前回のブログ

球磨は縄文時代の連合国家の一部だった! より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334680762.html

 

前回の勉強(調査)の最後にまとめた内容の中で

★7 縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。
★8 ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。
★9 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。
★10 列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。 
★11 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出された。
★12 縄文時代の稲作跡地
※熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡・鹿児島県の上野原遺跡・岡山市北区津島の津島江道遺跡
『熊本(肥国※熊国)・鹿児島(曽国)・岡山(吉備国)』

 

上記の★7~★12を理解した私は、さらに、「米」の歴史を調べました(p_-)

 

米 ウィキペディアより 抜粋致します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3

 

米(こめ、英: rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去った粒状の穀物である。穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼ぶ。東アジア・東南アジア・南アジア以外では一般的に主食として特別視することが希薄であり、日本語でいう「米」「稲」「飯」といった、収穫前・収穫後・調理前・調理後などによる区別がない言語が多数ある。

 

イネの系統と米
国際稲研究所(IRRI)による米の種子の収集
イネ科植物にはイネのほかにも、コムギ、オオムギ、トウモロコシなど、人間にとって重要な食用作物が含まれる。イネはトウモロコシ、コムギとともに世界三大穀物と呼ばれている。
イネ科イネ属の植物には22種が知られている。このうち野生イネが20種で栽培イネは2種のみである。栽培イネは大きくアジアイネ(アジア種、サティバ種、Oryza sativa L.)とアフリカイネ(アフリカ種、グラベリマ種、Oryza glaberrima Steud.)に分けられる。また、両者の種間雑種から育成されたネリカがある。

 

アジアイネと系統
イネは狭義にはアジアイネを指す。アジアイネにはジャポニカ種とインディアカ種の2つの系統があり、これらの両者の交雑によって生じた中間的な品種群が数多く存在する。

アジアイネ(アジア種、サティバ種)の米は、ジャポニカ種(日本型米、ジャポニカ・タイプ)

インディカ種(インド型米、インディカ・タイプ)、そして、その中間のジャバニカ種(ジャワ型米、ジャバニカ・タイプ)に分類されている。それぞれの米には次のような特徴がある。

 

※ジャポニカ種(日本型、短粒種、短粒米)
粒形は円粒で加熱時の粘弾性(粘り)が大きい。日本での生産は、ほぼ全量がジャポニカ種である。主な調理法は、炊くか蒸す。他種に比べ格段の耐寒冷特性を示す。

 

※インディカ種(インド型、長粒種、長粒米) 以下省略(..)

 

※ジャバニカ種(ジャワ型、大粒種)
長さと幅ともに大きい大粒であり、粘りはインディカ種に近い。東南アジア島嶼部で主に生産されるほか、イタリア・ブラジルなどでも生産される。
なお、日本型とインド型に分類した上で、このうちの日本型を温帯日本型と熱帯日本型(ジャバニカ種)として分類する場合もある。

 

種類
インドネシアの米屋に並ぶ多種多様のコメ
米は各種の観点から以下のように分類される。

※水稲と陸稲
水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、耐旱性や耐病性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ)という。水稲と陸稲は性質に違いがあるが、同じ種の連続的な変異と考えられている。

 

歴史

稲は、原産地の中国中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。麦などの他の穀物に比べて栄養価が高く、ほぼ完全食であり、大量に収穫できることから、アジアの人口増大を支える原動力となった。

 

日本
稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、縄文土器に残る痕跡などからわかる。

大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、

各地に水田の遺構が存在する。
弥生期では一粒辺りから生産できる量は400粒ほどだったが(それでも麦が一粒辺り150 - 170粒の生産量であることを考えれば、高い生産量といえる)、品種改良や水田開発が進んだ現在では一粒辺り2千粒(約5倍)まで生産量が上がっている。

 

米は、食料として重要である一方で、比較的長期に保存ができるという特徴から、マダガスカルのメリナ人やタイにおけるサクディナー制など、米食文化においては経済的に特殊な意味を持ち、これは日本でも同様であった。
長らく租税(租・あるいは年貢)として、また、石高制に代表されるように、ある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。

 

