前回のブログ『㊴日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』より続きます。

 

 

 

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2021/12/10 19:31 再投稿

2021/12/10 08:47投稿の拙ブログ、すでにご覧頂いた方々に

心からお礼申し上げます。

 

これから、ご覧頂く方、拙ブログに興味を持って頂き

ありがとうございます。

 

皆様方に衝撃のご報告があります<m(__)m>

当ブログを投稿した後、気になる事があったので、九州中央山地について調べていたら

驚愕の事実を知る事になりました。

 

我々、球磨・人吉の人達が愛してやまない市房山。

盆地の風景を代表する市房山ですが・・

 

ナント!あの伊能忠敬さんの地図では・・

市房山は 日向国の山

となっていました・・ガァ~ン 😱

えええ~っ!? \(゜ロ\)(/ロ゜)/  ガァ~ン 😱

 

確かに市房山さんは

熊本県水上村・宮崎県椎葉村・西米良村にまたがる山ですが・・

「米良三山」※市房山・石堂山と天包山のひとつであり、

球磨・米良地方における信仰の山ですが・・

 

市房山さんを江戸幕府は日向国の山と認識していた・・

でしたら

我が日本国において一体何時の時代から

市房山さんを日向国の山と認識していたのでしょうか!?

 

あ~球磨人 ショック~

うん (?_?) おやっ(?_?) あれっ・・(?_?) むむむっ (p_-)

 

あまりの衝撃に追記を書いてしまった ひろっぷでした<m(__)m>

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害に遭った郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが・・

また新たな変異株が出現したようで・・

 

しかし、この2年近くで、私達は様々な事を学びました

だから、こそ

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



 

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おやっ?ひろっぷ 更新が早いな・・(p_-)

とお思いになられた御方

そうです! マタマタ物凄い事に気が付いてしまいました(^o^)/

 

球磨の考古学、特に旧石器時代から縄文時代全般にかけて真摯に向き合い

熱心な研究を行われていらっしゃる方々の調査結果を

全国の方々にお届けしたい!と強く感じ

ブログの更新をいつもより早く行いました😊

 

 

前回のブログ『日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』では

日本最古級と言われる約30万年前の地層から出土した「石器」

さらに、11万年以前の「石器」を写真と共にご紹介致しました。

前回のブログを未だ、ご覧になられていらっしゃらない方はぜひご覧になられて下さい😊

 

ウィキペディアにも、”場所”は記載されていませんが、触れられています(p_-)

旧石器時代 ウィキペディアより抜粋致します。

 

 

日本における旧石器時代
日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。

 

前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 

 

前期旧石器遺跡については全て捏造であったことが判っている(旧石器捏造事件を参照)。

中期も多くが前期旧石器を捏造をした人物が関与していて否定的である。 

捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。


※中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。 

 

中期・・30万年前から3万年前

ここですね😊

 

 

 

捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある・・

 

かなり以前の過去ブログでも。書きましたように(p_-)

旧石器捏造事件に関わった方は球磨には一切入ってはいらっしゃいません(ー_ー)!!

 

さらに、この事件が起こった事で、その後、慎重に慎重を重ねて、球磨の遺跡調査が行われている事が球磨の遺跡調査に関わった御方のお言葉に記されております。

後ほどご紹介致します<m(__)m>

 

 

だから・・

「捏造事件発覚以後に新しく発見された遺跡については議論がある。」とは・・

私はど素人ですから、言いたい事を言えて良いな~と思われるかもしれませんが・・

慎重に慎重を重ねて調査した遺跡に関して議論がある・・とは

「この事件」が考古学会に与えた影響がいかに重大であったのかを考えると

非常に悲しくなりました

 

ただ・・私は今は球磨に戻った一主婦であり、ど素人で先祖や古代の球磨を勉強している身ですが、球磨に戻る前の『前々職、前職等』については・・

過去ブログでチラッと書いた事があります・・

 

気が付いた事はどんどん報告するように!と言われて、

膨大なデータを分析、直ぐに検討する世界にいたので・・

中々理解しがたいのですが、

しかし(ー_ー)!!

日本の考古学により、世界の通説が変わる可能性がある!事を考えれば

慎重であり「こうだ!」と直ぐには言えない事も解ります・・

 

余談が過ぎました<m(__)m>

 

 

では早速、球磨の考古学、特に旧石器時代から縄文時代全般にかけて真摯に向き合い
熱心な研究を行われていらっしゃる方々の調査結果を拝見して勉強させて頂き

気が付いた事を書かせて頂きます😊

 

 

 

その事に気が付いた経緯を順を追ってご紹介致します<m(__)m>

今回も長くなりましたので(^▽^;)

音楽と共にお付き合い下さい <m(__)m>

 

Fearless Motivation - Stand Up Again - Song Mix (Epic Music)
 

 

 

 

 

 

1.「彫器」って何だろう?から勉強した事

 

前回のブログにて井頭山人(魯鈍斎)様からコメントを頂き、

ナイフ形石器のお話を頂いた事により、

返信をかかせて頂く上で12月8日の朝、私は新たな事実に気が付きました。

 

井頭山人(魯鈍斎)様、お導き頂き

ありがとうございました。

 

 

私はマダマダ勉強不足です😥

前回と同じく調査報告書を拝見して、転記していた内容の重要性が全く理解出来ていませんでした<m(__)m>

 

以下の文章です<m(__)m>

 

熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 からの転記より

球磨郡山江村狸谷遺跡で見つかった狸谷I石器文化

 

ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した。

出土層位が入戸火砕流の直下にあり姶良T、火山灰降灰(以後、ATとする)直前の段階である。

この他、球磨村久保遺跡など盆地内でも数遺跡がみつかっている。

その意味で、人吉盆地は、AT直前の様相を知る上での貴重な資料を提供する地域の一つに数えられる。

 

以上 熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 からの転記より

 

 

※補足

先土器時代 ※旧石器時代

 

AT 以前とは

※AT = 入戸火砕流(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)、約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

つまりAT下の地層とは約2万5千年以上前の地層

 

 

約2万5千年以上 前の地層から
『ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した』

という事になります。

 

 

ど素人の私は上記に記された石器全て意味が解らなかったのですが・・(?_?)

まず・・彫器って何だろう??と考えました(p_-)

 

でっ!直ぐに調べたのですが・・

その結果・・

 

日本国内での旧石器時代の彫器の普及は

「古い」と言われている遺跡でも神山遺跡は、約23,000年前にあたる後期旧石器時代の活動痕跡 つまり「23000年」前とあり、

文化遺産オンライン様のサイトでも

 

 

 

彫器


出土地:新潟県長岡市 荒屋遺跡出土
旧石器時代(後期)・前16000年
石製(頁岩)


旧石器時代の終わりになると、道具を作る技術が高度になり、そのメンテナンスの仕方もシステム化されていきます。

この石器は彫器(ちょうき)といい、狩りに使う槍などを作るための工具です。

加工されたエッジを刃のように使って削る、つまり現代でいう小刀のような役割をしていたと考えられています。当時の槍は骨や角で作られた槍先の側面に溝を彫って、石器を埋め込む植刃槍(しょくじんやり)でした。彫器はその槍の先端をとがらせたり、柄の部分を加工したりするために使われました。

とあります。

 

ナイフ形石器、掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した 

狸谷I石器文化(球磨郡山江村)
25000年以上前

 

これって・・

物凄い事ではありませんか~!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱😱

 

と私は気が付いた訳です(p_-)

 

 

井頭山人(魯鈍斎)様へのコメント返信を書かせて頂いた後・・

昨日は数日続いた所用(ボランティア活動やお寺様のお手伝い等)も無かった事もあり

家事の合間に球磨で発掘された複数の遺跡調査報告書を次々と読ませて頂き

旧石器時代から縄文時代早期にかけての「道具」について勉強しました😊

 

そして・・・

球磨の旧石器時代中期の出土品

やはり・・何だか凄いぞ・・

という事に気が付きました(p_-)

 

 

 

2.8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡について

 

実は

前回のブログを書いた後、どうしても霧島連山を拝見したくなりました(不思議なのですが・・)

ですが、

私の家からは高千穂峰や韓国岳、夷守岳といった霧島連山までは

直線距離でわずか35km程なのですが、何せ山を越えなければなりません😅

 

そこで、主人におねだりして、熊本県人吉市と宮崎県えびの市にまたがる

矢岳高原に連れて行ってもらいました😊

 

 

 

矢岳高原から見える目の前の霧島連山

 

 

 

眼下に見えるのは宮崎県えびの市です😊

 

 

 

2018年の9月に書いたブログでも、矢岳高原での遠足写真を載せていました(^▽^;)

40年以上前の写真です😅

 

『シュメールと矢岳(神の峠)』

 

 

巨石の上でニコリ・・・ 😱 ・・・ 😅

 

 

 

物凄く大きな巨石の上でさらに ニコリ ・・・😱・・・😅

 

 

 

もちろん当時は磐座(いわくら、磐倉/岩倉)とか知るはずもなく😅

お許しを <m(__)m>

 

人吉市矢岳町からは4万年前のハンドアックスが出土しています(p_-)

 

この矢岳高原に程近い場所が人吉市大野町 こちらも標高の高い場所で

高原となります。

 

その人吉市大野町で発掘調査が行われた大野C・D・E遺跡

 

 

調査報告書はダウンロードは出来ませんが・・

図書検索は可能です

 

 

 

 

調査報告書を読んでも

私のようなど素人は、重要な事を完全に理解せずスルーしてしまいます。😥

 

ですが・・・

私の手元にある「とても大切な資料」がありがたい事に、ど素人の私を考古学の世界に導いて下さいました😊

 

 

平成22年(2010年)から平成28年(2016年)にかけて

人吉市教育委員会の日本考古学協会会員でいらっしゃる

和田好史先生がお書きになられた

 

過去から未来へ・・・ふるさとを知る

人吉球磨トポスの考古学

 

です。

 

和田好史先生

人吉球磨トポスの考古学において

とても解りやすく、人吉球磨の旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡についてご紹介して下さっています。

 

 

大野遺跡については

人吉球磨トポスの考古学(十五) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第一回)

 

人吉球磨トポスの考古学(十六) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第二回)

大野C遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十七) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第三回)

大野D遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十八) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第四回)

大野E遺跡

 

人吉球磨トポスの考古学(十九) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)

③大野遺跡群(第五回)のまとめ

 

となります。

私はワクワクしながら 夢中で読みました・・・

 

 

人吉球磨トポスの考古学(十五) (六)人吉球磨地方の遺跡(続き)
③大野遺跡群(第一回)

において

和田好史先生は

発掘調査時には、東北地方の旧石器捏造事件が発覚し、研究者としても今まで以上の慎重な姿勢で調査に当たった・・

 

慎重に慎重を重ねた調査計画に基づき、発掘調査、報告書作成を粛々と進めて行き・・

 

と記されていらっしゃいます。

 

発掘調査にあたった方々が大変な神経を使って調査をなさった事

ご苦労が良く解りました。

 

 

※1.大野C・D・E遺跡群の堆積層と出土石器

 

補足

姶良Tn火山灰とは

約2万9千年前~2万6千年前に姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰

 

ATとは

入戸火砕流(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)、約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流

 

 

人吉球磨トポスの考古学(十六)~(十八)

③大野遺跡群(第一回)~③大野遺跡群(第四回)を拝見すると

 

例えば

大野C遺跡

堆積層は六枚

 

