前回のブログ

球磨の落人伝説 ① から続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12326392216.html

 

突然ですが・・

今の私は見えない大きな力に背中を押されているようです。

次々と今まで理解出来ていなかった事が、何気ない日常の一つ一つの行動がきっかけとなり、理解出来るようになりました。

次回は、親戚や主人に気分転換にと誘われて、向かった球磨を取り囲む山々の奥にある美しい景色を見ながら『やっと気が付いた』重要な事を書きたいと思います。

 

実は、最愛の弟が10月29日に永眠いたしました。

子供の頃から病気と闘い続けた弟。

弟は最後までよく頑張りました。 私の誇りであり、尊敬しています。

弟と私は、御先祖様の真実を調べる約束をしていました。

私が調べた先祖調査の進捗を、弟はいつもニコニコして聞いてくれていました。

その弟が、最後まで私に言っていた事は

『祖母の先祖は平家の方だ!』と『僕は、ばあちゃん(祖母)から聞いていた』

この言葉でした。

確かに、私も子供の頃、その事を祖母から聞いた事はあります。

しかし、祖母の実家「平河氏(平川氏)」は本姓「良峯氏」であり、

「良峯氏」とは桓武天皇を父とし母を百済永継とされる「良峯安世」が祖である。

この事を理解すると、祖母の言葉、弟が言う事が、今ひとつ良く解らなくなっていました。

 

所が

今年の始めに、ある資料を手にして驚きました。

祖母の実家の平川家の高祖父は、明治の初めに「矢立家」から養子に入り平川家を継いでいた事が判明したのです。

その後「矢立氏」とは?と調べました。

高祖父の実家は旧多良木村(久米)であり、さらに矢立氏は現在全国に45軒ほどしかない極端に少ない姓でした。

極端に少ない姓ではありますが、しかし「矢立氏」は肥後相良藩士分限帳、他相良藩史にもその名を残していました。

「矢立氏」とはいったい・・・???

そう考えて、さらに調査を進めた結果、「矢立氏」が平家落人伝説で有名な椎葉村の

大河内矢立集落を、その名の由来とする事が解りました。

 

この事に気が付いたきっかけとなったのが

大河内森林ガイドの会様のサイト内にあった

『大河内の伝統文化、まつり』のページだったのです。

http://www.geocities.jp/ookawauchi_iyashinomori/culture.htm

 

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

こちらに、『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』と題して前事務局長様の民俗レポートが記載されていました。

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より 抜粋させて頂きます。

 

(1) 国指定重要無形民俗文化財
 椎葉村には29の集落ごとに、それぞれ異なった神楽が伝承されています(うち4集落は廃絶)。そのすべてをひとくくりにした呼び名が「椎葉神楽」で、国 の重要無形民俗文化財に指定(1980年)されています。

 

(2) 大河内神楽のあらまし
 大河内は、椎葉村西南部の、高塚山、三方岳、市房山、江代山(椎葉では津野岳と呼ぶ)に囲まれた一ツ瀬川源流域に位置する集落群の総称です。ここには、 いくつかの神社があり、4つの地区で神楽が伝承されています。大河内八幡神社での「大河内神楽」、合戦原王宮神社での「合戦原神楽」、矢立雪矢神社の「矢 立神楽」、今森神社・鹿倉神社の「大藪神楽」です。といっても、4地区の神楽は、同じ神楽保存会が同じ祝子(「ほうりこ」と読む=後述)で同じ演目を行う ので、ここでは総称して「大河内神楽」と呼びます。 

 

大河内八幡で4年に1度行われる『注連の願(しめのがん)』の際は、他の地区にはない特別な演目が追加されます。神社の前庭には特殊な飾り付け が施され、演目には藁で編んだ大蛇なども出てきて、非常に興味深いものです。
 大河内神楽の発祥は定かではありません。
 ただ、それまでひそやかに営々と続けられ、守られてきた椎葉の神楽がはじめて外部に知られたのは、1964年、国の文化財保護審議会専門委員であった本 田安次氏による、大河内神楽の調査研究が最初といわれています。つまり、椎葉神楽が国指定重要無形文化財に指定されるきっかけを作ったのは、大河内神楽 だったのです。

あちこちに伝承されている神楽の中でも、大河内神楽のかたちは最も古い形をとどめているといわれています。

 

★大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より 抜粋

Ⅰ 概説

1.矢立の祭神

(1)雪矢神社(ゆきやじんしゃ)

