前回のブログ

(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬

より続きます。

 

 

 

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
 
度重なる自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

献身的な看護、そして治療に従事なさっていらっしゃる医療現場の方々の御苦労に

心から感謝致しております。 

感染なさった方々の早期回復をお祈りいたします。
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。

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前回のブログ

『(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬』では

①球磨には本当に熊がいた!

※荒谷 山人様の大発見
②麻斯登登(ましとと)は球磨弁だった~!

昭和16年発行の球磨郡誌より・・
③球磨川の水は海流に乗って対馬に・・

令和2年7月豪雨により球磨川に流された球磨村消防団の看板は対馬最北端の海岸で

発見された・・

と言ったお話を書かせて頂きました。😊

 

前回のブログを書いて気が付いたのですが・・

私は前回

ナマズもそろったし鳥もそろったし熊もそろったな~😊

と書きましたが、それだけでは無いですね・・(ー_ー)!!

 

八大龍王様は黒原山の頂上付近にお祀りであり、龍王神社様は私の住む旧久米郷宮原村(現あさぎり町岡原)のお隣、旧久米郷奥野村(現多良木町奥野)に御鎮座で・・

球磨・人吉地方では各地に龍の神様はお祀りになられていらっしゃいます。

 

ただ・・最も古い「龍」の伝説は今まで何度もご紹介させて頂いている

「お龍っつあん」のお話でしょう・・

水稲稲作を伝授なさったお龍っつさん御一行・・

球磨郡内の今から約2400年前の地層からは有肩打製石斧が出土している・・

 

有肩打製石斧 
稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。

 

約2,400年前と言えば・・春秋時代の呉国が滅んだ時期と一致・・

私はお龍っつあん御一行と有肩打製石斧が無関係だとは思えないのです・・

 

さらに「鹿」

球磨郡内には旧免田村(江戸時代中期までは面田村)に久鹿(クシカ)地名があり

さらに、人吉市には鹿目(かなめ)の地名があり、もっと調べれば「鹿」さんに関わる地名は出て来ると思います。

つまり、球磨にはナマズ・鳥・熊・龍・鹿 がそろっている訳です・・

 

 

さらに追記でも書いたのですが、球磨郡誌に記された

「襲=背」のかげとしての「くま」 古来熊襲之國として一括されて呼ばれた程密接な関係

※「襲=背」のかげとしての「くま」

この言葉がずっと頭から離れないでいます・・

球磨郡誌を編纂なさった方々はどういう思いでこの言葉を書かれたのか・・

その思いを知りたい・・

 

※「襲=背」のかげとしての「くま」

  陰と陽・・・

 

球磨における陰と陽について興味深い記述を拝見致しました😊

国宝青井阿蘇神社様の装飾です。

 

1.楼門の扁額にお関わりの方々

国宝青井阿蘇神社様の拝殿内の装飾は

青井阿蘇神社様の公式ページにてご覧頂く事が出来ます。

青井阿蘇神社様の公式ページ内 匠 では滅多に見られない御拝殿内の装飾をご覧いただけます。

皆様方、是非ともごゆっくり御覧下さい😊

 

 

 

青井阿蘇神社様の公式ページ内 匠 に記されていた内容に驚きました。

楼門屋根の四隅の軒下にそれぞれ陰陽一対(阿吽(ア・ウン)の形相)の計8つの神面がとりつけてあり、このような場所に神面が取り付けられているのは全国的にも他に類例をみない

と記されていました。

さらに・・

陰陽一対は、神道思想で人の心の荒々しさを表現した荒魂(あらみたま)を陽で、和やかさを表現した和魂(にぎみたま)を陰で表現しています。

とあります。

 

私は不勉強なので逆だと思っていたのです・・

陰は激しい と言うイメージだったのですが・・・違いました。

 

陰陽一対 

人の心の荒々しさを表現した荒魂(あらみたま)を陽で、

和やかさを表現した和魂(にぎみたま)を陰で表現

 

 

大変勉強になりました。<m(__)m>

※和やかさを表現した和魂(にぎみたま)を陰で表現

※「襲=背」のかげとしての「くま」

 

影・・かげ・・陰だ・・

陰とは 陰

 

和やかさを表現した和魂(にぎみたま)を陰で表現

和魂(にぎみたま)・・・

 

全国的にも他に類例をみない 楼門の装飾・・

国宝の楼門を製作なさった方も 何らかの意図がおありになられたのだろう・・

と私は考えました。

 

楼門と言えば・・扁額

2017年9月に書いたブログ『古(いにしえ)からの球磨の祭礼』も球磨に残された事を語る上ではとても重要な内容だったと、今はつくづくそう実感しています・・

 

古(いにしえ)からの球磨の祭礼

 

 

 

楼門の写真 当時、私が撮ったので下手くそですが・・

 

