前回のブログ 『番外編 じいちゃん(父)と子猫のにゃん♡』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12353525839.html

より続きます。

 

前々回 『②球磨郡久米郷と物部氏(前回のまとめ)』 の中で

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12349977888.html

『「久米物部」と「久米族」の調査の流れの一つとして
球磨郡久米郷と伊予橘氏(橘氏であり越智氏であり物部氏の系でもあり紀氏の系でもある)
の(p_-)
その後(鎌倉時代以降)について書かせて頂きます。』

と書きました通り、今回は『伊予橘氏(橘氏であり越智氏であり物部氏の系でもあり紀氏の系でもある)』を含む、鎌倉時代以降の球磨の「橘氏」について書かせて頂きます。

今回も非常に長くなりますが、お付き合い下さい<m(__)m>

 

橘公業と球磨郡久米郷

橘公業は宮原の一族の先祖でもあり、肥前国を本拠地とした「小鹿島」一族『渋江氏/牛島氏/中村氏/中橋氏/大崎氏等』の先祖でもあり、鹿児島の「藤崎氏」「柏原氏」等の先祖でもある「人物」です。

参考 日本の苗字七千傑様サイト

《伊予橘氏》 元越智姓  姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201b1.htm#002

 

《小鹿島氏》  姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm

 

《渋江氏/牛島氏/中村氏/中橋氏》 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm#004

 

 

橘公業 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E6%A5%AD

※嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は

肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

※承久3年(1221年)、長門国守護となる。

長門国守護の後、薩摩守に任官。後裔一族は「橘薩摩」と称するようになりました。

 

球磨郡久米郷と橘氏

1.球磨郡久米郷を父「橘公業」より譲られた「橘公員」。

その子「橘公綱」

東京大学学位論文(著者:服部英雄氏 論文審査委員 主査:東京大学教授 五味文彦氏他)
「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」

を拝見すると球磨郡久米郷と橘公員・橘公綱親子について詳しく記されていました。

 

服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」より

 

地頭橘薩摩一族による村々の支配 (※補足 肥前国)

この系図にみえる一族中、官途を有するものはそれ程多くはない。一族の始祖とも言うべき公義、公員の名乗りも十郎。与一である。ただ系図では公業の長子公益について「右衛門尉」と記す。公益自身の古文書への登場はないが、その子公助は右衛門次郎、孫公村は右衛門二郎三郎を名乗っていることが文書で確認できる。同じく系図は公義の子らのうち、公村にのみ「左衛門尉」と記しているが、その子公遠が左衛門次部を称したこともまた、文書によって確認できる。
渋江系図の全体の史料批判は今できないが、かなり正確な情報を含んでいるといえそうである。さて公業は長嶋庄経営の史料を残していないので、その子余一公員、十郎公義からみていくこととする。

 

公員流(※補足 肥前国)

公員は余一、公義は十郎を称していたから、公義が兄で十男、公員が弟で十一男ということになろうか。
この両名は「吾妻鏡』にも散見されるが、末子相続として公員が嫡子に定められており、

嘉禎四年(1238年)十丹廿八日、上村と惣検非違所(惣地頭職に付属すると考えたい)が公員に譲られている。
上村とは河上村、大崎村、大渡村をさした。(但し後述するように上村にはもう一つ別の概念がある。)下村は、志保江(渋江)、中村、牛嶋等今日の橘町一帯であり、最初後家に譲られるが、後公義が知行する。 以下略・・・

 

★この後、公業死去後、公員知行の上村が収公されるという事態がおきますが、大渡村には公員宛ての安堵下文が出され、大崎村をめぐる正安三年(1301年)の相論(公義との)では公員とその子公綱の大崎村知行が承認されています。
 

