前回のブログ

長田王(攝津大夫)がご覧になられた芦北の海 から続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334910147.html

 

前回の最後に書いた発見。

 

「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」
「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」
 
長田王 (摂津大夫)は日本書紀が完成する養老4年(720年)以前、
和銅4年(711年)に上記の歌を伊勢斎宮にてお詠みになっていらっしゃった。


「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」
「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」
まさしく、上記の和歌は景行天皇紀そのものの歌である。

さらに長田王 (摂津大夫)は和銅4年(712年)に伊勢斎宮へ派遣された際に

上記の和歌をお詠みになられた・・・・

 

前回のブログを書いた後に、「この事」(日本書紀完成以前の和歌である事)を何方か指摘されていないか?ネットで探したのですが、今の所どなたも書かれていないようでした。

開けてはいけないパンドラの箱を開けた気分です・・・・

 

しかし・・・本当のパンドラの箱はもっと大きかったようです。

 

長田王 (摂津大夫)は隼人の和歌も御詠みでした!

レポート     ・万葉集の歌、南限の地 ~ 黒之瀬戸様のサイトで確認致しました。

http://washimo-web.jp/Report/Mag-Kuronoseto.htm

 

レポート     ・万葉集の歌、南限の地 ~ 黒之瀬戸様のサイトより 

以下、長田王 (摂津大夫)に関する記述。

 

隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす
         遠くも我は今日見つるかも (巻3-248)
  
時の天皇の命令で九州に下った長田王がこの地に赴き、薩摩の瀬戸を、私は今日はるか彼方に眺めるていることだなあと、遠い地に来たものだという深い感慨を歌に詠みました。黒之瀬戸を見下ろす小高い丘の上に万葉歌碑として歌碑が建てられており、『うずしおパーク』にも歌碑が建てられています。

 

こちらのサイト様で解った事は、

大宝元年( 701年)の大宝律令の制定によって、隼人司(はやとし)の下に組み入れられ宮門警護や歌舞などの儀式の任に就いていた隼人の方々。

所が養老4年( 720年)九州南部に住む隼人が大和朝廷に対して大規模な反乱を起こし

征隼人持節大将軍に任命され、反乱の鎮圧にあたるため薩摩に赴いたのが大伴旅人。

大伴旅人も、此の地で和歌を詠まれていました。

 

しかし、養老4年( 720年)の「隼人の乱」と、先の長田王 (摂津大夫)は・・・

長田王 (摂津大夫)は和銅4年(712年)に伊勢斎宮へ派遣された際に

すでに水島と芦北の和歌をお詠みになっていらっしゃいます。

 

※隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす 遠くも我は今日見つるかも 

薩摩の瀬戸とは、熊本県天草の下、鹿児島県長島(町)と鹿児島県阿久根市の境にあり

八代海の一部です。

 

長田王 (摂津大夫)は、後に日本書紀に記される景行天皇紀に御所縁の「地」を廻られている事が解ってきました。

 

では長田王 (摂津大夫)は何時?肥後(旧熊国)や薩摩(旧曽国)に来られたのか?

 

答えは「肥後国 くまもとの歴史」様のサイトに記されていました。

サイト 肥後国 くまもとの歴史様 熊本の奈良時代 万葉集 長田王の作品 より

http://yumeko2.otemo-yan.net/e735926.html

 

慶雲年中(704~707)に、長田王(ながたのおおきみ)が肥後、薩摩の沿岸沿いに船旅をされたときの詠歌。 長田王が何の目的で来たのか不明ですが、この時期、諸国の様子を視察するため王族が地方に派遣されたので、長田王もそうした任務を帯びての旅だったと思われます。

 

※慶雲年中(704~707)に、長田王(摂津大夫)が肥後、薩摩の沿岸沿いに船旅をされた。

※この時期、諸国の様子を視察するため王族が地方に派遣されたので、長田王もそうした任務を帯びての旅だったと思われる。

 

★慶雲年中(704~707)

諸国の様子を視察するため王族が地方に派遣・・・薩摩(旧曽国)と肥後(旧熊国)に派遣された長田王(摂津大夫)。

一体何の為に諸国の様子を視察するため王族が地方に派遣されたのか?

それは、つまり

先のブログで書いたように、

※日本書紀、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、

「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。

この事に繋がっているのでは?と私は推測したのですが・・・・・。

天武天皇の崩御は686年10月1日。

天武天皇の御崩御の後も引き続き皇族の方々は日本書紀の編纂の為に諸国の様子を視察

すなわち

※焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。この下線を引いた部分に関係しているのではないか?

と私は考えるのですが・・・・

 

一つ気になる事があります。

※養老4年( 720年)の「隼人の乱」。

※養老4年( 720年)「日本書紀」完成。

全く同じ年の出来事です。

 

隼人の乱のきっかけは?

