前回のブログ『(再追記あり)神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12565419769.html

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。

お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。
これからもよろしくお願い申し上げます<m(__)m>

======================================

2020/01/24 速報!追記

2020/01/20 22:44:25 投稿の当ブログですが、ここに速報の追記を書かせて頂きます。

皆様方、ついに九州南部水銀鉱床群内、旧球磨郡久米郷宮原村熊野の縄文時代の遺跡から出土していた石杵」の昭和15年以前に撮影された写真を発見致しました!石杵だけではなく、近隣で出土した十字形石器も写っていました!

さらに、縄文時代の遺跡から出土の6点の有肩打製石斧も写っていました!

石臼の記述も複数ありました。

あまりの嬉しさに、当ブログ内で速報としてお伝え致しました。

次回、詳しくお伝えする為の準備を現在行っています。

お待ちください\(^o^)/ 今、全ての事に対して 感謝の気持ちでいっぱいです・・

以上 追記でした。<m(__)m>

======================================

 

数日前には山に雪が積もりました。

白髪岳も山頂が真っ白に雪化粧をして、私の住む集落から見ると、

まるで白髪頭のおじいさんのようでした(^'^) 

(昨日写真を!と思ったのですがPM2.5の影響で霞んでいて次回に<m(__)m> )

白髪岳の山頂付近は日本最南端のブナの原生林です(^'^)

白髪頭のおじいさん・・のイメージは間違っていないようで・・

九州大分付近の楽しい山ある記様 サイト 白髪岳 にも詳しくお書きでした。

http://ooitanoyama.in.coocan.jp/sub1062.html

九州山地の南端に位置し冬景色から白髪岳という名前になったらしい。

伐られたことがないブナ林の大自然が残る山。

とあります(^'^) サイト様掲載の写真を拝見すると白髪岳頂上からは霧島連山が真正面に見える事が良く解りました(^'^)

「白」の頭は半島まで進んで・・シラになったのかな・・? (独り言でした・・)

 

前回、ブログ『まにまに。~心のままに神社巡り~』 の佐月様からコメントにて、球磨神楽が奉納される御拝殿・神楽殿内の八角形について、とてもありがたいご教示を頂き、ご紹介させて頂きました。

写真 岡原霧島神社 「ヤツジメ」

 

天井から延びている8本の細い縄は
ヤツジメ」と呼ばれ、その中心は北極星を現し
【陰陽】
月・日
【五行】火・水・木・金・土の意味があるそうです。
御幣は
稲妻を表し、
天井の白い船のようなものは「
ゆきふね」と
いうそうです。

 

私はこちらのご教示を頂いた時に、まず頭に浮かんだ事がありました。

【陰陽】月・日

陰が月で陽が日(太陽)

 

陰と影は同意語です。

陰はつまり影である・・ 

 

①陰はつまり影である・・日に対して月である・・

頭に浮かんだ事とは

ブログ『孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント』で書いた事でした・・・https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12485134756.html

 

あさぎり町上村の白髪岳麓にご鎮座の狗留孫神社様の御祭神

麻郡神社私考では

 

「影向之神三座(よごうの神)」
東ハ霧島神 
中ハ狗留孫権現
西ハ阿蘇神

 

と記されていました。 

日向に対して影向

影向とはつまり月に向かう 漢字で例えるならば 月向(私の造語) ではないのか!?

日向に対して月向

ブログ『球磨の台地に広がる遺跡 さらに大和の言葉』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12463574424.html

三日月の形をしているのが球磨盆地(人吉盆地)・・

そして・・・この球磨盆地の入り口地名は

「那良口」 ならぐち です

「那良口」の隣から

「那良」 なら となります。

球磨盆地と奈良盆地は全く同じ大きさ・・・・

 

人吉城の別名は「繊月城」です。由来は 人吉城ウィキペディアに記されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%9F%8E

 

※源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。

長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。

築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。

このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。

 

三日月の形をしているのが球磨盆地(人吉盆地)

陰陽月・日 陰が月で陽が日(太陽)

影向之神三座(よごうの神)・・・

日向に対して影向・・・

日向に対して月向・・・

 

ブログ『球磨弁とヘブライ語』で書いた事なのですが

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html

 

球磨弁=ヒュウ は 後ろ・(又は反対側 例えばお尻等)の事 を指します。

つまり、球磨弁で「ひゅうが」は『球磨の後ろの側』と言う意味になります・・・

(縄文時代の言葉かな・・・?)