肥後球磨郡の公員流 

公員は正応元年年(1288年)肥後国球磨郡内久米郷半分地頭職を得ている。
一方永仁七年(1299年)の「相良文書」中の肥後球磨郡人吉庄に関する鎮西探題召文の宛先に「橘薩摩左馬大夫」が登場する。公員の子公綱が、左馬允であった事は正安三年(1301年)の資料によって確認出来る。したがって、球磨郡の左馬大夫こそは公綱であろう。
つまり、公綱は永仁頃には左馬允のまま五位となり、左馬大夫を名乗ったと思われる。左右の馬允が橘氏の世襲の職であったことも想起されよう。
一族内にあっては依然嫡流相当の位置にあったように思われる。
以上から公員流のうち公綱流については、肥後球磨郡久米郷に根拠を置きながらも京都でも活動していたことが考えられる。系図によれば公綱は「八郎、左馬丞、佐渡守」とあり、佐渡守の受領を得たと思われるが、この一族にあって受領であったものは、ほとんどいない。
卓越した存在だったといえよう。そしてその後裔として長嶋庄にも球磨郡にも「橘佐渡」を名乗るものが多くでる。

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※肥後国球磨郡内久米郷半分地頭職

肥後国球磨郡内久米郷半分(肥後国球磨郡内久米郷東方)とは現在、球磨郡湯前町に地名「東方」が残っており、久米郷東方とは旧湯前村・旧久米村(現多良木町)・旧奥野村(現多良木町)・旧宮原村(現あさぎり町※旧岡原村)・旧岡本村(現あさぎり町※旧岡原村)・旧上村の一部免田川まで(現あさぎり町)辺りまでを指すと言われています。

旧上村(現あさぎり町)の永里(免田川より以西)より久米郷西方となります。

ただし、上記以外にも多良木町の球磨川沿いには地名「牛島」があります。

先にも書いたように肥前国の橘公業の後裔に「牛島氏」があります。

以前、『全国的にも珍しい球磨の植物や蝶ちょさん』でご紹介したように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12347579763.html

前原勘次郎氏は牛島集落でツクシガヤを日本で初めて発見されました。

 

家の宮原家の親戚にも「牛島家」があります。

「牛島氏」は球磨では少ない姓でもあります。

この事により、私は球磨郡久米郷と肥前国の橘氏は後世まで縁を結び続けていたのでは?と推測しています。

「牛島氏」は球磨では少ない姓でありますが、さらに、家の宮原家は球磨では非常に少ない姓である「千葉家」と「畠山家」と「久我家」も親戚にあります。

 

★先ほど記述しましたように、大崎村をめぐる正安三年(1301年)の相論(公義との)では公員とその子公綱の肥前国大崎村知行が承認されています。

その後大崎村には「橘佐渡四郎公高」そして「弥八跡夜叉童丸」の名が残っています。

 

服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」より

大崎村について 

まず橘佐渡四郎公高であるが、南北朝内乱初期の「小鹿島」・「橘中村」両文書中には軍勢催促状がきわめて少なく、前者に建武・暦応期のものが3通あるにすぎない。
そして、実はその宛先は3通ともに「橘薩摩佐渡四郎」なのである。このことは南北朝動乱初期には、足利政権が佐渡四郎公高が嫡流であると認識していたことを示していよう。
次に弥八跡夜叉童丸についてであるが「橘佐渡弥八公好」という人物がいる。先に述べたように、橘佐渡守公綱(左馬大夫)肥後球磨郡での行動が確認できたが、橘佐渡弥八公好の基盤も球磨郡である。

 

彼が最初に登場するのは、実は京都であった。建武元年(1,334年)九月、足利尊氏が後醍醐政権の内部にとどまっていた時期に、賀茂社行幸に供奉した尊氏の隊列の中に公好の名を見出すことができる。つづいて建武三年(1336年)、京都での合戦に敗れて足利尊氏が九州に下向した際には。公好は四月二十日に球磨郡を出発し、尊氏の上洛に供奉した。
四月二十二日の八代庄における合戦では、他族である相良氏の親類・若党らの討死や疵までを公好が注進しているから、公好が大将格であったことは間違いない。
但し公好は菊池武重や阿蘇惟澄らとの合戦に敗れて討死している。