姶良Tn火山灰二次堆積層をⅧ層とし 上層から

Ⅰ層(表土及び旧耕作土層)

Ⅷ層(明黄褐色土層・・AT二次堆積層) ・・・約2万5千年前

Ⅸ層(褐色粘質土層)

Ⅹ層(褐色粘質土層)

Ⅺ層(赤褐色粘質土層)

Ⅻ層(風化安山岩層・・・基盤)


 

遺跡包含層はⅨ層

出土した石器資料は九五〇点

 

楔形石器、プロト・ピュリアン、ピュリアン、小型スクレイパー、チョッパー等が図示されていました。

 

 

他、

大野遺跡群D遺跡からの石器資料は一〇,三九〇点 (10,390点)

Ⅷ層(褐色粘土層)から出土した

石斧もしくはハンドアックス、スクレーパー、小型スクレーパー又はノッチ、小型スクレイパーが図示されています。

 

大野遺跡群E遺跡からの石器資料は二,六〇三点 (2,603点)

XIV層(褐色粘土層)から出土した

スクレイパー、小型スクレイパー、「背をもつ」小型スクレイパー、

小型スクレイパーもしくは石斧、小型スクレイパーもしくは小型ナイフ、

尖頭状石器もしくはピュリアン、が図示されています。

 

 

※2.大野C・D・E遺跡群の年代測定

 

③大野遺跡群(第五回)のまとめ を拝見すると

 

石器群を出土しているC遺跡Ⅸ層、D遺跡Ⅷc層・Ⅷe層、E遺跡XIV層の最下層は、

共に安山岩基盤層の上層にあたる赤褐色粘質土で、同時期に形成された層と考え、

その層の年代については、ルミネッセンス年代測定(OSL法)行った結果、

六万九千,三〇〇 ± 一万三千,九〇〇年という年代が測定されました。

とありました。

 

さらに

最も古く八三,二〇〇年、最も新しくて五五,四〇〇年前と考えられ、いずれにせよ

四〇,〇〇〇年を超えることから、後期旧石器時代以前の石器群と言及できるとも言えます。

とあります。

 

※最も古く8万3200年最も新しくて5万5400年前

 

 

凄い!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

調査にあたられた和田好史先生、関係者の方々のご苦労、熱心な調査に

心から敬服致しました。

 

 

所で・・・

スクレイパー ・ ビュリアン ・ チョッパー ・ ノッチ・・・

って 一体何だろう (-_-)・・・(?_?)

 

となりまして・・勉強致しました(p_-)

と言っても・・ウィキペディアですが・・・(^▽^;)

 

 

 

3.スクレイパーって何だろう?

 

実は、大野遺跡群だけではなく・・他、球磨郡内の旧石器時代からの遺跡に関する調査報告書を拝見している際に、数回「スクレイパー」という文字を見てはいたのですが・・(^▽^;)

何だろう(?_?) とは思ってはいたものの・・勉強はしていませんでした。😅

 

今回、大野C・D・E遺跡群に関する和田先生の人吉球磨トポスの考古学

を拝見して非常に興味が湧きまして

勉強しなければ!

とウィキペディアを見ました(p_-)・・・(^▽^;)

 

 

 

 

 

スクレイパー ウィキペディアより抜粋致します。

 

 

石器としてのスクレイパーには代表的なものにサイドスクレイパーとエンドスクレイパーがある。

旧石器時代から新石器時代に至るまで世界各地でこの石器が作り続けられた。

 

また、縄文時代になっても東北と北海道では依然として用いられており、最も新しい時期のものとしては8世紀初頭の北大式土器に伴出する黒曜石製の円形スクレイパーが知られている。

サイドスクレイパー(side scraper 仏語ではラクロワール:racloir)
日本語では削器(さくき)、横型削器、側削器とも呼ばれる。

薄片石器の一種。薄片の横に刃を付けたもの。皮を切ったり、木や骨を削るのに使ったと考えられている。

 

中期旧石器時代以降
 

エンドスクレイパー(end scrapers 仏語ではグラトワール:grattoir)
日本語では掻器(そうき)、削器(さっき)、縦型削器、端削器とも呼ばれる。薄片石器の一種。

 

薄片の端に刃を付けたもの。皮の裏側に付いた脂肪を掻き取る、皮なめしの道具であったと考えられている。

 

後期旧石器時代以降。その他に、皮剥・削道具(鳥居龍蔵)、石掻・石剥(大山柏)、堅型皮削(酒詰仲男)、横刃形石器・先刃形石器、削器型石器・掻器型石器(杉原荘介)などがある。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました。

 


※サイドスクレイパー・・中期旧石器時代以降

 

※エンドスクレイパー・・後期旧石器時代以降

 

 

中期旧石器時代 約30万年前 - 約3万年前
ムスティエ文化(約30万年前 - 約3万年前)
アテリア文化(英語版)(約8万2千年前)

 

後期旧石器時代 約3万年前 - 約1万年前
 

 

ブログ前半でも書きましたように・・

日本における旧石器時代は、後期については、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認される。

 

前期/中期についても、数こそ少ないがいくつか確認されている。

 

 

つまり(p_-)

大野遺跡群 C・D・E遺跡は・・

ルミネッセンス年代測定(OSL法)行った結果、
六万九千,三〇〇 ± 一万三千,九〇〇年という年代が測定された・・

最も古く8万3200年最も新しくて5万5400年前

 

 

うん(?_?) マテヨ・・

 

あさぎり町深田(旧深田村)の

加久藤火砕流(33万年前)の堆積時に由来すると思われる

大小多数の軽石円礫が混在していた砂礫層基部から出土した

深田小産旧石器

 

あさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡から出土した
11万年以前の剥片石器・・・

 

 

つまり 上記は

数こそ少ないが”いくつか”確認されている・・・中の

”いくつか” なのですね!
 

凄い!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

 

 

 


1993年に発行された熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 には
 

ナイフ形石器文化では、人吉市血気ケ峯遺跡でみつかった石器文化がもっとも古い。
台形石器や刃部磨製石斧が伴うもので、今から3万年ほど前のものである。

 

とありますから・・

中期旧石器時代の晩期から後期旧石器時代の初頭・・

という訳ですね!

😊

 

 

 

前回も書きましたが

超古代の人類?「球磨超古代人?」は、様々な自然災害、
特に火山による多大なる影響を受けてこられたのは明らかです・・

シラス下の地層から多くの石器が出土した遺跡が球磨地方には沢山・・

 

ただし(p_-)・・😊

姶良Tn火山灰、姶良ATからの降灰から植生が復活すると

人はまた、旧石器時代においても「この地」に住み始めるのです・・

当時の遺跡も多数発掘されています

 

超古代人?にとって、住みやすい土地であったのでしょう😊

 

 

そして・・この地に

高度な文化と高い精神性を持った方々が・・・

来られたのか・・それとも旧石器時代の人達が進化を遂げられたのか・・

それとも・・DNAのハイブリッドが誕生したのか・・・?

 

 

 

 

 

所で・・

ビュリアン ・ チョッパー ・ ノッチって何だろう・・(?_?)

 

次回までに勉強致します😊

 

 

 

かなり長くなりましたが、どうしても今回書いておきたい事があります・・

 

4.瓊瓊杵尊様のご降臨の年

機械的に計算すると・・・

 

 

今回、旧石器時代の事を書きましたので・・<m(__)m>

 

旧石器時代とは、

ホモ・ハビリスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、

石器時代の初期・前期にあたる。

年代的には200万年前に始まる。

 

※200万年前に始まる

 

球磨が古代人吉湖となった時代です。

 

 

皆様は、日本書紀において瓊瓊杵尊様のご降臨の年をいつの時代と記されているのか

ご存知ですか?

 

 

ウィキペディアの

機械的に西暦に置き換えた年代について「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照すると・・

 

 

 

いずれも『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではない。

とありますが・・

 

 

天祖 彦火瓊瓊杵尊

天神の孫(天孫)で、神武天皇の曽祖父。東征開始時(BC667=BJ7⊂甲寅年)の神武天皇の言葉によると、天祖降跡(天孫降臨)は次の9年間のいずれかの年に行われた。

 

西暦 BC179万3145年~BC179万3137年

皇紀 BJ179万2485年~BJ179万2477年

 

もちろん、神話のお話、内容とは全く繋がらないのですが

しかし、私は

旧石器時代の始まり約200万年前と

日本書紀から機械的に計算した瓊瓊杵尊様のご降臨の年が

とても近いという事が不思議でならないのです。

 

偶然ではないのでは・・と思います

 

不敬だとお考えになられる御方もいらっしゃると思います。

申し訳ございません。

 

ただ・・

神話の部分ではなく、「ご降臨の年」のみに焦点をあてると・・

 

もしかしたら・・日本書紀の編纂者の方々は何かご存知だったのでは?

と考えた事もあるのですが、その事が・・

日向の襲 つまり、日本最古の陸地の一つである

現在の九州中央山地に何か関係しているのでは?と

 

ブログ『(再)⑭日本列島最古の陸地の 高原と神殿原』を書いた時から考えていました。

 

 

 

第三紀以降ずっと海面上に現れていた

日本最古の陸地の一つ
九州中央山地

 

 


これらの地域は激しい構造運動を受けたあと、いったん準平原化し、再び急激な上昇をおこして山脈化した・・
 

人吉盆地(球磨盆地)はこの上昇運動に取り残された断層角盆地で、盆地東部には複合扇状地が作られている・・

 

 

私が住んでいる地域は第三紀以降ずっと海面上に現れていた
日本で最も古い陸地の一つの上下運動に取り残された
盆地

 

私は九州中央山地の何れかの山の高さ

何かに関係しているような気がしていました・・

8世紀(西暦700年代)には、すでに山の測量技術は国内に伝わっていました・・

 

詳しくは後日 そう・・後半の続きで <m(__)m>  

 

 

そうです 球磨は・・

平安時代から鎌倉時代初頭にかけて

治天の君が荘園領主であられる

天皇領 球磨御領

でした・・

 

 

 

妄想・・

前期旧石器時代の遺跡は日本には無いと言われているようですが・・

九州中央山地の何れかの山に・・前期旧石器時代の石器が・・

遺跡が・・隠れていたりして・・

 

 

(独り言)

今回、過去ブログ「シュメールと矢岳(神の峠)」のお話をチラッとご紹介しましたが

私・・以前は「あちら」から来られたのかな・・と思っていたのですが、最近は・・

こちらから「あちら」に向かわれて、帰って来られたのでは・・?と考えています・・・

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.「彫器」って何だろう?から勉強した事

2.8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡について

※1.大野C・D・E遺跡群の堆積層と出土石器

※2.大野C・D・E遺跡群の年代測定

3.スクレイパーって何だろう?

4.瓊瓊杵尊様のご降臨の年 機械的に計算すると・・・

 

と言った内容をご紹介させて頂きました。

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊶ー1 古代湖と日向國真幸院と中世のご先祖様』に続きます。

 

 

 

 

前回のブログ『㊳上村麓城跡の紅葉と・耳栓は日本列島を北上している!事・・』より続きます

 

 

 

 

 

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まず初めに<m(__)m>

今回のブログは旧石器時代から縄文時代早期にかけてのお話です。

 

現在の日本国内において

弥生時代、2000年程前から1700年程前の歴史にしか思考が向かない人達が多くいらっしゃいますが・・

だから!こんな論文が他国で書かれてしまうんだ!と私は強く思い

憤りを感じます・・

 

 

 

 

 

 

 

日本国内において

何でも・・例えば「文化も人も」半島から北部九州へ・・とお考えになられる方々にぜひお伝えしたい事があります。

(私のブログをお読み下さる方々にはそういう御方はいらっしゃらない(ー_ー)!! と思いますが)

 

移動してきた人達やその文化の

遠い遠い元祖となる方々、原初的な「本拠地」は一体どこであったのか!?