御楼門について ウィキペディアより

 

楼門に掲げる神額は人吉藩3代藩主相良頼喬が延宝5年(1677年)に奉納したもので、天台座主堯恕法親王の揮毫、林春常の裏書がある。

 

天台座主堯恕法親王 ウィキペディアより

堯恕法親王(ぎょうじょ ほっしんのう、寛永17年10月16日(1640年11月29日) - 元禄8年4月16日(1695年5月28日))は、江戸時代前期の皇族・僧。後水尾天皇の第十皇子。

天台宗延暦寺別院妙法院の門跡。

幼名は照宮。諱は完敏(さだとし)。字は体素。号は逸堂。

 

私はブログ『古(いにしえ)からの球磨の祭礼』を書いた時に、ここまでは勉強させて頂いていたのですが、後にさらに気が付いた事がありました・・

ただ・・国宝の神社様ですので、あまり妙な事は書けないから・・と躊躇していたのですがどうしても気になるので、今回初めて書かせて頂く事に致しました<m(__)m>

 

※楼門に掲げる神額は人吉藩3代藩主相良頼喬が延宝5年(1677年)に奉納したもので、天台座主堯恕法親王の揮毫、林春常の裏書がある。

 

天台座主堯恕法親王様は 

後水尾天皇の第十皇子 でいらっしゃいます。

 

では・・

林春常 と いう御方は・・

林春常(林 鳳岡) ウィキペディアより

「百科全書派」羅山 より

日本史にも造詣が深く、日本の国祖としての太伯説に関心を寄せている

 

 

さらに・・

本朝通鑑 ウィキペディアより 気になる箇所を抜粋させて頂きます。

 

 

天台座主堯恕法親王さま は

後水尾天皇の第十皇子 でいらっしゃる 御方

林春常(林 鳳岡)さま は

呉太伯説に肯定的でいらした林 羅山の孫でいらっしゃり林鵞峰のご子息でいらっしゃる御方

 

この事に気が付いた時から、実はずっとモヤモヤしていたのです・・

でもブログで書く事をずっと躊躇していました・・

モヤモヤは昨年の秋以降、この数か月の調査、ブログを書いてきた事で さらに強くなっています・・(独り言 私・・気が付いてはいけない事に気が付いてしまったのでは ないのかな

 

 

所で・・先に私は

球磨にはナマズ・鳥・熊・龍・鹿 がそろっている訳です・・

と書きましたが 色もそろっているのですよね・・

 

2.球磨の色に関わる地名

 

ブログ『古(いにしえ)からの球磨の祭礼』内でも書いていましたが

「大寶御注連祭(だいほうおんしめさい)」の御由緒書きにもある

明治39年に斎行された1100年祭の文献には 以下の記述がありました。
 

境内に長い竹を立て、頂上部に日・月・星をあらわす3本の御幣を取り付け、その下に円形に藁で編んだ縄を巻きつける。
この縄に森羅万象をあらわす青・黄・赤・白・黒の五色の御幣をしつらえ、麻苧や賽銭を取り付け、その下部から八方にしめ縄を張り巡らせ酒樽を吊り下げる

(以下略・・2021/03/05)

 

※森羅万象をあらわす青・黄・赤・白・黒の五色

 

江戸時代までの球磨郡(現人吉市も含む)から現代にも残る 色に関わる地名

青・・・青井村(現人吉市) 青井出(多良木村※現多良木町)

黄・・・黄檗(きわだ) 現球磨村 ※黄檗は鉄鉱石の産地

赤・・・赤池村(現人吉市)

白・・・白髪岳(旧上村※うえ)

黒・・・黒原山(くろばる 旧久米郷宮原村 現あさぎり町岡原と旧槻木村 現多良木町槻木)に聳える山

黒田 旧面田村(免田村) 現あさぎり町免田

黒肥地(くろひじ) 旧黒肥地村 現多良木町黒肥地

他にも色にまつわる地名は調べたらもっと出て来ると思います・・

 

球磨は

森羅万象をあらわす青・黄・赤・白・黒の五色 に関わる地名が残る地でもあります

 

 

3.シトトは本当に使っていた・・

前回のブログ

(再)球磨には本当に熊がいた!さらに麻斯登登は球磨弁 そして球磨川と対馬でご紹介したように

球磨郡誌より

「シトト」といふ小鳥がいるそうで
球磨郡だけに この名称が残っている・・・事実とすれば
これも神武天皇の皇后伊須気余理比賣が
大久米鯨利目而。思奇歌曰
「阿米都々 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米」
と歌はれた中の麻斯登登であると考へられ
随分古いものである。

 

 

前回のブログを書いた後、球磨弁の達人?の方々に調査を進めました(p_-)

すると・・すぐに お二人から回答がありました。

シトトは確かに使っていました

\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

免田(面田)の久鹿(クシカ)生まれの方(御年77歳)より

シトトは知っているよ😊

子供の頃、田んぼや畑の溝の所に仕掛けを兄がして一緒に

「シトト♪ シトト♪」と手を叩きながらゆっくりと呼ぶと

シトトがすぐに集まってきていたよ・・

 

おじいちゃん子だった私の幼なじみより

子供の頃、じいちゃんがシトトを見つけると

「ほら!シトトがおっぞ(いるぞ)😊」と呼んでくれて一緒に見ていた・・

 

すぐに、二人からシトトについてお話を聞く事が出来ました!