  矢立集会所の左横からその上へ回る坂道を登りつめると、2軒の家が並んでいる。左の家の庭先を抜けると鳥 居が見えるが、 そこが雪矢神社の正面参道である。ちなみに、この地方では神社を「じんじゃ」と呼ばず「じんしゃ」と呼び習わしているため、ルビ表記もそのようにしてい る。
  男女対の夫婦神を主神として祀る神社である。この夫婦神のことを「雪矢さん」と呼ぶ。

「雪矢」は「征矢」とも書かれるが、 最近は「雪矢」で統一されている。

 

神楽ができるほどの広さの社殿があり、正面には祭壇。その中央に、夫婦神を納めた小さな神殿がある。まつ りの時のみこの神殿の扉は開かれ、 真綿にくるまれた木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か=左の写真)を拝むことができる。
  この「雪矢さん」は、天神と同一視されている。つまり菅原道真信仰の流れをくんでいるわけである。
 が、どうもそれだけでは説明しがたいものがある。天満宮と異なり夫婦神であり、大河内の他の集落に存在する神社や祠の祭神と、 親子や兄弟の関係にあるとも伝えられているからである。

 

※男女対の夫婦神を主神として祀る神社である。この夫婦神のことを「雪矢さん」と呼ぶ。

「雪矢」は「征矢」とも書かれる

※真綿にくるまれた木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か)

 

 

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より 

画像 御祭神 

 

 

(2)地主堂(じぬしどう=「堂(どう)」と簡略化して呼ばれる)

  矢立集会所上の坂道で最初に出てくる人家のすぐ下にある、木造の小さな堂。
  神体(右の写真)は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。 4畳ほどの広さのお堂の中に祭壇があり、石造りの像が3つ置かれている(写真左側の石像はその一つ)。 うち2つは古いご神体がそのまま置かれているものであり、本体は一つとみなされる。
  堂の外には、苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。また、その奥に大石の碑が立てられている。 碑文はすでに風化して読むことができない。いずれにしても、地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。 地元の人々は、「地主さんは仏さんから神さんになった」と言う。明らかに最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っているわけである。
  この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。以前は集会所付近にあった屋敷に住まっていた ということである。
  【作者註】神楽の幟に「矢立某」の奉納者名が染め抜かれているところを見ると、それほど古くない時代に この地を離れ、いまだにこの地との何らかのかかわりを保っておられるものと思われる。

 

※御神体は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」として祀られている。

※苔むして風化した石が幾つか並んでいる。これは「地主さんの墓」と呼ばれている。

※地主堂はこの墓所と密接に関連していることは間違いない。

※地元の人々は、「地主さんは仏さんから神さんになった」と言う。

※最も古い家の開祖の墓を「祖先神」として祀っている

※この墓所の主である「矢立氏」の子孫は、すでにこの土地には住まっていない。

 

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より 

画像 御神体

 

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』を拝見して 解った事は、こちらの御神体は矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」であり、この墓所の主は「矢立氏」であった

と言う事でした。

つまり・・・

私の祖母方の直接の先祖であり、私に流れる血脈は、こちらの御神体となられた

「方」に繋がっている

と言う事が解りました。

ただ・・・この御方がいったい何方(どなた)なのか・・・・

それは、全く不明です・・・

 

唯一の手掛かりは

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』の中に記されていた「内容」だけです。

 

大河内森林ガイドの会様のサイト内『大河内の伝統文化、まつり』

『矢立 祭祀考(やたてさいしこう)』より

3.年間の祭祀

(1)地主講

  旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。地租神の祭りである。 神事(神主及び世話役で執り行う)ののち、集落の全員(老若男女)が集まって、酒を酌み交わす。

 

※ 旧暦の3月17日に行なわれる祭。地主さんの命日だといわれる。

 

上記に記されているように、 旧暦の3月17日が地主様、すなわち、私の祖母方の先祖様の御命日である事が解ります。

 

しかし、矢立の雪矢(征矢)神社の御祭神を拝見すると

※真綿にくるまれた木製のご神体(男性は衣冠束帯、女性は十二単か=左の写真)

さらに、

矢立集落に最初に住み着き、骨を埋めた「地域の祖先神」つまり矢立氏の祖でいらっしゃる御神体を拝見すると

※御神体は石彫彩色の、衣冠束帯坐像。

衣冠束帯・十二単・・・・

 

私の祖母方の先祖、つまり、私の先祖は一体、どう言う方々だったのだろう・・・

そして・・・

衣冠束帯や十二単を身に付ける「立場」であったであろう先祖様が

雪矢(征矢)神社の御祭神であったならば

衣冠束帯坐像の御神体である方はこの方々の子息なのだろうか・・・?