(p_-) ここまでで、理解出来た事をまとめます。

★1 イネは狭義にはアジアイネを指す。アジアイネにはジャポニカ種とインディアカ種

   の2つの系統があり、これらの両者の交雑によって生じた中間的な品種群が数多く

   存在する。

   『ジャポニカ種(日本型米、ジャポニカ・タイプ)・インディカ種(インド型米、インディ

   カ・タイプ)その中間のジャバニカ種(ジャワ型米、ジャバニカ・タイプ)』

★2 稲は、原産地の中国中南部から北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。

★3 稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパー

   ルや、炭化した籾や米、縄文土器に残る痕跡などからわかる。
★4 大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけ

   てである。

 

さらに調べました(p_-)

ジャポニカ米 ウィキペディアより 抜粋致します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%AB%E7%B1%B3

ジャポニカとインディカの系統上の分岐は栽培化以前の7000年以上前とされ、それぞれ独自に野生イネ より栽培化されたと考えられている。インディカは一年生野生イネから栽培化されたという説もある。
栽培地域が地理的に隔たっていたため、両系統の遺伝情報に多くの変異が蓄積されており、二代雑種では生殖的隔離が見られる。近年、出土遺体のDNA解析によって、ジャポニカ種が長江流域で栽培化されたことが分かっている。

日本に稲作が伝来した経緯については稲作の項を参照のこと。

 

★5 近年、出土遺体のDNA解析によって、ジャポニカ種が長江流域で栽培化されたこ

   とが分かっている。

 

さらにさらに調べました(p_-)

稲作の項を参照・・・と言う事で

稲作 ウィキペディアより 抜粋します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

 

歴史
起源

稲作の起源は2012年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、

約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。(かつては雲南省の遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた)

中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部や遼東半島にまで分布した。
いっぽう東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。

長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。 野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている

 

★6 稲作の起源は考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年

   前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。

★7 中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とし

   た地域に限られていて、紀元前3000年以降山東半島先端部や遼東半島にまで分

   布した。

★8 東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオースト

   ロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる

 

補足※オーストロネシア語族とは

オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明された。この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。

むむむ~っ!(p_-)三島氏が書かれていた古代日本で言う所の『隼人族・前出雲族(マラヲ・ポリネシア系)』の方々ですね。

★9 長江流域にある草鞋山遺跡のプラント・オパール分析によれば、約6000年前にそ

   の地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。

 

ウィキペディア「稲作」からの抜粋を続けます。

日本への伝来
伝来ルート

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり、現在も議論が続いている。

 

朝鮮半島経由説
長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説などで、地理的な近さと当時の考古学上の傍証から(直接的な証拠は無い)有力視されてきた。
2001年当時、佐原真は「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」と述べ有力であった事を示しており、多くの学者が同様の趣旨の事を述べている。
しかし、考古学の進展から水田稲作の渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が高い事がわかったため、有力視されていた説が揺らぎ、朝鮮半島を経由する説の中にも下記のように時期や集団規模などに違いのある複数の説が登場している。
※紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上した戦争遺民(池端宏2008年)
※支石墓を伴った全羅南道の小さな集団が水田稲作を持ち込んだ(広瀬和雄2007年)
※風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた。(佐藤洋一郎 2002年)
※分子人類学者の崎谷満も、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとしていた。

 

★10 伝来ルート:イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、

   『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり、現在も

   議論が続いている。

★11 朝鮮半島経由説:長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、

   紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説。

 

※しかし、考古学の進展から水田稲作の渡来時期が5世紀早まり、紀元前10世紀には渡来し、長い時間をかけて浸透していった可能性が高い事がわかったため、有力視されていた説が揺らいでいる。

 

江南説(対馬暖流ルート)
農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説で、生化学の分野で有力視されている。
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた調査から、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して直接に日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している。
考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。

 

★12 江南説(対馬暖流ルート) : 農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の

   長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説で、生化学の分野で

   有力視されている。

★13 2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲

   (温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた調査

   から、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが

   主品種であり、江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が

   確認された。

★14 2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いて

   ジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯

   ジャポニカが東南アジアから中国を経由して直接に日本に伝播したことを確認し、

   論文としてネイチャー ジェネティクスに発表。

★15 考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱

   の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した

   可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。

※補足 「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来した」

呉族(姫姓 呉夫差後裔)は北九州と言うよりは・・・『肥国の山門に来た』と系図には書かれています。

 

南方経由説(黒潮ルート)
柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。
北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。
考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、渡部忠世や佐藤洋一郎が陸稲(熱帯ジャポニカ)の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している。

 