黒原山や白髪岳の反対側、すなわち球磨から見て、後ろ側は「日向(ひゅうが)」。
不謹慎な!とおっしゃる方もいらっしゃるかとは思うのですが、私にはとても偶然とは思えないのです・・・

 

※築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。

ただ・・球磨盆地を三日月の形だと最初に理解した方々は中世の方々や弥生時代の方々・・とは一概に言えないと思うのです。

何故ならば、球磨・人吉地方の石器時代の遺跡「人吉 大野遺跡

肥後国 くまもとの歴史様サイトでも記されていますが

http://yumeko2.otemo-yan.net/e366182.html

 

人吉球磨地方の発掘調査により確認された最も古い遺跡は、人吉市大野町の大野C・D・E遺跡で、年代測定の結果、今から8~5万年前のもので、小型の石器を主に使用していました。

※今から8~5万年前のもの

 

大野遺跡は石器時代の遺跡で球磨盆地を一望する事の出来る険しい山を登った標高の高い地「高原」の遺跡なのです!

と言うか・・私は球磨の石器時代の事を調べるのが遅かった・・です (*_*)

球磨盆地には今から8~5万年前の遺跡が存在しております(p_-)

大野遺跡を形成した方々は球磨盆地を見ながら、空の三日月に似ているな~と考えていたのかもしれませんね・・・

しかし・・8~5万年前と言えばネアンデルタール人??

もしも・・この方々が「この地」で火山の影響を受けながらも奇跡的に系を続ける事が出来ていたのなら・・次の時代にこの地に来られたと思われる「日本最古のベンガラ彩色耳栓」を残した方々(クロマニョン人?)と『融合』した可能性は・・あり得るのでは!? 

DNA学的に言うと・・ハイブリッド

大野遺跡は険しい山の上 標高の高い高原地 つまりこの遺跡を形成した人は

「山の人」でした・・・

 

②月と日と星が煌めく球磨盆地内 

 

球磨神楽の舞台装飾

「ヤツジメ」と呼ばれ、その中心は北極星を現し
【陰陽】月・日
【五行】火・水・木・金・土の意味

御幣は稲妻を表し、
天井の白い船のようなものは「ゆきふね」と呼ばれる・・・

 

実は2か月程前に気が付いていた事があります。

きゅうりの収穫に追われていた時期、ブログ内で「書きたい事が沢山あります」と書いていた事の一つです。

麻郡神社私考を編纂した第51代青井阿蘇神社大宮司青井 惟董(大神 惟董)

麻郡神社私考編纂後に青井 惟董氏がお書きになられた文章がありました。

ぜひ、皆様方に御覧頂きたい!と思い、ご紹介いたします。

 

麻郡神社私考 より

 

 

 

 

第51代青井阿蘇神社大宮司青井 惟董(大神 惟董)、この方は球磨郡内に御鎮座の二百五十余りの神社をくまなく調べて

青井社と市房山の市房神社は東西にあり日と月の如く相望む。

その間(あいだ)の盆地内の神社は煌めく星宿のように相列している・・・

と気が付かれていたようです。

青井阿蘇神社は三日月の西側、市房山は三日月の最も東に位置しています。

 

 

煌めく星宿・・・

私の地元「岡原村」(現あさぎり町岡原)の神社に継承された儀式

嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。

が気になって、調べた所・・・
中国の二十八宿の第7宿箕宿に繋がり、二十八宿とは天球を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。さらに・・箕宿とは
古代シュメール起源のいて座の「弓」と「矢」の部分である事等が解りました。

 

自分なりに調べた過去ブログです。(文字にリンクを貼りました)

シュメール起源 いて座のアルナスルと古代の麻可胡矢と岡原村

 

★球磨郡内の煌めく星宿

やはり『星宿』に繋がっていた・・・

 

直感から調べていた事ですが、実際に「星宿」と言う言葉を麻郡神社私考で見た時には

さすがに鳥肌が立ってしまいました・・・

しかし、ご紹介した上記の過去ブログを書いた時と、今では私の考えは違って参りました。

最近何度も書いていますが、古代南九州(霧島周辺・球磨郡を含む等)の縄文文化を形成した方々は7000年前の海底火山 鬼界カルデラの破局噴火から逃れて、海外にも移動されたのでは?と推測致しております。(ど素人ながら・・)
その方々が、火山が安定した時期に戻って来られて、さらに、海外に新たに進出したのでは? と・・・・

戻って来られた方々が海外で得た知識が反映しているのかもしれません・・

もしくは・・元々、「ここに居られた方々」が持っていた知識なのかもしれません・・

しかし・・遅くとも約8万年前から「人が住んでいた証拠」となる遺跡が発見されている「球磨」

私は7000年前が何だか新しい時代に感じてしまう程、感覚が変わってしまいました・・・

 

