前回のブログ

書籍「古代日本領土の起源」から読み解く「球磨の古代」 から続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12333639430.html

 

前回のブログを書いた後、さらに、湧きだした疑問。

①球磨郡あさぎり町の白髪岳、横に連なる「大平山」。白髪岳のえびの市側中腹にある

狗留孫神社・狗留孫狭、狗留孫の地名の由来は?

②熊曽国とはいったい「いつの時代?」の連合国家であったのか?

③呉族はいつ頃「熊国」に来られたのか?

 

上記の①~③の疑問の答えを、実は今から4年程前に、私が尊敬する、ある歴史研究家の方に桜井光堂博士の著書「古代日本領土の起源」を元に御説明、御教示を頂いた事がありました。(ネットを介して)

私は、その時に頂いた御教示を当時(4年前)全く理解していませんでした。

大反省しています。

4年も経過して、ようやく、そう、やっと理解出来る・・と言うか理解可能な入口に自分が立てるようになったのだと思います。(あくまでも入り口です)

 

当時、その方に頂いたご教示を元に①~③の疑問とその答えを書きます。

 

①球磨郡あさぎり町の白髪岳、横に連なる「大平山」。白髪岳のえびの市側中腹にある

狗留孫神社・狗留孫狭、狗留孫の地名の由来は?

 

球磨郡と現宮崎県えびの市周辺の地図をご覧ください。

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E130.55.1.544N32.6.48.235/zoom/7/

 

狗留孫神社が見えます。白髪岳を源流とする「川内川(せんだい川)」。

源流から宮崎県えびの市側の白髪岳麓流域にかけてが「狗留孫狭」です。

4年前に私が、山口県の狗留孫山を見て、自分の故郷にも「狗留孫」と言う地名があるけれど

この「狗留孫」とは一体どういう意味なのか?と疑問を感じた所、頂いた御教示が以下の内容です。

 

※狗留孫とは仏の名で、過去七仏の第4の仏。賢劫一千仏の最首。
詳細は長阿含第一大本経を参照すれば良い。
しかし、それでは何の疑問も解消出来ません。
クルソンを理解しても、次々と疑問が浮かび上がります。
このような疑問点をインターネットで断片的に追っても混乱するばかりでしょう。

体系的に理解するには、下記書籍の一読をお勧めします。
「古代日本領土の起源」桜井光堂著 (新有堂刊行)
この書籍は桜井博士が法学博士の学位を授与された論文を刊行したもので、とりあえずは

大きな図書館で閲覧されると良いでしょう。

(と桜井博士の著書「古代日本領土の起源」を御紹介頂きました)

 

★以下「古代日本領土の起源」を元に頂いた御説明、御教示です。

『くるそん山とは連合国家の領域を確定する重要な地名なのです。
「くるそん山」とは古代の複数国家群による連合国家であるかを示す為に、長門くるそん山、周防くるそん山、奈良くるそん山、広島吉和村くるそん山(冠山)、高千穂くるそん山および

薩摩黒園山(くるそん山)が置かれ、九州の豊前・豊後と長門からなる国家と中国の周防から石見・出雲に至る国家と、安芸の広島から備後に及ぶ国家や熊曽国などが、共に毛野<ケヌ>(毛人国)と曽野<ソヌ>(麻の部族で和人)との連合国家であることを示しケヌソヌノヤマという語になり後に仏教化されてクルソン山に改称。

この事実により日本の古代領土の詳細が解り、巧妙に事実を隠蔽した太安万侶の古事記や邪馬台国の風説から初めて解放されます。』

 

球磨と旧曽国(えびの市・小林市)にまたがる白髪岳の中腹にある

クルソン(狗留孫)とは?
答え 

九州の豊前・豊後と長門からなる国家と中国の周防から石見・出雲に至る国家と、安芸の広島から備後に及ぶ国家や熊国・曽国などが、共に毛野<ケヌ>(毛人国)と曽野<ソヌ>(麻の部族で和人)との連合国家であることを示したものである。非常に重要な連合国家の領域を確定する地名であった。

と言う事が御教示を頂いて4年も経過した、今頃、私には理解出来たのでした(..)