 

なお同じ橘佐渡氏の中でも公好と敵対した人物として橘佐渡八郎の名が見える。
また、観応擾乱時に直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公がいるが、彼は八郎の系譜を引く人物であろう。
また「祢寝文書」には正平廿四年(1369年)頃、佐渡守公頼、永和三年(1377年)に橘公冬がいるが、佐渡守を称したのは公綱流における嫡流意識のあらわれといえる。
以上球磨郡における橘佐渡氏の行動をみたが、公員-公綱流、即ち大崎一族の主要な拠点が実は肥前長嶋庄からは遠く隔った球磨郡にあったことが確認できた。また弥八公好が建武四年に戦死していることから、弥八跡と記すこの年欠文書・村立事の作成上限をこの年に置く事ができた。
村立に参加した人数は少ないが、課品が高く位置づけられている村は大崎村、大渡村等であった。この両村は仁治から正安にかけて公員-公綱流に譲られた村々だった。
公員は公業が嫡子に認定した人物である。したがって公員流には出羽男鹿嶋の地もかなりの部分が譲られていたはずである。長鳴庄・塚崎庄に関する村立に大崎・大渡の村の参加者が少なかった理由は、おそらく彼らが肥後や出羽に拠点を有していた為であろう。
彼らにとっての村立は、嫡子該当人物、ないしその代官が少数参加し、高い課品を得ればよかったのである。
以下略章・・・
東妙寺文書(『南北朝遺文』九州一二六九)に、「宮裾三郎公明子息道勝」の名が見えるが、公明は宮裾兵衛三郎と同一か、その子と考えられる。
渋江系図では公員の孫、公綱の甥に公明の名を記している。また先述した西山蓮照も系図では宮裾氏の一族であった。
したがって公員流には肥後球磨郡や出羽男鹿鳴を本拠とするものもいたが、一方では長嶋庄の西山村や宮裾を拠点として行動するものもいたことになる。

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★同じ橘佐渡氏の中でも公好と敵対した人物として橘佐渡八郎の名が見える。
また、観応擾乱時に直冬党として活躍した人物に橘遠江入道々公がいるが、彼は八郎の系譜を引く人物であろう。

 

上記の記述でお解り頂けると思いますが、実は球磨の橘氏一族は南北朝時代に南朝方と北朝方に分裂し、敵対関係となりました。

 

2.球磨の南北朝時代における 敵対した「橘氏一族」

『橘佐渡弥八公好』『橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)』についてはウィキペディアの相良定頼の項にも登場致しますので転記させて頂きます。

 

相良定頼 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%AE%9A%E9%A0%BC

 

★補足 後に繋がる箇所には番号を降りました(..)

 

建武3年/延元元年(1336年)、足利尊氏の教書から大隅国の南朝方肝付兼重討伐の命を受けたが、球磨郡内の南朝方が多勢であったため動けず、家臣の税所宗円を派遣した。他方で新田義貞攻めの兵を京へ送るようにも指示された。これに応じて家臣の税所延継が兵を率いて上京したようであるが、①ほどなく足利尊氏は京を追われ、豊島河原合戦で敗れ、九州に落ち延びて少弐頼尚に迎えられた。
この②政変の影響で、球磨郡でも多良木経頼が義兵(南朝)を上げて蜂起。定頼はこれと戦うのに忙しく、足利・少弐に援兵を送ることはできなかった。定頼は木上城を攻略するが、上球磨の多良木氏の勢いは衰えずになかなか鎮定できなかったので、③尊氏が九州探題として残した一色範氏が家臣橘公好を派遣して助力させた。また今川助時を肥後国の鎮定に派遣していたが、彼は榊源三郎をして名和氏(南朝)の代官内河義真が守る八代城(球磨への交通の要所)を攻めさせた。