★「ヤツジメ」 その中心は北極星を現す

北極星 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E6%98%9F

北極星は地球の自転軸を北極側に延長した線上(天の北極)の近くに位置しているため、地球上から見るとほとんど動かず北の空の星は北極星の周りを回転しているように見える。

そのため、北極星は天測航行を行う際に正確な測定をするための固定点となり得る。

ポラリスは21世紀初頭では天の北極から1度弱離れたところに位置し、直径1.5度程度(満月3個分程の大きさ)の円を描いている。

北極星は春分点歳差のために、何千年か毎に別の星に移り変わる

紀元前2000年代にはりゅう座α星が天の北極近くにあり、エジプトのクフ王のピラミッドに北向きに作られた通路は当初、この星を向いていた。

西暦1万3千年代には、こと座α星(ベガ)が北極星になる(紀元前1万1千年代においても、やはりベガが北極星であった)。

各時代の北極星
北極星は歳差運動のため、約25,800年周期で移行し、後述の行程をほぼ同様に繰り返す。ただし、各恒星の固有運動があるために正確な繰り返しではなく、例えば紀元前58,000年頃にはうしかい座α星のアークトゥルスが北極星であった。

下記の「過去・現在・未来の北極星」のうち赤緯89度以上に達するのはポラリスとりゅう座α星であり、最も天の北極に近づくのはりゅう座α星である。

過去の北極星
ベガ(こと座α星):紀元前11,500年頃
りゅう座α星:紀元前2790年頃
こぐま座β星:紀元前1100年頃
現在の北極星
ポラリス(こぐま座α星):西暦2100年頃、もっとも天の北極に近づく。

以上 ウィキペディアより

 

興味深い記述は二つ

★北極星は天測航行を行う際に正確な測定をするための固定点となり得る。

★過去の北極星 

 

天測航行 古代の球磨には、やはり航海に闌けた方々がいらっしゃったようです・・

海人族」と呼ばれる方々だったのかもしれません。

その証拠が・・ ブログ 『速報(追記あり) 多良木町で発見された「豊臣秀吉の文書」から見えた!先祖の移動』 https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12527654064.html でご紹介した事だったのかもしれない (勝手な私の推測ですが・・)

断絶したと考えられていた
宗像大社 
宗像大宮司家子孫の方が宗像姓をつないでいた球磨郡多良木町

 

過去の北極星

ベガ(こと座α星):紀元前11,500年頃 りゅう座α星:紀元前2790年頃
こぐま座β星:紀元前1100年頃

現在の北極星 ポラリス(こぐま座α星)

 

こぐま座β星 ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%90%E3%81%BE%E5%BA%A7%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E6%98%9F

 

こぐま座β星は、こぐま座の恒星で2等星。北斗七星より一回り小さな、こぐま座の小北斗七星ともいえる星の並びの中にあり、ひしゃくの水汲みの先にある。

こぐま座γ星と共に、地球の歳差運動により、紀元前1500年頃から西暦500年頃にかけて北極星であった。1つ前の北極星はりゅう座α星で、1つ後の北極星は現在のポラリスである。

 

学名はこぐま座β星(β Ursa Minoris、略称β UMi)。固有名の、コカブ (Kochab)は、アラビア語で「北の星」を意味する 。

この星はこぐま座γ星と共に、「極の守護者」 (Guards of the Pole) と呼ばれている。

北極星ポラリスの周囲にある、肉眼で見ることのできる明るい星としては、最も北極星に近いからであろうとされている。

昔の中国での名称もあり、北極五星(太子、帝、庶子、后、北辰)のうち帝がコカブである。

これが天帝(太一(大一)タイチー、太極、太乙)即ち天皇大帝である。

その周囲を北斗七星など所臣が廻って守っているとされた。

 

1つ前の北極星はりゅう座α星・・・ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E5%BA%A7%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E6%98%9F

 

りゅう座α星は、りゅう座の恒星で4等星。りゅう座で最も明るい恒星ではないがα星とされている。紀元前2700年頃には、この恒星が天の北極に最も近い位置に見えていたが、地球の歳差運動により紀元前1900年頃にはこぐま座β星に取って代わられた。

 

α Draconis / α Dra。固有名はトゥバン(ツバーン[8], Thuban)。

これはアラビア語で「蛇の頭」を意味する raʾs al-tinnīn に由来する。

この言葉がルネサンス期にラテン語に訳されて Rastaben と綴られ、元の al-tinnīn ではなくアラビア語で「蛇」を意味する thūʿban に帰せられることとなった。

