前回のブログ『鯰と鮎と球磨弁と・・卵生伝説・・』より 続きます。

 

 

※2021/02/28 06:30 追記

2021-02-26 15:28 投稿の当ブログ すでにお読み頂いた皆様方へ

球磨郡誌670ページ~671ページにかけて とても重要だと感じる記述がありましたので

当ブログ内最下部に以下を転記して追記致しております。

 

球磨郡誌670ページ~671ページより

(球磨郡)西村字京之峰(現錦町西村)に天下神社(アモイ)があり、中原村原田(現人吉市原田)に天下山(アモイ山)がある・・中略

 天下(アモイ)は天下(アモリ)と読むべきで、

この「アモリ」という言葉は古事記の伊邪那岐伊邪那美二神が淤能碁呂島に「天降坐而」

(アモリマシテ)とあるのが最も古いのではないかと思う。

古事記傳には「阿母理麻志テと調べし・・・阿母理は阿麻淤理の約りたる古語なり」

と註されてゐる。そして古事記の中には天孫降臨の條に此の言葉が何度も出て来る。

「襲=背」のかげとしての「くま」 古来熊襲之國として一括されて呼ばれた程密接な関係におかれた熊と襲、然して天孫降臨の景地としての襲を考へる時、

この球磨の地に阿母理神社・阿母理山の有るのは偶然ではない気がする。

(以上 昭和16年発行 球磨郡誌より転記致しました)

 

「襲=背」のかげとしての「くま」

阿母理は阿麻淤理の約りたる古語

そういえば・・阿 は クマ と読む漢字でもありました・・

 

以上 追記 でした。 ひろっぷ

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
 
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

ご家族の代わりに、献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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実は、昨日(2月25日)おちゃも様のブログを拝見して、

戦艦球磨の艦内神社様と

私が住む旧岡原村(現あさぎり町岡原)に御鎮座の岡原霧島神社様が繋がっていた!

という衝撃の事実が大正11年11月に発行された「呉新聞」様に記載されていた事を

初めて知りました。

この事を深く調べて行きたいのですが・・・

その前に おそらく、上記の事に最終的には繋がって来るであろうと考える 

衝撃の事実 球磨には本当に熊がいた!

さらに、

古代の言葉と球磨弁 そして 球磨川と対馬のご縁・・

というお話をまずは、今回ブログでご紹介させて頂こうと思います<m(__)m>

 

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1.球磨には本当に熊がいた!

 

私も参加させて頂いております、地元の歴史研究会である求麻郷土研究会

 

求麻郷土研究会令和2年12月に発行の 

郷土 人吉 球磨 第38号

ペンネーム「荒谷 山人」様

むかし球磨にもクマが居たはなし』が記載されています。

ペンネーム「荒谷 山人」様には 拙ブログへのご紹介を了承して頂きました。

「荒谷 山人」様 ありがとうございます。

 

『むかし球磨にもクマが居たはなし』の中に記された内容

ペンネーム「荒谷 山人」様は

相良藩内に残る様々な古文書・古記録を読み解かれ「熊」に関する記述を数多く発見なさいました。

 

私は 大発見でいらっしゃる! と敬服致しました。

本州にお住まいの方々はピンとは来られないかもしれませんが

何せ、九州には熊がいたようだ・・程度の伝承しか残っていないからです!

 

『むかし球磨にもクマが居たはなし』の中で

ペンネーム「荒谷 山人」様がお書きになられていらっしゃる事の数例をご紹介致します。

 

南北朝時代の武将「一色範氏」公が相良定頼公に宛てた書状(相良家文書第158号)には

熊の肝給い候おわんぬ、薬種として大切のところ、度々給い候の条、ことに悦び入り候

なおなお御志のいたり 有り難く候 恐々謹言

と記されていたそうです。

 

さらに江戸時代の医家であり文人として知られた橘 南谿(たちばな なんけい)が天明三年(1783年)二月から三月にかけて50日程人吉に滞在なさった際の人吉・球磨の見聞もその旅の記録である「西遊記」に記されているそうです。

参考 橘 南谿(たちばな なんけい) ウィキペディア

 

 

橘 南谿の西遊記の中に皆越村(現あさぎり町皆越)の皆越村新兵衛という方が打ち取った熊の熊の肝の記録があった事を「荒谷 山人」様は発見なさいました!