 

原初的な方々が住んでいた「本来の場所」が理解出来ないと、

たかだか2000年程から1700年程前の歴史なんて

到底理解不可能・・と私は考えます

 

最初からちょっと激しい ひろっぷしゃんでした <m(__)m>

上記の論文を偶然目にした11月のある日から・・私は無性に旧石器時代からの事を勉強しなきゃ!と思いました。そうしないと・・後編の続きを書けない!繋がらない!と・・

 

 

 

 

今回のタイトルは

日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器

 

ええっ!? マタマタひろっぷ何か気が付いたなぁ~(p_-) と

お思いの御方・・はい(^o^)/ 気が付きました~😊

 

 

いつもの如く 長い文章となってしまいました <m(__)m>

音楽と共にお付き合い下さい😊

 

Two Steps From Hell - Evergreen Extended

 

 

 

 

 

では、まず(p_-)

皆様にぜひご覧頂きたい写真から・・・・😊

 

1.11万年以上前の石器

 

2021年7月に書いたブログ『㉒保存版(中編)注目されない甕棺について』で

ほんの少しだけ触れたお話・・

 

 

 

平成15年度(2003年)に熊本県立装飾古墳館で開催された
肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 
の資料に記載されていたお話・・・

 

球磨郡深田村(現あさぎり町深田)で出土した30万年近く前ではないか!?

地質学者の方が推測なさっていらっしゃる石器です😊

 

 

 

※補足

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料は

 

球磨楽展 と検索サイトで入力して頂くと、表示されますので、ダウンロードが可能です。

 

旧石器時代から弥生時代にかけての球磨地方で発掘された複数の「出土品」が写真で掲載されていますので(平成15年までの出土品)よろしければ、資料をダウンロードなさってご覧下さい。

 

夏女遺跡(なつめ遺跡)からの出土品の中にまるでお人形遊びに使う子供のおもちゃのようなミニチュア土器多数も掲載されています  補足でした😊

 

 

 

 

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料は

トータル71ページ。

 

その中で私は、球磨地方の旧石器時代に関連するお話に心が釘付けになりました

 

56ページからの なぜ旧石器は残った~旧石器発見秘話~・の中で 

 

58ページに 日本地質学会会員でいらっしゃる原田正史先生

”深田小学校裏手崖産出の旧石器について” というお話が掲載されています。

 

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋させて頂きます。

 

シラスと加久藤溶結凝灰岩の科学的推測年代が、それぞれ2.5万年前より古く、30万年前より前とされることから、深田小産旧石器が2.3万年前より古く、30万年前より新しいことは当然のことながら、砂礫層基部からの産出であることを考慮すると、漠然としたものではあっても30万年前の方により近いとする判断が成立します。

 

なお砂礫層基部は、加久藤火砕流の堆積時に由来すると思われる大小多数の軽石円礫が混在しており、前記判断を側面的に補足するものと考えます。

 

いずれにしても、日本最古の可能性まで保有する旧石器が現存し得た偶然の重なりに、深い感銘を覚えずにはいられません。

 

以上

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋させて頂きました。

 

 

深田小産旧石器は砂礫層基部からの産出であり、

砂礫層基部には

加久藤火砕流の堆積時に由来すると思われる

大小多数の軽石円礫が混在していた

 

 

 

※補足 加久藤火砕流  ※加久藤盆地 ウィキペディアより

 

約33万年前の大噴火で発生した加久藤火砕流は薩摩半島と大隅半島の中部以北と人吉市付近および宮崎平野にまで広がり、半径約50kmの範囲に溶結凝灰岩の地層を形成した。

 

 

※加久藤火砕流 = 約33万年前

 

 

 

加久藤火砕流(33万年前)の堆積時に由来すると思われる大小多数の軽石円礫が混在していた砂礫層基部から出土した深田小産旧石器の写真を撮影してまいりました!

(^o^)/

 

あさぎり町文化財収蔵庫に保管されている原田先生があさぎり町に寄託なさった

日本最古級の石器です😊

 

もちろん、写真撮影もブログ掲載も許可を頂いております😊😊

 

 

 

 

黒色珪質頁岩の旧石器

 

 

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より

 

中略・・

岩片が深田村(現あさぎり町深田)に存在しない黒色珪質頁岩であって、自然状態での砂礫層への混入は地形的に絶対不可能であること、岩片の縁辺部に人為的な整形加工を意味する打撃痕が連続して明瞭に認められ、表面の一部にこれも人為的な加工と思われる平滑面が形成されていること、更には砂礫層が加久藤溶結凝灰岩上に位置し、砂礫層上部に姶良(入戸)火砕流堆積層であるシラスが存在するという地質学的事実から、この岩片を旧石器であると判定発表いたしました。

 

原田正史先生 深田小学校裏手崖産出の旧石器について より抜粋致しました。

 

 

 

 

ブログ『11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい』でご紹介したように

 

 


あさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡からは

今から11万年以前の剥片石器が採取されています。

 

肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料 56ページに

写真が掲載されています😊

 

そのあさぎり町深田(旧深田村)の下里遺跡にほど近い場所から出土した

11万年以前の剥片石器に石質・形状も非常に良く似た剥片石器がこちら・・・

 

 

 

 

 

凄いですね~ ちゃんと加工する技術が

11万年以前にすでに存在していたのですね・・・・!

 

 

 

 

ちなみに・・

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料 56ページには

ブログ『11万年前以前からの球磨人と、超古代からの球磨のおさらい』でご紹介した

人吉矢岳遺跡で出土した4万年程前の握槌(ハンドアックス)

五本松遺跡から出土した頁岩製の石器 の写真も掲載されています😊😊

 

4万年程前の握槌(ハンドアックス)が出土した人吉矢岳遺跡

人吉市大野町の大野C・D・E遺跡『年代測定の結果、今から8~5万年前の遺跡』に

ほど近い場所になります。

 

 

1993年に発行された熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 には
今から約3万年以上前の遺跡 人吉血気ケ峯遺跡について紹介されていました。

台形石器や刃部磨製石斧が伴う遺跡です。

 

 

上記に書いた遺跡を形成した超古代の人類「球磨超古代人?」は、様々な自然災害、

特に火山による多大なる影響を受けてこられたのは明らかです・・

 

しかし、

この球磨の地は、超古代の時代毎に、必ず復活して人の営みが確認出来ます。

それだけ、住みやすい土地だったのでしょう😊

 

恩恵の一つは 球磨川にあるのでは・・!?

と私は考えます。

 

 

所で・・

今回、このブログを書くにあたって、あらためて

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料

じっくりと拝見したのですが・・

 

非常に驚くべき記述に気が付きました!

 

 

2.文字の原型?線刻礫

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ

祭りいろいろ の項に線刻礫のお話がありました。

 

 

線刻礫とは

石の表面に図柄や絵柄を刻んだもの です。

 

 

 

石に記された祭りの証し より

 

人は、祭りや祈りのために、身近なものに図や絵、文字を記します。

 

球磨ではそうした石に記された祭りの証しがみつかっています。

 

線刻礫は、平たい石の表面に図柄や絵柄を刻み込んだものです。

 

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡では、

表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫が見つかっています。

7000年前の縄文時代早期の終わり頃です。

 

球磨郡あさぎり町の別府遺跡では、鹿の絵柄が刻み込まれた線刻礫が見つかっています。

2000年前の弥生時代です。

 

以上 石に記された祭りの証し より 抜粋させて頂きました。

 

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページには

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した、表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫の写真が掲載されています!

 

 

よ~く見ると・・(p_-)

何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

縄文時代早期の終わり頃・・の 線刻礫・・・

 

ただ・・じっくり見ると・・人と人が何か棒?のような物を持って向かいあっている・・?

ようにも見えて・・

この線刻礫については、全国の方々にご紹介すべきだ・・!と考えました・・

 

 

 

勝手ながら「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した、

表面と裏面に図柄を刻み込んだ線刻礫の写真をご紹介致します<m(__)m>

 

 

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料36ページ より

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

じっくり見ると 平な石に沢山の描写が見えます・・・

 

絵がお得意な方がご覧になられると、私が感じた事以上の何かがお見えになられるのでは・・

と思うのであります・・

 

縄文時代早期後半の「絵」でした<m(__)m>

 

 

縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前

 

・・・・・・・・・??? !!!!・・

 

 

 

先に書きました『甲骨文字』 ウィキペディアより

 

 

 

甲骨文字(こうこつもじ)とは、中国・殷(商)時代の遺跡から出土する古代文字。

古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録したものである。

 

漢字の原初形態であり、現在確認できる漢字の最古の祖形を伝えている。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。

 

甲骨文字は絵文字様であるが、文字としてすでに抽象性が高い段階に発達している。

 

以上 ウィキペディア甲骨文字 より・・・・

 

 

※中国・殷(商)時代・・紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年

紀元前17世紀・・今から約3700年前

 

 

線刻礫 例えば、先にご紹介した

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した線刻礫は

今から7000年以上前・・

 

 

※古代中国でおこなわれた占卜・・

※線刻礫は石の表面に図柄や絵柄を刻んだもの

石に記された祭りの証し

 

 

 

 

やはり・・

日本の線刻礫は 何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

なぜならば・・・

 

 

3.世界最古の土器と最古級の土器

 

前回のブログ『㊳上村麓城跡の紅葉と・耳栓は日本列島を北上している!事・・』でもご紹介致しましたが・・

 

 

狸谷遺跡調査報告書より

黒曜石は、

人吉市桑ノ木津留と球磨村黒白で産出が確認されている。

また、鹿児島県大口市日東の産出地も近距離にある。

 

 

 

黒曜石 ウィキペディアより

 

 

 

性質・特徴

外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持ち、脆いという欠点はあるが、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された

 

極めて切れ味が良く、ナイフとして使った場合は厚い肉でも一発で両断することが出来る。

 

日本の鏃等は後期旧石器時代から使われていた。

 

 

皆様

世界の産出地 を見て下さい!

特に 東アジアを!

