)!!

この現象はカメラによるもので、通称「ゴースト」と呼ばれる現象だと解りました😊

 

 

 

 

なんだ・・そういう事だったのだ~😊

と思いまして、😊

 

ただ・・ある日、青い光の事でもう一つ気が付いたのですが

その事については、一切ネットでは解説されていなくて・・

あれっ(?_?) と・・

 

あの・・私が撮影したカメラ用語?「ゴースト」さんは

静止画、つまり、写真の中でもほんの数秒・・

わずか0.1~0.2秒程

何故か・・動くのですよね・・

(?_?)

 

 

撮影してしばらくして、写真の確認をしていた時に気が付いたのです。

 

でっ(p_-) 主人に協力してもらって

写真(動画じゃありません(ー_ー)!!)の中で青い光「ゴースト」さん?が動く瞬間を

動画で撮影してみました😊

(あれっ?どなたか・・笑うな!って言われましたか・・?😊)

 

 

 

まずは、黒原山さんの写真から <m(__)m>

2枚目に移った瞬間の写真をご覧下さい。
 

 
 
 
この写真は昨年末の冬至少し前に撮ったもので
こちらも2枚目に移った瞬間の写真をご覧下さい<m(__)m>
 
 
 
それぞれ2枚目は
写真なのに青い光が動いているのが解りましたか?
 
 
でも・・共通するのは
家の周辺
という事
なのですよね・・(?_?)
 
何故でしょう・・・🙄
 
 
年の初めにマタマタ妙な事を書いてしまいました<m(__)m>
どうもすみませんでした😢
 
こんな私ですが
皆様
今年もよろしくお願い致します
😊
 
 
 
最後までご覧頂きありがとうございました。
 
 
 
年の初めのブログは
どうぞ皆様、今年もご一緒に
 
負けんば~い!
 
 
皆様
だんだんなぁ~!!
 
 
 
球磨の地より ひろっぷでした😊
 
次回『㊺今、強く感じる事と、新春の球磨盆地と旧久米村』に続きます。

前回のブログ『(再投稿)㊶-2 市房山の奇石 無上ノ霊地ナル 原初を見つめて・・

より続きます。

 

 

 

 

2021/12/31 07:15再々投稿

今回の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に、心からお礼申し上げます。

 

※令和3年の最後に独り言・・ の項に

記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していた倭人の定義とは何だったのだろうと

考えた、あくまでも私の推論を追記として書かせて頂きました。

 

2021/12/31 07:20 追記

もちろん 古渡才伎(こわたりのてひと)、諸藩といった言葉は存じています😊

 

お暇な時にでも御覧になられてみて下さい<m(__)m>

😊

 

あと・・音楽変えました😊

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 


 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

 

 

皆様

今年も私の拙いブログにお付き合い下さり

ありがとうございました

 

コメント、メッセージにおいて、暖かいお言葉、とても勉強になるご教示を

沢山の方々から頂きました。

心から感謝いたしております。

ありがとうございます

 

 

 

 

 

タイトルは

㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家

 

では以下は音楽と共に<m(__)m> お付き合いください😊

 

Fearless Motivation - Principles (Epic Music)

 

 

 

 

 

本題に入る前に<m(__)m>

 

実は、先日、あさぎり町で開催された

球磨郡あさぎり町免田(江戸時代中期まで面田)の本目遺跡の発掘調査にあたられた、

関西外国語大学の佐古 和枝教授の講演会にお伺い致しました。

大変貴重なお話の数々を聞かせて頂き、講演会中、終始、心がワクワク致しておりました😊

 

中でも、凄く心ときめくお話が

球磨の古墳に埋葬されていらっしゃる女性

装飾品以外に鉄剣、他、武器が副葬されているそうです!

他地域では女性の副葬品に武器は非常に珍しいそうで

 

うぉ~!!

かっこいい~!!

球磨の古代女性らしいなぁ~

と、私は感動致しました😊

 

 

講演会での質問の時間に

わたくしひろっぷ、僭越ながら質問させて頂きました<m(__)m>

多くの方々の前で恥ずかしかったけど、勇気を振り起しました

 

質問の内容は

人吉大野遺跡群をはじめ、球磨地方には旧石器時代から縄文時代全般を通して多くの遺跡が存在しますが、この方々とクマソと呼ばれた方々の関係をどうお考えになられますか?

 

でした。

 

佐古先生とご一緒にお越しでいらした「先生」(失礼ながらお名前を伺っておりませんでした)が、先にお話して下さいました。

 

人吉大野遺跡群は3万年以上前の旧石器時代の遺跡群です

しかし、国内では殆ど知られていません

 

旧石器時代の遺跡や縄文時代の遺跡が集中して存在するこの地域は非常に稀な貴重な地域であります

 

とのお話でした😊😊

 

 

上記の多数の遺跡との関係性について

佐古先生は

「年代が違い過ぎるので、はっきりとした事は解りません」

とおっしゃっていらっしゃいました。

 

 

国内では殆ど知られていない・・

 

そうだったのだ・・と

私は大変貴重なお話をお伺いする事が出来て光栄でした😊

 

 

 

 

 

1.無上ノ霊地 市房山から見える風景

 

前回のブログでご紹介しました。

麻郡神社私考からの一文

 

奇石ノ在ルヲ見

無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・

 

 

奇石は

巨石群の中の7~8メートル余りのほぼ垂直な立石

 

麻郡神社私考ではその立石を

石佛(石仏) を 御嶽 ミタケ
さらに
絶頂ヲ 扇嶽ト号ス
と記されています。

 

私は、御嶽 ミタケ (立石)を

磐座・・メンヒルではなかったのか・・?

と推測致しましたが・・

 

世界各国のメンヒルはいささか新し過ぎますねぇ(p_-)

紀元前3000年代後期・・

仮説でも今から6000年から7000年前・・

 

新し過ぎますねぇ(p_-)

 

例えば、前回ご紹介した球磨郡多良木町の立石さま・・

すぐ近くに存在する大久保台地遺跡群は

旧石器時代からの遺跡群であり・・

8000年以上前の地層から

日本最古の精巧な石人形や

多くの幾何学模様が施された土器が出土しています・・

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは8000年以上前・・・

 

世界各国のメンヒルは

紀元前3000年代後期・・
仮説でも今から6000年から7000年前・・

 

やはり、世界各国のメンヒルは新し過ぎます・・

 

どう考えても🙄

日本の立石さまの方が古いので(p_-)

 

私は今後、メンヒルではなく

(ー_ー)!!

 

磐座

とお呼び致します

 

 

 

 

奇石ノ在ルヲ見
無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

 

 

前回のブログを書いたあと、私は無性に市房山に登りたくなりました。

この目で、市房山山頂からの風景を見てみたい!