 

橘 南谿がこの地に滞在なさった時の話です。 現代語訳の方をご紹介させて頂きます。

(この地の)ある身分の高い方が病気になられたので診察してみると、熊の肝が必要な病であり、熊の肝を求め届いた物を見ると

皆越村新兵衛」と書かれた紙札が付いていたので尋ねてみたところ

猟師が熊を取った時は役人が立ち会い、検査の上でそのクマを解剖して取り出した肝に猟師の名前を書きつけて献上するので、偽物の心配はない」という事であったそうです。

 

 

橘 南谿の西遊記の中には

この地に木熊、土熊の二種あり。土熊は土の穴の中に住みて、その身体大いなれども鈍し。木熊は枯れ木のうつろに住み、其身体小さくして健やかなり よく樹木の上に登る等の記述が残っていたそうです。

 

また、江戸時代までは相良藩内であった現宮崎県の椎葉村の椎葉村史には黒熊を含めた5種類の熊が居た事が記されているようです。

 

熊の肝については、相良藩内の法である「諸郷法令」には

熊の肝の事。その所にて取り候わば、役人立ち会い賜解き、たしかに見届け、生肝にて役所へ相納むべき事

と記されており、先の橘 南谿の西遊記の中にあった皆越村新兵衛の名が記された紙についても一致するようです。

 

さらに

文政四年(1821年)の十二月から天保十二年(1841年)まで人吉藩の家老を務めた

田代善右衛門政典の日記およそ20年分の中から「荒谷 山人」様は

熊の肝に関する記事60件 熊を打ち取った記事13件を発見なさいました!

 

『むかし球磨にもクマが居たはなし』の中には、熊を打ち取った記事の中で

その数例を年月日と共に「荒谷 山人」様がご紹介なさっていらっしゃいます。

拝見すると「熊」は 

皆越村(現あさぎり町皆越)※白髪岳周辺 

槻木村(現多良木町槻木)※黒原山の裏側(日向側)周辺

西村(現錦町西村)※白髪岳麓南西地帯

つまり球磨郡の南部山地で 熊が打ち取られた記録が多く残っているようでした。

 

さらに「荒谷 山人」様は江戸時代まで相良藩内であった米良村(現宮崎県児湯郡に属)における「熊」の記述等、数多くの江戸時代における相良藩内の熊の記録をご紹介なさっていらっしゃいます。

 

そして・・ナント 現在まで打ち取ったクマの手や足が球磨郡内の家々に残されていた事もご紹介していらっしゃいました。

クマの手・足の写真は『むかし球磨にもクマが居たはなし』の中に記載されています。

私は拝見して 本当に 驚きました・・

 

ペンネーム「荒谷 山人」様は 拙ブログへの紹介をご了承頂いた際に

他の家老の日記等にも熊を捕獲した記事がいくつも出てきます

ある程度集まったら またさらに発表をさせて頂きます。

とおっしゃっていらっしゃいました。

 

膨大な古文書・古記録の中から 球磨には熊が居た!という記事を拾い出して

熊と球磨の関係を証明なさった「荒谷 山人」様

私は 心から敬服致しております。

 

歴史の 古事の 証明は

地道な確実な作業により 達成される

「荒谷 山人」様のご努力を知り 私はあらためて そう感じました。

「荒谷 山人」様 ありがとうございました。😊

 

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皆様方

「荒谷 山人」様のご調査、ご研究により

球磨には本当に熊が居た!

という事が証明されました。

 

この事は、私が考えていた事、近年の研究者の方がお考えでいらした事の

一つの証明にもなる と 思います😊

 

前回のブログで、私は「鳥」 と古代久米族、球磨人との関係について触れていました。

クマソの方々 ウィキペディアの記述では

 

2.麻斯登登(ましとと)は球磨弁だった~!