一目瞭然・・

 

 

 

画像 ウィキペディアより

 

 

日本55か所  中国1か所 朝鮮半島1か所

 

 

極めて切れ味が良く、ナイフとして使った場合は厚い肉でも一発で両断することが出来る。
日本の鏃等は後期旧石器時代から使われていた。

 

銅や鉄といった金属を人類が使用する前に、必要不可欠であった

 

つまり最先端の万能石が黒曜石である・・という事ですね😊😊

 

 

その黒曜石が日本国土の大きさから考えると・・

世界において断トツの産出地だった事が解ります。

 

 

 

所で・・<m(__)m>

前回のブログで私は

灰塚遺跡の調査報告書を中世以降の報告書と間違えてご紹介致しておりました。

 

申し訳ございません<m(__)m>

 

後で旧石器時代からの灰塚遺跡報告書と差し替えを行いました <m(__)m>

 

 

全国遺跡総覧様 サイトより調査報告書をダウンロードしてご覧いただけます。

 

 

 

こちらの報告書の表紙の土器が

縄文時代早期の地層から出土した壺型土器の写真です。

 

この壺型土器は地中にあえて埋められていたそうです。

 

 

「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 の資料では

見事な壺型土器の写真と共に

 

『壺型土器は、穴の中からまとまって見つかりましたが、

何らかの目的で埋められたものと考えられます。

ムラの中で行われた祭りの道具に違いありません。

また、耳栓や石製品も身体を飾るもので、特別な意味があると考えられます。祭りの原型を示すものでしょう。』

 

と記されていました。

 

 

 

 

本題に入ります(p_-)

前回のブログで、ど素人の私は、その重要性を理解せぬまま以下の文章を報告書から転記致しておりました。

 

 

狸谷遺跡 遺跡調査報告書より

 

縄文時代では、細石器を伴う隆起線文土器、早期の集落と多量の遺物が検出された。
特に、隆起線文土器は、熊本県下では初めての出土例であり、注目される。

 

 

 

白鳥平B遺跡 調査報告書より

平成3年度の調査で、白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文土器が検出された。

この時期の遺跡は、近年南九州でも出土例が増加している。

熊本県内では、狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が、また無田原遺跡、白烏平B遺跡で爪形文土器が検出されている。
※里の城遺跡 球磨郡多良木町

中でも白鳥平B遺跡では、同一層から爪形文土器と共伴する石器群がまとまって検出され

、同時期の南九州地方を考える上で興味深い資料である。

 



隆起線文土器と爪型文土器

 

調べてみて・・・ビックリ致しました \(◎o◎)/!

 

 

書籍 図解 日本史 Googleブックで公開なさっている以下の

21ページをご覧下さい。

 

年代別 縄文土器

 

 

 

 

年代別 縄文土器

紀元前12000年頃~(草創期)  ※今から14000年程前

 

特徴

豆粒文、貝殻でつけた爪形文、縁に粘土のひもをはり付けた隆起線文など文様をつけるのが特徴。

 

長崎県の泉福寺洞窟から出土した豆粒文土器は世界最古の土器

 

 

 

 

世界最古の土器

 

\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/

😱

 

 

 

縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前

 

長崎県の泉福寺洞窟から出土した豆粒文土器は世界最古の土器。

さらに

隆起線文土器と爪型文土器は世界最古に続く土器・・

 

 

 

\(◎o◎)/! \(゜ロ\)(/ロ゜)/
😱

 

 

凄~い!!

 

皆様 日本って

凄い!と思いませんか~!!!?

 

\(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

 

むむむ~っ(p_-)

どんどん見えて参りましたねぇ~

(p_-)

 

 

だからこそ!私は先に

※やはり・・
日本の線刻礫は 何だか・・・甲骨文字の原型?のようにも見えるのですよねぇ・・

 

と書いたのであります ニコッ😊

 

 

 

 

線刻礫と言えば・・

山口県立山口博物館様 サイト 線刻礫より

 

 

 

 

東北地方に多く、特に縄文時代晩期に著しい発展を遂げました。

 

多くは幾何学的な彫刻文様が描かれ、一般に表裏の区別さえ困難ですが、表面のみに「目」などを表現したものが存在することから、ヴィーナス等、特定の人神を意識した可能性が指摘されています。その大きさや単純な形態からみて、携帯用の護符のような意味合いも考えられます。

 

愛媛県上黒岩岩陰遺跡で発見された線刻礫も、広義の岩板といえるでしょう。

 

山口県立山口博物館様 サイト 線刻礫より 抜粋致しました

 

 

※東北地方に多く、特に縄文時代晩期に著しい発展を遂げました。

※ヴィーナス等、特定の人神を意識した可能性が指摘されています。

 

 

球磨郡山江村の大丸・藤ノ迫遺跡で出土した線刻礫は縄文時代早期後半

今から約7000年程前のもの・・

 

 

繋がりを感じます😊

 

 

 

 

 

 

 

 

所で・・・

 

前回のブログでご紹介した

研究・紀要 年報  縄文の森から 第4号

 

新東晃一氏
九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一

 

 

拝見して、理解出来た事を前回

球磨を含む南部九州の耳栓が日本最古

 

というお話を書かせて頂きました・・・

 

新東晃一先生のお話、あらためて拝読して、私は以下のお話が日本の通説だけでなく

世界の通説をも覆す内容なのだ・・!と理解致しました。

 

これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,
いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった。

 

ところが、南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,
玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった。
 

さらに,南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出士は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している。

 

 

 

 

南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,

玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった。

 

※南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出土は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している。

 

 

 

アカホヤ火山灰の下位 縄文時代早期 喜界カルデラ爆発的噴火7300年前より

以前!

 

 

つまり!

玦状耳飾も耳栓も

アカホヤ火山灰下位の出土は

日本最古!

 

となります

 

そして・・・はたして・・

 

日本最古・・だけかなぁ・🙄・・(p_-)

むむむっ・・にや~っ・・😏

 

そう言えば・・世界最古の土器

日本から出土していましたねぇ・・😏 にや~っ・・

 

 

 

でも・・どうして

この事をもっと日本は世界にアピール、

世界の土器の発祥は日本です!

と 発信しないのだろう・・(?_?)

 

理由は・・? (?_?)

(p_-) ・・

 

 

皆様 すでにお気づきかもしれませんが・・

 

旧石器時代から縄文時代早期にかけての

霧島(上野原遺跡)と球磨(※久米)・・

 

霧島と球磨(※久米)

 

11万年以前の日本最古級の石器の出土地

出雲と球磨・・

 

何か強く感じる事がおありになりませんか?

 

 

戦後76年間で消されようとしている事・・

 

私は

日本の神話の起源に近いお話を排除する動きには

断固として立ち向かいます😎

 

微力ですが、確かな情報を発信して参ります(^o^)/

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

今回は

1.11万年以上前の石器

2.文字の原型?線刻礫

3.世界最古の土器と最古級の土器

 

という内容を書かせて頂きました。😊

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


 

 

油断は禁物です(ー_ー)!! 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊵8万3200年~5万5400年前の球磨の遺跡から見えた事』に続きます。

 

前回のブログ『㊲一歩前へ! くま川鉄道部分運行再開と球磨の紅葉』より続きます。

 

 

 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害により、元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

明るい道が見えて参りましたが
寒くなってまいりました。
 

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊



 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

 

 

今回のタイトルは

上村麓城跡の紅葉と・・耳栓は日本列島を北上している!事・・

 

おやっ(p_-) マタマタ、ひろっぷ何か気が付いたなぁ~・・(p_-)

とお思いの方・・ そうです!また気が付きました(^o^)/

 

 

南九州の高度な文化を持った縄文時代の草創期の縄文人

喜界カルデラの大爆発によって全滅した・・と言われる人達・・

全滅などしていない(ー_ー)!!

という証明に気が付きました\(^o^)/

 

その前に・・

 

1.上村麓城跡の紅葉🍁

 

11月20日に球磨郡あさぎり町上(うえ)の麓城跡の紅葉を堪能して参りましたので

ご紹介させて頂きます(^'^)

 

上村麓城跡は、日本七大薬師様 谷水薬師堂から山道(遊歩道)を15分程登った球磨盆地中部から北部を見渡す事が出来る山の上にあります。

 

一昨年もこちらには伺ったのですが・・

今年は、テレビでの中継が行われた事もあり、ビックリ\(◎o◎)/!する程、多くの観光客の方々がお出でになられていました。

私が伺った20日以降も数日間、多くの観光客の方々が九州各地からお越しになられていたそうです😊

 

 

 

紅葉が

広大な城跡一面を覆う まるで天井のように見え

木漏れ日が紅葉を様々な色に変化させていました

 

 

 

スマホで撮影した写真や動画を組み合わせて

あまり上手ではありませんが、一つの動画に編集してYouTubeにアップしました(^▽^;)

 

 

遠くに住む、子供たちと、私を応援して下さる皆様方へ

感謝の気持ちを込めて作った動画です。

よろしければ ご覧下さい 😊😊

 

 

 

 

 

ご堪能して頂けましたでしょうか?

😊

 

谷水薬師様、上村麓城跡については、

後日、奈良時代以降の「中世のお話」をご紹介させて頂きます<m(__)m>

※縄文時代~弥生時代にかけての出土品が見つかる地域でもあります (p_-)

 

 

山を登る為、谷水薬師堂に竹で作った杖が沢山置いてあり、私も1本お借りして、山を登ったのですが・・登った時は、あまりの美しさに身体の事をすっかり忘れてしまっていたのですが・・

帰宅して、この数日間、PM2.5の影響も重なって

喘息が酷くて・・ちょっと無理したかなぁ・・🙄

 

でも、身体は少しだけきついのですが、素晴らしい景色を堪能して心が満たされているので、

満足しております😊

薬はしっかりと飲んでおりますので、大丈夫です!😊

 

ブログを書く元気も湧いて参りました😊

 

 

ブログを書く・・

そうです(p_-) いち早く皆様方にお伝えしたい!と考える事に

気が付きました\(^o^)/

 

順を追ってご説明致します (p_-)

<m(__)m>

 

ものすご~く長くなりましたので(^▽^;)・・

音楽と共にお付き合い下さい<m(__)m>

 

Fearless Motivation - A New Dawn | A New Beginning

 

 

 

 

 

 

2.アカホヤ(7300年前)下地層の遺跡

※アカホヤ=7300年前の喜界カルデラ爆発的噴火による火山灰

 

縄文時代の記述を見ると・・必ずセット?で書かれている事

それは・・例えばウィキペディアでも・・・

 

 

 

 

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。

 

最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、

およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始された

と推測されている。

 

定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。

 

植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

 

中略‥

九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

 

以上 ウィキペディアより抜粋致しました <m(__)m>

 

 

最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡

 

九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

 

セット?ですね・・・

 

 

上記の

上野原遺跡とほぼ同時期の定住集落跡が遺跡が球磨盆地からも多数発見されています。

 

私は、過去ブログで何度も書いているように・・

全滅などしていないのでは!?

