前回のブログ『(反省の追記あり) 発見!「石杵」等の写真 プロローグ感謝の心と共に・・

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12569942530.html

2020/02/03 10:15 追記

最下部『紡錘車』について詳細を追記しております。

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。
お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

 

前回、反省の追記を書いた後で家の大事な家族を書いていない事にまた反省しました(*_*)

2年前のブログ『番外編 じいちゃん(父)と子猫のにゃん♡

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12353525839.html

で、書いた家の家族となった『にゃん』こと『宮原にゃん子』も大切な家族であります。

父の猫アレルギーは『番外編 じいちゃん(父)と子猫のにゃん♡』で書いたように、亡くなった弟が治してくれた!と私は信じています(^'^)

堅い仕事に就いていた父ですが、今ではにゃんにメロメロで、夜中ににゃんが目を覚ましてじいちゃんの部屋の前で「じぃ~にゃ~ん」と泣くと(父にはそう聞こえるそうです(p_-))、起きて、一緒にかくれんぼをして遊んでいます。父の部屋から聞こえてくる『にゃんちゃんは何処かなぁ~』と言う声で私は目を覚ます事も度々・・・

にゃん子の写真をと思ったのですが・・恥ずかしがって顔を隠していました・・(にゃんちゃって)

 

いにゃ~ん 顔は撮らないでぇ~ (親ばかです<m(__)m> お腹周りが私にそっくり・・ ) 

スマホを向けるといにゃ~んとするので、寝んねしている姿ばかりですが・・

 

にゃん子は二女?ですが、長女と長男は福岡県に住んでいます(^'^)

娘はとても素敵な旦那様と一緒です。

長女は私の再婚に対して背中を押してくれました。長男は主人に「お袋を頼みます」と言ってくれました。(訳あって、息子は家の姓は名乗りません)子供達には心から感謝しています。

 

この長女ですが、結婚前の私と主人のデートには、ほぼ50%は一緒に付いて来ていました。

\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 自分の仕事のシフトを組む時は『お母さんと〇〇さん(主人)の休みが合うのは何時?』と私達の休みに合わせる事度々・・でも、私が仕事ばかりしていたので、娘が子供の時に一緒に遊んだり、何処かに連れて行ってあげる事が出来なかったので、球磨に戻る前に娘と良い思い出が作れたなぁ~と思っています(^'^) 

それに良く考えてみると、ブログ『古代と記紀と『遺伝性の筋肉の病』』・『続 ”古代と記紀と『遺伝性の筋肉の病』”』で書いたように、筋ジストロフィーのキャリアであった私が血液のクレアチンキナーゼが高い為に心臓の動きが突然異常を起こす症状を持っていた事が判明して、ようやくきちんとした治療を受ける事が出来るようになり、薬を飲み始めたばかりで、状態が今のように未だ安定していない時期でもあり、娘も私の事が心配だったのだと思います。

(心臓が頻繁に異常を起こした原因が解った時は、恋人であった今の主人と娘が病院に付いて来てくれました)

 

父は、「私と主人の結婚を許して下さった主人のご両親には心から感謝している。お前のようなおばさんで〇〇ちゃん(主人)の子孫が残せない事を〇〇ちゃんのご先祖様にいつもお詫びしている。だから、〇〇ちゃんを大事に大切にしなさい」といつも言っております。

だから、台無しにしたとか言っていると、逆に祖父母や亡くなった弟、ご先祖様方にお叱りを受ける!そう思って、私は今の幸せに心から感謝しています。

 

さて、球磨の古代とご先祖様の「探求」

今回は前回の続きの前に『すご~く古~い』球磨の昔話を見つけましたので、最初に、ご紹介いたします。(^'^)・・・(p_-)

 

①球磨の昔話は時代が昔過ぎる~ \(゜ロ\)(/ロ゜)/

前回のブログに追記を書いた後、少し和んでみたいな~と思い、所有はしていたけれど、殆どまだ読んでいなかった(反省(*_*) )『九州相良 むかしがたり』と言う本を寝る前にの~んびりと読んでおりました。(^'^)

1992年 人吉市政50周年事業実行委員会様 発行

『九州相良 むかしがたり』 

 