と・・・

 

しかし、皆様、ご存知のように、私は筋ジストロフィーのキャリアで、

稀に発症する心臓疾患があり、市房山の登山は叶いません・・

 

でも・・どうしても見たい・・

 

そこで、ネットで写真を公開なさっていらっしゃる方々をお探しした所・・

私が、見たかった風景をご公開の御方々がいらっしゃいました\(^o^)/

 

お写真をお借りするご了承は頂いておりませんので、

サイト様をご紹介致します😊

 

自然回帰 様 サイトより

県央の盟主、市房山

 

 

 

自然回帰 様 サイト 県央の盟主、市房山の中で

自然回帰 様がお撮りになられた2枚目のお写真

 

 

まさに、私が見たかった風景です😊

 

凄く嬉しくて感動致しました

 

無上ノ霊地ナル市房山の山上からは

霧島連山 が見えます・・

韓国岳 が見えます・・

 

その先には・・

遥か遠く・・

野間岬かな・・?野間半島かな?

陸地が見えます・・

 

 

無上ノ霊地ナル市房山に

登って見なければ決して解らない風景が

そこにあるのです・・

 

からくに が見えました・・

 

 

ちなみに、韓国岳から見える市房山の風景も見つけました😊

 

 

南天坊様 サイト 韓国岳

 

 

南天坊様 サイト 韓国岳より

101 正面の山は市房山  の お写真

http://nantenbo.la.coocan.jp/shiki/Kirishima-20130111/101.JPG

 

 

韓国岳山上から見ると、正面の山は

市房山 なのですね!

😊

 

 

山に登る人しか解らない事・・

 

その風景・・

素晴らしい風景・・

 

私・・

ふと考えたのですが

 

山岳信仰の本幹は

遠い古(いにしえ)の方々が超古代の方々が

崇拝なさっていらした

日本の神々様への崇拝に繋がる

根源に繋がる・・

と・・

 

 

日本書紀では久米氏の祖となられる神様が記された内容

「第九段一書(四)」のみに

二つの頂のある峯

 

 

第九段一書(六)には

時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と

言う。

 

 

 

林兼明氏の「神に関する古語の研究」では

二つの頂のある峯・添山峯(そほりのやまのたけ)に関して

添うように、たつ山がある場所であろう・・

とお書きになられていらっしゃいました・・

 

さらに

 

「代」(しろ)の文字は

添う 寄り添う の意である・・・

 

とお書きになられていらっしゃいました・・

『再投稿③桜と市房山と神様に関わる言葉が残る国内唯一の地名』

 

 

 

前回のブログでも書きましたが

日本書紀

第九段一書(四) 第九段一書(六)に描かれたその風景・・

 

天忍日命さまと天津久米命さまが武装して先導・・

 

(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、
日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き

と描かれたその風景・・

 

その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所

 

記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所
 

 

その場所の一つは


九州中央山地内のこのような風景であったのでは・・・

 

江代山(日向では津野岳)と市房山です・・・

 

※江代山(日向では津野岳)

津野岳・・古事記や日本書紀、出雲神話を熟読なさっていらっしゃる方々は

背筋に何かピシっと走るような「山の名前」だとお気づきになられていらっしゃるのでは

ありませんか・・

 

臣津野  さま・・

 

実は、私も 同じです・・

詳しくは 今は書きません・・・・

 

 

 

 

 

 

ウィキペディアより

 

古事記 天孫降臨 

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

天忍日命と天津久米命が武装して先導した。

天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、

それぞれ祖神である。

 

邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

 

古事記 天孫降臨  

天忍日命と天津久米命が武装して先導した。

 

やはり

天津久米命さま 久米族の祖神が登場なさるお話です

 

 

 

 

私は・・

古事記や日本書紀を編纂なさった方々は

九州中央山地や霧島連山

その周辺地域に

お越しになられていらっしゃる・・

と思います

 

林兼明氏は『神に関する古語の研究の中で』

蘇・襲 (そ) は
神々様をお祀りする神聖な山の連なり

 

という旨のお話をお書きになられていらっしゃいました。

 

 

遠い遠い時代の日本に生きた、多くの自然災害の中、逞しく生きて来られた方々への

一つ一つ新たな文化を創り出して来られた方々への

崇敬の心をしっかりとお持ちになられていらしたからこそ・・

 

 

 

天磐座(あまのいはくら)

日本の遥か遥か古代の方々が崇拝なさっていらした神々様を敬い

 

古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、

 

我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃったから

こそ・・

 

と😊

 

 

平家の方々が九州中央山地に来られたのは・・

ここまで書いてきた事に繋がっているような気が致します・・

 

 

 

 

2.西大寺の木簡

 

超古代から8世紀辺りまで、時間を進めます😊

 

 

平安時代末期・・

天皇領 球磨御領・・

 

しかし

鎌倉時代以前の球磨の記録は殆ど残っていません。

 

ただ、平安時代に奉納された御仏像、さらに体内銘文から

 

当時の球磨にいらした方々の事が少しづつですが見え始めています。

 

8世紀後半から9世紀初頭、球磨の中山寺に奉納された聖観音菩薩様のお話

 

 

 

さらに・・・いまだに未発表ですが

平安時代作のあさぎり町の某お寺に奉納された御仏像の中から

発見された体内銘文に良峯氏の名前が・・・

 

何時、発表されるのでしょう・・待ちくたびれますねぇ・・

 

 

他にもどこかに

何か、記録が見つかっていないのか・・探していた時に

ようやく発見致しました\(^o^)/

 

奈良文化財研究所様の

古代地名検索システム

木簡庫

の中からようやく見つける事が出来ました。

 

 

 

検出されたデータベースの中から一つご紹介致します。

 

 

 

 

URL    https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK035014000050

 

木簡番号    049

 

本文    □□□万郡○可部○□

 

遺跡名    平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)

 

所在地    奈良県奈良市西大寺新田町
調査主体    奈良市教育委員会

 

国郡郷里    (肥後国球磨郡〈□万郡〉)

 

 

 

 

木簡・・

 

平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)から出土した

木簡・・

 

そこには

肥後国球磨郡に関する何か?が記されていました

奈良時代の事・・

 

 

平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)

 

西大寺旧境内・・・

 

 

西大寺  ウィキペディアより

 

 

 

西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。

奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。

 

南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山。

現在の本尊は釈迦如来である。

 

創建
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。

 

天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚して称徳天皇となった。

 

翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。

この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている。

西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力を持っており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている。

 

護国のために四天王像を安置するのは『金光明最勝王経』に基づくものである。

「西大寺」の寺名はいうまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。

 

前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。

 

寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。

 

中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められた。

『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には密教系の像を含む多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。

 

薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。

しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。

 

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました

 

 

天平神護元年(765年)

西大寺 創建

 

 

平城京右京一条三坊十三・十四坪(西大寺旧境内)から出土した

肥後国球磨郡に関する何か?が記された木簡・・

 

 

何が書かれていたのだろう・・

 

ただ・・言える事は

奈良時代においての中央と球磨

 

遠く離れた山奥の辺地と思われがちな球磨ですが

奈良時代においての中央と球磨

しっかりと繋がりが見える事を

木簡が語っている・・

 

と、私は嬉しくなりました

 

西大寺について、奈良時代だけではなく

平安時代の肥後に関わる事で気が付いた事はありますが

次回以降にご紹介致します😊

 

 

 

3.球磨の郡家は面田のクシカ

 

