前回のブログ『再投稿 ㉑次回の前に背中に封印されたお経のお話・・』より続きます。
2021/07/15 05:00 再投稿
すでに当ブログをご覧頂いた方々へ
2021/07/14 22:57 投稿の拙ブログをご覧頂き ありがとうございました。
ブログ投稿後あらためて読み返すと、誤字脱字、
説明不足のオンパレードで修正させて頂き、再投稿いたしました。
お恥ずかしい限りです <m(__)m> ・・😥
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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、
愛するご家族、親戚やご友人の方々に看取られる事なく、一人で旅立つ事をよぎなくされた
御方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
この難局を世界中がいち早く乗り切れる日が来ることを心よりお祈りいたします。
ご報告
実は、7月14日、15:40頃まで晴天で
洗濯、掃除をすませて
順調に当ブログを書いていたのですが・・・
16:00過ぎから、ゲリラ豪雨・・・雷も激しく、
尋常ではない突風が吹いて、外の植木鉢が飛んでしまいました😱
昨日もゲリラ豪雨があったのですが、1時間程で止んだので
昨日同様 直ぐに止むかと思っていたのですが・・・
1時間半 以上過ぎてもいっこうに止まず、防災アプリの雨雲レーダーは家の上空付近
ほぼ紫状態が続いていました。
が・・しかし
気象庁さん発表の降水量は・・NHKさんのデータ放送で確認しても・・
さほど降っていないように表示されて・・
ナンでぇ~!! と叫びそうになっていた時に・・
【気象庁発表】
7月14日17時30分
大雨危険度通知
大雨の影響で、熊本県あさぎり町の一部区域で土砂災害と河川洪水の危険が上昇しています。
と防災アプリからの通知が・・・
一部区域・・・だからだ・・・
やはり、おかしい変だ・・危険だ! と感じる 人間の直感は間違っていない・・!
と痛感しました。
それに・・・ゲリラ豪雨だろう・・と勝手に推測していた私も 間違っていた!と
テレビで表示された九州全体の雨雲レーダーを見て痛感しました。
宮崎県にかかっている豪雨をもたらしている雨雲が、
私の住む地域に山を越えてかかっていた事に気が付きました。
本当に油断は禁物だと あらためて反省しております。
夜を迎えましたが、まだ雷は激しく雨も強く降っています。
十分に気を付けます。
私の失敗は皆様方の参考にして頂ければと思い
書かせて頂きました。
皆様、 十分に気を付けて
どうか ご安全に お過ごしになられて下さい。
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最近、更新が早いな~!(p_-)
とお感じの方々もいらっしゃるのかな・・・🙄
と思います😊
実は私、以前ご説明したお寺の係以外にも、微力ながらもボランティアでお手伝いさせて頂いているとても大切な事がありまして(詳しくは書けませんが・・) 他にも色々・・😊
農作業のお手伝いが無い時期も所用が続いています。
本日、7月15日は午前中に15日のお務めをさせて頂き午後からは法要があります。
空いた時間は精力的にブログを書こう(^^)/ と思いまして 早々の投稿となりました😊
前回のブログでは 私の背中に封印して頂いたお経という
不思議なお話を書かせて頂きました(すみません <m(__)m> )
今回のブログタイトルは『注目されない甕棺について』です😊
後編ではなく 中編とした理由は、
中編で記紀に”熊襲”と記された方々が本来どういう方々であったのか
球磨にいらした方々が本来どういう「心」を持っていらした方々だったのか・・を
考古学的な「証拠」を元にご紹介しようと思いました。
今回は長い文章となりましたので 音楽を聴きながらでも お付き合い下さい😊
私、この曲 凄く 好きなのです😅
注目されない縄文時代後期~晩期の
甕棺について
1.球磨の縄文時代からの祈りの形
過去ブログでも何度もご紹介致しておりますように
球磨地方には旧石器時代~縄文時代にかけての数多くの遺跡があります。
※最近、私のブログをご覧になり始めた・・という御方もいらっしゃると思いますが
(拙いブログですが ご覧頂き ありがとうございます)
よろしければ
「ひろっぷ 縄文時代」 又は 「ひろっぷ 旧石器時代」というキーワードで
検索して頂くと 拙いブログですが出て来ると思います<m(__)m>
今回は ブログ文字数の都合上 リンクは省かせて頂きます<m(__)m>
最近のブログ内容から ちょっと気になる事がありまして、縄文時代の遺跡
中堂遺跡を調べてみました。