と考えてまいりました・・

 

上野原遺跡とほぼ同時期の球磨盆地内の遺跡

多くの遺跡の中から数例をご紹介します

 

以下の球磨郡内の遺跡群は

石器時代の遺跡が縄文時代草創期以降にも継承された

つまり・・繋がりが見える遺跡です

 

11万年以上前からの人の営みに繋がる遺物が出土した球磨盆地ですが

今回は縄文時代草創期から早期にかけてのお話をクローズアップしてご紹介致します。

 

 

※ポイント

縄文時代

草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前

 

 

球磨郡山江村の狸谷遺跡

人吉市の白鳥平遺跡

球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)の灰塚遺跡

球磨郡多良木町の大久保台地遺跡群

 

狸谷遺跡・白鳥平遺跡・灰塚遺跡は

全国遺跡総覧様 サイトより調査報告書をダウンロードしてご覧いただけます。

 

狸谷遺跡

 

 

 

白鳥平A遺跡

 

 

 

白鳥平B遺跡

 

 

 

灰塚遺跡

 

 

 

各、膨大な調査報告書より  少しだけですが抜粋して転記させて頂きます

 

 

狸谷遺跡

狸谷遺跡出土の石器の中で、最も多いのは、黒曜石・珪岩・安山岩である。
黒曜石は、人吉市桑ノ木津留と球磨村黒白で産出が確認されている

 

また、鹿児島県大口市日東の産出地も近距離にある。

 

珪岩は、人吉盆地の北側の山地に岩脈があり、その山地を流れる河川や川辺川の扇状地の操層中にも転石があり、入手が容易である。また、安山岩も同様に入手が容易で、盆地南西に広がる山地の表層を成しており、河川には、多くの転石がみられる。
 

これらの石材の他、石器として利用されている砂岩・千枚岩・花闇岩(盆地東側の市房山周
辺)も球磨山地中にみられる。
 

このように、遺跡の周辺には、多種の石材の産出地が分布し、しかも本流である球磨川には、転石として、すべての種類の岩石が流入している

 

先土器時代では、ナイフ形石器文化に属する二つの石器文化が確認された。この二つの文化は、入戸火砕流(シラス)によって、明確に分離されており、その問の混入は考えられない。
縄文時代では、細石器を伴う隆起線文土器、早期の集落と多量の遺物が検出された。

 

特に、隆起線文土器は、熊本県下では初めての出土例であり、注目される。

 

また、早期の集落は、その景観を含めた状態で検出されており、当時の集落を考える上での重要な資料となろう。

 

 

縄文時代早期の遺構としては、

竪穴式住居跡8基、集石(石組炉)9基、石皿を配した配石土坑4基、土坑10基が、

それぞれ分布の傾向を異にして検出された。

 

これらの遺構群は、それぞれに特徴がみられる。

それは、居住を主なる目的とした遺構の北群と、食物調理関係の遺構による南群である。

これをもって、集落内で、居住と食物調理の場が、明確に区分されていた事実が確認されよう。

 

さらに、石組炉の炊き口部が、北西方向に設定されている事実は、風上が北方となる冬を中心とした季節に、この集落が営まれていた可能性を示しているともいえる。

この推定は、集落内の遺構の配置において、住居が調理場の北側にみられるという事実からも間接的に導き出されよう。
 

このような集落構成は、東側丘陵においても同様と考えられる。

したがって、東側丘陵の北側未発掘部分に竪穴式住居跡などの遺構があるものと想定できそうである。

 

 

白鳥平B遺跡調査報里の城遺跡告書より

平成3年度の調査で、白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文土器が検出された。

この時期の遺跡は、近年南九州でも出土例が増加している。

 

熊本県内では、狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が、また無田原遺跡、白烏平B遺跡で爪形文土器が検出されている。

※里の城遺跡 球磨郡多良木町

 

中でも白鳥平B遺跡では、同一層から爪形文土器と共伴する石器群がまとまって検出され、同時期の南九州地方を考える上で興味深い資料である。
 

また、白鳥平A遺跡及び同B遺跡では、縄文時代早期に属する遺物が多く出土している。

 

中でも両遺跡から検出された、早期に属する耳栓は、近年鹿児島県で出土例が増加している資料で、人吉・球磨地方での初出の資料である。

 

 

狸谷遺跡では竪穴式住居跡が発見された。

狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が検出された。

白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文士器が検出された。

白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・

 

①~④の時代は縄文時代草創期から早期つまり

草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前

の遺跡であります(p_-)

 

 

続けて 球磨郡あさぎり町深田(旧深田村)の灰塚遺跡については、

2019年6月に書いた 過去ブログでもご紹介させて頂きました。

 

 

 

熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より

抜粋させて頂きます<m(__)m>

今回、 発掘調査報告書を刊行しました灰塚遺跡は球磨郡深田村に所在します。
球磨郡は県南に位置し、 悠久の流れを持つ球磨川はその文化を育んできました
 

本書は平成5年度から9年度にかけて県営緊急畑地帯総合整備事業(須恵・深田地区)に伴って発掘調査を実地した報告書です。 調査の結果、 旧石器~近世の遺構・遺物が出土しました。今回報告するのは主に縄文時代の成果です。 

 

約3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、 

当時の精神文化の充実を伺わせます。
 

今回の成果が学術のみならず、 県民の皆様をはじめ多くの方々に広く活用され、
埋蔵文化財に対する関心と御理解を深めていただく一助になれば幸いに存じます。


中略・・
灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 

 

耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多いが、 

縄文時代早期の耳栓としては、 鹿児島県 上野原遺跡出土の耳栓 と並んで貴重な資料である。

灰塚遺跡出土の耳栓に塗彩 されていたのはパイプ状ベンガラであることが判明した。 

赤彩さ れた耳栓の類 例をあげる と鹿児島県国分市上野原遺跡 1)と福山町城ケ尾遺跡 2) しかなく、 南九州の縄文早期の特殊性と その広がり を示す好資料となった。 

また耳栓は2点と も滑車状のタイプであるが 、 塗彩状況を観察すると片側の平坦面から中空の部分のみに ベンガラが塗彩されている。

 

ピアス式に耳に装着した場合、 外から見える部分にのみ赤色塗彩を施 し、 耳に はまる部分や外から見えない内側には塗彩されていない状況が伺える。 

ベンガラが貴重であったとも考えられるし、 「見えると ころだけでよい」という装飾に対する縄文人の意識の一端とも受け取ることができる興 味深い資料である。 

以上 熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 より
抜粋させて頂きました。

 



約3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、 当時の精神文化の充実を伺わせます。

 

灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 ※パイプ状ベンガラ

耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多い・・・

 

⑤・⑥に記されていた内容が如何に重要な事なのか・・

私は理解力に不足していました・・

 

 

アカホヤ(7300年前)以前の遺跡として

多良木町の大久保台地遺跡群もあります。

 

2020年の2月に書いたブログにて動画を付けて詳しくご紹介させて頂きました。

 

 

 

2021年3月に書いたブログ・・・

 

 

 

球磨郡多良木町大久保台地遺跡群から出土した8000年前の石製(滑石) 人形

 

今から8000年前に滑石で造られた
日本でただ一つの出土品  石製品の人形 出土直後の写真





さらに、

12000年前~8000年前に作られた土器に施された文様の数々・・

一例 菱形文様

 

 

ここまで

①狸谷遺跡では竪穴式住居跡が発見された。

②狸谷遺跡、里の城遺跡で隆起線文土器が検出された。

③白鳥平B遺跡において草創期に属する爪型文士器が検出された。

④白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・

⑤灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。 ※パイプ状ベンガラ

⑥耳栓 は縄文時代後 ・晩期に盛行し赤色顔料が塗彩されたものが多い・・・

 

⑦球磨郡多良木町大久保台地遺跡群から出土した8000年前の石製(滑石) 人形

 

⑧12000年前~8000年前に作られた土器に施された文様の数々・・

 

といったお話を書いて参りましたが、何度も書きますように、上記のお話は

縄文時代
草創期: 1万5000年前 - 1万1500年前
早期: 1万1500年前 - 7000年前

の遺跡について・・・でした

 

これらの遺跡を形成した人達が全て滅んだ・・とは

どうしても私には考えられない!

今まで、何度も書いてきた私の気持ちです。

 

 

その根拠と致しまして

※1.球磨盆地には火砕流は到達していない。

 

画像 ウィキペディアより

 

幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり。九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。

 

 

確かに火山灰(アカホヤ)が20㎝~30㎝堆積したラインに球磨盆地は入っていますが・・・

※2.球磨には、自然のシェルターとも言える鍾乳洞が各地に存在します。

 

 

 

 

熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 より 

 

早期の遺跡では、球磨村大瀬洞穴遺跡と同村高沢洞穴遺跡が有名である。

いずれも石灰岩地帯にある鍾乳洞の遺跡で、骨や貝殻などの保存に適した条件を備えている。

 出土した動物関係の資料には、鹿の骨の他、アワビ・ハマグリなどの海の貝殻が発掘されている。このように、海との関係を示唆する貝殻が出土したことは、縄文時代早期社会を考える上でとても重要なデータである。
 

 

 

ウィキペディアよりあらためて<m(__)m>

九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

 

ほぼ全滅・・ ほぼ・・とは

完全に全滅・・では ない ・・とも受け取れます・・

 

 

完全に全滅・・では ない ・・ その根拠がきっと何かあるはずだ!

と私は考えてきたのですが・・

 

ついに 見つけました(p_-)

 

それは・・・アカホヤ下地層の耳栓(耳飾り)に意味があったのです!

 

 

 

3.アカホヤ前の耳栓は列島を北上している!

 

謎を解く鍵の一つが耳栓(耳飾り)にあった事をようやく理解する事が出来ました😊

 

 

とてもありがたい、とても大切な、重要な論文が公開されていました!

 

研究・紀要 年報

縄文の森から 第4号

です

 

https://www.jomon-no-mori.jp/old/jimages/mbn_kiyo/kiyo4/37-44.pdf

 

 

新東晃一氏

九州の縄文時代の二つの耳飾り

-九州の玦状耳飾と耳栓について一

 

 

皆様、ぜひご覧になられて頂きたい!と願います。

非常に重要なお話をご紹介なさっていらっしゃいます。

 

 

とても解りやすくご説明なさっていらっしゃる箇所を抜粋させて頂きます<m(__)m>

 

これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,

いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった
 

ところが,南九州で玦状耳飾がアカホヤ火山灰の下位から出土したことによって,

玦状耳飾の初源期の形態的位置づけ(編年)が明確になった

 

さらに,南九州における耳栓等のアカホヤ火山灰下位の出士は,日本列島では考えられない事象であり,日本の縄文文化観の転換に迫る成果を提供している

 

 

ここから・・僭越ながら私ひろっぷめが、要約しますと・・

 

 

今までは・・

「耳飾」が縄文時代前期に流行したあと,中期中葉頃には東日本を中心に「耳栓」が登場すると考えられていました。

 

「耳栓」は「決状耳飾」とは,その出現時期に隔たりがあることや両者の形態上の違いからまったく別系統の装身具と考えられているようです。

「滑車形耳飾」は,「耳栓」の大型化や装飾化によって出現したもので同種のものと考えられていたようで・・。

縄文時代中期中葉以降の「耳栓」との中間的なものから,後期後半には中心部に様々な文様を施した精巧な幾何学文を飾るものが多くなったそうです。

その耳栓の文化が九州に到達していた・・と今まで考えられていた・・
 

※縄文時代前期 = 7000年前 - 5500年前

 

 

所が!!

その耳栓(決状耳飾)が球磨を含む九州南部地域の縄文時代早期の遺跡

アカホヤ(7300年前)の下の地層から出土していた!と言う事が

今までの推測を大きく覆す事になった!

という事なのです

 

 

 

新東晃一氏 九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一 より

 

耳栓等は,北部九州の福岡県と佐賀県に前期以降のものが5遺跡5個体あり,

九州島の中央部に空白を作り,
南部九州の熊本県南部と宮崎県と鹿児島県に早期のものが19遺跡の68個体が出士している。

つまり,耳栓等の耳飾は,北部九州は日本列島の耳栓等の在り方と一致しており,

南部九州の特異性・先進性を際ださせている。

 

新東晃一氏
九州の縄文時代の二つの耳飾り
-九州の玦状耳飾と耳栓について一 より・
・・・抜粋させて頂きました

 

 

 

北部九州の福岡県と佐賀県に前期以降のものが5遺跡5個体

 

つまり、以前の推測通り、

これまで,九州島内にみられる玦状耳飾と耳栓等のいわゆる縄文時代の二つの耳飾りは,
いずれも,中部・北陸地方あるいは関東地方の耳飾り文化が伝播したものとの考え方が一般的であった。

と一致する・・・

 

 

しかし!

球磨を含む、南九州のアカホヤ(7300年前)下の地層から出土した耳栓は

今までの通説を完全に覆すものであり

南部九州の特異性・先進性を際ださせている

 

という事になります!