先月、求麻郷土研究会の例会において

律令制の中で条里制が確認できる、球磨郡の中心地

郡家跡となる

あさぎり町免田久鹿(クシカ)の前田遺跡に伺いました😊

 

 

出土した瓦

 

 

9世紀後半(西暦800年代後半)の瓦のようです

 

 

さらに、瓦を焼いていた

球磨郡あさぎり町深田の高山窯跡から出土した瓦です

 

 

9世紀前半(西暦800年代前半)の瓦のようです

 

 

 

 

郡家とは ウィキペディアより

 

 

郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所である。

 

国府や駅とともに地方における官衙施設で、郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ)とも表記され、考古学では郡衙、史料上(歴史学)では郡家と表記される傾向がある。

 

郡衙施設は郡司が政務にあたる正殿・脇殿のほか、田租・正税出挙稲を保管する正倉、宿泊用の建築などから構成される。

国司の所在する国府から間接支配程度の統制が行われ、郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い

 

国府が整備されるまでは、郡衙がその地域の行政の中心であった。

 

また、郡域が広域にわたる場合には別院の政治的拠点が存在していたと考えられている。

 

 

以上 ウィキペディアより 抜粋致しました

 

 

 

※郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。

 

 

そうなのですね😊

 

面田のクシカ は

郡家 跡

 

郡司は旧国造などの在地有力豪族であることが多い。

 

古代久米氏が継承されたのかなぁ・・?

 

それとも・・(p_-)

 

面田のクシカ

 

今から・・2000年程遡って・・

面田のクシカ

 

 

 

クマソ系図に見える・・

この御方の後裔が継承されたのかなぁ・・・?

 

 

 

クシカ也

永初元年十月 貢漢

 

 

 

そうであれば・・

この方々の後裔の方々は、やはり滅ぼされてなどいらっしゃいませんね!😊

 

 

 

クシカと言えば!

実は、多良木町の羅城跡周辺の地名も

クシカだったのです・・

 

今から2000年程前の球磨人にとって

 

クシカという地名、名前には

 

何か特別な意味があるのかもしれませんねぇ・・(p_-)

 

 

2000年程前の事は今は置いておいて

・・(ー_ー)!!

(お~い!置くな~!!との声が何処から聞こえてきたような・・🙄)

 

 

 

何はともあれ・・😊

 

面田のクシカには

郡家跡があります!

 

というお話でした

 

 

 

ただ・・・

奈良時代の西大寺さまと繋がりがあり

条里制が確認できる地の

郡家跡まで発見されている球磨ですが・・・

 

球磨郡内の神社様の創建の年

物凄~い数の神社様が

揃いもそろって・・大同年間(802年以降・・)

 

と言うのが

私には不思議でなりません・・

 

大同年間以前に、

奈良時代の西大寺さまと繋がりがあり

条里制が確認できる地の

郡家跡まで発見されている球磨ですが・・・

神社が無かった??

 

と言うのが

私には不思議でなりません・・

 

 

 

所で・・

実は、私、最近強く考える事があります・・

※令和3年の最後に独り言・・

 

 

今年・・海外の「かの国」で3000年程前の遺跡が発見されましたが・・

かの国は 多騒動でした・・

 

ようやく発見された!・・みたいな・・

 

その時、実は感じた事があります

 

 

海外の「かの国」の統一を果たしたと言われる方

紀元前213年頃から焚書を行っていますね・・

かの国の多くの系譜が燃やされてしまったとか・・

 

つまり、かの国に現在伝わっているお話は

焚書以降にあちらの正史として残された、作られたもの ですね・・

 

 

 

例えば・・たとえばですが・・①

もしも・・「かの大陸」に倭人が建国していた国があったとしても

海外のあの「かの国」で焚書以降に造られた歴史からは

おそらく・・その事実は消された事でしょう・・

 

 

例えば・・たとえばですが・・②

超古代の日本列島から、大陸を経由して 西アジアで倭人が文明を起こし

その後、大陸経由(しばらくいて・・)で後裔の方々が日本列島に戻って来られていたとしても

海外のあの「かの国」で焚書以降に造られた歴史からは

おそらく・・その事実は消された事でしょう・・

 

 

私達・・

あまりにも、かの国の焚書以降の歴史を基準に・・

参考に・・し過ぎていませんか・・?

 

自らの愛する国家の歴史には耳を傾けず

日本の正史が語る「真意」を紐解こうともせずに

 

海外の・・かの国の焚書以降に造られた歴史を信じる・・

 

私、以前はそういう人だったのですが

今、考えると、冷静に考えると

滑稽です・・

 

前回・・

 

後漢書や魏志東夷伝などが無かったら

存在しなかったら・・

 

熊襲討伐や東国征討などという作り話を

記される事は、その必要は無かった・・

 

と書きましたが・・

 

我が国の正史における「真意」は

日本国、北から南、東から西まで

全て倭人の国である!

 

と、そう海外に知らしめたかったのでは・・

 

しかし、

焚書を行った方の後裔の方々も、後に日本に入って来られていますね・・

不思議です・・

 

2021/12/30追記

記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していた倭人の定義とは何だったのだろうと

考えました。

 

私は・・

4万年〜3万年前に世界最古の磨製石器を製作して日本独自の文化を形成した人達

1万5000年程前に世界最古の土器を製作していた人達

 

といった超古代の流れを父系であれ、母系であれ、何等かの形でひいている方々の事

日本の旧石器時代から縄文時代にかけての文化、魂を受け継いでいる方々の事

ずっと、日本列島に居た人達はもちろん、海外に移動した人達も、日本に戻ってきた後裔の人達も含めて・・

 

全て 倭人 だったのでは・・

記紀編纂時・・日本国において、皆が理解していたそれが「倭人」の定義 だったのでは

と考えました。(あくまでも、私の考えです😊)

 

霧島連山の夷守岳

「夷守」・・「夷」の文字の真意は「ひな」つまり太陽

日本列島、北から南、東から西「日」・「夷」の文字は至る所に地名や名称でも残っています

そして海外でも・・

 

2021/12/31 07:20 再追記

もちろん 古渡才伎(こわたりのてひと)、諸藩といった言葉は存じています😊

 

追記でした<m(__)m>

 

 

 

詳しくは来年、追々書かせて頂きます😊

 

 

 

 

 

以上 令和3年の最後の独り言でした・・

 

来年の本音独り言も お楽しみ?に・・😊

 

 

今年の締めくくりは 球磨川の風景で

 

神様の川 球磨川

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回は

1.無上ノ霊地 市房山から見える風景

2.西大寺の木簡

3.球磨の郡家は面田のクシカ

※令和3年の最後に独り言・・

 

という内容を書かせて頂きました

 

 

 

あっ!そうです(p_-)

 

お知らせ<m(__)m>

来年の大河ドラマ・・

宮原一族の母系のご先祖様を、中村獅童さんが演じられるようですねぇ・・😏

(p_-)

むむっ・・楽しみです😀

 

意地悪な役だったら国営放送さんに抗議の電話を入れます(--〆)

嘘です😎

 

 

 

 

 

皆様

今年一年、私の拙いブログにお付き合い下さり

ありがとうございました

 