以上 ウィキペディアより

 

凄く不思議な気持ちになりました・・・

北極星は

りゅう座α星(アラビア語で「蛇の頭」)からこぐま座β星(こぐま・・)へと変わった

イラストはYAHOO キッズ様からお借りしました<m(__)m>

こぐま座

 

北極星は龍(蛇)から熊に変わった・・・

 

黒原山(くろばる山)の頂上には八大龍王様がお祀りであります。

でも・・球磨(クマ)には熊(クマ)さんはいません・・・

が・・しかし「クマ」はある書籍に記されていた事によれば・・

「球磨郡」・「球磨川」等を例にあげ、

クマは多く神を意義し居る

と書かれていました。

 

こぐま座β星

昔の中国での名称もあり、北極五星(太子、帝、庶子、后、北辰)のうち帝がコカブである。これが天帝(太一(大一)タイチー、太極、太乙)即ち天皇大帝である。

その周囲を北斗七星など所臣が廻って守っているとされた。

 

私の家「宮原家」が元あった場所のすぐ近くには「天之御中主神様」をお祀りの稲積妙見がご鎮座。

妙見信仰とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E8%8F%A9%E8%96%A9

 

妙見菩薩(みょうけんぼさつ、旧仮名遣:めうけんぼさつ)は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。

妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。

以上 ウィキペディアより

 

しかし・・何故? 球磨郡初の妙見様御勧請の地が

うちの宮原家のすぐ側(そば) 旧球磨郡久米郷宮原村宮麓 明治時代までの字は

旧球磨郡久米郷宮原村大字宮野の府内(馬場田)だったのだろう・・!?

何故?「この地」でなければいけなかったのだろう・・??

 

北極星は龍(蛇)から熊に変わった・・・

 

私は考えました

古代のこの地には天測航行を行い、海外にも進出出来る方々がいらした事は間違いないのでは・・? と

さらに 私は考えました

球磨には8万年前から人が生活を行っていた。縄文時代の遺跡数は九州第二位・・

弥生時代には「クマソ」と呼ばれる方々が住していたと言われる地・・

さらに、久米族や須恵族も住していた・・・

この地における神々様は大古の昔からの自然崇拝における神々様と、宇宙崇拝における神々様と、人格を持った神々様が時代と共に複雑に絡んで重なっていらっしゃるのではないのか・・? と。その事はとても奥深い事で・・簡単には解き明かすことは出来ない・・

 

ここまで、「ヤツジメ」から、私なりに調べた事、気が付いた事、感じた事を書かせて頂きました。

 

次回詳しく書かせて頂く事ですが

九州南部水銀鉱床群内にそびえる黒原山(くろばる山)。

086-03

 

私の住む集落から見て、黒原山の向こう側 「旧槻木村」(現多良木町槻木)に丹生の神様をお祀りの神社様が御鎮座でありました!

四所明神(四所神社)様です!

麻郡神社私考に「紀州伊都郡高野山丹生明神同體」 としっかりと記されていました<m(__)m>

気が付かないとは・・私は本当におっちょこちょいです(*_*)

でも(p_-) 推測通り! 水銀朱 つまり辰砂は採掘されていたようです。

と言う事は・・黒原山の球磨側の旧宮原村大字宮野字熊野の縄文時代の遺跡から辰砂の加工用と言われる「石杵」が出土していた事大変重要な・・貴重な事だったのだ!!

とあらためて、考えました。

 

大久米命様 「黥(さ)ける利目(とめ)」とあり、目のまわりに入れ墨・・

男子 無大小皆鯨 面文身
以 朱丹 塗其身膿 如中国用粉也
其 山有丹 ・・・

久米郷黒原山 其 山有丹 ・・・

 

さらに気が付いた事があります。

「クマソ」と呼ばれた方々の渠師者(イサオ)さんや梟師(タケル)さんの家は

梯(はじご)のある高い建物だったようです! 

梯・・橋と同意語ですね・・

記紀にちゃんと記されていました(^'^)

 

渠師者(イサオ)・梟師(タケル) ・・な~んだ「」が付きますね(^'^)・・・(p_-)

記紀の編纂者の御方々は

本当は上手にヒントを与えて下さっているようですねぇ~・・・

時系列でしっかりと熟読してみると、ヒントが至る所に含まれている事に気が付きました!

前回「気が付いた事」も含めて次回書かせて頂くつもりです(p_-)

と書きましたが<m(__)m> 次回『発見!「石杵」等の写真 プロローグ感謝の心と共に・・・

に続きます。

 

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

ひろっぷ (^'^)