前回のブログ

肥人は縄文時代末期 「お米」と共にやって来た より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334764893.html

 

前回までのブログ数回は文字が多かったので、今回は美しい芦北の海の写真を

ご紹介致します。

 

先日、芦北にドライブに出かけました。

球磨は山のまた奥のイメージだと思いますが、確かに八代からは山のまた奥です。

しかし、

芦北(佐敷の海)までは人吉中心部から車で40分もかからずに今は行く事が出来ます。

田浦方面に向かう海岸線をドライブしていると、何かの史跡を見つけました。

今まで何度も通った事のある海岸線なのに、気が付いたのは今回が初めてでした。

とても、気になったのですが、そのまま、先までドライブ。

しかし、帰りに必ず寄ってみようと!心に決めて(気になって仕方なくなり、ソワソワ・・・)

帰りに主人に車を止めてもらい、史跡に向かいました。

 

 

横には史跡の説明文が書かれた案内板が建っていました。

 

 

 

 

 

 

野坂の浦

奈良時代に、筑紫に遣わされ水島に渡った長田王(天平9年・737年没)が

”芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波たつなゆめ”

と詠んだ歌が万葉集に載ったため有名になり平安時代の歌人たちが京都にいて野坂の浦を歌の題にしたといわれています。

この野坂の浦が、ここ芦北の海岸だといわれています。

(案内板より)

 

帰宅して、早速『長田王(天平9年・737年没)』とは、どなたなのか?と勉強しました。

 

ウィキペディア より 『長田王 (摂津大夫)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E7%8E%8B_(%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%A4%A7%E5%A4%AB)

 

長田王(ながたおう、生年不詳 - 天平9年6月18日(737年7月20日))は、奈良時代の皇族。官位は正四位下・摂津大夫。

 

経歴
和銅4年(711年)正五位下に叙せられ、翌和銅5年(712年)伊勢斎宮へ派遣される。元明朝末の和銅8年(715年)正五位上、元正朝に入り霊亀2年(716年)従四位下・近江守と続けて昇叙される。
神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位上に叙せられると、のち神亀6年(729年)正四位下・衛門督、天平4年(732年)摂津大夫に叙任されている。天平6年(734年)朱雀門前で歌垣が開催された際、栗栖王・門部王・野中王らとともに頭を務めた。
天平9年(737年)6月18日卒去。最終官位は散位正四位下。

 

人物
聖武朝初期に、六人部王・門部王・佐為王・桜井王ら十余人と共に「風流侍従」に

数えられた。
歌人として、『万葉集』に伊勢斎宮に遣わされた際山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌6首が入集。また、『歌経標式』にも和歌作品1首が採録されている。

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上記の『筑紫の水島へ派遣』  筑紫=九州 水島=八代 と言う事で

長田王は九州に来られて船で水島(八代)に向かわれる際に、芦北の海を眺められて御詠みになられた歌が

”芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波たつなゆめ”

と言う事が解りました(^'^)

 

長田王が、お眺めになられた海です。

穏やかな海でした。

 

 

 

対岸は天草の山々です。

何と言う山なのかな?倉岳かな?と思い、地図で確認しました。

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.22.43.765N32.22.19.712/zoom/6/

 

おそらく倉岳でしょう(^'^)

地図をじっと見つめると・・・・うん? 倉岳の手前に見えるのは・・矢筈嶽・・・・・あれっ???

いかん(;一_一) 美しい景色を堪能して頂こうと思っているのに・・・頭が古代に向かいます・・

 

古代から気持ちを切り替える為にこの場所が説明されているサイトを拝見しました。

(もう一度美しい海を見た時の感動を呼び起こす為に)

 

九州の今 熊本の今 サイト様

https://www.welcomekyushu.jp/kyushu_now/kumamoto/451.html

 

美しい海です(^'^)

・・・・でも、サイト内の地図がやはり気になって、ドラッグして天草に移動すると・・・

やはり「矢筈嶽」が見えます!・・・(古代から思考が離れなくなっている・・)

 

もう一度 美しい海の写真を見たら、思考が戻るかな・・・

 

美しいです(^'^)

ただ・・・対岸から矢で狙われているような気がします・・・・・(@_@。

大丈夫・・・ここは自宅です(-.-)

 

どうしても気になるので、頭を古代に戻します(p_-)

解った事は古代、「芦北」と「天草」は別の国だったようです(p_-)

古代の小国家の一つが天草なのか?