大宝元年( 701年)の大宝律令の制定によって、隼人司(はやとし)の下に組み入れられ宮門警護や歌舞などの儀式の任に就いていた隼人の方々。

所が養老4年( 720年)九州南部に住む隼人が大和朝廷に対して大規模な反乱を起こした・・

 

隼人の乱について ウィキペディアで勉強致しました(..)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1

 

隼人の反乱(はやとのはんらん)は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。

背景
7世紀後半の九州南部はヤマト王権(朝廷)の勢力が及んでいたものの支配体制は完全ではなく、熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。

朝廷は自らの勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたが九州南部においては住民の支持を得られなかった。これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためである。

 

※ここで気になる事が

7世紀後半の九州南部・・・

★1 熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。

稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためである。

 

「熊襲」・・「熊国」・「曽国」

球磨はシラス土壌は広がっていません。

球磨は100万年前まで、古代湖でした。その後、水がひいた後はローム層が広がる盆地となりました。

古代湖であった事により、此の地には古代「葦」が広く生えていたようです。

その葦の根に付いた「水酸化鉄」つまり「湖沼鉄」を利用して、古代球磨郡の人達は鉄を精製していたようです。(詳しくは後日書かせて頂くつもりです)

盆地の大きさは、奈良盆地と全く同じです。

その球磨盆地の中央を流れているのが球磨川です。

つまり上記★1の「熊襲」と呼ばれた方々は

古代連合国家の「熊曽」の方々(熊襲)の一部が九州南部のシラス土壌の地に移り住んだと言う事なのではないのでしょうか・・・

隼人とは=曽人であって熊人ではありません。

最近考えるのですが・・・熊曽・熊襲の定義とは

「熊曽」とは古代連合国家を指し、

「熊襲」とは両国の連合を契機に、交流の末の混血種族ではないのかな?と。

(素人考えですが)

補足:古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記されます。

 

ウィキペディアの転記を続けます。

一方、南西諸島を経由した中国大陸との交流が活発化しており、朝廷は覓国使(べっこくし、

くにまぎのつかい)と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年(文武天皇4年)に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。
朝廷は大宰府に武器を集め702年(大宝2年)8月、九州南部に兵を送るとともに唱更国(後の薩摩国)を設置し現地の支配体制を強化した。713年(和銅6年)には大隅国が設置され当時律令制導入の先進地であった豊前国から5000人を移住させ指導に当たらせるなど支配体制がさらに強化されている。律令制、特に国郡制の導入や班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。

 

反乱
養老4年(720年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。
隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。
1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、養老5年(721年)7月7日、副将軍らは隼人の捕虜を連れて都に戻った。隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1400人であったと伝えられている。反乱のため班田収授法の適用は延期されることになり戦乱から80年近く経過した延暦19年(800年)になってようやく適用されている。

 

関連遺跡

隼人七城
隼人側が立て籠もった7ヶ所の城は『八幡宇佐宮御託宣集』によると、奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽於乃石城、比売之城であったとされている。このうち曽於乃石城は国分城と清水城、比売之城は姫木城と橘木城であったと考えられているが、他の5城については国分平野付近に集中していたとする説と九州南部に広く分散していたとする説がある(現在の鹿児島県伊佐市は中世まで牛屎院と呼ばれた)。

 

※補足:鹿児島県伊佐市大口は人吉市から現在トンネルが通過した事により、車で30分もかからずに行ける場所です。 ドライブで頻繁に行っています。

地元なので、解るのですが・・・伊佐には球磨の白髪岳を源流とする川内川が流れていて、

水田地帯が広がっています。

先に書いたトンネルを抜けると麓の大口市木之氏(きのうじ)に出ます。

古代(100万年前)伊佐市大口木之氏(きのうじ)の山が崩れ、古代湖であった球磨湖の水の一部はここから抜けていったと言う事です。

伊佐市大口木之氏(きのうじ)には大熊山があり、麓は広い田園地帯です。

 

西暦700年代と現在では、その景色は全く異なっていた・・と言う事でしょうか・・

隼人の乱の際、球磨郡は朝廷側の前線基地となりました。

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大まかな事は理解出来たのですが・・・・

まだ・・何か私の頭の中はモヤ~ッとしています・・・・

 

そこで、乱の発端を深く考えてみたのですが

※養老4年(720年)2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。

つまり

『大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された』 この事件が発端あった・・・

 

そこで、『陽侯史麻呂』この方について調べてみました。

 

陽侯史麻呂 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E4%BE%AF%E9%BA%BB%E5%91%82

 

陽侯 麻呂(やこ の まろ)は、奈良時代の官人。姓は史。官職は大隅国守。

出自
陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)は隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する渡来系氏族。氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡とも記される。文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓と久爾曾の名を与えられ、勤広肆に叙せられている。

渡来系の陽侯麻呂が国司に任命されたのは、南九州と中国大陸の間に古くから何らかの関係があったためではないか、という説がある。

経歴
大隅国守在任中の養老4年(720年)に反乱を起こした隼人によって殺害される。その知らせは同年2月29日に大宰府から朝廷に届けられ、この事件がきっかけで隼人の反乱と呼ばれる戦闘が勃発することになった。