2018年12月にも 中堂遺跡について書かせて頂いております😊
人吉市中神の中堂遺跡
西日本(近畿地方を含む)で唯一
落内群構造の認められる『住居跡63棟』や
石器製場所や土器捨場があって、他地域との交流を示す天城式土器、古閑式土器、
黒川式土器等を使用して、装飾品としてヒスイの勾玉、管玉を使用する
「縄文晩期の最先端を走る」人達の営みが見える遺跡です😊
この遺跡は縄文時代後期~晩期、弥生時代の草創期にかけての とても大切な遺跡だと私は考えます😊
実は、この遺跡から
幼くして亡くなった子供さん達の棺38基が見つかっていたのです。
私は、過去ブログで『この事』に触れていなかった・・と 反省し😥
あらためて、調べ直してみました (p_-)
すると・・・
平成15年度に熊本県立装飾古墳館で開催された
「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」
で使用されたリーフレットがネット公開されている事に気が付きました。
中堂遺跡や五木村の遺跡 他 人吉球磨地方の複数の遺跡
さらに・・球磨郡深田村(現あさぎり町深田)で出土した30万年近く前ではないか!?と地質学者の方が推測なさっていらっしゃる石器
についても記されていました。
※30万年前近く・・・ビックリしますが詳しくは次回以降 追々ご紹介させて頂きます😊
ご興味がおありになられる方は
検索サイトで 『 中堂遺跡 38基 』 とキーワードを入力して頂くと
灘諺 - 全国遺跡報告総覧 サイト様が一覧に出ますので、
クリックして頂くと ダウンロードしてご覧いただけます。
私もダウンロードして拝見致しました 😊
おそらく、資料として頂いているようなのですが・・資料数が多すぎて・・まだ確認致しておりません 😥
「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 資料の 37ページ
縄文の祈り の項に 中堂遺跡について記述がありました。
「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 資料 には
中堂遺跡は縄文時代後期から晩期にかけての遺跡 とありました。
※近年、縄文時代を今から3000年前と位置付ける傾向にあるようですが、平成15年当時は
縄文時代後期(今から4000年前)から縄文時代晩期(今から2400年程前まで)の遺跡と位置付けられていたようです。
資料には
中堂遺跡では、当時の家の跡である竪穴式住居跡が81基
幼くして亡くなった子供たちを葬った埋甕(うめがめ)38基
が出土した事等 記されています。
さらに玉類や土製勾玉、特殊な形の土器が多数出土したと記されています。
※詳しくは資料をダウンロードしてご覧下さい<m(__)m>
※
幼くして死んでしまった子供たちの霊を慰めるためのものなのか。
これらは縄文の祈りを窺わせてくれるものとして、とても大切なものです。
と記されていました。
拝見して 非常に驚きました・・・
とても 感動します・・・・
さらに続けて
祈りの原型 の項に
球磨地方(人吉も含みます)では、
今から8000年前~7000年前の縄文時代早期の出土品に
”祈りの原型を示すものでしょう”
と記されています。
先述させて頂いた
幼くして亡くなった子供たちを葬った埋甕(うめがめ)38基
に関して
人々は何を求めるか の項に さらに感動するお言葉がありました。
幼くして死んだ子供たちの死はムラの中に深い悲しみをただよわせるものでした。
人々は、こうした悲しみを祈りという形で紛らわしました。
中略・・
祭や祈り。そこに人々が求めているものは、安らぎでした。
繩文時代早期に始まる祭り、そして縄文人たちの祈り、さらには免田式土器を使った祭。
これら、原始から始まる祭りや祈りは、形を変えながらもその時代の人々によって今日まで受け継がれ、人々に安らぎを与えながら球磨の文化を育ててきました。
そんな歴史が、祈りの里、球磨のイメージの基層に流れるものです。
以上 「肥後の至宝展 Ⅱ 球磨楽展~球磨の考古と歴史に遊ぶ~」 資料より抜粋
とても感動しました・・・
私は数年前から球磨は祈りの地であったのだろう・・とブログで何度も書いてきましたが・・
考古学的な見地からも、
球磨の原始的な歴史から見える祈り、現代まで受け継がれてきた祈りが 祈りの里、球磨のイメージの基層に流れるものです
とありました
感動しました・・・
ただ・・感動しているだけではいけません (ー_ー)!! と 自分に言い聞かせて・・
幼くして亡くなった子供たちを葬った埋甕(うめがめ)38基
今から約4000年~約2400年前の遺跡から出土した
埋甕(うめがめ) 38基
埋甕(うめがめ)・・・ あれっ・・・???