来年も、

伝承や資料、遺跡等のお話

ど素人ながら、自らが考えた事などを

皆様にお伝えしていこう!と思います😊

 

今後ともよろしくお願い致します

 

良いお年をお迎えください

 

 

 

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『新年のご挨拶と共に 鏡餅と霧島連山と矢立と世界最古の稲作と・・』に続きます。

 

 

前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』より続きます。

 

 

 

2021/12/21 23:30追記

2021/12/20 18:46投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に
心からお礼申し上げます。

 

これから、ご覧頂く方、拙ブログに興味を持って頂き
ありがとうございます。

新たに気が付いた事がありますので、今回のブログに特記として書かせて頂きます。

 

今回のブログでは、古事記、日本書紀のお話に触れさせて頂きました。

 

古事記の編纂に関わった御方 稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)

 

姓稗田、名阿禮

稗田氏は『弘仁私記』に天鈿女命の子孫と見え、『西宮記』から猿女君を輩出する氏族の一つであったと見られる・・とありますが諸説を拝見しました。


前回のブログでご紹介した『相良定頼并一族等所領注文』

 

相良定頼并一族等所領注文をあらためて見ていて初めて気が付きました。

相良定頼并一族等所領注文7

 

薭田了仙房 分

日向国真幸院西郷吉田村田地拾町

 

こちらの

薭田氏(稗田氏)は相良定頼公の一族でいらしたようです・・

 

上記の稗田氏がどちらの系でいらっしゃるのか、今は解りませんが、

あえて今回、特記として追記させて頂きました。

 

以下12月20日に投稿した内容となります

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 

すでに、前回のブログをお読み頂いた皆様

ご覧頂きありがとうございました。

 

前回、

とても長くなりそうですので

『本日12月19日 続けて今回と次回のブログを 投稿いたします。』

と書きましたが

間に合いませんでした😥😥

申し訳ございませんでした

 


本日、12月20日

昨日のブログ投稿内容の続きを投稿いたします。

 

未だ、前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』を

ご覧頂けていない御方は、貴重なお時間をかけて頂き、大変申し訳ございませんが

ぜひ、前回のブログをご覧頂いた上で、「続き」となる今回のブログをご覧頂きたく

心よりお願い申し上げます<m(__)m>

 

前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』をお読み頂かなければ今回、書かせて頂く内容に、何故?私が気が付いたのか、何に導かれているのかが

お解り頂けない・・と思います<m(__)m>

 

貴重なお時間を申し訳ありません<m(__)m>

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

先に投稿したブログでも書きましたが・・

 

この数日

信じ難い事件

そして、昨日12月19日は早朝から

信じ難いニュースを目にしました

 

心が痛いです

 

失われた多くの方々の御霊に

心よりご冥福をお祈り致します

 

残された方々のご心境を考えると

お気の毒で

心が張り裂けそうになります

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

前回は

1.超古代の方々の御魂
2.古代の古加久藤湖
3.中世の日向国真幸院

 

という内容を書かせて頂きました。

 

早速、上記に続けます。

 

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

 

前回と同じく・・

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

 

 

 

 

 

4.市房山は日向の山・・

 

 

前々回のブログ『再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』に追記

 

市房山は実は江戸時代まで日向の山と

幕府は認識していた・・

 

というお話を書きました<m(__)m>

 

 

でっ(p_-) ここで椎葉のおじ登場

実は・・私の父の従兄である椎葉のおじと、奧さん。

二人はいとこ同士で・・

二人のおじいさんは、大正時代に市房山本宮の宮司をお務めになられていらしたのです(p_-)

※本姓大神氏の尾方氏

 

椎葉のおじに「江戸時代まで市房山は日向の山と認識されていた」という話を伝えると・・

「あっ!じゃっよ!そげん聞いた事がある😊・・😤 」と・・

(訳 あっ!そうだよ!そういう風に聞いた事がある)

 

えええ~っ

\(◎o◎)/!

やっぱりそうだったんだ・・(p_-)

知らなかった・・

 

 

「今の若っかもんは 知らんやろねぇ~ 」と、おじ・・

(訳 今の若い人達は知らないだろうねぇ~)

 

 

現代、市房山は熊本県と宮崎県にまたがる山

となっています😊

 

 

江戸時代だけではなく(ー_ー)!!

古代から現代に至るまで

市房山は球磨人にとって

とてもとても大切な心の拠り所でもあります😊

 

 

 

ブログ『再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』で

書かせて頂いた事・・

 

 

 

いずれも『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではない。

 

 

天祖 彦火瓊瓊杵尊

天神の孫(天孫)で、神武天皇の曽祖父。東征開始時(BC667=BJ7⊂甲寅年)の神武天皇の言葉によると、天祖降跡(天孫降臨)は次の9年間のいずれかの年に行われた。

 

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年

皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

 

もちろん、神話のお話、内容とは全く繋がらないのですが

しかし、私は

旧石器時代の始まり約200万年前と

日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

偶然ではないのでは・・と思います

と・・

 

さらに

私は九州中央山地の何れかの山の高さ

何かに関係しているような気がしていました・・

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

 

とも・・

 

九州中央山地の中で

標高の高い山は

祖母山 1756m

国見岳 1739m

市房山 1721m

 

 

九州中央山地ではありませんが

霧島連山で最も標高が高い山が

韓国岳 1700m 

 

 

皆様、何かお感じになられる事はございませんか・・・

 

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

山の測量を行う基点となる地は

郡家

 

詳しくは次回、ご紹介致します。

 

 

 

 

5.日向(ひむか)の襲の山

 

 

日向の襲の山

 

林兼明氏の「神に関する古語の研究」を拝読して

襲 = 背

と理解した私は

 

日向の襲の山 とは

その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所

記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所

 

その場所の一つが

九州中央山地 ではないのかな・・?

と考えていました。

 

第三紀以降ずっと海面上に現れていた
日本最古の陸地の一つ
九州中央山地

 

 

以下 ウィキペディア 天孫降臨より 転記致します

じっくりと拝読して、私は初めて気が付いた事がありました<m(__)m>

 

 

日本書紀

(注)日本書紀の本文と一書(あるふみ)について:

本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。

本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。

ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。

 

 

 

『日本書紀』の第九段本文

皇孫は天磐座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威(いつ)の道ち別き道別きて、日向(ひむか)の襲の高千穗峯に天降った

 

 

第九段一書(一)

皇孫は

天磐座(あめのいわくら)を脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降(あまくだる)。果して先の期ちぎりの如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗の触之峯(くじふるのたけ)に到る。

 

 

第九段一書(二)

天津彦火瓊瓊杵尊は日向の日(くしひ)の高千穗の峯(たけ)に降り立ち、膂宍(そししの)

胸副国(むなそうくに)を頓丘(ひたお)から国覓(まぎ)行去(とおりて)、浮渚在平地(うきじまりたひら)に立った。

 

 

第九段一書(四)

大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひ)が、来目部(くめべ)の遠祖である天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)を率い、背そびらには天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)を著け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)を取り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副え持ち、また頭槌劒(かぶつちのつるぎ)を帯びる