 

前回のブログ『鯰と鮎と球磨弁と・・卵生伝説・・』で 私は

★「久米部は球磨人」・・・球磨人は鯰さんと共に奈良に移動している!!
鯰さんへの信仰と共に 北に東に移動している・・・

★火国言葉 球磨言葉は 古語 が残っている・・

火国言葉 球磨言葉は 古代 東に動いて・・・
最初は 標準語だったんじゃ あ~りませんかぁ~ (p_-)・・・😊

と書きました。

 

その事を裏付けるのであろう 衝撃の言葉の数々が

皇紀2600年記念事業として 昭和16年に発行された球磨郡誌に記されておりました!

ご紹介させて頂きます<m(__)m>

 

是非とも じっくりと ご覧頂きたく お願い申し上げます<m(__)m>

 

球磨郡誌 663ページより

 

 

小野高尚夏山雑談の巻之五には「西国邉土には古き詞遺れり」という一項があって

「薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は

多くは、うつぼ、竹取、源氏物語、清女枕草子、四の鑑、大和物語等 にある言葉なり・・・ 中略

それは・・  古きことば猶のことたり」

という記事があるさうである。

 

 

以下・・

アユル (落つる) 等の他に じっくりとご覧頂くと 驚きの言葉があります・・!!

後ほど詳しく触れます<m(__)m>  (p_-)

球磨郡誌 670ページより

 

 

 

 

以下・・

度会氏と球磨弁との関わりが記されております。

球磨郡誌 671 ページより


 

 

お読みになられて皆様方はいかにお感じになられたでしょうか?

 

私が最も驚いた記述は以下の記述です!

赤い線を引かせて頂きました。

 

 

「シトト」といふ小鳥がいるそうで

球磨郡だけに この名称が残っている・・・事実とすれば

これも神武天皇の皇后伊須気余理比賣が

大久米鯨利目而。思奇歌曰

「阿米都々 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米」

と歌はれた中の麻斯登登であると考へられ

随分古いものである。

 

麻斯登登

麻は眞で眞鴨等の眞と同じ。

斯登登は和名妙に記されているようですね・・・・

 

球磨郡だけに この名称が残っている

「シトト」・・・

麻斯登登であると考へられ

随分古いものである。

 

そうだったのですね・・・・

大久米鯨利目而。思奇歌曰

「阿米都々 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米」

麻斯登登・・・球磨弁だったんだぁ・・・・

 

ただ・・・私がこの数年間において疑問を感じて調べてきた事を思い返してみれば

上記に記されている事は さほど驚く事ではなく

当時(昭和16年)の球磨地方の方々は じつは「隠された真実」を御存じでいらしたのだな・・と あらためて 感じております。

 

拙ブログを今回、初めてご覧になられた・・という方がいらっしゃったとすれば

もしかしたら・・・いい加減な事が書いてある とお考えになられるのかもしれません・・

しかし、昭和16年発行の球磨郡誌にはいい加減な事は決して書く事は出来なかったはずだと私は考えます。

何故ならば・・・

現在の上皇さま 昭和16年当時の皇太子さまの御養育係でいらした御方は

球磨郡多良木町出身の信国様でいらしたからです!

 

 

方言・風習・伝承 等 球磨に残る全ての事に関して

球磨郡誌に いい加減な事を書く事は決して行ってはいらっしゃらない・・!

と私は考えます。

 

さらに・・

全国で唯一、球磨に残る言葉と言えば・・

ひゅう  があります。

ひゅう とは

身体で言えばお尻 や 大儀では後ろ

という意味になります。

 

つまり 球磨の後ろ は 

球磨のひゅうが(うしろがわ) となるのですよね・・・・

 

さらに「ひゅう」の表現が もう一つ

曾孫 ひまご は

球磨弁で ひゅうまご と言います。

つまり 球磨弁では ひ = ひゅう でもあるのです。

 

例えば地名 ひゅう●● とか

ひ = ひゅう  で発音する地名が残っている地域ではあるけれども・・

 

しかし  ひ = ひゅう の方言は残っていない そういう方言は無い

という地域であれば

かなり古い時代に ひ=ひゅう とも発音する人達が 「その地」に移動したのでは・・

と私は考えます。

 

移動と言えば・・・

球磨川の水は海に出たら 何処に到達すると思われますか?