さらに、二人はシトトについて

スズメよりは大きいけど小鳥

と形態まで聞く事が出来ました\(◎o◎)/!

 

しかし・・二人はシトトの正式名称は解らないとの事でした😥

ただ・・二人とも

シトトはシトトやろもん!(シトトはあくまでもシトトだろう!)

と言うのですよね・・・

 

つまり、球磨では某鳥(小鳥)をシトトと呼ぶ鳥だと皆理解していて、

それが正式名称だ と理解していた事が解りました。

それだけ身近な鳥であった事は間違い無いようです。

 

前回のブログのコメント欄に堀ノ内様から

漢字で鵐と書く、スズメにた小鳥とありました。漢字の鵐は、国字(日本で作られ漢字)とあり、その由来は、鳥の占い(巫)にあると書かれていました。

とご教示を頂きました。(堀ノ内様 ありがとうございました)

 

※漢字で鵐と書く、スズメにた小鳥

球磨弁の達人?お二人は

※スズメよりは大きいけど小鳥

一致しているようです(p_-)

 

今の所、占いについては聞けていません・・・😥

さらに・・

前々回のブログで ご紹介した・・・究極の球磨弁・・

 

 

会合とかの後に行う 会食の事を
なおらい
と言います。例えば・・
会議の後はなおらいすっとばい
訳 (会議の後は会食になります)

 

前々回、球磨地方 特に 湯前町や旧岡原村(現あさぎり町岡原)と書きましたが・・

なおらい 多良木町でも言うバイ!😊

と多良木在住の70代の方からもお話を聞く事が出来ました。

 

直会 なおらい 球磨では普通に会話の中で使う言葉なのだ・・

という事が良く解りました。

 

私は今回考えたのですが・・・

シトトもなおらいも 球磨では生活に密着した言葉であり、普通に使っている事

その言葉が東に向かった事で、特別な意味を持つ言葉へと

変化したのでは ないのかな・・?

と・・

 

 

前回のブログで

球磨と対馬は海流に乗れば繋がっている

と言う事を書きましたが

球磨と対馬を結ぶものと言えば・・過去に何度もブログで書かせて頂いた

肥人之書(こまひとのて)がありますね・・・

 

4.肥人之書(こまひとのて)は神代の文字・・

 

鈴木商店記念館様サイト内

経済野話(現代訳・抄訳)②「国字の経済的改良」 より

 

 

 

1. 日本書紀には「肥人肥書(*)」を有すとある。当時、今の漢字すなわち我々祖先の持っていたものと異なった古代の文字が九州地 方に存在していたことは明らかである。 

 

(*古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人(肥人:くまびと、こまひと)が 使っていた文字とされることから肥人書(くまびとのて)とも呼ばれる。)

以上 経済野話(現代訳・抄訳)②「国字の経済的改良」 より抜粋・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

※古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人

(肥人:くまびと、こまひと)が 使っていた文字

 

阿比留文字 ウィキペディアより 抜粋

 

阿比留家の文書に阿比留文字や対馬文字と共に書かれている事から、阿比留文字の草書体とする説が国学者の平田篤胤などによって唱えられたが、今日の研究では起源の異なる文字であると考えられている。

 

史料
いわゆる神代文字の中でも、神道界に強い影響を与えた文字の一つである。

平田篤胤は『神字日文伝上』で、『釈日本紀』に「或乃川等字明見之」と述べられていた

「肥人之字」について、阿比留草文字に「乃川」に見える文字が存在することを根拠として

神字の草書を肥國人の書るなること疑なく」と述べ、阿比留草文字こそが「肥人の字」であるとした。

諦忍が1776年(安永5年)に著した『神国神字弁論』では、鶴岡八幡宮などに伝わる文字としている。また平田篤胤が1819年(文政2年)に著した『神字日文伝』では、鶴岡八幡宮のほかに鹿島神宮、大神神社、法隆寺、出雲大社など各地の寺社に伝えられるとしている。

『美社神字録』や、『かむことのよそあり』に採録される「大祓詞」では、阿波文字との混ぜ書きが用いられている。

『竹内文書』や『九鬼文書』(くかみもんじょ)にも阿比留草文字が登場する。

 