延元2年/建武4年(1337年)4月、相良氏一族で一武の地頭犬童重氏が上京して北朝軍に加わって軍功を上げた。同年10月、筑前国嘉摩郡での合戦に、定頼は大蔵松石丸を名代として豊前成恒荘より兵を出した。しかし依然として球磨郡は鎮定されていなかった。

延元3年/建武5年(1338年)の初め、④一色範氏は南朝方の南肥後の拠点となっていた多良木経頼を討つべく、相良定長(孫二郎)を球磨に下向させた。他方、菊池武重との決戦を控えた少弐頼尚は、相良氏を懐柔して味方に留めておくために初代・相良長頼の頃に没収された人吉庄北方の所領(旧北条氏領)を、長氏への恩賞として与えた。長氏入道はこの所領を孫に譲り、定頼は名実共に人吉城主となった。
 

興国元年/暦応3年(1340年)、⑤叔父相良祐長が長氏に不満を持って、経頼に内通して、山田城にいた少弐頼尚の代官を放逐して南朝に従うことを宣言し、定頼に反旗を翻した。

少弐頼尚は怒り、相良定長にこれを討つように命じた。同時に一色範氏も、相良定長と相良長氏に軍勢催促状を出して討つように命じた。しかし多良木経頼は頑強に抵抗したので、少弐頼尚は甥の筑後経尚を名代として送った。

中略・・・・

さらに正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏に追われた長門探題足利直冬が側近河尻幸俊の助けで肥後に入った。所謂、観応の擾乱であるが、直冬は南朝勢と通じつつ、大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して、一色範氏と争うという、複雑な対立構造となった。

⑥同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米の領主橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼みの少弐頼尚は中立となって助力はしてくれず、一方で一色範氏は相良側に恩賞を与えて都督していたが、結局は範氏は直冬に博多を追われた。

以下省略・・・・

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3.北朝方の球磨の橘氏

 

『橘佐渡弥八公好』

ウィキペディアの記述にあった ①ほどなく足利尊氏は京を追われ、豊島河原合戦で敗れ、九州に落ち延びて少弐頼尚に迎えられた。

足利尊氏が九州に落ち延びた際、先の服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」に記されていたように

橘佐渡弥八公好は四月二十日に球磨郡を出発し、尊氏の上洛に供奉しています。

さらに

『四月二十二日の八代庄における合戦では、他族である相良氏の親類・若党らの討死や疵までを公好が注進しているから、公好が大将格であったことは間違いない。』

とありました。

 

4.南朝方の球磨の橘氏

『橘佐渡八郎』

上相良氏(多良木氏)と共に南朝方として北朝方であった下相良氏(人吉相良氏)と下相良氏に同調した氏族と戦う。

ウィキペディアの記述にあった④一色範氏は南朝方の南肥後の拠点となっていた多良木経頼を討つべく、相良定長(孫二郎)を球磨に下向させた。

この相良定長(孫二郎)を攻めたのは実は『橘佐渡八郎』です。(相良家文書より)

 

橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)

ウィキペディアの記述にあった⑥同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、

久米の領主橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。

上記の『橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)』は久米郷西方の領主であった三池氏(中原氏)とも組し、南朝方として、北朝方と戦いました。

しかし、敗北に終わり、その領土は相良氏一族の手へと渡っていきました・・

 

5.橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)について

※康永二年(1343年)六月頃 橘遠江禅門下着せり。

 

実は球磨郡久米郷の内、『久米村』は求麻外史によると

相良長頼公の第二子を彌五郎頼氏が多良木を領し、上相良氏(多良木氏)の祖となり、その子六郎頼宗は久米村を併せ領す』とあり、

さらに『求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)
こちらに記載の論文、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」では
第三代六郎頼宗の項に
「永仁元年(1293年)に父、頼氏の跡を継いだ様である。
頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
橘氏は肥前の国へ」・・』