その事が証明されました・・・

 

3.球磨川の水は海流に乗って対馬に・・

悲しい事ではありますが、球磨川を下って海流に乗れば対馬に到達する事が

令和2年の大水害にて 証明されました・・・

 

 

読売新聞様 オンラインサイトより 2020/11/07 05:00

豪雨で流失 球磨村の看板戻る 対馬から消防団へ

 

 

豪雨で流失 球磨村の看板戻る 対馬から消防団へより 部分的に転記させて頂きます。

 

7月の豪雨で流失し、直線距離で約290キロ離れた長崎県対馬市で見つかった

「球磨村消防団第四分団詰所」の看板が2日、対馬市消防団(安田寿和団長)のメンバーを通じて返還された。
看板は木製で縦1・5メートル、横0・4メートル。球磨川沿いにあった第四分団の詰め所にかけられていたが、豪雨で建物は倒壊し、看板もなくなっていた。

 

10月中旬、対馬最北端の海岸で海水浴施設に立てかけられている看板を男性が発見。知らせを受けた対馬市消防団が、直接、球磨村を訪ねて返還することになった。

 

村役場で開かれた式典で、安田団長は「看板の傷みから被害の甚大さを感じた。村民の励ましになればうれしい」とあいさつ。看板を受け取った村消防団の松野三千夫団長は「見つかるとは思っていなかった。心から感謝している」と述べた。

 村消防団によると、返還された看板は、豪雨被害の甚大さを伝える遺物として保管する。新しい看板は、対馬市消防団が持参した対馬産ヒノキの板に文字を入れて使うという。

 

以上 読売新聞様 オンラインサイトより 転記させて頂きました。・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

球磨村消防団の看板は豪雨により激流となった球磨川を下り

海流に乗って 対馬最北端の海岸まで 流れていったようです。

 

大水害は凄く悲しい出来事でしたが、看板を御縁に対馬の方々の温かい思いやりの心を球磨村の方々は受け取られました。

 

昨年の11月には このお話を私も存じ上げていたのですが、遠く離れた対馬の方々の思いやりと球磨村の方々の感謝の心をテレビで拝見して、嬉しくて涙が出た事をしっかりと記憶しています。

 

ただ・・・この時  悲しみの中で・・

球磨川は 教えてくれた

と私は感じました。

 

球磨川を下り

海流に乗れば 対馬最北端の海岸まで到達する事を

球磨川は 教えてくれた・・・

と私は感じました・・・

 

海流に乗れば 古代の球磨人は

朝鮮半島に さほど苦労する事なく

行けたのでは ないのでしょうか・・・

 

おそらく 対馬付近で一旦停留して

そこから 半島に渡ったのでは ないのかな・・・

と 考えております・・

 

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1.球磨には本当に熊がいた!

2.麻斯登登(ましとと)は球磨弁だった~!

3.球磨川の水は海流に乗って対馬に・・

 

とここまで書かせて頂きましたが 

最後に皆様方にぜひご覧頂きたい写真があります。

 

先日、人吉市の山間部「大野」にある「大畑梅園(おこば)」に行って来ました。😊

 

梅園で写真を沢山撮りましたので、その写真は後日ご紹介させて頂きます。

梅を見に来ていた人達は ほんの数人の方々のみでした 😊

 

私が ぜひ皆様方にご覧頂きたい写真は以下の写真です。

大豪雨により、宮崎県えびの市に繋がる国道の近くが崩落していた事を

標高の高い大野地区に伺った事で初めて知りました!

 

 

大野地区は以前からご紹介している3万年前の縄文時代の遺跡がある地

この梅園にも 巨石が沢山あります!