 

(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、

日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地(うきじまりたいら)に立ち、頓丘(ひたお)より国覓まぎ行去とおりて、吾田の長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に辿り到る

 

 

第九段一書(六)

天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あまつくににぎしほのににぎ)

時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。

 

 

 

 

ウィキペディアより

古事記 天孫降臨 

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

天忍日命と天津久米命が武装して先導した。

天忍日命は大伴連おほとものむらじらの、天津久米命は久米直くめのあたひらの、それぞれ祖神である。

 

邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

 

 

🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸

 

 

 

こうやって、転記させて頂いて、初めて気が付いた事がありました・・・

 

不敬とおっしゃる方もいらっしゃるかと思いますが

ご了承下さい

 

 

 

私の住む地は、和名類において

肥後国球磨郡久米郷 と記されています

 

古代久米族の原初的な本拠地と言われる場所です・・

 

 

 

日本書紀

第九段一書(四) に
天忍日命(あまのおしひ)さまと天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)さまのお話が記され

日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き

 

と記されています

 

二つの頂のある峯

 

 

天串津大来目(あまのくしつのおおくめ)さま

先に編纂された古事記では

天津久米命さま

 

つまり

日本書紀では久米氏の祖となられる神様が記された内容

「第九段一書(四)」のみに

二つの頂のある峯

 

とあるのです

 

 

さらに

第九段一書(六)には

時に降り到りし所は、呼びて日向の襲その高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。

と記されています。

 

 

 

林兼明氏の「神に関する古語の研究」では

二つの頂のある峯・添山峯(そほりのやまのたけ)に関して

添うように、たつ山がある場所であろう・・

 

とお書きになられていらっしゃいました・・

 

 

日本書紀

第九段一書(四) 第九段一書(六)に描かれたその風景・・

 

天忍日命さまと天津久米命さまが武装して先導・・

 

(二柱の神)天孫(あめみま)の前(さき)に立ちて、進み降り、
日向の襲の高千穂の串日(くしひ)の二つの頂のある峯に辿り着き

と描かれたその風景・・

 

その場所には何らかの伝承、もしくは何かが残されていた場所

 

記紀を編纂なさった方々が雄大な神話を描くためにお選びになられた場所
 

 

その場所の一つは


九州中央山地内のこのような風景であったのでは・・・

 

 

 

 

ブログ『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬

でご紹介した、人吉市大野町から少し下った大畑(おこば)梅園から見た

江代山(日向では津野岳)と市房山です・・・

 

 

 

 

 

市房山と江代山(日向では津野岳)は

添うように、たつ山です

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

6.市房山の奇石 原初を見つめて・・

 

前回のブログ『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』で書きましたが

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

 

 

市房山三神宮パンフレット

 

 

 

 

市房山神宮(本宮)の御祭神

 

 

 

 

江戸時代中期に編纂された

麻郡神社私考より

 

 

 

 

私は麻郡神社私考に記されていた内容がとても重要な事であるにも関わらず

今まで完全にスルーしていたのです・・

気に留めていなかった・・・

 

 

しかし、前々回のブログ

再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』の中で、

 

妄想

前期旧石器時代の遺跡は日本には無いと言われているようですが・・

九州中央山地の何れかの山に・・前期旧石器時代の石器が・・

遺跡が・・隠れていたりして・・

 

と書いた後に、前期ではなくても何か山にあるんじゃないのかな・・?

と考えた時に、「あっ!」と気が付きました。

 

 

 

市房山三神宮パンフレットに記されている内容と麻郡神社私考に記された内容を要約します

 

 

市房山神宮(本宮)

江戸時代まで市房大権現

 

大同二年鎮座

 

古老傳云 久米ノ城主 諱市房という人が狩りで山に登り大きな奇石を見て霊地であると感じ、此処に小さな祠を建立した・・

 

※奇石ノ在ルヲ見

無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・

 

市房山三神宮パンフレットには

 

奇石について

この奇石は仏石と呼ばれ、現在の神宮から350メートル程登った斜面に巨石群があり

その一つが7~8メートル余りのほぼ垂直な立石である。

 

後に社殿を現在の社地に移し御嶽といった。

 

と記されています。

 

 

麻郡神社私考には

石佛(石仏) を 御嶽 ミタケ

さらに

絶頂ヲ 扇嶽ト号ス

 

と記されています。

 

 

奇石ノ在ルヲ見

無上ノ霊地ナル事ヲ知テ

遂ニ小祠ヲ建立シテ安スニ・・

 

巨石群があり

その一つが7~8メートル余りのほぼ垂直な立石

 

立石(石仏) は 御嶽 ミタケ であり

絶頂ヲ 扇嶽ト号ス

 

立石(石仏) は

磐座 であったのでは・・・

 

7~8メートル余りのほぼ垂直な立石

メンヒルではなかったのか!?

 

と私は感じました・・

 

 

 

球磨郡多良木町にもメンヒルが残されていました・・

2020年の2月に書いたブログで、ご紹介しています。

驚きの球磨の昔話 石杵だけじゃない メンヒールと石幣等も・・

 

 

 

 

皇紀二千六百年記念事業として編纂された球磨郡誌より

 

メンヒール(立石) 多良木町字岩川内(いわんごち)にあり、「立石さん」と呼ばれ、小岳の突端に屹立つする凝灰岩の柱石である。

 

即ち高さ地上三米五十(3m50)、幅一米二十五(1m25)、厚さ一米六十(1m60)、周囲五米七十(5m70)許の一大板石の巨岩である。

 

古老の話によれば、明治初年頃まで、「立石さん詣り」と言って、方々から参詣人があったようで、現在(※昭和16年頃)でも立石の麓を掘ると寛永通宝を発見する事が出来る。

 

この立石は元は、もっと高いもう一つの巨岩と並んで立っていたと言うのであるが、今は此の大きな石の方は、付近の川の橋梁をする為に切り取られ、現在立っているのは、その小さいものの方である。

 

付近より献供用にせられたものと思はれる縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事で、これは或いは賽銭として用ひられた當時の石貨(僞貨)であろうと言はれるが、又漁具とした浮子とも稱へられている。(高田素次氏調査)

 

尚此の突き立つたる巨巖が、果たして欧州に於ける石器時代の所■巨石文化の遺物と稱せられメンヒルと同一なるや否やについては学者に於て異議あるものであるが、これは今後の学者の研究に任せて、唯々立石さんとして往時は尊崇したものであろうとの報告に留めておく。

 

以上 球磨郡誌より抜粋致しました

 

 

※付近より献供用にせられたものと思はれる縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事

 

 

つまり!

球磨には「立石」・メンヒルを崇拝する方々が

縄文時代もしくは石器時代にいらっしゃった!

 

という事です

 

私は

市房山の奇石

立石(石仏)・・

御嶽 ミタケ は

古代の

磐座であり

メンヒルであった

 

 

と考えます!