 

疑問

②熊曽国とはいったい「いつの時代?」の連合国家であったのか?

 

先の御教示を下さった方から頂いた沢山の御教示の中にその答えを見つける事が出来ました。

 

★「古代日本領土の起源」を閲覧すると記紀の謎が氷解します。

『縄文時代の主要国家は、ほとんどアイヌ人と倭人の混血種族の国(いわゆる地祇系)。
地名を分析すれば解る。
例えばクマ、ヌタ(ヌマタ)、イガ(ガ)、グスク、グスキなどはアイヌ系地名で、なんとグスクは沖縄に残存。
熊本県は九州アイヌの拠点。

熊曽国とは、曽の地(鹿児島県と沖縄県)を領土とする南方倭人(麻の人)の国であるとともに九州アイヌ(熊をトーテムとするアイヌ系倭人)との複合民族国家。』

 

熊曽国とはいったい「いつの時代?」の連合国家であったのか?

答え

『縄文時代』

熊曽国とは曽の地(鹿児島県と沖縄県)を領土とする南方倭人(麻の人)の国であるとともに九州アイヌ(熊をトーテムとするアイヌ系倭人)との縄文時代の

複合民族国家であった。

 

この連合民族国家である証が「クルソン(狗留孫)」。
記紀に書かれた熊曽とは実は縄文時代の複合民族連合国家の事を指し、決して「弥生時代」の話ではない・・・
その後、ここ球磨に「前印度 モン・クメール系」と言われた”倭人”と”呉族”が

来られた(侵攻してきた)・・と言う事が

理解出来ました。

 

③呉族はいつ頃「熊国」に来られたのか?

 

先の御教示を下さった方から頂いた沢山の御教示の中に”やはり”その答えを見つける事が出来ました。

私が、ネットで以下の記述を拝見した時に頂いた御教示です。

『BC473年呉が滅亡したのを機会として「夫差」の子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される』

 

★やや事実に近いでしょう。
『呉王裔を仮冒した可能性もあり。
新羅王家4代脱解王(昔姓)は、倭人多婆那国王の子とされており、多婆那とは肥後玉名地域と推定されている。
ここでも辰韓に突き当たりますね。

山東半島の倭族も春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部へ亡命して辰国を建国。
滅亡した呉族も半島や列島へ逃れたことでしょう。
また春秋時代の呉(姫姓)と三国時代の呉(孫姓)を混同してはいけません。
現代では太平洋側が表日本ですが、当時は玄界灘から越地域が表日本。』

 

呉族はいつ頃「熊国」に来られたのか?

答え

縄文時代の複合民族連合国家「熊曽」国の熊国に呉族・倭族(前印度 モン・クメール系と言われた)が来られた(侵攻)時期とは
弥生時代、山東半島の倭族も春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部へ亡命して辰国を建国。
滅亡した呉族も半島や列島へ逃れて熊国へと到達!
すなわち『春秋時代の呉滅亡(前473)を契機』と言う事です!

呉族が「熊国」に来られた(侵攻)時代は縄文時代末期~弥生時代初頭!

 

辰国を建国した山東半島の倭族(倭人)と、球磨の肥人とは・・つまり同族である。
違いは
おそらく、当時の球磨の肥人(倭人)は呉族と混血していたと推測致します。

 

疑問が、まるで数学の問題を解くように氷解して頭がすっきりしました!