 

大野から球磨郡久米郷側を見た時に 土砂崩落が目印となって

私 初めて気が付いたのです・・・

 

球磨郡久米郷は標高の高い球磨盆地内のさらに高台に広がる台地 平野部である

と言う事を・・・

 

遠くに市房山・江代岳 そして旧球磨郡久米郷の家々や田畑が広がっています。

 

この写真を見て 初めて気が付いたのです・・・

球磨郡久米郷は標高の高い球磨盆地内のさらに高台に広がる台地 平野部である

と言う事を・・・

 

さらに、今回、ブログ内でご紹介したように

この地の山間部には熊が居たと言う事が証明されました。

球磨は熊もいる野である・・

球磨はクマがいる野である・・・

球磨弁で高い台地 を高原(たかんばる)と言います・・

 

つまり

球磨は熊がいる野 高原(たかんばる)である・・・

この風景を目の前で見ていた時に

この言葉が頭の中をリフレインして止まらなくなりました・・・

球磨は熊がいる野 高原(たかんばる)である・・・

 

そう言えば・・何故か・・・球磨には紀ノ國 熊野の新宮家の方々が 

南北朝時代に来られて、今でも系を繋げていらっしゃいます・・・

 

 

 

 

マタマタ そういえば・・

大野という地名がクマソ系図にも記されているようですね・・・

 

この大野の地にも広い集落がありますが、そこから下ってすぐが

お龍っつあん一行に水稲稲作を教えて頂いたと伝承が残る

田代集落なのです・・・(前々回のブログでもご紹介しました😉)

 

皆様・・・唐突なご質問ですが

狩猟採集をしていた方々と農耕を主体にしていた方々が突然出会ったら

どちらが強いと思いますか・・?

 

狩猟採集をしていたクマの人達は弓矢や槍、石鎚での狩猟はお手の物だったのでしょう・・

そう考えると 断然 狩猟採集をしていた方々の方が強いのでは・・

と私は考えました。

 

ただ・・この地の方々は 出会っても 争う事はしなかったのでしょう・・😊

仲良く 水稲稲作のノウハウを教えて・・教えてもらう・・😊

 

でも(ー_ー)!!

合流した この方々は ハイブリッドとなり

最強の軍団へと変貌を遂げたのかもしれません・・(p_-)

何せ、この地は鉄鉱石をはじめ、様々な鉱物が採れる 楽園でもあります。

鉄の農具や武器を手にした方々・・

 

それが・・

熊をも襲う 方々・・

住んでいる球磨は

熊がいる野 高原(たかんばる)である・・・

 

自然のありのままの姿を見て・・

感じ取る事って 沢山あると思うのです・・・

 

※2021/02/28 追記

球磨郡誌670ページ~671ページにかけて とても重要だと感じる記述がありますので

転記 致します。

 

(球磨郡)西村字京之峰(現錦町西村)に天下神社(アモイ)があり、中原村原田(現人吉市原田)に天下山(アモイ山)がある・・中略

 天下(アモイ)は天下(アモリ)と読むべきで、

この「アモリ」という言葉は古事記の伊邪那岐伊邪那美二神が淤能碁呂島に「天降坐而」

(アモリマシテ)とあるのが最も古いのではないかと思う。

古事記傳には「阿母理麻志テと調べし・・・阿母理は阿麻淤理の約りたる古語なり」

と註されてゐる。そして古事記の中には天孫降臨の條に此の言葉が何度も出て来る。

「襲=背」のかげとしての「くま」 古来熊襲之國として一括されて呼ばれた程密接な関係におかれた熊と襲、然して天孫降臨の景地としての襲を考へる時、

この球磨の地に阿母理神社・阿母理山の有るのは偶然ではない気がする。

(以上 昭和16年発行 球磨郡誌より転記致しました)

 

「襲=背」のかげとしての「くま」

阿母理は阿麻淤理の約りたる古語

そういえば・・阿 は クマ と読む漢字でもありました・・

以上 追記 でした。

 

 

皆様方😊

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

マダマダ油断は出来ません。
お身体十分に気を付けてお過ごしになられて下さい。

 

今日は 球磨川を下って海に出ていた古代の方々を思い・・・

元ちとせさんの 「ワダツミの木」を聞きたい気分です・・・😊

 

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『扁額とシトトと神代の文字 予告編御陵殿でチョッポ発見! 』 に続きます。