ここ1週間以上、諸事情が発生してブログを更新していませんでした(..)
その『私の諸事情』ですが
猫ちゃんが避妊手術を受けたのです。
かなり以前から、私の調査を御存じの方や、このブログをご覧下さっていらっしゃる方々は
ええっ??また猫ちゃん!と思われた事だと思います・・
そうなのです、また、猫ちゃんが私の前に登場したのです。
今回は番外編と題して、我家の猫ちゃんと父との関係を書かせて頂きます(..)
(たまには歴史以外にもお付き合いください<m(__)m>)
名前は「にゃん」です。父が名付けました。
娘からは「猫ちゃんに”にゃん”て名前を付けたら、まるでゴリラに”ウフォ”と名前を付けるのと同じ(ー_ー)!!」
と言われましたが・・・
父が「にゃ~ん!」と呼ぶと「にゃ~ん♡」と返事をすることから
名前がそう決まりました。
にゃん♡の登場は去年の9月の末でした。
リビングでパソコンをパチパチと打っていると、外から子猫の鳴き声が・・
うん(゜-゜)・・と思い外に出て敷地内を探すと姿は見えず・・・
その翌日、私が庭に出て掃除をしていると
また、何処からか「にゃ~ん、にゃ~ん」と声が・・でも姿は見えず・・
さらに、トイレに入ると、トイレの窓の外から「にゃ~ん」
あれっ??とトイレ側の敷地に出ても姿は見えず・・
おかしいな(p_-) 何だか私の動きに合わせて外から鳴いているようだ・・・
と思い、リビング側の窓から見える所に仔猫用のキャットフードを置いてみると
(これは、熊本地震で近所に避難して来られていた方の猫ちゃんが迷子になって家に来た時に急遽買ったもので、その子は無事にすぐに飼い主さんのもとに帰りました。)
すると・・キャットフードのもとへ、可愛い子猫が
にゃ~んにゃ~んにゃ~んにゃ~んと大きな声で鳴きながらやってきてムシャムシャと・・
やっぱりいた!!\(◎o◎)/!
ただ・・ここで私は「ヤバイ!」と・・・
だって、大の猫好きの父が悲しい事に猫アレルギーになってしまい
私が小倉で飼っていた猫ちゃんを娘に託して球磨に戻って来たという経緯が・・
父は子供の頃から猫を飼っていて、祖母が亡くなる前にも猫が家にいて(この子は突然行方不明となり祖母は大変悲しみました)
みんな、歴代の猫ちゃんは、家に突然現れる!といった形だったのですが、祖母が亡くなった後に父は突然猫アレルギーになってしまい、通院していた事があったのです・・・
このままだと父に叱られる・・・と思いながらも・・父に黙って
私は朝夕とキャットフードをこっそりと置いていると
必ずにゃ~んにゃ~んにゃ~んにゃ~んと大きな声で鳴きながらやってきてムシャムシャと・・
おいおい(ー_ー)!!鳴かずに静かに食べて~と思っていたら
ついに父が気付いて・・・
でも、父は怒るどころかその姿に「メロメロ」に・・・
しかし(p_-)・・父は猫アレルギーです(ー_ー)!!
どうしようと・・と思っていると父が
「このままだと、タヌキにこの子は襲われる(@_@。」と言うので
私は車庫に子猫ちゃんの為のスペースを作ってあげました・・
しかし・・近づくと必ず逃げてしまいます・・
そのような日々が1週間程続いたある日
主人が仕事から帰って来て車を止めた後、中々家に入って来ないので
おかしいな(p_-)と思っていると、小さな声で主人が「来て来て!」と外から言うので窓から見ると・・・
ナント!その子猫ちゃんが主人に抱かれて甘えているではありませんか!
ええええっ!\(◎o◎)/!
突然の事に父も私もビックリしました。
(毎日、フードをやっていたのは私なのに・・・複雑((+_+))でしたが・・)
その日から、子猫ちゃんは私が作った車庫のスペースで悠々自適の生活が始まりました。
私にも抱っこされるようになったのですが・・・
かわいそうなのは父で、その姿を窓越しにニコニコして見つめるだけで・・・
所が!ある日、父がある行動に出ました!
マスクを付けて、肩までかかる虫よけの細かいネットが付いた麦わら帽子をかぶり
まだ、暑いさなか、アノラックを着て、手には私が炊事に使う使い捨てビニール手袋
さらに、厚手の作業ズボンと長靴で完全防備
と言う、まるで、宇宙服のような姿で、父は子猫ちゃんに近づいて行きました・・・
当然、子猫ちゃんはビックリして逃げました・・・
しかし(ー_ー)!! 父はあきらめずにその姿で、朝夕と子猫ちゃんに近づくと・・・
ナント!子猫ちゃんは父に甘え始めたのであります!