私はすぐに物事に疑問を感じてしまう性格です。

しかし、その疑問が数学の問題を解くような導き方で答えが見つからないと、中々納得しない性格です・・・・

答えが見つからないと、最後まで追求し続けるでしょう。

ちなみに・・・勉強において自慢できる事は全くありませんが、数学、特に文章応用問題は大好きで、得意でした。解けた時の爽快感を求めて、問題集を買い集めていました。

数学の問題集を解くのが一番楽しかったのです・・・(周りからは変人扱いをされていました)

数学以外の得意科目は、物理と地学・気象。

国語は漢字が苦手で・・上記の科目以外は勉強もせず散々でした・・・

特に歴史は全く苦手でした。本当の事を言うと嫌いでした。

歴史を勉強する事に楽しさは全く感じていませんでした。

何が面白いのか意味が解らなかった(面白いから勉強する訳ではないのですが(ー_ー)!!)

でも、今は違います。歴史は本当に面白い!!謎があるから追及したくなる!

私の性格にぴったりです! 先祖の調査を始めて、ようやくその事に気が付きました。

過去の職業はシステムエンジニアだったのですが・・・

当時はシステムを構築する事が一番楽しかったのですが・・・

自分の今までの人生の中で、もっとも楽しい事は

歴史を勉強して謎を解く事だ!と、今は声を大にして言えます。

だから、どんどん、勉強を続けるのだっ!(^O^)/

(独り言でした)

 

と言う私ですから、学生時代の不勉強の為(@_@。歴史の基本中の基本。

「縄文時代」について、今でも殆ど理解出来ていませんでした。(@_@。

 

連合国家・和平条約(講和条約)・・・
自分が描いていた「縄文時代」のイメージとは全くかけ離れている・・・

 

今から、沢山の文献を読んで縄文時代を勉強する事は出来ませんので

とりあえず、ウィキペディアを利用して、大まかな事を理解する事にしました・・・

(このような私・・トホホ・・ですが、御了承下さい(..))

 

 

私のブログに御関心を抱いて下さっていらっしゃる方々は、御理解されていらっしゃる事と思いますが。私にとっては重要な事でした。

よろしければ、皆様もウィキペディアの記述をじっくりご覧になられて下さい(..)
縄文時代 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3 ;

 

縄文時代 ウィキペディアの記述を読み、以下にまとめて見ました。

★1 縄文時代(じょうもんじだい)は、約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)
※時期区分
AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、

草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、
前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、
晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。

★2 縄文早期になると定住生活が出現
※縄文時代早期初頭 ※鹿児島市にある加栗山遺跡 ※鹿児島県霧島市にある上野原遺跡
★3 縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
★4 縄文早期中頃
※北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡
※東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。
(他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。)

★5 文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

★6 縄文後期9つの文化圏のうち
※「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏を構成。
※「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏を構成。
※縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。

★7 縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。
★8 ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。
★9 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。
★10 列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。 
★11 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出された。
★12 縄文時代の稲作跡地
※熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡・鹿児島県の上野原遺跡・岡山市北区津島の津島江道遺跡
『熊本(肥国※熊国)・鹿児島(曽国)・岡山(吉備国)』

 

ここまで、ウィキペディアを利用して勉強して、私が理解した事は

今回のブログ、最初に書いた疑問

①球磨郡あさぎり町の白髪岳、横に連なる「大平山」。白髪岳のえびの市側中腹にある

狗留孫神社・狗留孫狭、狗留孫の地名の由来は?

②熊曽国とはいったい「いつの時代?」の連合国家であったのか?

③呉族はいつ頃「熊国」に来られたのか?

 

①~③の疑問は全て、上記にあげた★1~★12の中の

★5~★12にかけての内容を拝見してさらに納得しました(p_-)

さらに

★7~★12の縄文時代の稲作について、私が現在調べている「球磨の古代」の話の時期と一致しています。(p_-)

 

これは・・・私の大好きな「米」をもっと調べなければ・・・

(食べ過ぎて、現代の肥人に変貌をとげましたが)

と勉強すると・・すっきり!数学の問題を解くように歴史の「謎」が解けてきました!

現代科学の力は恐るべし!

 

次回

肥人は縄文時代末期「お米」と共にやって来た に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12334764893.html