とあり、球磨郡久米郷の当時の情勢が非常に解りづらくなっています。

先にも書いたように、上相良氏(多良木氏)はその後、一貫して南朝方として戦いました。

そこに、突如、康永二年(1343年)六月頃に下着された方が『橘遠江禅門 道公』

と言う方です。

 

『橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)』は上相良氏(多良木氏)、さらに久米郷西方の領主であった三池氏とも組し、南朝方として、北朝方と戦いました。

※補足・・・ちなみに、私の高祖父「宮原蔵吉」には跡継ぎがいなかった様で、上記の上相良氏(多良木氏)の一族である旧多良木村の久保田家から曾祖父が旧宮原村の宮原家に養子に入り、うちの宮原家を継ぎました。

久保田氏とは上記の相良長頼公の第二子彌五郎頼氏(多良木頼氏)の子息「頼吉」を祖とする一族で、求麻外史に記されている「その子六郎頼宗は久米村を併せ領す」この「頼宗」と言う方の弟となります。

参考 日本の苗字七千傑様サイト 《相良氏》 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022b1.htm#005

窪田氏は後に久保田氏となりましたが、家の親戚には久保田家も窪田家もあります。

さらに、曾祖父の妻(曾祖母)の実家「新堀家」も上記の多良木氏一族です。

詳しくは次回書かせて頂きます(..)

 

さらに、さらに、ウィキペディアの記述にあった

叔父相良祐長が長氏(相良)に不満を持って、経頼に内通して、山田城にいた少弐頼尚の代官を放逐して南朝に従うことを宣言し、定頼(相良)に反旗を翻した。

上記の相良祐長とは相良氏族「蓑毛氏」・「深水氏」の祖となる方です。

私の曾祖母(平川家の)は「深水氏」の娘で、実は、先に書いた私の高祖父「宮原蔵吉」の母、もしくは義母(ここの所がややこしいのですが・・)は「蓑毛氏」の娘です。

何だかモヤモヤするのですが・・・球磨の橘氏について続けます(..)

 

敗北の末、相良氏(人吉相良氏)一族に渡った『橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)』の領地についてですが

相良定頼并一族等所領注文(相良家文書)によると
 

相良一族等討死分

相良式部丞跡

 一所 肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地弐拾町

相良木公左衛門尉跡

 一所 肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地弐拾五町

相良中務丞跡

 一所 肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町

相良新三郎跡

 一所 肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地拾五町

とあり、橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)の跡田地「75町」が相良定頼一族に渡った事が解ります。

 

橘遠江入道跡田地が如何に動いたのか良く解る相良家文書があります。

 

一色範氏感状 『相良家文書』

直冬与 (足利) 同相良因幡権守経頼、橘遠江入道々公以下凶徒抹伐事、注進状披見畢、

今年四月廿五日、同五月一日、同四日、同九月十一日、十三日、十四日、十五日、於肥後国球磨郡内所々致合戦、親類若黨等数輩被疵之条、軍忠尤神妙、可令注進之、仍執達如件、

観応二年十月五日   沙弥(一色範氏)  (花押)

相良兵庫助(相良定頼)殿

※観応二年十月五日(1351年)

 

一色範氏地頭職充行状 『相良家文書』

 花押(足利尊氏)

肥後国球磨郡久米郷東方橘遠江入道跡田地弐拾町、日向国三俣院南方田地参拾町地頭職事、為討死之賞、所宛行也、早守先例可致沙汰仍執達如件、

文和四年五日  沙弥(一色範氏)  (花押)

※文和四年(1355年)

 

南朝方として活躍した橘遠江入道 道公(橘遠江禅門 道公)の所領地の多くが相良定頼一族へと移りましたが、・・・しかし!!

唯一、橘氏が所領を続ける事が出来た場所・・それが宮原村でした!