もう一度、地図を見ました。

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.26.18.353N32.25.13.412/zoom/6/

 

「丸山」が見えます!

斉藤 洋 東洋大学法学部教授
『紹介 古代日本領土の起源 日本領土の発祥的形態に関する研究』 より
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110008582819.pdf?id=ART0009713222

6ページ 記載

『一例をあげると異なる部族が争い合い・・・中略

終戦、または講和の場合(講和条約もしくは平和条約)、大平という名称を用いる。

そして平和が取り戻せたこと又は当該地域を中立地帯にするという証として祠を祭ったり、

それが無いときは丸山・亀山といった平和をイメージするような名称を付すということである。』

 

※芦北の対岸の天草には芦北に向かって「矢筈嶽」があり、「丸山」がある。

と言う事は・・古代の芦北の国と天草の国は其々別々の国であり、争いの後

講和条約もしくは平和条約を結び、平和を取り戻せた証として(当該地域を中立地帯にする)、「丸山」の名称が付された。

となりますね(p_-) 

面白い! 面白いです! 調べると非常に楽しくなりました。

(景色を堪能する事はとても大好きなのですが・・・その先を調べるのも楽しいです)

 

ここで・・・一旦思考を奈良時代に戻します。

 

『長田王 (摂津大夫)』 この方は

※歌人として、『万葉集』に伊勢斎宮に遣わされた際山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌6首が入集。

 

九州に来られて船で水島(八代)に向かわれる際に、芦北の海を眺められて御詠みになられた歌が ”芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波たつなゆめ”

 

ここで水島についてですが

ウィキペディアより 水島

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B3%B6_(%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C)

 

水島(みずしま)は、熊本県八代市植柳下町・水島町に位置し、球磨川河口の堤防近くにある無人島。

 

伝説
景行天皇が九州を巡幸し芦北の小島で休息して食事をしようとした折、水が無かったため小左と申す者が天地の神々に祈ったところ、冷水が湧き出し天皇に献上できた。故にここを「水島」と呼ぶ、と『日本書紀』景行天皇十八年四月十八日条に記述がある。工業用水などの汲み上げにより1955年頃に湧水は涸れてしまい、故地には石碑が残るのみとなっている。
『県風土記』球磨の里に「県の乾のかた七里、海中に嶋あり。積さ七十里ばかりなり。名づけて水嶋と曰ふ」とある。

 

★『日本書紀』景行天皇十八年四月十八日条

結局繋がってくるのですね・・・

★小左と申す者・・・※時召山部阿弭古之祖小左

ブログ 本題 山部王 そして球磨(古代久米)と山部 で書かせて頂きました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12328855951.html

 

熊縣(現在の球磨・人吉地方)の熊津彦と言う方の記述の後に※時召山部阿弭古之祖小左

 

サイト日本神話・神社まとめ様より  兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉

https://nihonsinwa.com/page/1131.html


日本書紀景行天皇18年紀 山部阿弭古と水嶋
原文
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。

 

※夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彦者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。

 

現代語訳

(即位18年)夏4月3日に熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に到着しました。そこに熊津彦(クマツヒコ)という兄弟が二人いました。天皇はまずは兄熊(エクマ)を呼び寄せました。すぐに使者に従って、(天皇に)詣でました。次に弟熊(オトクマ)を呼び寄せました。しかし来ませんでした。そこで兵を派遣して誅殺しました。 

 

熊津彦と言う方の弟「弟熊(オトクマ)」と言う方が亡くなったお話です。

熊津彦、この方は(天皇に)詣でた事により無事です。

ここを・・・勘違いして?(原文を読んでいらっしゃらないのかな?)球磨郡の熊襲が討たれたとか言われる方が多いのですが(よくネットでお見かけします(..))

原文には一言も「熊襲」とは書かれていないのです。

あくまでも「熊縣(熊県)」の熊津彦と言う方であり、さらに討たれた方は弟熊(オトクマ)と言う方です。

 

『熊襲が朝貢をしない』と景行天皇が筑紫(九州)にお越しになられたのは

即位12年の8月 ①

https://nihonsinwa.com/page/1099.html

 

熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文の記述は

同じく即位12年の11月 ②

https://nihonsinwa.com/page/1123.html

 

https://nihonsinwa.com/page/1127.html

 

※③上記の前に『鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折』『土蜘蛛』と言う方々が討たれています。

即位12年内の事です。

 

では兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉は何時の事か?