 

 

実は、球磨郡の南に位置する白髪岳頂上付近、宮崎県との県境にご鎮座の

狗留孫神社様(くるそん神社)のご神体も

メンヒル

石卒塔婆(狗留孫岩)
 

です

 

 

 

狗留孫神社 伝承 ウィキペディアより

 

石卒塔婆(狗留孫岩)
ここには八大龍王の中の2龍王、健磐(たていわ)と娑伽羅(しゃがら)が住んでいた。

 

ある日のこと、健磐龍王は拘留孫仏に願って高さ十五尋(約二十二・七、または二十七・三メートル)、周囲二メートルほどある石卒塔婆を山中に建てた。

大変喜んだ娑伽羅龍王は観音菩薩にお願いして、高さも周りも同じの石卒塔婆を建てた

 

立石権現(立石神社)

 

拘留孫岩はずいぶん昔から有名だったとみえ、神武天皇も見物に行かれた。

そのとき「暫しこそ端山繁山茂けれども 神路の奥に道あるものを」という和歌を

お読みになられたという。

 

 

以上ウィキペディアより転記致しました。

 

暫しこそ端山繁山茂けれども 神路の奥に道あるものを

 

 

 

 

私はやはり

市房山の奇石は

古代の
磐座であり
メンヒルであった


と考えます

 

 

日本書紀の編纂者の方々は

この事をご存知あったのではないか・・

 

久米族の祖と言われる人達が住んでいた

 

久米族の原初的本拠地と言われた

球磨の地から

 

最も良く見える市房山の伝承、

 

そこに残る磐座を

※無上ノ霊地ナル事ヲ

 

日本書紀の編纂者の方々は

ご存知でいらしたのではないか・・

 

 

そう言えば・・

日本書紀編纂中の頃

こちらにお越しになられた御方がいらっしゃいました・・

 

長田王(攝津大夫) さまです

 

 

 

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方

 

 

2017年12月に書いたブログ

長田王(攝津大夫)がご覧になられた芦北の海

 

 

 

 

歌人として、

『万葉集』に伊勢斎宮に遣わされた際山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌6首が入集。

 

筑紫 = 九州

水島 = 球磨川に浮かぶ島

 

 

さらに

長田王(攝津大夫)の足跡 及び隼人の乱について

 

 

 

 

そう言えば・・・ 上記のブログを書いた時に、私は疑問を感じていました・・

 

「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」
「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」
まさしく、上記の和歌は景行天皇紀そのものの歌である・・・?

日本書紀完成以前の和歌である事・・・?

さらに長田王 (摂津大夫)は和銅4年(712年)に伊勢斎宮に遣された際に
上記の和歌をお詠みになられた・・・・

 

 

長田王(攝津大夫)さま が

こちらにお越しになられた事に関する疑問に関して

当時の私は、未だ旧石器時代や縄文時代まで意識を向ける事が出来ずにいた

勉強不足の時期でした

 

 

でも、今は・・・

 

日本書紀編纂中に

長田王(攝津大夫)さまが、ご一緒にいらした方々が

ご覧になられた風景を目に浮かべる事が出来ます・・

 

おそらく・・・こういう風景ではなかったのか・・

 

 

霧島神宮元宮

 

 

 

矢岳高原・・

 

 

 

 

 

市房山と江代山(津野岳)・・・

 

 

江代・・・

 

 

斎(五木)にて不知火海を望む・・

 

 

市房山の麓・・・

 

 

夕暮れ近くの芦北の海・・・

 

 

そして・・球磨川・・

神様の川・・

 

 

 

 

 

そして・・・

霧島や球磨盆地の雲海・・・

 

 

 

 

『日本書紀』の第九段本文
皇孫は天磐座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威(いつ)の道ち別き道別きて、日向(ひむか)の襲の高千穗峯に天降った

 

 

 

日本書紀を編纂なさった方々は

 

天磐座(あまのいはくら)

日本の遥か遥か古代の方々が崇拝なさっていらした神々様を敬い

 

古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、

 

我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった

 

と私は強く思います

 

 

 

もちろん、前回も書きましたように

縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にかけての出来事や儒教や道教、仏教が伝わった後の考えも神話の世界には盛り込まれている事は解ります。

 

 

しかし

日本では

4万年〜3万年前には

世界最古の磨製石器が製作されていたのです!

すでに日本では独自の文化が形成されていた!

さらに

日本の土器が世界最古なのです!

 

日本の文化は弥生時代に始まった訳ではない!

 

 

 

独り言

では、何故?熊襲討伐や東国征討の話が記されたのか・・

それは、海外が関係しているのでしょう

やむを得ず・・書かざるを得ない状況があったから・・

 

もしも・・・

後漢書や魏志東夷伝などが無かったら

存在しなかったら・・

 

熊襲討伐や東国征討などという作り話を

記される事は、その必要は無かった・・

 

と私は思います・・

 

何せ・・球磨囎唹と記された『筑前国風土記』等は

記紀編纂後に造られたもの・・

ですから・・😊

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

前回のブログ

1.超古代の方々の御魂
2.古代の古加久藤湖
3.中世の日向国真幸院

 

に続いて、今回は

4.市房山は日向の山・・

5.日向(ひむか)の襲の山

6.市房山の奇石 原初を見つめて・・

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方

という内容を書かせて頂きました。

 

 

実は・・・「思考の休憩時間?」前に書いていた後編の続きは

7.日本書紀編纂中にお越しになられた御方 のお話を書くつもりでいたのです。

 

しかし・・その時点で、私はマダマダ勉強不足だったと思います

縄文時代や旧石器時代の事を勉強して

ようやく・・書いて良い と

言われたのかもしれません・・

 

無上ノ霊地・・

この言葉が頭の中でリフレインしています・・

 

 

次回は

球磨の郡家の所在地や・・・

奈良時代の西大寺跡から出土した木簡に記された

球磨郡について

等を書きたいと思います😊

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊸後編-5 無上ノ霊地と韓国岳と木簡と球磨の郡家』に続きます。

 

 

前回のブログ

再投稿㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』から続きます。

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 


 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って
出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この数日

信じ難い事件

そして、本日は信じ難いニュースを目にしました

 

心が痛いです

 

失われた多くの方々の御霊に

心よりご冥福をお祈り致します

 

残された方々のご心境を考えると

お気の毒で

心が張り裂けそうになります

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

はじめに<m(__)m>

 

最近、朝の氷点下から日中は暖かい・・の繰り返しに身体が慣れてしまっていたのか・・

今回の寒波に身体が驚いてしまったようです😥

 

庭掃除をしていたら、急に胸がキリキリっと・・

大事をとって少し安静にしていたら、治まったのですが、無理しないでおこう・・と

18日は楽しみにしていた郷土研究会の例会もお休みさせて頂き😥 凄く残念

さらに、色々お話を伺いたかった方とのお約束もお断りさせて頂き😥😥 凄く残念

 

身体のリズムって急な気温の変化等には中々すぐに適応しないのだなぁ・・と

痛感いたしております。

 

皆様もご無理なさらないように<m(__)m>

 

 

 

 

私・・9月の末から「思考の休憩期間?」に入っていたのですが、その期間に気が付いた事と最近、勉強させて頂いた事が「思考の休憩期間?」に入る前に考えていた事に繋がっていると今回、ブログを書く為に用意した資料や事前に理解していた情報をみると強く感じています・・