 

6.橘公多について

橘 公多譲状 『小鹿島文書 』より

ゆつり阿たうる左衛門か所 (譲り与える左衛門か所)

ひこのくに くまのこほり くめのかう東方下ふんミやのはう

(肥後国球磨郡久米郷東方下分宮原)

ふせんのくにそへたの志やう(豊前国副田庄) のうちやしき併にちとう志き(屋敷 地頭職)

の事

右、 所領者、公多ちう いさ うてんのしよりゃやう(重代相伝所領) 也、

したいのてつき(次第手継)御下文以下あいそゑ(相副)ゆつる所也、仍自筆之譲状如件

正平廿 一年三月九日  橘 公多 (花押) 

 

上記の橘 公多譲状『小鹿島文書 』で解る事は

肥後国球磨郡久米郷東方下分宮原と豊前国副田庄は『橘公多』と言う方の

重代相伝所領也とあり、この『橘公多』と言う方、実は肥前国の橘一族です。

参考 日本の苗字七千傑様サイト

《渋江氏/牛島氏/中村氏/中橋氏》 姓氏類別大観 をご覧ください。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201d.htm#004

 

橘公義(久米郷を譲られた橘公員の兄)の子息「渋江公村(橘公村)」の子息に「橘公多」と言う方がいらっしゃいます。

さらに服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」記載の

橘薩摩氏系図によると

「渋江公村(橘公村)」の子息「橘公多」以外にも、もう一人の橘公多という人物が

見えます。

「渋江公村(橘公村)」 ⇒ 渋江公遠 ⇒ 渋江公経 ⇒ と続き

渋江公経の子息「渋江公重」・「大崎公次(但馬権守)」の弟にも「橘公多」と言う方がいらっしゃいます。

 

正平廿 一年三月九日  橘 公多 ・・・・  正平廿 一年とは1366年。

私は橘 公多譲状の「橘公多」と言う方は、時間軸から推測すると

渋江公経の子息「大崎公次(但馬権守)の弟「橘公多」ではなかったのか!?

と考えています。

つまり、肥後国球磨郡久米郷東方下分宮原は橘公業後裔の肥前の橘氏本惣家である

「渋江氏」の『重代相伝所領也』であった事が解ります。

ここまで、書き出してみて、家の宮原家の親戚に「牛島家」が何故あるのか?その意味が見えてきたような気がします・・・。

それと・・・もう一つ気が付きました!

正平廿 一年・・・

南北朝時代、北朝方と南朝方は其々異なる元号を使用していました。

例えば、先に書いた一色範氏感状・一色範氏地頭職充行状で使用されていた元号は

※観応二年十月五日(1351年)・※文和四年(1355年) 観応と文和は北朝方が使用する元号

南朝方は1351年は正平六年となり「正平」の元号となります。

 

「橘公多」が使用された元号は正平廿 一年(1366年)。 使用された元号は南朝方が使用した

「正平」であった!!

正平廿 一年(1366年)とは北朝方が使用した元号で言うと『貞治5年』です!

つまり・・・「橘公多」と言う方は・・・南朝方であった!と言う事に気が付きました!!!

(今まで、数年間この方を色々調べてきたのですが、中々謎が多くて混乱していたのですが

橘 公多譲状を自らの手で入力して書きだしたのは初めてで・・・本当に良かった!

と思いました)

 

しかし・・・橘公多と言う方が譲り渡した「球磨郡久米郷東方下分宮原」。

譲られた「左衛門」とは一体どなたなのか?は未だに解りません・・・・・(..)

さらに久米郷の領主であった「橘遠江入道 道公」と「橘公多」。この方々の関係も未だに解りません・・・(..)