球磨の人達が語り続けて来た民話・伝承が球磨弁で書かれていて、楽しく読んでいたのですが、途中で「ある事」に気が付いたのです・・・

其々のお話の中で最初に昔(むか~し)と付いた後で江戸時代の話には、

昔と言っても江戸時代の事ばってん・・」などと書かれていて、 あんら~っ(^'^) やっぱり球磨郡人にとっては「江戸時代の事は新しい時代」の感覚だったのねぇ~(^'^)と笑っていたら・・

衝撃の「昔話」が登場致しました! (p_-)

皆様方にもぜひ「この衝撃」をお伝えしたい!と思いましてご紹介致します<m(__)m>

 

1992年 人吉市政50周年事業実行委員会様 発行 

『九州相良 むかしがたり』 より 97ページ 

お龍っつあん

昔々、ず~っと遠いその昔、人が未ぁだ米作りをば知らんじゃったその昔の事じゃったげな。

お龍っつあんな此の田代村の人達に稲作りば教えぎゃあ来ないたとげな。

 

今日も村の人達ば連れて、龍の前で水田作りに精出して、何時も同ン処に来てよけまんばしをんないたげな。(※ よけまん = 休憩。おやつ)

 

そっで近頃まで、お龍っつあんのよけないた処ちゅうて塚が残って居り、「モミ」の古木が生えて居った。

その開拓の神様が何時の間にか、水神様やら蛇の神様にきゃあしなったとにゃあ色々事情もあって、こぎゃんこともあったげな。(※きゃあしなった=そうなってしまった)

・・・以下物語は続きます<m(__)m>

以上 『九州相良 むかしがたり』 より 97ページ 

 

昔々、ず~っと遠いその昔、人が未ぁだ米作りをば知らんじゃったその昔の事じゃったげな。

お龍っつあんな此の田代村の人達に稲作りば教えぎゃあ来ないたとげな。

 

いつの時代の昔話なんか~い!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

と私は叫んでしまいました!

寝る前に昔話を読んで、穏やかな気持ちになろうと思っていたら

これじゃ~(球磨弁で<m(__)m> )

でけ~ん!!ひったまげて ちょっぽかすけのごとなって 目がぱか~んとなって

眠れんごとなってしもたぁ~!!

(訳 だめ~!ビックリしてフクロウ(みみずく)のようになって 目が冴えて 眠れなくなった!)

しかし・・・凄~い!!球磨の田代村(現人吉市田代)の人達はこのお話を語り継がれて来られたのです。

 

旧田代村とは前々回のブログ『(速報!追記あり)大宮司様が見た「月と日と星が煌めく」球磨盆地内』 https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12568184921.html

でご紹介した、山の上の高原地帯にある今から8~5万年前の遺跡『大野遺跡』から山を降りた麓の旧『大畑(おこば)村』と隣接する村でした。

この辺り一帯から人吉市にかけて、九州自動車道人吉~えびの間の建設工事による調査で至る所から旧石器時代~縄文~弥生時代にかけての遺跡が発見されている地でもあります。

以前、おちゃも様から頂いたコメントに返信で書かせて頂いた赤池永谷遺跡・白鳥平A遺跡・小川内遺跡も近くにあります。赤池永谷遺跡は縄文時代早期の遺跡で今から6500年前の地層から土■(土へんに広)が見つかり、焼土が残っていたそうです。

早期の押し型文土器・円筒土器・塞ノ神式土器・剥片ではあるが石器素材の水晶が出土していた事等が『熊本県文化財報告書 第133集 赤池永谷遺跡 1993年』に記されていました。

熊本県文化財報告書 第133集 赤池永谷遺跡 1993年』には、

『水晶の剥片がV層より出土した。このことは、人吉・球磨地方における石器素材に水晶が加えられる事となり、一つの成果であった。』

『調査区の中央部から南側にかけて炭化物を含む土拡2基と集石1基が検出された。出土した
炭化物を'4C年代測定したところ、第1土拡は西暦1430年前後、第2土拡は西暦1330年前後と
いう結果であった。集石内の炭化物については、紀元前3020±160年という結果で、これは土
層の調査結果と誤差が生じたが、これらの結果は今後、多くのデータ蓄積によって解明できる
ものと思われる。』 とありました。