★16 南方経由説(黒潮ルート) : 柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国

   の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である

★17 北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と

    称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の

   技術を持った 人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘

※補足 私の住む旧球磨郡久米郷。 久米の地名と言えば南方の久米島。

     沖縄県島尻郡久米島町。 きっと経由されたのでしょう(^'^)

 

西アジアへの伝来
トルコへは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、インドからペルシャを経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である

※・・・・むむむっ!残念(..) 未解明

 

日本国内での歴史

縄文稲作の可能性

縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、縄文時代後期(約3500年前)に属する岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内から出たプラント・オパールである。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の地層から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる。
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性がある。土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性がある。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている。

否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない。

プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である。特に焼畑農業が注目されている。縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌から得られたプラント・オパールの分析からは、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高いことが指摘されている。
水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた。栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する

 

★18 確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる

    縄文時代晩期後半以降である。

★19 縄文時代晩期の宮崎県桑田遺跡の土壌から得られたプラント・オパールの分析

    からは、現在まで引き継がれる水稲系の温帯ジャポニカではなく、陸稲が多い

    熱帯ジャポニカが栽培されていた可能性が高い。

※水稲と陸稲 先に書きましたように(米の種類)
水田で栽培するイネを水稲(すいとう)、耐旱性や耐病性が強く畑地で栽培するイネを陸稲(りくとう、おかぼ)という。水稲と陸稲は性質に違いがあるが、同じ種の連続的な変異と考えられている。 とありました。

※ 補足 宮崎県桑田遺跡とは宮崎県えびの市の遺跡です。すなわち球磨郡のお隣です。

★20 水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として

    長い間栽培されてきたことは宮崎県上ノ原遺跡出土の資料からも類推されていた

★21 栽培穀物は、イネ、オオムギ、アズキ、アワであり、これらの栽培穀物は、

    後期・末期 (炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。

 

 

古代の稲作
青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている 。

古墳時代に入ると、農耕具は石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させた。土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造された。

大和朝廷は日本を「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。朝廷は水田を条里制によって区画化し、国民に一定面積の水田を口分田として割りあて、収穫を納税させる班田収授制を652年に実施した。

 

ここまで、大変長くなりましたが、

「米」・「稲作」の品種及びと歴史等について勉強してみました。

 

感想は・・・・勉強して本当に良かった\(^o^)/ です。

今まで、得て来た様々な古代の情報。

お米の歴史を調べたら、納得しました。

 

お米と稲作の歴史は結局、古代の日本における連合国家の歴史に繋がっています!

私が別記した★1~★21までの中に

「長江流域」・「湖南省周辺地域」・「雲南省」・「呉国」・「オーストロネシア語族」等の言葉が

出ていました。

 

「長江流域」・「雲南省」・「湖南省周辺地域」・・・三島氏より前印度 モン・クメール系の倭人と呼ばれた方々の古代中国での居住地。

「呉国」・・・・肥国に移住した呉王太伯後裔「夫差」(姫姓)

「オーストロネシア語族」・・・かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていた方々で

同族は古代日本における『隼人族・前出雲族(マラヲ・ポリネシア系)』と三島氏が記された方々。

 

さらに、「長江流域」・「江南地方」は球磨に直接繋がります。

(今までの私の球磨の古代の遺跡等関する調査の中で何度も登場する地域です)

 

古代の球磨周辺域の皆さん

お米と共に来られたのですね(^'^)

 

私は先のブログで、この方々を縄文時代草創期から球磨にいた純粋「球磨人」に対して侵攻してきた・・侵略者のように書きましたが(..)

豊かな実りをもたらした方々でもあった!と言う事がよ~く解りました。

ただ・・侵略ではなく融合であって欲しい・・と願います(..)

 

しかし・・・大好きなお米を食べ過ぎて、別の意味での「肥人」になった私が

大好きな「お米」の事を調べたら、結局、古代の日本が見えて来た・・と言う事で

やはり、お米はありがたく「沢山頂きましょう!」

 

※ 補足します(p_-)

別の意味での「肥人」になった私の元の体重は35キロです。ガリガリです。

お米が私を10ウンキロ太らせて強い女にしてくれました。

(強いとは風邪をひかないと言う意味です)

(^'^)  ⇒ (^-^)

ありがたやぁ~<m(__)m>

 

追記 2017-12-08 21:45 ★19に水稲と陸稲についての説明を加えました。

 

次回 長田王(攝津大夫)がご覧になられた芦北の海 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334910147.html