 

7.橘公多が左衛門に譲り渡した球磨郡久米郷東方下分宮原。

その後の「橘氏」

後に久米郷宮原の「橘氏」登場するのは先に書かせて頂いた服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」にあった

『また「祢寝文書」には正平廿四年(1369年)頃、佐渡守公頼、永和三年(1377年)に橘公冬がいるが、佐渡守を称したのは公綱流における嫡流意識のあらわれといえる。』

上記の

★正平廿四年(1369年)頃、佐渡守公頼

★永和三年(1377年)橘公冬

です。

「橘公冬」と言う方は南九州国人一揆での『一揆契状神水案文』にその名が

残っています。

 

熊本県文化調査報告 第92集 奥野城より

(ネットでダウンロードする事が出来ます)

永和三年(一三七七)十月廿八日に日向・薩摩・大隅・肥後四カ国の国人六十一人が参加して成立した一揆契状神水案文(川添昭二編『祢寝文書』第二巻、五O一号)には、

球磨郡から最も多く、十人が名をつらねている。名前を上げると

久米代 大膳亮為頼 ・ 相良参川権守右頼 ・ 平川兵庫充師門 ・ 奥野代 源助景 ・ 

相良近江守前頼 ・ 須恵修理亮重宗 ・ 岡本越前守頼季 ・ 永里大和権守武網 ・

宮原橘公冬 ・ 相良多良木遠江守頼忠である

 

南九州国人一揆での『一揆契状神水案文』

『一揆契状神水案文』については原文等も含め、後日詳しく書かせて頂きますが

南九州国人一揆とはウィキペディアに記されていますので、今回はご紹介だけさせて頂きます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86

 

 

私の住む、球磨郡久米郷旧宮原村に直接繋がる「橘氏」。

正平廿 一年(1366年)「橘公多」より「左衛門」に球磨郡久米郷宮原の地頭職が譲られた後に永和三年(1377年)一揆契状神水案文に名前を残した方『宮原橘公冬』。

正平廿四年(1369年)頃の佐渡守公頼と言う方と「宮原村」との関係は解りませんが、時間軸で言うと、「左衛門」とは「橘公頼」この方ではなかったのか?とも考えます。

この「左衛門」ですが、先に書いた服部英雄氏著書 「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」の中に

『ただ系図では公業の長子公益について「右衛門尉」と記す。公益自身の古文書への登場はないが、その子公助は右衛門次郎、孫公村は右衛門二郎三郎を名乗っていることが文書で確認できる。同じく系図は公義(※補足 久米郷を譲られた公員の兄)の子らのうち、公村にのみ「左衛門尉」と記しているが、その子公遠が左衛門次部を称したこともまた、文書によって確認できる。』

とあり、「左衛門尉」を継承したのは渋江一族「渋江公村」「渋江公遠」であった事が解ります。

久米郷宮原を重代相伝と記した「橘公多」この方は「渋江公遠」の曾孫にあたる方です・・・・

どう考えても・・・今、私が住んでいる「旧久米郷宮原村」は肥前国の橘氏本惣家

「渋江氏」の影が色濃くみえる・・・そう感じます・・・

 

8.室町時代久米郷宮原村に見える「橘氏」

以前からご紹介していました、うちの宮原家のすぐ近くにあった

稲積妙見(稲積神社)に橘氏の名が残っています。

ブログ『故郷の旧社三社の絵図と旧久米郷の田園風景』 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

 

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ
 ※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)

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★明應五年(1496年)  宮原出雲橘續久(宮原出雲橘続久)

 

久米郷および久米郷宮原村における橘氏一族についてまとめると「支配権」が見える「名」は

橘公業 ⇒ 橘公員 ⇒ 橘公綱 ⇒ 相良頼宗(橘氏より引継ぐ) ⇒

橘遠江入道(禅門)道公(橘公綱と相良氏※多良木氏 双方との関係不明) ⇒

(宮原村)橘公多(橘遠江入道(禅門)道公との関係不明) ⇒ 左衛門(橘公頼か?) ⇒ 

宮原橘公冬 ⇒ 宮原出雲橘続久

となります・・・

 

ところで

橘薩摩・橘佐渡・橘遠江・・・・

実は、橘薩摩・橘佐渡という通称は肥後国球磨郡・肥前国の双方の「橘氏」で多数見えるのですが「橘遠江」を名乗った方はただ一人。

『橘遠江入道 (禅門)道公』 この方のみです・・・・

一貫して南朝方として戦ったこの方が一体どなたであったのか?