宇宙から来たような”あの姿”の父にです・・・
しかし、私は父の猫アレルギーが心配で、毎日、その姿で子猫と遊ぶ父を気にしていたのです・・
所がある日、父の猫アレルギーが完全に良くなった事が判明したのです。
それは、忘れもしない弟が亡くなった日でした・・・
弟が亡くなったと連絡が入り動転した私は父に泣きながら伝えると
父は「泣くな!泣いたら●●(弟)がお前の事を心配する!」
「●●(弟)は生涯病気と闘い続けた。本当に勇敢に闘った。よく頑張ったね、立派だったね、偉かったね、と褒めてあげるのが姉としてのお前の務めだ」
と言うと、一人で外に出て行きました・・
弟の事
弟は私とは1歳違いの年子でした。
私が11カ月で歩き始めたのとは違い、弟は2歳を過ぎてようやく立つ事が出来て、歩き始めたのも遅く、その足取りはおぼつかないものだったと言います。
当時、私達家族は父の仕事の関係で宮崎の新田原近郊に住んでいました。
母方の祖母達は私と弟との成長の違いに対して男の子は女の子より成長が遅いと言われていたそうですが、父母は、弟の成長を見ながら非常に不安を覚え、大学病院へと連れて行き
そこで、弟の病気が判明しました。
弟は進行性のデュシャンヌ型筋ジストロフィーという病気でした。
まだ、幼かった私ですが父と母が弟を抱きしめながら泣いていた姿を今でもしっかりと覚えています。
その時、父は私に「●●(弟)ちゃんは病気だったんだよ。お前はお姉ちゃんだから、これからは●●ちゃんを守ってあげてね」と泣きながら言いました。
私が8歳になってすぐ、弟が6歳の時に、両親は離婚。
私達姉弟は、球磨の父方の祖母に預けられました。
病気の進行等から、弟はその後菊池郡合志市の国立病院へと入院。
6歳から一生、この病院で過ごす事となりました。
父は、勤務先の宮崎の新田原から毎週土曜日(当時は土曜日の午後から休み)に球磨の私のもとへ来てくれて、翌日曜日には菊池の弟のもとへ二人で会いに行き、帰宅後、翌朝3時に宮崎へと戻る・・このような生活が何年も続きました。
その後、父は福岡県内へと転勤となり、毎週土曜日に弟に会いに行き、その足で、球磨の私のもとへ帰って来る・・このような生活も何年も続きました。
私も弟も、父から沢山の愛情を受けて育った事を大人になった今つくづく感謝しています。
弟は20歳前に呼吸困難に陥り、気管切開を受けて声を失い、身体を起こす事も出来なくなり寝たきりの状態になってしまいました。
その後・・弟は20歳を過ぎて、母方の姓に変わる事を選択しました。
その時の父の苦しみは見ていられない程でしたが「やっぱり、お母さんが恋しかったのか・・・」と言って父は弟の決断を責める事はしませんでした・・・
弟は、寝たきりの状態でも、色々な事にチャレンジしました。
口で筆をくわえて、沢山の絵を描いて個展も開きました。
舌を利用したマウス機能を搭載したパソコンを利用してエッセイを書いたりもしました。
生涯、病気と向き合い、闘い続けた弟は、昨年の10月末に天国へと旅立ちました。
気管切開を受けて、30年以上も頑張り続けた弟ですが、様態が悪化した事を医師の方から伺った1カ月前に
「3歳で、病気が判明、気管切開後、30年以上も頑張って来られた、このような事は世界でも例がなく奇跡としか言いようがない」と言われました。
弟が必死に頑張って来た理由は、
「僕が頑張る姿をみて、同じ病気の人達の希望、励みになれば嬉しい」と言っていたそうです。
私は、弟とは違い、好き勝手に今まで生きてきました。
父や祖母にも心配ばかりをかけてきました。
だから、父からの言葉
「泣くな!よく頑張ったね、立派だったね、偉かったね、と褒めてあげるのが姉としてのお前の務めだ」
この言葉は重く胸に響きました。
泣くのは、自分が悲しいからであって、それは自己満足にしか過ぎない・・
弟の事を心から思えば父の言う通りだ・・・
私はそう考えました。
だから、その後、人前では決して涙は見せませんでした。
弟の冥福を心から祈り、弟が天国で安心して過ごせるように、姉の私を心配しないように、と。
母が北九州に住んでいる為、病院の近くの葬儀場で、父、母、叔母(母の妹)と私達夫婦とささやかに弟の葬儀が行われました。
父は「宮原の姓のままだったら、一族・親戚が集まって盛大に送り出してあげれたのに・・」と