 

ウィキペディアより 栓状耳飾り

 

 

 

栓状耳飾り(せんじょうみみかざり)は、日本の縄文時代中期(約5000年前)に隆盛したピアス式耳飾り(イヤリング)の一種である。

 

考古学界では「耳栓」(じせん)と呼ぶのがより一般的だが、いわゆる耳栓(みみせん)と字が同じのため、混同を避けるために本項では「栓状耳飾り」とする。

 

これはまた、縄文時代前期に現れた「玦状耳飾り」(けつじょうみみかざり)と分類上で対になる表記でもあるためである。小型のものを「耳栓」、大型のものを「滑車形耳飾り」(かっしゃがたみみかざり)と呼ぶ分け方もある。

 

栓状耳飾りは平たい円柱形をしており、円柱側面はやや窪んでいる。材質は土・木・石・骨角があるが土製が非常に多く、土製のものには、円柱形の内側に曲線的かつ立体的な装飾が施された作品が多い。また、東日本に多く分布する。

 

ウィキペディアより転記致しました<m(__)m>

 

 

 

 

 

球磨を含む南部九州の耳栓が日本最古

 

時系列で(p_-)

 

縄文時代早期
1万1500年前 - 7000年前

 

例えば球磨地方

④白鳥平A遺跡及び同B遺跡早期に属する耳栓が出土・・
⑤灰塚遺跡の縄文時代早期包含層から出土した耳栓に、 赤色顔料と考え ら れる物質が塗彩されていた。(パイプ状ベンガラ) ※耳栓は2点と も滑車状のタイプ

東日本に多く分布する「耳栓」は日本の縄文時代中期(約5000年前)に隆盛した

 

 

 

 

これは・・どういう事なのか!?

それは・・耳栓(耳飾り)の文化を持った球磨を含む南九州

喜界カルデラの爆発的噴火から助かったいずれかの地域の人達が

移動していた可能性がある!

という事になります!

 

 

九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

 

ほぼ全滅・・ ほぼ・・とは
完全に全滅・・では ない ・・とも受け取れます・・
完全に全滅・・では ない ・・ その根拠がきっと何かあるはずだ!

 

その証拠が・・・

耳栓にありました!

 

 

嬉しいです・・・

良かった・・

やっと証拠を見つける事が出来ました・・


 

私はおそらく・・助かった人達は日本列島を東に北に進んだだけではなく・・

一部の人達は大陸にも向かったのでは・・!?と考えます

 

その証拠は・・・

にや~っ😉・・・

不気味な微笑み・・

 

 

 

もう一度・・

熊本県教育委員会 2001 『灰塚遺跡2』熊本県文化財調査報告197 序文より

3万点を超える膨大な出土遺物の遺跡で、 特に彩色耳栓や異形土器・石器など、 

当時の精神文化の充実を伺わせます。

 

 

凄い・・・

 

 

 

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今回は

1.上村麓城跡の紅葉🍁

2.アカホヤ(7300年前)下地層の遺跡

3.アカホヤ以前の耳栓文化は列島を北上している・・!

 

というお話を書かせて頂きました😊

 

 

今回は、文章ばかりで物凄~く長くなりました。

申し訳ございません <m(__)m>

 

 

ただ、

アカホヤ下の耳栓文化は列島を北上している・・と言う事を

ぜひ皆様方に お伝えしたかったのです・・

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


油断は禁物です(ー_ー)!!

 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、
 

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

😊

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊴日本最古級の石器と世界最古の土器と世界最古級の土器』に続きます。

 

前回のブログ『再投稿㊱後編-5 神の川と苧麻は「ヲ」と呼ぶ球磨人と球磨紀伊山地

より続きます。

 

 

 

 

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害により、元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

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新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

明るい道が見えて参りましたが

冬をむかえるにあたり
油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

 

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今回は後編の続きではありません<m(__)m>

 

まずは 皆様へ嬉しいご報告です!😊

 

 

1.くま川鉄道部分運行再開

 

令和2年7月豪雨により、甚大な被害を受けた くま川鉄道が

本日11月19日~27日までの間、試験運転を経て、

11月28日 ついに 部分運行が再開致します!

 

 

 

くま川鉄道株式会社様 公式ページより

 

 

 

豪雨災害のため被災し、全線において運休しておりましたが

令和3年11月28日より部分運行再開(肥後西村~湯前間)します。

 

 

 

 

\(^o^)/

とても とても 嬉しいです

皆、とても喜んでいます!

 

 

 

 

 

球磨川鉄道の全線24.8kmのうち川村~肥後西村間の球磨川第4橋梁が流出。

 

比較的被害の少なかった球磨川第4橋梁の東側にあたる肥後西村~湯前間が

部分運行再開となります。

 

人吉温泉駅構内でKT-500形の全5両が水没して被災しましたが、修理可能であった3両が無事修理を終えて、17日夜、人吉温泉駅からあさぎり駅まで、陸路で輸送されました。

 

 

 

 

動画ニュース あり 熊本県民テレビ様

「ワクワクする!」被災したくま川鉄道 車両移動大作戦【熊本】

 

 

 

映像の中にあった

くま川鉄道・生駒圭史運輸課長のお話

「実際この車両が動き出すのを見ると実感が湧いてくる。

いよいよだなという所で一歩前に進んだのかな」
 

 

一歩前に進んだ

 

ニュースを拝見しながら、胸が熱くなりました

 

 

 

 

11月16日の朝

私の住む、あさぎり町の防災ラジオから、

「19日から27日にかけての試運転」に関する放送が流れてきた瞬間・・

くま川鉄道株式会社様、さらに多くの方々のご尽力、大変なご苦労への心から感謝と

ようやく一歩前に進んだ事の嬉しさに、私は涙が溢れました

 

 

全国の報道各社の方々がここまでの経緯を記事になさって下さいます。

 

 

 

マイナビニュース様の記事では、

震災後、鳥取県の若桜鉄道の技術者の方々が応援に駆けつけて下さったお話、

全国の方々から頂いたありがたいご支援、

国からの「特定大規模災害等鉄道施設災害復旧事業」の指定に関するお話等が記載されています。

 

 

 

 

 

 

くまがわ鉄道は、球磨人吉地域の子供たち、学生にとっても、

とても大切な通学用の交通機関でありました。

 

私の従弟の子供たちも、災害後、通学には臨時のバスを利用していました。

 

 

 

 

乗り物ニュース様 記事

列車1本の代替にバス11台!? 「くま川鉄道」改めて知るその役割 豪雨被害から再開へ

 

 

 

乗り物ニュース様 記事より

 

JR肥薩線の人吉駅に隣接する人吉温泉駅から、球磨盆地の東端に位置する湯前駅まで24.8kmを結ぶこの路線は、元・国鉄湯前線です。

 

1989(平成元)年に沿線市町村などが出資する第3セクター方式の

くま川鉄道、通称“くま鉄“に転換して現在に至ります。

 

沿線には熊本県人吉市、錦町、あさぎり町、多良木町、湯前町があり、周辺10市町村を含めた都市雇用圏としての人口は9万人弱。

被災前は各町の主要駅周辺の賑わいに驚かされたものでした。

 

この路線は国鉄時代から通学利用の多さで知られ、現在でも乗客の8割を沿線の4高校(人吉高校、球磨中央高校、南陵高校、球磨工業高校)への通学利用が占めています。

 

さらに2019年には多良木高校が統合により閉校し、

15kmほど離れた球磨中央高校(旧・球磨商業高校の校舎を利用した新設校)に通う必要が生じたため、通学の定期利用者が2割も増加。

 

通学時間に運行される3両編成の列車(KT-100形、定員110名程度)は、

朝晩には混雑率130%という、大都市通勤路線のそれに匹敵していたほどです。

 しかし、「令和2年7月豪雨」による球磨川の氾濫で、保有する5両の気動車すべてが浸水したほか、球磨川第四橋梁の流失が何よりの痛手となり、再開の目処もつかないまま全面運休を余儀なくされました。

 

 

以上 乗り物ニュース様 記事より 一部抜粋してご紹介致しました。

 

 

 

 

運休の間、各自治体でも、線路を守る為の取り組みを行ってこられました。

 

例えば、私の住む球磨郡あさぎり町でも、

災害後、数回に渡り、町民への線路の草むしり、草刈等の清掃作業の呼びかけがあり、多くの方々がボランティアで参加しています。

 

皆で守ってきた 大切なくま川鉄道

ようやく一部運行再開です!

 

 

 

くま川鉄道株式会社様、さらに多くの方々のご尽力、大変なご苦労

計り知れない大変なご苦労に あらためて、感謝もうしあげます

 

地域の皆さん 心から喜んでおられます

ありがとうございました

 

 

 

 

 

 

2.球磨の紅葉・・🍁

 

ここからは音楽と共にお付き合い下さい😊

 

Fearless Motivation - Never Give Up - Extended (Epic Music)

 

Never Give Up です 😊

 

 

 

 

 

昨年は、災害による土砂崩れ等もあり、気持ちの上でも紅葉を見に行こうという気分にはなれませんでした。

 

しかし、

今年は、一歩ずつ前に進んでいる故郷を感じながら、この地の事を、私の身体の事をいつも心配してくれる子供たちに、美しい紅葉の写真を送ってあげたいと思い出かけてまいりました。😊

 

 

ブログをご覧下さる皆様方にも感謝の気持ちを込めて

球磨の秋、紅葉の風景をお届け致します

 

 

まずは

標高の高い山深い奥里 球磨郡水上村江代

白水滝川上流の風景です 😊

 

白水阿蘇神社様が 白水滝の麓にご鎮座です。

 

江戸時代中期に編纂された麻郡神社私考では

白水阿蘇神社様は

 

白水大明神 江代白水山

祭 十一月初酉日

阿蘇神社同體

草創年紀 大同二年丁亥鎮座

 

とあります

※大同二年 (807年)

 

 

 

白水滝川上流の白龍王滝、白龍妃滝にかかる吊り橋

白龍王橋、白龍妃橋を下から見た風景

 

 

山の稜線をよ~く見て頂くと・・

 

左側に架かるのが白龍妃橋 右側が白龍王橋 です

 

 

下から見た 白龍妃橋

 

治山治水

自然の落葉樹林です。

 

 

山を登り、駐車場に着くと、案内板が出ています。

 

 

 

駐車場の紅葉

 

 

 

ここから、遊歩道を下に降りると、白龍妃橋に至ります。

私は高所恐怖症なので😥、いつもの如く、主人が橋の上から写真を撮ってくれました😅

 

 

 

ご覧下さい<m(__)m>

白龍妃橋からの 風景です 😊

 

 

 

先にご紹介した写真は、下に見える建物近くから撮影しました😊

 

 

 

 

 

 

 

遠い昔・・

古(いにしえ)の時代・・

スギやヒノキを人間の手で植林する前は、きっと山々はこのような秋の色に染まっていたのでしょう・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いて

球磨郡錦町の新宮寺様の紅葉です

 

新宮寺は球磨の新宮家の菩提寺であられます。

 

球磨の新宮家については 2019年11月に書いたブログ

古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々 でもご紹介させて頂いております。

 

 

 

 

熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)

統括にあたった役職『熊野別当(くまのべっとう)』家であられる

『新宮家』の方

南北朝時代 懐良親王隋従となられ、肥後へお入りに。

 

球磨にて系をお繋げになられていらっしゃいます。

 

 

 

現球磨郡錦町木上(きのえ)。旧木上村の「木上村史」によると
天授四年(1378年) 北朝永和四年 新宮伊豫守行定に木上岩城を賜う。(新宮家譜)

 

 