何故?どう言う理由?で、この地に来られたのだろう・・・

 

矢立の地は標高1000メートルに達する場所です。

九州中央山地の中です。

しかし、広大な椎葉村内の中では、最も球磨郡に近く、球磨郡水上村湯山地区から

一気に山を登った先にあります。

矢立峠からは球磨盆地が微かに見えて、さらに高原であり・・・

そこは天空の地のような場所でした。

先祖がここに辿って来られたその訳を私は知りたいです・・・

 

弟が、最後まで私に言っていた事は

『祖母の先祖は平家の方だ!僕は、ばあちゃん(祖母)から聞いていた』

この言葉でした。

 

弟が亡くなった後、この弟の言葉が胸から離れなくなりました。

 

しかし、弟の言葉にしっかりと向き合った事により、さらに解った事がありました。

 

それは、家の親戚関係についてです。

五家荘、五木村、椎葉村に繋がる縁戚関係は以前書いた事がありましたが

さらに、五家荘(旧八代郡泉村)の地名由来の姓である親戚が、前回ブログに書いた

「皆越集落」に関係していた事が解りました。

肥後相良藩士分限帳の「皆越」の項に、その親戚の先祖様の名前が記されていたからです。

 

五家荘、五木村、椎葉村、皆越、全て平家落人伝説の伝承地です。

さらに、私の住む集落旧宮原村宮麓は

伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人であり、三日平氏の乱 (平安時代)に関わった藤原忠清、この方の妻である御方、そして孫娘となられる平景清(藤原景清)息女「景清姫」がお亡くなりになられた地であります。

※藤原忠清、この方についてはウィキペディアを御参考下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85

 

藤原忠清の妻である御方の御魂は、私の住む集落内に大同元年(806年)建立、御鎮座であった切畑大明神(切畑神社)に、鎌倉時代「合祀」、御祭神となられていらっしゃいます。

切畑大明神(切畑神社)は平安時代末期に平頼盛が中興された神社です。

上記の内容は江戸時代の切畑大明神(切畑神社)の宮司「星原内記」が記録した
神社由来記に記されています。
切畑大明神(切畑神社)の宮司「星原内記」
この方は、家の親戚である「星原氏」の一族の方です。
本姓大神 「星原内記」こと大神惟久
以前ブログにアップさせて頂いた『親戚の本姓は「大神氏」でした』をご覧頂くとお解り頂けます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12280176184.html 
 

平氏譜代の有力家人であり、三日平氏の乱 (平安時代)に関わった藤原忠清、この方の子息「平景清(藤原景清)」息女「景清姫」様は私の住む集落「宮麓」でお亡くなりになられました。
お供の方のお墓と共に、800年以上もの間、私の住む集落の方の「家」が代々お祀り、御供養されていらっしゃいます。

景清姫様のお墓を江戸時代にあらためて立派な石塔として建て直し、お堂を創建した方は隣村「奥野村」の庄屋「那須甚七」と言う方でありました。

墓石には『聞伝上古景清将息女之廟此所也、享保壬寅七年三月廿二日(1722年)施主那須甚七』と書かれています。

那須氏は平家落人伝説で有名な椎葉村を出自の地とされています。

 

さらに、親戚の椎葉家ではこの地まで逃れてこられた後(のち)お亡くなりになられた平家一門の方々の御霊を神様としてお祀り、御供養させて頂いています。

この椎葉家には高祖父(矢立氏から養子に入る)の孫である私の祖母の姉が養女に入り椎葉家を継いでいます。

椎葉氏は那須氏と同様に平家落人伝説で有名な椎葉村を出自の地とされています。

 

私は、基本的な事が全く理解出来ていなかったのです。

つまり、私の住む集落、祖母の実家があるこの集落「旧宮原村宮麓」は球磨の平家落人伝説の伝承地の一つである。 と言う事を・・・

 

平家落人伝説の伝承の地
五家荘、椎葉村、皆越、五木、そして旧宮原村宮麓はきっと「縁」で繋がっています。

家の親戚関係がそれを証明していると私は思うのです。

さらに、私は上記の地に繋がっているのは、山続きである日向国の「米良村」だと推測しています。

 

この事はおそらく

古代 ⇒ 中世 ⇒ 近世 は繋がっていると推測する私の考えと一致してくるのではないか!?

その事にようやく気が付いたきっかけが

今回のブログで最初に書いた

親戚や主人に気分転換にと誘われて、向かった球磨を取り囲む山々の奥にある美しい景色を見ながら『やっと気が付いた』重要な事

なのです。

 

私の背中を押して下さっている、不思議な大きな力。

心から感謝しています。

 

最後に

次回のテーマとなるワードは

球磨(古代久米)・山部・そして桓武天皇様です。

 

次回 『球磨(古代久米)と山部 所縁の地の今秋』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12328830375.html