繋がっている・・そう感じた事を今回以降数回に分けて書きたいと思います<m(__)m>

 

今回と次回のブログ内容は

超古代 ⇒ 鎌倉時代 ⇒ 南北朝時代 ⇒ ・・と

超古代 ⇒・・・・

時間が遡って、下るり、さらに遡る・・と言った内容になります<m(__)m>
 

 

とても長くなりそうですので

本日12月19日 続けて今回と次回のブログを 投稿いたします。

お付き合い下さい<m(__)m>

 

音楽と共に・・・

World's Most Heroic Emotional Music | by Sky Mubs

 

 

 

 

1.超古代の方々の御魂

 

 

前回のブログで

 

旧石器時代の始まり約200万年前と
日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年
皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

と書きました。

 

実は、私、ずっと感じていた事があります。

 

例えば旧石器時代のウィキペディアの記述をみても・・

現代人の言葉には当時を生きた人達の心が見えないのです・・

 

 

旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には200万年前に始まる。旧石器時代は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。

 

区分法
通常、旧石器時代は以下の3つに区分される。

前期旧石器時代
ハンドアックスがひろく用いられた時代。この時代の人類はホモ・ハビリスおよびホモ・エレクトスが主流であった。
 

中期旧石器時代
剥片石器が出現した時代。
ネアンデルタール人が広がった。

極東アジアの中期石器文化の特徴から、ヨーロッパから来たネアンデルタール人に依ったものではなく、アジアの原人から進化した古代型新人によって形成された可能性が大きいとされる。
 

後期旧石器時代
石器が急速に高度化、多様化した時代。このような技術革新の原動力を言語に求める説もある。クロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が主流となり、他の化石人類は急速に姿を消した。

 

 

凄く学術的な記述であるのは十分解るのですが・・これらの記述からは

その時代を生きた「人類」に対しての「温かみ」とか「心」を全く感じる事ができないのです・・

 

 

前回のブログを書きながら、私は当時、超古代を生きた「人」たちの

文化や、心、生きた証、魂を感じていました。

調査を行われた方々のお言葉にも、当時の方々に対する崇敬の心を感じました。

 

 

しかし、多くの現代人の「言葉」には当時の人達に対する崇敬の心を全く感じません

 

 

ただ

日本書紀の編纂者の方々は

遠い遠い時代の日本に生きた、多くの自然災害の中、逞しく生きて来られた方々への

一つ一つ新たな文化を創り出して来られた方々への

崇敬の心をしっかりとお持ちになられていらした!

 

と私は強く感じます

 

遠い遠い時代を生きた方々の魂に対する

崇敬の心を

感じるのです

 

日本では

4万年〜3万年前には

世界最古の磨製石器が製作されていたのです!

すでに日本では独自の文化が形成されていた!

 

 

※ウィキペディア日本列島の旧石器時代より

 

 

前々回のブログ

『日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』でも書きましたように、

日本の土器が世界最古なのです!

 

私は

日本書紀を編纂なさった方々が、これらの事を良く理解し、

そして、古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった!

と考えます

 

もちろん

縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にかけての出来事や儒教や道教、仏教が伝わった後の考えも神話の世界には盛り込まれている事は解ります。

 

ただし

古の超古代の方々へ対する崇敬の心と、

我が国の超古代から綿々と受け継がれてきた文化に誇りを感じていらっしゃった!

と言う事も、しっかりと現代人は理解しなければならないのでは!?

と最近強く感じるのです・・

 

私自身・・歴史の中の

もっと、深く様々な時代を生きた人達の「心の部分」を読み取る事が出来る人に

なりたい・・

そうしたら、私のご先祖様方も、きっとお喜びになられる

と感じるのです・・

 

 

 

例えば皆様

『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)

神様

 

天孫降臨の際に、邇邇芸命さまを道案内した国津神

猿田彦命さま

 

『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であられました。

 

 

背(そびら)の長さは七尺

 

尺をウィキペディアで拝見すると

 

日本では・・5世紀中頃には26cm代

 

つまり日本書紀では国津神であられる猿田彦命さまのご身長は

182㎝前後であった・・と記されているのです

 

 

鼻が高くて高身長であられた猿田彦命さま

 

私は・・

日本の古代に(旧石器時代~縄文時代全般にかけて)

そういう方が「どこかの地」にいらした

という伝承がどこかの地に残っていて

日本書紀の編纂者の方々が、その伝承をご存じでいらしたのでは?

と考えます😊

 

そして8世紀の時代において

敬っていらした・・と

 

 

 

 

2.古代の古加久藤湖

 

前回のブログで熊本県人吉市と宮崎県えびの市に広がる

矢岳高原から見た風景をご紹介致しました😊

 

 

 

 

 

ブログを書いた後、あらためて加久藤盆地のウィキペディアの記述を読んで理解した事があります。

 

 

 

 

ウィキペディア 加久藤盆地より 抜粋致します

約33万年前の大噴火で発生した加久藤火砕流は薩摩半島と大隅半島の中部以北と人吉市付近および宮崎平野にまで広がり、半径約50kmの範囲に溶結凝灰岩の地層を形成した。

 

加久藤カルデラに水がたまり、さらに霧島山西端にある栗野岳の溶岩によって水の出口を塞がれることによって古加久藤湖と呼ばれる水面標高約300mの堰き止め湖が形成された。

 

この湖の南部は霧島山の火山活動によって埋められ、残った北部も入戸火砕流などによって堆積が進み、最終的には川内川による湖口部の侵食が進んで排水され加久藤盆地が形成された。

 

湖底堆積物が加久藤層群と呼ばれる地層として残されており、湖の水位変化の痕跡が川内川の河岸段丘として残されている。

 

以上 ウィキペディアより抜粋させて頂きました。

 

 

理解した事(p_-)

※約33万年前の大噴火以降、加久藤カルデラに水がたまり古加久藤湖と呼ばれる水面標高約300mの堰き止め湖が形成された。

 

※湖の南部は霧島山の火山活動によって埋められ、

残った北部も入戸火砕流などによって堆積が進み、最終的には川内川による湖口部の侵食が進んで排水され加久藤盆地が形成された。

 

※入戸火砕流・・・(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)

約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

 

約33万年前~約2万5千年(以降まで・・)存在した

古加久藤湖

 

勉強不足でした・・全く理解していませんでした・・

 

つまり(p_-)

前回のブログでご紹介した大野遺跡群を残した中期旧石器時代の人達は

矢岳高原から湖に浮かぶ霧島連山を見ていたのですね・・

\(◎o◎)/!