以上 ウィキペディアより抜粋させて頂きました。

 

 

「阿比留草文字(肥人書)」

①古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人(肥人:くまびと、こまひと)が 使っていた文字とされることから肥人書(くまびとのて)

 

②対馬国の卜部氏・阿比留氏に伝わったといわれる文字「阿比留文字」と共に

「阿比留草文字(肥人書)」は阿比留家の文書に対馬文字と共に書かれている。

 

③「阿比留草文字(肥人書)」は各地の神社において神璽や守符、奉納文などに用いられている文字である。神代文字の一つともされている。

 

名立たる神社様・・・

※伊勢神宮に奉納された神代文字による奉納文の中では、最も多く用いられている。

※鶴岡八幡宮のほかに鹿島神宮、大神神社、法隆寺、出雲大社など各地の寺社に伝えられるとしている。

※『美社神字録』や、『かむことのよそあり』に採録される「大祓詞」では、阿波文字との混ぜ書きが用いられている。

 

Ahiru kusa characters 1.jpg

 

 

「阿比留草文字(肥人書)」は神代文字の一つ

神代文字とは ウィキペディアより抜粋

神代文字とは漢字伝来以前に使用されたものであるという主張とともに紹介された多様な文字、文字様のものを指して用いられる名称で、神話や古史古伝に深く結びつき神代に使用された文字であると主張されているものと、後代になって神代文字の一種とみなされるようになったものとがある。

 

※神話や古史古伝に深く結びつき神代に使用された文字であると主張されているもの・・

前回のブログで書いた以下の事にも繋がっているような気がします・・

 

小野高尚の夏山雑談の巻之五には「西国邉土には古き詞遺れり」という一項があって
薩摩国、肥後国球磨郡などの人の言葉は
多くは、うつぼ、竹取、源氏物語、清女枕草子、四の鑑、大和物語等 にある言葉なり・・・ 

中略
それは・・  古きことば猶のことたり」
という記事があるさうである。

 

 

神代に使用された文字・・・「阿比留草文字(肥人書)」

前回書かせて頂いた

私が、自然をありのままに見た時に感じた事に繋がっているような気がします・・

 

 

 

球磨は
熊がいる野 高原(たかんばる)である・・・

 

神代に使用された文字・・・肥人書

古代の肥後国球磨郡(球磨川流域)に住んでいた人

(肥人:くまびと、こまひと)が 使っていた文字

 

神代・・・・

そういう事なのですね・・(独り言)

 

おそらく・・・

クマソは滅ぼされた と記紀の記述を元に先入観を持っていらしたら

この事が指す意味はご理解出来ないのでしょう・・

滅ぼされた方々の悲哀 を感じる方々は記紀のクマソの記述から受ける

先入観をお持ちの方々ではないのかな・・・

私は、この地に住んでいて 滅ぼされた方々の悲哀など全く感じません

むしろ

古代の球磨の方々の誇り を強く感じます・・

クマソの方々は滅ぼされてなどいない・・

 

ただ、先入観が現代においても未だ多くの方々にある・・

という事は

記紀を編纂なさった方々の意図は 成功した・・

という事になりますね・・

ただ、前々回のブログでも書いたように

球磨を陰(かげ)として隠す事は何らかの理由で必要だったのだと思います。

 

 

クマソの先入観・・・取り外して頂ける記述をご紹介致しますね😊

次回以降 詳しく書かせて頂きますが・・

 

九州の神社 サイト様より

球磨村 岩戸熊野坐神社様 (岩戸熊野座神社様)

 

 

御祭神        伊邪那美命、速玉男命、泉津事解男命

 

御由緒より 抜粋

伊邪那美命は、伊邪那岐命と夫婦となって国や生き物、植物等、この世のあらゆる物、

森羅万象を産み出しました。最後に火の神の軻遇突智かぐつちを産んだ時の火傷が原因で命を落とし、黄泉よみの国に入ったとされています。

岩戸熊野座神社全体黄泉よみの国ともされていることから

夫婦和合と縁結び、安産と「よみがえり(黄泉よみ帰かえり・甦よみがえり・蘇よみがえり)」の御神徳があるとされています。

 

※岩戸熊野座神社全体は

黄泉よみの国ともされていることから・・・・

 

 

感じていた事は 球磨は
熊がいる野 高原(たかんばる)である・・・

 

5.次回の予告編

社殿の背後に、皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる可愛山陵がある

新田神社様

 

鹿児島県薩摩川内市宮内町にある神社。薩摩国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

ウィキペディアの記述に驚きの内容を発見致しました。

 

 

当ブログ投稿直後ですがとても大切な事を勉強させて頂きました。次回

久米・くま は実に神(かみ)の転語なりしなり。尻久米縄から理解した事』に続きます。