それは『日本書紀』景行天皇十八年四月十八日条

すなわち、先に紹介した熊襲の記述①~③からすでに6年も経過した後の話です。

さらに・・一言も「熊襲」とは記されておらず「征伐に来られた」と言う記述も無い!

私はこの事実を、「皆様にお伝えしたい」と常々考えていました。

 

一番解りやすいのは

サイト日本神話・神社まとめ様の 景行天皇(日本書紀) 要約の記述です。

http://nihonsinwa.com/column/novel/28.html

 

 

 

ウィキペディアの「水島」の記述に戻します(..)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B3%B6_(%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C)

 

水島を詠んだ歌
「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」(長田王 万葉集3-245収録)
「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」(長田王 万葉集3-246収録)
「波のうつ 水島の浦の うつせ貝 むなしきからに 我や成らん」(曽根好忠 続後撰集収録)

 

ふと・・・考えたのですが

長田王さまは・・・何をしに芦北や水島にお越しになられたのかな?と・・

芦北の「野坂の浦」から八代の水島に船で行かれる・・・

と言う事は、北(北部九州方面・熊本方面)から来られた訳ではないと言う事です。

その前に何処かにお寄りになられているのでは・・・?

まるで『日本書紀』景行天皇紀のように・・・

まるで『確認の為の旅』のように・・・

それと・・気になる事は

『長田王 (摂津大夫)』 ・・・「大夫」・・魏志倭人伝の記述が頭に浮かびました・・

 

「水島」を詠まれた長田王さまの和歌は万葉集に入集・・

万葉集と言えば・・・柿本人麻呂・・「肥人を詠まれた方」・・・

さらに長田王さまは

※歌人として、『万葉集』に伊勢斎宮に遣わされた際山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌6首が入集。

伊勢斎宮に遣わされた際・・?

山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌?

 

伊勢斎宮  ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E5%AE%AE

 

斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代にかけて、

伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。

 

何故?伊勢斎宮に遣わされた際に、長田王は、『山辺の御井でおよび筑紫の水島へ

派遣された際に詠んだ和歌』をお詠みになられたのだろう・・????

あれっ??? 何故??

 

山辺の御井・・あっ!山辺(やまべ)・・・やまべ!・・・やまべ!?

何故????

 

さらに『長田王 (摂津大夫)』この方は何故?筑紫(九州)へ派遣されて芦北や水島に行かれたのか?

『長田王 (摂津大夫)』と日本書紀の関係は?

長田王 (摂津大夫)は和銅4年(711年)正五位下に叙せられ、翌和銅5年(712年)伊勢斎宮へ派遣される。

日本書紀・・・養老4年(720年)に完成。

ウィキペディアの記述では

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

 

※そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。

記紀編纂の要因 中略・・

『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。
なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原史料の1つであったとする説を出している。

なお、『続日本紀』和銅2年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人と三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている。

 

※焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに

『日本書紀』が編纂された。

※長田王 (摂津大夫)は和銅4年(711年)正五位下に叙せられ、翌和銅5年(712年)伊勢斎宮へ派遣される。その際に山辺の御井でおよび筑紫の水島へ派遣された際に詠んだ和歌を詠まれた・・・

「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」

「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」

 

つまり!長田王 (摂津大夫)は日本書紀が完成する養老4年(720年)以前、

和銅4年(711年)に上記の歌をお詠みになっていらっしゃった!と言う事です!

発見致しました!

「葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ」

「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」

まさしく、上記の和歌は景行天皇紀そのものの歌です!

 

★「聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水島」

伝説
景行天皇が九州を巡幸し芦北の小島で休息して食事をしようとした折、水が無かったため小左と申す者が天地の神々に祈ったところ、冷水が湧き出し天皇に献上できた。故にここを「水島」と呼ぶ、と『日本書紀』景行天皇十八年四月十八日条に記述がある。

 

 

しかし、今回の内容も全て、偶然ドライブして海を眺めた結果から始まっているのですが・・

以前書いたように、私は今、見えない何か「大きな力」が背中を押して下さっているような

やはり、そんな気がしています・・・

 

次回 「長田王(攝津大夫)の足跡 及び隼人の乱について」

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335001934.html

に続きます。