 

※集石内の炭化物については、紀元前3020±160年

もしかしたら・・・こういった遺跡に関連した方々に『お龍っつあん』は水稲稲作を教えに来られていたのかもしれません(^'^)

陸稲ではありませんね(ー_ー)!! ちゃんと『龍の前で水田作りに精出して』と伝わっております。

ふぅ~ ( ^^) _U~~ 実に面白い(p_-)

しかし・・・石器素材に水晶とは・・・

 

お龍っつあん』の昔話を知って、私はとてもほ~っとしました(^'^)

後ほど書きますが、球磨の石器時代・縄文時代早期以降の遺跡からは当時の最先端、先進技術を持った方々が住んでいらした証拠が多数出土していました!

そういう方々に水稲稲作を教えた『お龍っつあん』御一行?

『お龍っつあん』御一行?を先進技術を持った縄文人の方々が攻撃する事もなく温かく受け入れた。『お龍っつあん』御一行?も球磨の縄文人の方々を攻撃する事もなく、ナント水稲稲作の技術を教えて、一緒によけまん(おやつ・休憩)までしていた・・・

これにはきっと『理由』がある! と私は考えます。

『お龍っつあん』御一行?こそが、球磨の縄文時代の遺跡から多数(実はそうなのです)出土している有肩打製石斧を伝えた方々ではなかったのか!?

すると・・和気あいあいと相互が認め合ったと言う事は・・・私の考え

古代の九州を襲った火山の猛威の中を生き延びた『日本最古のベンガラ彩色耳栓』を使用していた人達(約1万2,000 - 7,000年前) が、火山から身を守る為に新天地を求めて日本列島を北上、または海を渡り大陸へと移っていた・・

その方々が帰って来た! その推測に関係しているのではないのか!?・・と。

 

有肩打製石斧(井上様が収集していた有肩打製石斧を拝見していなければ、ど素人の私は球磨郡誌の写真を見ても、それが有肩打製石斧だとは絶対に解らなかったはずです。)

 

中国長江流域にも倭人が・・・

『お龍っつあん』御一行?・・・何故?『』なのだろう・・・・???

 

先に書きましたように、すでに昭和16年の段階で球磨の石器時代・縄文時代早期以降の遺跡からは当時の最先端、先進技術を持った方々が住んでいらした証拠が多数出土していた事が『球磨郡誌』に書かれていました。

貴重な品々は石杵だけじゃなかったのです・・・・

『球磨郡誌』に記述されている内容を、私はど素人ですから、少しでも理解したいと自分なりに勉強したのですが、数々の出土品が如何に貴重であり、『常識を覆す』物であるのか!と言う事が『ど素人ながらも』理解出来ました。

前々回の速報!追記あり)大宮司様が見た「月と日と星が煌めく」球磨盆地内 の続きも含めて数回に分けてご紹介する事に致しました。

 

石器時代の球磨も謎だらけでした・・

②球磨郡誌より 石器時代 メンヒールと石幣

球磨郡誌 第二節 本群の石器時代の遺蹟及遺物 844ページより

中略・・郡内各町村に亙りて、尚遺物包含地及散布地として記述すべき箇所甚だ多く、且其の出土せし石器及土器の其の種類も甚だ多いのである。

球磨郡誌 国立国会図書館様の国立国会図書館デジタルコレクション 該当ページ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/475   844~855 ページ

 

私が非常に興味を抱いたのは

二 住居址及メンヒル     の項でした!