葬儀場に向かう前にポツリと車の中で言っていました。
しかし、何十年ぶりに会った父と母と叔母(母の妹)は、弟を囲んでそれまでのわだかまりが嘘のように和やかに(非常識かもしれませんが)、弟の頑張りを称えていました。
母は軽度の認知症で、投薬を受けています。
時折、突拍子もない事を言って父を驚かせていました。
何時間も父と一緒に過ごしていたのに突然
「あっ!今、やっと解った!○○さん(父)だ!ずっと何処のハンサムな方かなぁ?って思っていたけど、やっと解った!」
と言った時には父は怒るどころか私に
「お前のお母さんは、今頃お父さんに気が付いたそうだぞ!」と笑っていました。
その父と母の姿を見た時に、私は「はっ!」としました。
きっと、弟が心から望んでいた形が今ここにあるのだ!と。
そして、ようやく弟が何故「母方の姓」を選んだのか?その意味が理解出来たのです。
弟が母の姓を選択したのは気管切開を受けてすぐの事でした。
当時、母は私や弟と会う事を許してもらえず、何年も会う事はありませんでした。
しかし、気管切開の前に弟が急変した時、父は母に連絡して、病院に母が来ていました。
気管切開のお陰で弟は一命を取り留め、その後、母方の姓を選んだ・・・
弟は、自分の今後を考えた時、もし何かあった時・・・
宮原の姓のままであれば、母は呼ばれる事は無い!と考えたのでは・・・
父が言った「宮原の姓のままだったら、一族・親戚が集まって盛大に送り出してあげれたのに・・」この言葉が全てだったのでは?
もし、宮原の姓のままだったら・・・一族・親戚の前で、きっと母は呼ばれる事は無かったかもしれません・・・
弟が母方の姓を名乗った事で、弟を送りだす時は盛大ではないけれど
しかし、家族が何十年ぶりに一つになれた・・・
弟が望む本当の家族の姿がここにある・・
私は母の言葉に笑う父の顔を見てそう確信しました。
きっと弟はニコニコ笑いながらこの場で父と母を見ているのだろう・・・私はそう感じました。
とても気丈に振る舞っていた父ですが、帰りの車で、小さくなった弟を胸に抱き、母と叔母の間に座っている父を、後続の主人の車の中で見ながら私は涙が溢れて止まりませんでした。
後で叔母に聞いたのですが、この時、父は
「●●(弟)をこうやって胸に抱くのは何十年ぶりだろう・・・」と涙をこぼしていたそうです。
にゃん♡と父
弟が亡くなった日、父は私に「心を強く持つように」と
「泣くな!よく頑張ったね、立派だったね、偉かったね、と褒めてあげるのが姉としてのお前の務めだ」と言った後、外に一人で出て行きました。
しばらくして、ふと、庭のテラスを見ると、そこには子猫のにゃんを抱いて腰かける父の姿がありました。
私は、父がいつも(宇宙服のような)と違う普通の格好で、にゃんを抱いているのを見て
アレルギーを心配して外に出ようと思ったのですが・・・
父は、にゃんを抱っこして、うつむいたままで、時折、にゃんに話しかけながら、遠くを見つめていました・・・
私はその父の姿を見ながら、止めるように声をかける事は出来ませんでした。
今はそっとしておこう・・・
きっと、父の悲しみを慰められるのは「にゃん」だけなのかもしれない・・・
そう考えたのです。
部屋に戻って来た父に・・・
アレルギーは起こりませんでした。
嘘のようにどうも無かったのです・・・・
今回だけかもしれないと私は思ったのですが
その後、父はにゃんと遊んでも決してアレルギーは起きる事はありませんでした。
こんな事ってあるんだ・・・
アレルゲンは決して近づけてはいけない!それが常識なのに・・・
私はすごく不思議に思いました。
(この事は奇跡に近い事だと思いますので、猫アレルギーの方、決して真似しないで下さい)
もしかしたら・・・大の猫好きの父の猫アレルギーを、弟が治してくれたのかもしれません。
アレルギーが治ってからの父は、にゃん対してに自分の事を「じいちゃん」と言っています。
このにゃん♡とじいちゃん(父)の関係、面白い(父には悪いですが(..))エピソードが
沢山あるので、御先祖様の調査(p_-)の合間に
たま~にですが「番外編」としてご紹介させて頂きます。
ちなみに、今のにゃん♡の部屋は、車庫ではなく(ー_ー)!!
もちろん、家の中です(^◇^)
次回は本題である(p_-)御先祖様の調査の続き
『球磨の鎌倉時代以降の橘氏』 に続きます(..)