埋甕の棺・・・
あれっ!???
2.埋甕の棺
甕棺墓 ウィキペディアより
甕棺墓(かめかんぼ)とは、甕(かめ)や壺(つぼ)を棺(ひつぎ)として埋葬する墓をいう。
歴史的墓制として世界各地に見られるが、乳幼児の墓として用いられる例が多い。
1個の甕に土器などの蓋をするもの(単棺)、2個の甕を開口部で合わせたもの(合口棺)などがある。気密性を確保するため、蓋や合口部を粘土などで固定することも多い。
甕棺内部では、遺体を屈める屈葬(くっそう)の形態がとられる。屈葬及び甕棺の採用には、死者の魂を遺体にとどめておこうとする思想背景があった、と考える研究者もいる。
日本の甕棺墓
日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。
縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
その後、弥生時代前期~中期の北部九州において最盛期を迎える。
北部九州の中でも福岡平野周辺一帯は、弥生早期から前期前半までは成人が主に木棺に埋葬されていたが、前期後半になると壺棺に代わった。
それまでは、小児が甕棺に埋葬されていた。中期後半には長崎県や熊本平野まで拡がった。
以上 ウィキペディアより抜粋致しました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
九州・・・人吉 中堂遺跡に該当 (p_-)
※その後、弥生時代前期~中期の北部九州において最盛期を迎える。
あれれれれ~っ!!!!
私・・・甕棺墓は北部九州が最初かと思っていたのですが・・・
何だか・・九州では・・
人吉 中堂遺跡の方が 早かったのですね~ !!
\(◎o◎)/!
しかし・・高校生の時の歴史教科書では 甕棺墓は北部九州が最初 そのように
習ったような気が・・・
ムムム~っ!! (p_-) ナンで ?? (p_-)
凄~く 面白くなって来たので (p_-) さらに
北部九州に甕棺墓が登場した時期を詳しく調べました (^o^)/
すると・・・とても詳しくお調べになられていらっしゃるサイト様を見つけました。
小さな日本の風景 サイト様 内
九州の遺跡探訪 です。
以下
小さな日本の風景 サイト様 内 九州の遺跡探訪 を
拝見して 理解させて頂いた事を抜粋致します。
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。
中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて、
日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北部九州で、
朝鮮半島南部では紀元4世紀頃から始まった。
甕棺葬は縄文時代から小児用としては行われた。
成人用としての大きな甕棺は、弥生前期後半の北部九州で現われる。
この時期の甕棺は、韓国慶尚南道金海でも発見されたので
「金海式甕棺」と呼ばれることがある。
小さな日本の風景 サイト様 九州の遺跡探訪を拝見して勉強させて頂きました。
甕棺墓
確かに成人用としては 九州北部から始まったようですね。
しかし・・やはり
甕棺葬は縄文時代から小児用としては行われていた・・・
こちら球磨では甕棺墓はあくまでも、
幼くして亡くなった子供たちの慰霊の為 祈りの為の物であり、
弥生時代の成人のお墓は 木棺墓、墳丘墓、土壙墓等
支石墓も あさぎり町免田(面田)市房隠れ遺跡が有名です😊
日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北部九州で・・・
という事は・・・(p_-)
九州では・・
今から約4000年~約2400年前(紀元前4世紀)の
球磨地方の遺跡から見える祭祀の形が
200年程の間で・・・北部九州に伝わった際に
変わったのでしょうねぇ~
(p_-)
面白いです😊
あれっ???