球磨郡誌 国立国会図書館様の国立国会図書館デジタルコレクション 該当ページ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/476   846~847 ページ

847 ページにメンヒルの写真あり

 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262/477    848 ページ

 

皇紀二千六百年記念事業として編纂された球磨郡誌より

メンヒール(立石) 多良木町字岩川内(いわんごち)にあり、「立石さん」と呼ばれ、小岳の突端に屹立つする凝灰岩の柱石である。

即ち高さ地上三米五十(3m50)、幅一米二十五(1m25)、厚さ一米六十(1m60)、周囲五米七十(5m70)許の一大板石の巨岩である。

古老の話によれば、明治初年頃まで、「立石さん詣り」と言って、方々から参詣人があったようで、現在(※昭和16年頃)でも立石の麓を掘ると寛永通宝を発見する事が出来る。

この立石は元は、もっと高いもう一つの巨岩と並んで立っていたと言うのであるが、今は此の大きな石の方は、付近の川の橋梁をする為に切り取られ、現在立っているのは、その小さいものの方である。

付近より献供用にせられたものと思はれる縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事で、これは或いは賽銭として用ひられた當時の石貨(僞貨)であろうと言はれるが、又漁具とした浮子とも稱へられている。(高田素次氏調査)

尚此の突き立つたる巨巖が、果たして欧州に於ける石器時代の所■巨石文化の遺物と稱せられメンヒルと同一なるや否やについては学者に於て異議あるものであるが、これは今後の学者の研究に任せて、唯々立石さんとして往時は尊崇したものであろうとの報告に留めておく。

以上 球磨郡誌より

 

※メンヒール(立石) ・・・「立石さん詣り」

縄文土器が出土し、且つ石器を発見せるも、殊に興味をひいたのは、軽石製の扁平なる円形の有孔石器の発見せられたる事で、これは或いは賽銭として用ひられた當時の石貨(僞貨)であろうと言はれるが・・・

※これは今後の学者の研究に任せて、唯々立石さんとして往時は尊崇したものであろうとの報告に留めておく。

 

今後の学者の研究・・・・昭和16年以降多良木町岩川内のメンヒルの研究は果たして行われたのでしょうか・・?? 私はその後の資料等を拝見した事が無いので解りません・・

だから、自分なりに勉強致しました。

 

メンヒール(メンヒル)とは・・? ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%AB

メンヒル(menhir)は、ヨーロッパ先史時代に立てられた、単一で直立した巨石記念物(モノリスまたはメガリス)
「メンヒル」という単語は、フランス語経由で19世紀の考古学者に採用されたもので、ブルトン語の「長い石」を意味する単語に基づいている(現代のウェールズ語では「長い石」は「maen hir」)。現代のブルトン語では、「peulvan」と呼ばれる。

 

メンヒルの建立者は近年までメンヒルはビーカー人(en:Beaker culture)(紀元前3000年代後期の後期新石器時代や初期青銅器時代にヨーロッパに定住した人々)と結び付けられていた。しかし、ブルターニュのメガリスの時代に関する近年の調査では、起源はもっと古く、6000年から7000年前に遡る仮説が示されている。ヨーロッパにおけるメンヒルの分布は、ハプログループR1b (Y染色体)の高頻度域と見事に一致しており、このグループに属す人々がメンヒルを建てたものと考えられる。このグループは新石器時代にヨーロッパに農耕をもたらした集団と考えられ、ハプログループR1b (Y染色体)は現在はバスク人に90%以上に見られることから、彼らはバスク語に近い言語(バスコン語)を話していたことが想定される。

 

代表的なメンヒル より 日本

鍋山メンヒル 岐阜県恵那市長島町
藤のメンヒル(五本の
立石) 岐阜県恵那市武並町藤
見戸のメンヒル 岐阜県恵那市
笠置町姫栗 笠置神社遥拝所跡
姫栗のメンヒル(市文化財) 岐阜県恵那市
笠置町姫栗中切地区 (旧姫栗小学校)
堀田遺跡のメンヒル 岐阜県恵那市
笠置町姫栗中切地区 (旧姫栗小学校)
鶯谷のメンヒル 岐阜県恵那市
笠置町姫栗毛呂窪地内 松王寺跡
蛇石のメンヒル 岐阜県恵那市
笠置町姫栗毛呂窪地内
山上家祖霊社 霊夢岩 岐阜県恵那市岩村町山上

立石山メンヒル 愛媛県越智郡上島町生名
妙見メンヒル 愛媛県越智郡上島町岩城
高山メンヒル 愛媛県大洲市高山
姫山メンヒル 大分県別府市大字野田

以上 ウィキペディアより

 

日本国内の代表的なメンヒルの名称・所在地を見て、鳥肌が立ちました・・!!