免田郷土研究会 昭和55年3月発行 郷土 第八号より
 

岩城 新宮行定の墓
木本神社に登る途中にある自然石の墓で、

天室宗春大禅定門 嘉慶二(1388年 北朝年号)中略・・三月廿九日と正面に刻まれ、

左側から背面、右側にかけて新宮家初代初代行家からの由緒が朱入りで刻まれている
行家は八幡太郎義家の子源為義の十男で、行定は行家七代目の末裔らしい。

 

免田郷土研究会 昭和55年3月発行 郷土 第八号より抜粋致しました。

 

 

 

新宮家の菩提寺 新宮寺

この時は、少し早い時期に伺いました 😊

 

 

 

 

 

 

お伺いした日は、少し強い雨が降っていて、観光の方も多くお見えでしたので、お参りをさせて頂く事は控えました<m(__)m>

 

 

新宮寺様も、令和2年7月豪雨では被害に遭われています。

至る所で崖が崩れていますので、復旧工事が行われていました。

 

 

 

以前、お参りした際に撮影した新宮寺六観音様の由来書

 

 

 

新宮寺六観音様のお写真も以前撮影させて頂いておりますので

後日、機会を設けてご紹介させて頂きます 😊

 

 

古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々 でも書かせて頂いておりますように

 

宗像大社大宮司家 熊野三山別当家 諏訪大社上社の神長官

(じんちょうかん)を務めてきた社家の方々も球磨にお入りになられ系を御繋ぎになられていらっしゃいます。

 

他にも

 

神瀬氏 人吉市史には

高千穂明神系の神瀬氏

と記されています。

※高千穂明神  高千穂神社様です

 

 

求麻外史記載の相良家初代当主「相良長頼」球磨入部の際の、随行者の記録には

球磨の税所氏

その先は篤實親王にして

大隅霧島社の総官職たり

 

とあります。

 

 

こう言った日本各地に御鎮座の名立たる神社様御所縁の方々

球磨には代々住されていらっしゃるのです・・・

 

 

前回のブログ『再投稿㊱後編-5 神の川と苧麻は「ヲ」と呼ぶ球磨人と球磨紀伊山地』を書いてあらためて感じたのですが・・

 

 

 

クマは多く神を意義し居る・・

 

 

つまり 球磨川 とは

神の川

という意味になるのですね・・

 

神の川  球磨川・・

 

球磨・・・クマ

 

この地は、『和名類聚抄』においても・・・

球磨郡 クマ郡

 

 

 

球磨郡・・クマの郡

つまり・・・神様の郡(こおり)

となるのですね・・・

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

今回は後編シリーズ?ではありませんでしたが(^▽^;)・・<m(__)m>

1.くま川鉄道部分運行再開

2.球磨の紅葉・・🍁

というお話を書かせて頂きました😊

 

 

 

 

 

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います


 
始まりは 数万年前・・・

 

 

😊

 

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


油断は禁物です(ー_ー)!!

 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、

お身体十分にお気を付けになられて下さい。

😊

 
 

 

全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊳上村麓城跡の紅葉と・耳栓は日本列島を北上している!事・・』に続きます。

 

 

前回のブログ『㉟重要 目に見える有害物質とツクシイバラの秘密・・』より続きます。

 

 

 

2021/11/11 18:10 再投稿

 

2021/11/09 18:46投稿の拙ブログご覧頂いた皆様に心から感謝申し上げます。

 

これから、お読み頂く御方々、

ひろっぷのブログにご興味を持って下さりありがとうございます。

 

当ブログ内で書かせて頂いた事をあらためて読み返して、新たに発見!致しましたので

追記させて頂きます。

 

藤原定隆の和歌
夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊(みそぎ)しつらむ

 

球磨郡誌より 苧麻(球磨ではヲ)

三月から四月にかけて主として畑に播種し、夏刈り取るのであるが・・・

(ここから様々な作業を経て)・・・・河流に於いて竹管にて水洗いをなす・・

 

一致しました やりました\(^o^)/

発見致しました! \(^o^)/

 

凄く嬉しくて・・追記させて頂きました😊
 

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
皆様方には心から感謝いたしております。

 
球磨の古代の事、球磨の歴史を書く事で、
令和二年七月の豪雨災害により、元気をなくしてしまったこの郷土の方々が
故郷を離れて遠い地で故郷を思う方々が
郷土に誇りを感じ、少しでも勇気づけて頂ければと思いながら
ブログを書いています。
さらに、全国の多くの方々に、球磨の歴史をお伝えしたい!
と強く思いながら、毎回、拙いブログですが心を込めて書いています。

 

🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼🍀🌼

 

新型コロナウィルス(武漢ウィルス)により
犠牲となられた方々の御冥福をお祈り申しあげます

感染なさった方々の一日も早いご回復をお祈り致しております

 

 

明るい道が見えて参りましたが

油断せずに、お国から言われている事「感染対策」をしっかりと守って

出来るようになった事の数々を感謝して過ごしていきたいですね😊

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

ようやく、ブログタイトルに「後編」と書く思考が蘇って?参りました😊

 

自称?思考の休憩期間?において、数稿のブログ投稿を行いましたが・・

全て、「この期間」に気が付いた事は、新たに「後編」を書き続ける、とても大切な勉強期間でありました。

心から感謝いたしております。

 

 

今回のブログタイトル

㊱後編-5 神の川と苧麻は「ヲ」と呼ぶ球磨人と球磨紀伊山地』をご覧になられて・・

 

あっ!また・・ひろっぷ何か気が付いたな・・!?」とお考えになられた御方・・

 

はい!(^o^)/その通りであります!😊

 

これから書かせて頂く事を知らずして「後編-4」の続きとはならなかったでしょう・・

(後編-4を書いた時に次に書こう・・と思っていた事は、マダマダ説得力?にかけていたと思います・・)

 

では・・早速・・ の前に (^▽^;)

 

 

まずは、前々回のブログでご紹介した球磨盆地(人吉盆地)を覆う雲海の映像

あらためて、ご紹介致します。

未だ、ご覧頂いていらっしゃらない御方は、よろしければぜひご覧頂きたい・・と願います。

きっと・・必ず 何かをお感じ頂けると思うからです・・

標高1000m級の山々と、底地が100mから200m程になる盆地を覆う雲海です。

 

tararira taragi 様の たらぎ雲海ムービー  です😊

2分56秒の動画となります。

 

 

 

 

 

 

 

ここからは・・長くなりますので(^▽^;)

いつものように、音楽と共にお付き合いください<m(__)m> 😊

 

Fearless Motivation - The Universe In Me - Song Mix (Epic Music)

 

 

 

 

 

 

1.球磨川のクマは神様の意・・・

 

この数回に渡る投稿で球磨川の風景をご紹介して参りました😊

 

実は、先月10月29日、私が大好きな球磨川の秋の風景を撮影してきました。

 

その後、11月に入り数日前に熊本日日新聞社様も、同じ風景をご紹介なさっていらっしゃり、

やはり、綺麗だな~と😊

 

う~む(p_-) 私も全国の皆様に撮影してきた写真をぜひご紹介しよう!(^o^)/

と思いました😊

 

 

 

球磨郡錦町木上(きのえ)を流れる球磨川の風景です

春にはこの地域にツクシイバラが咲き誇ります

 

 

 

ススキが生い茂り、夕日を浴びてキラキラと光り輝いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご堪能頂けましたでしょうか? 😊

 

球磨川は九万の支流からなると言われるように、盆地内に湧き出る美しい清らかな水からなる数々の河川が流れこむ川です。

 

 

支流 数例をご紹介します 。

 

高柱川 (たかはし川)上流

 

 

 

 

多良木町黒肥地宮ケ野(みやがの)を流れる宮ケ野川上流

先日、ドライブしていて、初めて伺いました😊

 

 

 

 

五木村 川辺川支流 砂が見える所も水面です😊

 

 

 

 

球磨郡相良村 川辺川中流

 

 

 

 

 

 

 

 

球磨郡山江村 万江川上流

 

 

 

 

市房ダムが建設される前の球磨川は、

清らかな水、青い水が流れる、今以上に

それは美しい川だったと古老の方々は口々に言われます😊

 

 

 

 

前々回のブログ『㉞再投稿 301回目 球磨の雲海と海を渡ったツクシイバラ』 より・・・

 

 

古韓の熊川と相通じる名は、筑紫(九州)に球磨郡あり、球磨川あり・・

また熊本の市もある、
 

また出雲にも紀伊にも熊野の神域があり。兵庫県に神代村(クマシロ)・神稻(クマシロ)郷・長野県に神稻(クマシロ)村などあって、

 

 

クマは多く神を意義し居る・・

 

 

 

つまり 球磨川 とは

神の川

という意味になるのですね・・

 

だからか・・

 

球磨郡球磨村神瀬(こうのせ)

旧神瀬村・・

 

神の瀬

神の川

 

そのままです・・

 

 

神の川  球磨川・・

 

 

 

千早振る神々

 

 

令和2年の7月 私達は千早振る球磨川を目の当たりにしました・・・

 

100万年前に古代の湖「人吉湖」が決壊し、球磨盆地が登場して・・

地球の気候変動の度に 何万年も前から、

古(いにしえ)の人達は、

千早振る神々のお姿を現すような

球磨川を度々目の当たりにしてこられたのでしょう・・

 

そこには きっと祈りがあったと思います

そして、しっかりと、

この地を、球磨川を愛して乗り越えて来られました

 

だから、今も 現代の私達も・・

必ず、一つの歴史を前に進めて、未来に伝えていく事が出来ると思うのです

 

 

 

 

2.水稲稲作の日本の起源について

少しだけ・・・<m(__)m>

 

 

 

以前からご紹介していますように、「球磨盆地(人吉盆地)」内では、

それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土致しております。

 

有肩打製石斧について書いた過去ブログは多数あります<m(__)m>

 

 

 

熊本県教育委員会 1998 『大原天子遺跡1』熊本県文化財調査報告138 より

なお、この時代(縄文晩期)の遺物としては、C-4区を中心とした一角から、集中して「山ノ寺式」相当の、浅鉢・深鉢などが出土している。土器は粗製土器、および黒色磨研系の2種
が認められる、出土総数は831点である。
 

また、ほぼ同様の分布で、石器が出土している。打製石斧が、15点、くさび型石器2点、
黒曜石剥片62点、また注目される石器では「有肩打製石斧」が9点出土したほか、それら
石器の素材としての剥片が41点と多数出土している。
これらの少ない遺構と、遺物の出土のあり様は、当遺跡の‘性格を考える上で重要である。

以上 熊本県教育委員会 1998 『大原天子遺跡1』熊本県文化財調査報告138 より

 

 

 

 

 

 

有肩打製石斧とは コトバンク様より

 

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

磨製石斧の頭部両側に肩部をつけた石器。硬質の岩石を選び板状につくられ片刃のものが多いが、肉厚な方柱状のものもある。

 

マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の

水稲農耕文化発生地域に広く分布する新石器時代末の特徴的石器。

 

本来のものは手斧(ちょうな)的な木工具と考えられる。

中国の長江(揚子江)南部杭州(こうしゅう)付近からも数例の出土品が報告され、わが国の弥生(やよい)文化の遺跡からも長さ5センチメートル前後の小形品が3例ほど出土している。

 

松本信広は、水稲農耕文化が東南アジア圏からの波及に伴い、言語、神話伝承などとともに渡来したものではないかとする考説を発表した。本来のものは最小長さ7センチメートル前後、大きなものは20センチメートルを超すものもあり、弥生文化遺跡出土のものは本来の有肩石斧の用途を失ったものと思われる。

 

近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部などで、縄文文化後期末ないし晩期の遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。

 

有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。

 

 

以上 有肩打製石斧とは コトバンク様より転記致しました。

 

 

 

過去ブログにおいて、以前から書いておりましたように

※熊本県南西部 とは、球磨盆地(人吉盆地)内の錦町大原天子遺跡であります(p_-)

 

 

ただし(p_-)

錦町大原天子遺跡は有肩打製石斧を作る為の

古代 石器製作所跡

でありました。

 

 

過去ブログでもご紹介していたのですが・・・

戦時中・・球磨地方の多数の縄文遺跡から

有肩打製石斧は発見されておりました。(縄文晩期か?)