成人用としての大きな甕棺は、弥生前期後半の北部九州で現われる。
この時期の甕棺は、韓国慶尚南道金海でも発見されたので
「金海式甕棺」と呼ばれることがある。
あっ! 😊
「金海式甕棺」
ほらっ! 皆様ぁ ~ 😊
約4000年~約2400年前の球磨地方の祭祀の形が
北部九州と朝鮮半島に伝わっている事が
解りますねっ😉
ただ・・・ ここまで書いて 何だか・・・
空しくなりました・・😥
何故? 縄文時代の後期~晩期にかけてすでに存在していた
祭祀、祈りの形である甕棺墓を
多くの学者様方は スルー ? 無視?
されるのでしょうか・・
私はとても大切な事だと考えるのですが・・・
しかし(p_-)
これだけは しっかりと解りました (p_-)
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。
中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて・・・・
紀元前4千年の中国長江河口流域・・
中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていた
↓
縄文時代後期から晩期にかけての人吉 中堂遺跡
今から約4000年~約2400年前(紀元前4世紀)の球磨地方の祭祀の形 甕棺墓
↓
日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北部九州で・・・
弥生時代前期~中期の北部九州において最盛期を迎える
九州での 流れまでもが 甕棺墓で見えてきました\(^o^)/
もしかしたら・・・🙄
この流れが見える事が お嫌いな 研究者の方々が
いらっしゃったりして・・
意地悪 ひろっぷ 登場・・・😅
今から約4000年~約2400年前の 人吉 中堂遺跡から出土した
埋甕(うめがめ) 38基 (甕棺)
から調べた、勉強した
1.球磨の縄文時代からの祈りの形
2.埋甕の棺
という内容を今回は書かせて頂きました。
球磨の原始的な歴史から見える祈り、現代まで受け継がれてきた祈りが 祈りの里、球磨のイメージの基層に流れるもの
熊襲 と 記紀に記された方々・・
神に関する古語の研究 の中で 著者 林兼明氏 は
「くま」の語は、実に「かみ」の語の転ぜるなりき。 中略・・・
「くま」は「かみ」の原語より「かみ」てふ語の構成過程に於いて転生せしものの如し。
かくて「くまそ」の語は「襲山」の神性を修飾するの意に出てしものなりしに、後に「くま」と「そ」を観念分岐して、両地の地名に別立するに至りしに似たり。
「熊襲」の文字及び「熊襲」の種族によりて誤解すべからず、「熊」の字は「くま」の訓を借りたるのみ。
また「熊襲」てふ種族別にあるにあらず、こは全くして天孫種族と同一にして、単に「襲」の地方に居りたるが故に、その地名を冠せるのみなり。
とお書きになられていらっしゃいます。
球磨の原始的な歴史から見える祈り、現代まで受け継がれてきた祈り
皆様、
日本国に古代から綿々と受け継がれた祈り と 同じだとお思いになられませんか・・・
熊襲は天孫種族と同一
なのです・・・
滅ぼされたりなど ありえない・・・・
この方々が朝敵になられた・・と思いますか?
この方々の後裔の方々が・・朝敵になられたと思いますか?
私は ありえないと思います・・・
私は 記紀の内容のその裏に
何等かの理由が必ずある と思います
そして・・熊襲の後裔の方々は おそらく義の元にそれを許されたのでしょう・・
市房山の写真で 終わります 😊
皆様
最後までご覧頂き ありがとうございました
お身体十分にお気を付けになられてお過ごし下さい。
まだまだ気象状況は不安定です
どうか ご安全に お過ごしになられて下さい。
皆様 だんだんなぁ~
球磨の地より ひろっぷでした😊
次回 『㉓保存版(中編ー2)東漢鎏金方格神獣鏡が出土した面田(免田)』 に続きます