おそらく、球磨郡内にお住いの方々であれば、私と同じように驚かれたと思います。

 

※鍋山 は多良木の地名でもあり、相良頼景が球磨に来られて最初に城を造った場所。

上相良氏(多良木氏)の拠点の地名です・・一致

※笠置町 人吉には 笠置山 あり。・・一致

※五本の立石・立石山 多良木町のメンヒル「立石さん」と一致

※妙見メンヒル 愛媛県越智郡上島町岩城・・・妙見はもとより岩城は球磨では平安時代における平河氏の拠点、現錦町木上(きのえ 旧木上村)の岩城(いわんじょう)と一致

※高山メンヒル 愛媛県大洲市高山甲・・・高山は!岩城と同じく平安時代までの平河氏の拠点、現あさぎり町深田(旧深田村)「高山」と一致 この高山にも城が建てられていました・・・ 一致・・・

それに・・・愛媛県越智郡とは私ども宮原一族の先祖『伊予橘氏』に繋がる『越智氏』の拠点

嘘ぉ・・そんな・・・こんな事ってあるんだ・・・

驚きすぎて、言葉が出てこない   この事に気が付いた時の感想でした・・・

 

鍋山』は相良氏の球磨における最初の拠点。

何故?相良氏や球磨における室町時代まで『国人』と呼ばれた平河氏宮原氏が石器時代のメンヒルに繋がって来るのか・・??

 

さらに

球磨のメンヒルが建っている岩川内は・・実は祖母の妹が嫁いだ「多良木平川家」が昭和20年代まで所有していた山や田畑があった場所です。(父の従弟に4年程前聞いていました。土地は先代が手放されたと聞いています) さらに、今でも他の平川一族の方々に関係する地でもあります。 (詳しくは書けません<m(__)m> )

 

メンヒルの分布は、ハプログループR1b (Y染色体)の高頻度域と見事に一致しており、このグループに属す人々がメンヒルを建てたものと考えられる。このグループは新石器時代にヨーロッパに農耕をもたらした集団

★起源はもっと古く、6000年から7000年前に遡る仮説が示されている

6000年から7000年前・・・? ちょっと新しいな・・・(感覚が完全に麻痺しています・・)

 

ハプログループR1b ・6000年から7000年前・・・球磨を脱出後、新たに大陸に渡った人達、

何処かで融合したのかな・・

(独り言です・・)

 

ブログ『No201(追記あり) 多良木町出身の東宮内舎人の御方 郷土の名、山河をけがさないようにと』でhttps://ameblo.jp/hirom0211/entry-12560735606.html

郷土の名、山河に誇りを持ち、けがさないように、しっかりと勉強を重ねて参ります。
(きっと郷土の山河は・・宮原の娘は縄文時代早期の事とか新しい時代の事を調べとるバッテン、まだまだ甘いな~と苦笑いされているのかもしれません・・・)
えっ!? 石器時代から!? まだまだ道筋は遠いようです・・・

と、私は書きましたが、本当に石器時代まで、ご先祖様の調査が関わってきたようです・・

どうしよう・・・

いいえ(ー_ー)!! どうしようではなく、これからが楽しみです!!(気持ちを奮い立たせて)

 

メンヒルについてはもっと探求したいと思います!

次回は縄文式土器と共に出土した、繊維を紡ぐ為の紡錘車や縄文時代の農耕具

縄文式土器と共に出土した「鉄片」等について書かせて頂きます(p_-)

もちろん「石杵」もです(p_-) 

追記 紡錘車は日本国内において弥生時代の遺跡からは多数発見されていますが、縄文時代の遺蹟からの出土は大変貴重な物となります!

紡錘車 この写真の中に写っていますよ・・・ムフフ

 

きっと「石杵」は大きな御力が「きっかけ・入口」として、私に気が付かせて下さったのだと

私は感じております<m(__)m>

最後までお読み頂きありがとうございました。

ひろっぷ

 

次回『石杵の写真に繋がる球磨郡誌を読む事になったきっかけ 青く澄んだ水と天照大神様

に続きます。