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①陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)は隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する渡来系氏族。

②氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡とも記される。

③文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓と久爾曾の名を与えられ、勤広肆に叙せられている。

 

①の『隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する』 と

③文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓と久爾曾の名を与えられ、勤広肆に叙せられている。

から「煬帝」。この方を勉強しました。

 

煬帝 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D

煬帝(ようだい、ようてい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。

煬帝は唐王朝による追謚である。

即位まで
後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。

 

文帝楊堅 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%A0%85

楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。

出生
楊堅は、北周の大将軍の楊忠と呂氏の間に生まれた。楊氏は漢民族で後漢の楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。しかし、漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫という説がある。

父:北周の大将軍の楊忠

母:呂氏

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①と③から推測すると、陽侯氏は比較的新しい日本における諸藩(渡来系氏族)の方々であった事が理解出来ました。

ただ、そこで疑問が湧きました。

朝廷が700年代においても中々統治する事が出来なかった大隅国に、文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓を賜ったと言われる「陽侯史」の方が国司として赴任されたのは何故だろう?・・・と。

 

この疑問を考えた時に・・何か縁(地縁・由縁)があったのでは?とふと感じました。

そこで

②氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡とも記される。

『楊候・楊胡・陽候・陽胡』・・この姓の方々と大隅・薩摩、すなわち旧「曽国」に何か繋がりがなかったのか?と考え色々調べた結果・・・

 

日本の苗字七千傑様のサイト内にある【山田氏】姓氏類別大観に楊候氏・楊胡氏の姓を

見つける事が出来ました。

 

参考 日本の苗字七千傑様サイト

http://www.myj7000.jp-biz.net/

 

【山田氏】姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03034.htm

 

【山田氏】 日本の苗字七千傑様サイトより
周霊王太子晋の裔にして、魏の司空王昶の後裔なり。
欽明朝に王柳貴は五経博士として来朝帰化、後裔は河内国交野郡および錦部郡の山田郷を本拠とする。

《周王裔氏族綱要》を拝見すると『 周 〈姫姓〉 』

さらに

掲載姓氏の項

宣王の子尚父後裔に

【楊氏】【板茂氏】【伊吉氏】【伊岐氏】【壱岐氏】【滋生氏】【楊胡氏】【楊侯氏】。

 

【楊胡氏】【楊侯氏】 あった!ありました!

 

★周 〈姫姓〉 【楊胡氏】【楊侯氏】

 

姫 姓(き)・・・

「呉王太伯」「夫差」・・呉氏(姫 姓)

後裔は肥国の山門に住する。

周 〈姫姓〉【楊胡氏】【楊侯氏】の方々と【呉氏】(姫 姓)は同じ「姫 姓」(き)である!

すなわち「同族」

 

朝廷が700年代においても中々統治する事が出来なかった大隅国に、文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓を賜ったと言われる「陽侯史」の方「陽侯史麻呂」が国司として赴任されたのは何故だろう?

と考えて調べた事を頭を整理する為にまとめてみます。

 

★① 隼人の乱は養老4年(720年)2月29日、

    『大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された』 事件が発端あった。

 

★② 陽侯史麻呂・・・姓は「陽侯史」

 

★③ 陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)は隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の

    末裔を称する渡来系氏族。

 

★④ 文武天皇4年(700年)僧侶の通徳が還俗して陽侯史の姓と久爾曾の名を

     与えられ、勤広肆に叙せられている。

 

★⑤ 氏は楊候・楊胡・陽候・陽胡とも記される。

 

★⑥ 楊候・楊胡の姓は周霊王太子晋の裔にして、魏の司空王昶の後裔山田氏と

    同族の宣王の子尚父後裔にも見える。

 

★⑦ 『 周 〈姫姓〉 』​​​​​​​ ・・・楊候氏・楊胡氏、姓は姫姓である。

 

★⑧ 「呉王太伯」「夫差」・・呉氏(姫 姓)後裔は肥国の山門に住する。

 

★⑨ 周 〈姫姓(き)〉【楊胡氏】【楊侯氏】と【呉氏】(姫 姓(き))は同じ「姫 姓(き)」

であり 「同族」となる。

 

隼人の乱は養老4年(720年)2月29日、『大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された』 

事件が発端あった。

 

まとめてみたのですが

隋の煬帝の子孫である達率楊候阿子王の末裔を称する渡来系氏族「陽侯氏」

(楊候・楊胡・陽候・陽胡)氏

周(姫姓)宣王の子尚父後裔「楊候氏・楊胡氏」

 

何らかの繋がりがあったのでは?と考えてしまうのは私の妄想でしょうか・・・?

 

今回は

1.長田王(攝津大夫)の足跡を追うと「日本書紀」の編纂に繋がる事実が見えてくる。

2.隼人の乱を調べると何故か?「姫 姓」の方々が見えて来た・・・

 

というお話を書かせて頂きました。

 

次回 

球磨と古代の製鉄① に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335294512.html