私はこの数年間ずっと疑問でした・・・

そこで遠江国に関係して「相良氏」と縁があり、さらに「橘薩摩一族(橘公業後裔)」と関係する『橘氏』を探るべく(p_-)

系図学の大家「太田亮博士」の姓氏家系大辞典. 第2巻 橘氏の項を

じっくりと読んでみました。

太田亮博士の姓氏家系大辞典は国立国会図書館のデジタルコレクション

公開されています。

すると!!

太田亮博士が・・太田亮博士が・・・
何だか物凄い推測をされていらっしゃる記述を目にしてしまいました!!!
姓氏家系大辞典. 第2巻 コマ番号 836 の一番下部 24項 遠江の橘氏
の記述です!
皆様 コマ番号 836 837 をじっくりとご覧ください。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/836

続けて
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/837


遠江の橘氏
橘遠保・天慶の乱に藤原純友を抹せし功によりて、遠江掾となり子孫在■官となりて當国に榮ゆ。
鎌倉創業の際、右馬允公長、その子橘太、橘次と共に源家に属し功甚だ大にして
所領を各地に賜ひ、子孫諸国に蔓る。武家にして橘氏と云ふは多くこの族也

(以下は今まで何度も書いてきた事なので中略します・・・)

※補足 
右馬允公長、その子橘太、橘次とは橘公長・橘太橘公忠・橘次橘公業

宮原の一族を含む、肥前国・肥後国を中心に広がった「橘一族」の先祖です。

 

中略・・・
その他、東鑑巻二十六に橘新右衛門尉公幸、三十二、三十三に橘右馬允公高
四十に橘薩摩余一公貞等あり。
なほ井伊氏族は此の橘氏の後ろか、井伊條参照。
また日蓮上人も此の流れか。

以上 太田亮博士 著書 姓氏家系大辞典. 第2巻 遠江の橘氏より

えっ(゜-゜)?・・・えええっ(?_?)
ナンデスト\(゜ロ\)(/ロ゜)/

太田亮博士が唱えられた「遠江の橘氏」
橘遠保の後裔『鎌倉創業の際、右馬允公長、その子橘太(橘公忠)、橘次(橘公成※橘公業)と共に源家に属し功甚だ大にして
所領を各地に賜ひ、子孫諸国に蔓る。武家にして橘氏と云ふは多くこの族也。』
さらに太田亮博士の御推測では
『なほ井伊氏族は此の橘氏の後ろか、井伊條参照。
また日蓮上人も此の流れか。』


なっ! ナンデスト!!~~~\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ビックリしました!
しかし・・・・以前から何度も書いてきたように
確かに「宮原の一族」の先祖『橘公綱』の妻となられた方は「日蓮上人」(日蓮聖人)の有力壇越として知られた「南部実長」「南部実継」親子の「南部実継」の娘の方でした。
 

遠江の橘氏・・・『橘遠江入道 (禅門)道公』 

遠江国出自の相良氏との関係?橘薩摩・橘佐渡一族との関係?・・・・

何だか怪しくなってきたぞ(p_-)

実は、こちらのブログ以外に『あるスレッド』をお借りして、この数年間先祖の調査を行ってきたのですが、日蓮上人(聖人)・井伊氏には何度も調査の延長から妙に繋がり・・・

おかしいな(?_?) 何故だろう(?_?)・・(p_-) と言う事が何度もあったのです・・・・

 

この続きは次回以降に(..) 次回は今回の補足を書かせて頂きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12354738055.html