 

 

 

昭和16年発行 球磨郡誌 より

 

 

 

 

 

錦町大原天子遺跡は有肩打製石斧を作る為の
古代 石器製作所跡

 

つまり・・・

大原天子遺跡の時代には、すでに球磨盆地内では有肩打製石斧は

多く・・広まっていた と言う事なのでしょう・・

 

 

 

 

古代の水稲稲作の始まりの地 

全国複数の遺跡が名乗りをあげていらっしゃいますが・・・・

 

 

有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる・・と言われる有肩石斧が縄文時代晩期の遺跡から

多数出土する球磨

 

 

 

 

何故? もっと研究が進まないのか・・

ずっと疑問だったのですが・・

雲海が晴れた後の盆地の写真を見ていて気が付きました😊

 

 

それは・・・

無理ですね(ー_ー)!!

 

この田園地帯の”ここが”最初の水田跡だ!なんて・・探す事など

無理ですねぇ~ (ー_ー)!!

 

 

以下の写真は球磨盆地のごく一部を撮影しただけです・・・

 

もっともっと広~く田園地帯は広がっています・・・

 

秋のあさぎり2

 

 

秋のあさぎり1

 

 

 

 

秋のあさぎり3

 

 

この田園地帯の ”ここが” 最初の水田跡だ!なんて・・探す事など

無理ですねぇ~ (ー_ー)!!

 

あれっ? どなたか お笑いになられましたか?  ・・・(p_-)

(^▽^;)

ねっ! 無理でしょう・・(^▽^;)

 

ただ・・古老の方々は「迫」という地名等が付いている場所は、水が湧き出て小川が流れているから、ふる~くからの田じゃろ~ と言われるのですが

「迫」の付く地名もいっぱいあり過ぎて・・湧水が出る所もいっぱいあり過ぎて・・

 

 

 

縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土したこの球磨盆地

この田園地帯の ”ここが” 最初の水田跡だ!なんて・・探す事など・・

 

無理ですねぇ~ (ー_ー)!!

ねっ! 無理でしょう・・(^▽^;)  ・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

3.苧麻を「ヲ」と呼ぶ球磨人

 

 

前回のブログのコメントでおちゃも様より

球磨郡では元々古代はツクシイバラを何と呼んでいたのか気になります。

と伺い、私も凄く気になりました。

 

所有する 昭和16年発行の球磨郡誌をじっくりと読んでみました。

 

昭和16年2月 皇紀二千六百年記念事業として編纂された

球磨郡誌の初回発行本です。

 

 

ボロボロですが・・

 

 

 

すると・・昭和16年当時は ツクシイバラは ツクシサクラバラと記されていました。

 

しかし、その前は・・ナント呼んでいたのかは、記されてはいませんでした・・

 

 

 

 

おちゃも様からのご質問がきっかけとなり・・

私は、何だか面白くなって😊、植物関係他、今まであまりじっくりと読んでいなかった項を

夢中で読んでいると・・・

 

発見致しました (p_-)

 

 

苧麻 についてです。

 

 

過去ブログでも数回ご紹介致しました。

例えば・・

 

 

 

 

 

 

 

 

家のすぐ近く、川の土手に生えている苧麻

 

 

 

 

 

 

球磨郡誌によると・・

苧麻は江戸時代まで、球磨地方では普通に栽培していたようです 😊

 

 

 

ただ・・苧麻について書かれている内容に非常に興味が湧いた記述がありました。

 

 

球磨郡誌は

国立国会図書館デジタルコレクションでも御覧いただけます。

コマ番号 198 に苧麻の記述があります。

 

 

 

 

 

気になる箇所を拡大しました (p_-)

 

 

 

 

 

転記致します

 

 

苧麻のことを當地では「ヲ」と云う。

 

三月から四月にかけて主として畑に播種し、夏刈り取るのであるがその生育には多量の肥料を要し、土地を疲瘠させること甚だしき為め普通の土地に於いてはこれが栽培には多量の

肥料を施さねばならぬ。

 

 

苧麻の製品としての第一手段は原料より剥皮をなす作業であって、刈取りたる原料を直径一米位の大束となし、之を熱湯溢るる、大釜の上に備へたる圓筒桶(當地ではオイドケ)

※円筒桶 に入れ、三時間位蒸し、取り出して皮を剥ぎ竿に掛けて日乾とする。

 

是を皮麻(當地ではアラソ)という。

 

今日では圓筒桶の代わりに石を畳んで蒸す處がある。

普通斯して出来た皮麻を販売するも一部分は更に之を釜に入れ、曹達を加えて再び煮沸し取り出したる後、河流に於いて竹管にて水洗いをなし精麻として多くは仲買商人の手を経て、長崎・鹿児島・熊本・大阪へ移出し、皮麻は広島・大阪へ移出している。

 

 

以上 球磨郡誌 290ページより転記致しました。

 

 

 

 

※苧麻のことを當地では「ヲ」と云う。

 

 

「ヲ」 ?

ヲヲヲヲヲ~ \(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

何語???

 

とビックリした所で・・苧麻を「ヲ」とは球磨弁アルアルかな?・・(?_?)

と思い・・くふふふふ~っ🤣 と笑ってしまいました 😊

 

 

 

がっしかし(ー_ー)!!

以下の記述を見て・・・さらにビックリ!

驚いてしまいました・・・

 

カラムシ ウィキペディアより

 

 

カラムシ(苧、枲、苎、学名:Boehmeria nivea var. nipononivea)は、イラクサ目イラクサ科の多年生植物。

 

南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古くから植物繊維をとるために栽培されたため、文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがある。

また、カツホウ、シラノ、シロソ、ソロハ、シロホ、ヒウジ、コロモグサ、カラソともいう。

 

古代日本においては「ヲ」という表記もある。

 

 

以上ウィキペディアより抜粋致しました。

 

 

 

 

※古代日本においては「ヲ」という表記もある。

 

 

 

え~っ!! 

「ヲ」 ?

ヲヲヲヲヲ~ \(゜ロ\)(/ロ゜)/

 

 

 

球磨郡誌より 苧麻

※苧麻のことを當地では「ヲ」と云う。

 

 

ウィキペディアより 苧麻

※古代日本においては「ヲ」という表記もある。

 

 

 

えええ~っ?

「ヲ」 ?
ヲヲヲヲヲ~ \(゜ロ\)(/ロ゜)/
何語???

 

 

じゃなくて(ー_ー)!!

古代語 でした  (p_-)

 

 

 

 

球磨人は 古代語を継承していた訳ですねぇ~ (p_-)

 

 

凄い!

 

 

と言う事は・・

先に書いた球磨郡誌からの転記内容

とてつもなく重要な事なのかもしれません・・!

 

 

苧麻のことを當地では「ヲ」と云う。

圓筒桶(當地ではオイドケ)

皮麻(當地ではアラソ)という。

 

 

 

苧麻を「ヲ」と呼ぶ球磨以外の地域を探したのですが、未だ見つけていません。

 

 

文献にしっかりと記されている 他地域をぜひ探したい!

強く思いました!

 

 

実は※皮麻(當地ではアラソ)という。 

アラソは広島地方で言われていた事に気が付いたのですが・・

先に転記したように

 

※(球磨の)皮麻は広島・大阪へ移出している。

とあります。

 

 

Weblio辞書 アラソ 粗麻より

 

 

精製してない麻糸。

 

〔名〕 カラムシの茎の繊維で作った麻糸で、未精製のもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕

 

 

 

 

 

実は球磨郡誌から転記した内容に、さらに気になる箇所がありました。

 

※皮麻(當地ではアラソ)

曹達を加えて再び煮沸し取り出したる後、河流に於いて竹管にて水洗いをなし・・

 

 

※皮麻(當地ではアラソ)

河流に於いて竹管にて水洗いをなし・・

 

 

河流・・

私の頭に思い浮かんだ和歌二首・・・

(以前から過去ブログで何度もご紹介した 和歌 です)

 

 

 

 

藤原定隆の和歌

夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊(みそぎ)しつらむ

 

 

木綿葉川とは人吉より先、八代方面に下る球磨川の別称です。

 

※藤原 定隆(ふじわら の さだたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家良門流、権中納言・藤原清隆の子。官位は従三位・左京大夫。

 

 

 

さらに・・

 

柿本人麻呂の和歌

肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉

 

肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや。

 

 

 

木綿 とは 麻 の意です。

 

 

 

所で・・皆様

肥人(こまひと)  転記した苧麻の栽培から精製までの作業工程の中で

 

何度も  の文字が登場しましたね・・

 

 

 

 

カラムシ(苧麻)ウィキペディアから、さらに転記致します<m(__)m>

 

日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。

 

古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部(はとりべ、はとり、服部)を置いていたことが見え、『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。

 

 

苧麻 球磨において

苧麻のことを當地では「」と云う。

 

 

 

独り言・・

 

球磨人は「ヲ 人」 だったのだなぁ~ 

 

ヲ = 倭 じゃなかったのかなぁ~

 

 

「ヲ 人」とは 

縄文時代からの貴重な苧麻・麻の栽培・精製を伝承

守り続けた人達だったのでしょう・・😊

 

 

 

 

 

4.球磨紀伊山地・・・

 

 

詳しく検証するのは、追々させて頂きますが

球磨郡誌の以下の記述をご覧下さい<m(__)m>

 

 

 

※八代付近 球磨紀伊山地の層位と構造

 

 

 

※八代付近 球磨紀伊山地の層位と構造

 

 

球磨紀伊山地 とは 何だろう・・

紀伊・・・

 

球磨紀伊山地

この名称は、戦後76年を経て、完全に消えてしまっていますね・・

 

神話に繋がるお話は完全に消されたのでしょうか・・

 

他国の意図を感じます・・・・

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

今回は

1.球磨川のクマは神様の意・・・

2.水稲稲作の日本の起源について 少しだけ・・・<m(__)m>

3.苧麻を「ヲ」と呼ぶ球磨人

4.球磨紀伊山地・・・


という内容を書かせて頂きました<m(__)m>

 

 

 

やはり・・

私には 球磨の自然が教えてくれます

それは・・

ここに居るから解る事・・

なのだと 思います

 
始まりは 数万年前・・・

 

 

😊

 

 

 

 

皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました。


油断は禁物です(ー_ー)!!

 

毎回書きますが<m(__)m>
お国がもう大丈夫です!と言われるまで、

お身体十分にお気を付けになられて下さい。
😊

 
全ての事に感謝の気持ちを込めて

だんだんなぁ~

そして・・・

負けんば~い!!

 

 

球磨の地より ひろっぷ でした😊

 

次回『㊲一歩前へ! くま川鉄道部分運行再開と球磨の紅葉』に続きます。