 

 

美しい・・だけでは無かったと思います

 

おそらく当時の火山活動が活発な霧島連山は火山の神々様は

ちはやふる神々

当時の人達は恐れ敬われていたと推測致します

 

 

矢岳高原の巨石

 

 

前回のブログでもご紹介した

43年前に遠足で撮影した写真・・・・

 

 

人吉市矢岳町でハンドアックスを使用していた4万年前の人達や

大野遺跡群 C・D・E遺跡を構成した人達の時代を想像しながら見つめました。

 

当時の人達にとって、矢岳高原の巨石群は

やはり磐座(いわくら、磐倉/岩倉)であったのでは

と強く感じました・・

 

 

磐座 ウィキペディアより

 

 

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

 

以上 ウィキペディアより抜粋して転記致しました。

 

 

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

あっ!だからか・・・

 

3.中世の日向国真幸院

 

実は矢岳高原の直下、えびの市吉田、旧真幸院吉田郷の山中に

神社様がご鎮座でありました。

 

気になったので御由緒書きだけ、写真に撮っておりました・・

 

宮崎県えびの市吉田にご鎮座の

日枝神社(山王)の由来

 

 

永仁元年正月(1293年)

北原領主時代に、創建者「日下部貞継」氏が建てたと歴史に伝えられている。

 

御祭神は大山祇命神が祭られ軍神としても崇拝され、戦国時代は各武将が先勝の神として祈願や参拝なさっていらした と記されています。

 

 

 

あっ!? \(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

日下部貞継・・・

 

日向日下部氏と言えば・・・岩切氏・・

 

父と母は私が8歳の時に離婚して私は父方の祖母のもと球磨で育ちましたが・・

私の母は岩切氏。母の実家は・・

宮崎県高鍋町蚊口にご鎮座の鵜戸神社宮司家(岩切氏)の一族です・・

 

両親は離婚していますので 詳しくはちょっと・・・<m(__)m>

 

 

岩切氏 ウィキペディアより

 

その祖は日向・日下部氏である。

日下部氏は古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われ、

日向真幸院の郡司を務めた家である。

 

その日下部氏の系図に、血縁から発生した土持氏や八木氏・海江田氏ら約80の氏族の中のひとつとして「岩切」姓が記述されている。

岩切姓は上代から中古までは史料に見られず、一説によると、平安時代末頃から土持氏と縁戚関係を強めていた日下部氏が、戦国時代の黎明期に伊東氏の勢力拡大によって打撃を受け、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(現在の宮崎県宮崎市郡司分岩切)へと移り、そこで「岩切」姓に改姓したのが始まりと言われている。

 

日向国諸県郡国富荘一帯を支配していた武家の岩切氏の末裔が宮崎県における「岩切」姓の起源であり(文明17年(1485年)に伊東氏と伊作家の合戦で戦死した北郷氏家臣の岩切信尚などが見える)

 

 

きゃぁ~

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

どげんしょう・・・私の矢岳高原への思い・・

こりゃぁ・・私に流れるどっち?の血がザワザワしよんなっとか 解らんバイ・・

思わず球磨弁・・

 

家は・・宮原氏 祖母の実家は平河氏 母の実家は岩切氏・・

※宮原氏・・ 本姓橘氏 平河氏・・本姓良峯氏 岩切氏・・日向日下部氏

 

 

真幸院と言えば(p_-)

南北朝時代、球磨の平河氏の所領地の一つ日向真幸院の一部が加わった時期がありました・・

 

過去ブログ 『相良定頼并一族等所領注文』

 

 

 

相良定頼并一族等所領注文 より 一部画像・・

 

相良定頼并一族等所領注文4

 

 

平河又三郎分

一所 日向國真幸院引田貮十町 頼尚跡

 

頼尚跡とは

南北朝時代から室町時代にかけての武将

少弐氏6代当主 少弐 頼尚公の跡

という意です

 

ご参考までに ウィキペディア少弐 頼尚 <m(__)m>

 

 

平河又三郎とは

平河師里という方で

日向国真幸院 馬関田荘(まんがた荘)の預所となります。

 

 

祖母方(平河氏)と母方(日向日下部氏族 岩切氏)・・

 

真幸院吉田村・・そう言えば!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

平河氏は・・吉田村に攻め入った・・

との記録が残っています!!

そして、後に吉田の預所となります・・

 

きゃ~😱😱😱😱

 

 

父と母は恋愛結婚の末に何故??・・・(ー_ー)!!

あまり深く考えないように致します😐😐

 

 

そう😊

私が矢岳高原に思い入れがあるその理由は・・

きっと・・私の父方、母方、双方のご先祖様方にとって

とても大切な地であったから・・

だと思います

 

 

余談でした<m(__)m>

 

 

ここまで書いてようやく理解出来たのですが・・(今更ながら・・)

 

通説で言うと・・

あくまでも通説で言うとですが<m(__)m>

 

私は・・

父方 

宮原氏(本姓橘)

祖母の実家 平河氏(本姓良峯)※祖 良峯安世 父君 桓武天皇

橘氏も良峯氏も平安時代までの皇統と言われる豪族集団で・・

 

つまり遡ると・・

瓊々杵尊と木花開耶姫の子であり、神武天皇(初代天皇)の祖父でいらっしゃる

彦火火出見尊様の後裔・・

 

 

母方 は日向日下部氏 隼人後裔と言われる豪族集団で・・

つまり遡ると・・

日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、

祖神火照命の末裔であるとされる・・

火照命(ほでりのみこと)は、『古事記』で

瓊々杵尊と木花開耶姫の第一子として登場する日本神話の神

火照命様の後裔・・

 

私は・・海幸彦様の後裔と山幸彦様の後裔の・・ハーフ?なんだ・・

あんにゃっ(?_?) 😱

古代系ハーフのひろっぷしゃん(*^-^*)

 

いえいえ(ー_ー)!!冗談は、さて置き・・

 

ここまで書いて今更気が付いたのですが・・(本当に今更ですが・・)

父方を辿っても母方を辿っても

どちらにしても・・通説で辿ると・・

ご先祖様 氏神様は

瓊瓊杵尊様と神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫様

となられる訳ですね・・

 

うむむっ(p_-)

だから・・超古代が気になって仕方がないのか・・・

(今更!!? とのお声がいずこから聞こえてきたような・・(?_?) )

 

 

神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫様の御父上は

大山津見神(大山祇神)様

 

先に書いた矢岳高原直下の吉田にご鎮座の日枝神社様

永仁元年正月(1293年)
北原領主時代に、創建者「日下部貞継」氏が建てたと歴史に伝えられている。

 

御祭神は大山祇命神

 

日向日下部氏が遡った母系の父神様をお祀りになられた・・

という事ですね!

 

あくまでも通説で言うと・・ですが・・

 

 

しかし・・今回中世の事、今まで調べていた事をあらためて書いて

頭が整理されました😊

 

どうりで、矢岳高原に行くと背中がうずうずしていたんだぁ・・

封印して頂いたお経のあたりが・・・ザワザワと・・

 

 

磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とは、古神道における岩に対する信仰のこと。

あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。

 

神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。

 

時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが・・・

 

 

 

この続きは市房山の奇石 原初を見つめて・・と題して次回に・・<m(__)m>

 

 

 

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ここまで

1.超古代の方々の御魂

2.古代の古加久藤湖

3.中世の日向国真幸院

という内容でした

 

次回は

市房山の奇石 原初を見つめて・・と題して、本日中に投稿する予定です。

※只今、編集中・・お待ちください<m(__)m>

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊶-2 市房山の奇石 原初を見つめて・・』に続きます。