前回のブログ『橘氏・大神氏が関わる神社様と稲積・府の古代における意味』より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12563446858.html

 

2020/01/12 再追記

今回のブログ内「①御拝殿内の八角形」の項に「その意味」を佐月様よりご教示を頂きましたので、追記してご紹介させて頂きました。

お詫び 今回のブログ投稿後、中々皆様方のブログを拝見する事が出来ていませんでした。

ゆっくりと、時間を取って、拝見させて頂き勉強させて頂きます。<m(__)m>

 

私が球磨から発信するこのブログを御覧頂き ありがとうございます。

拙い文章ではありますが、精いっぱい気が付いた事、感じた事をご紹介させて頂いております。

お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。

これからもよろしくお願い申し上げます<m(__)m>

 

私は度々パンドラの箱と言う言葉を使います。理由の一つは下記のブログで書かせて頂いた事にあります。

『相良藩秘中の秘義と「おかはる村」』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html

『親王様からの令旨 祈願の地「球磨」に奉納された御神像』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12499823293.html

江戸幕府が成立した直後、一品に叙せられて法中第一座の宣下をお受けになられた仁和寺覚深入道親王様(出家前の諱は良仁親王様)が人吉の願成寺 僧勢辰に

「幕府降伏王政復古祈願」の令旨を下された。

何故?全国の中で『球磨』で幕府降伏王政復古祈願を行わなければいけなかったのか!?

 

さらに、転記は致しませんが ブログ『戦艦球磨の艦内神社 球磨と戦争』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12399572697.html

で書いた事は全て、近世まで繋がるパンドラの箱 そのままのような気が致しております・・

 

さらに、オリンピック作戦を阻止する為に奮闘した方は・・・

『平和を取り戻す為の工作 続 球磨と戦争』で書かせて頂きました・・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12400426286.html

上記のブログの最後に私はこう書きました

『私は、いつの時代にも「影」の存在であるように”描かれる「球磨」”が、実は、
歴史の大きな流れにいつの時代も関わっているような気がしています・・』
 と・・・

最近考えたのですが何故?連合軍はオリンピック作戦と言う作戦名を付けたのだろう・・

オリンポス山は、ギリシア神話ではオリュンポス十二神の居所とされる山。

オリンピックはオリンピアの神々に奉納されたスポーツの祭典。

オリンポス山から少し離れた開催地のオリンピアはギリシア全体の崇拝を受ける地であった・・

もし、何等かの意図をもって連合軍が作戦名を付けたのであれば・・私は非常に腹立たしくなり怒りがこみあげて参ります。・・そして悲しくなります・・

(ここは私の独り言だとお聞き流し下さい・・<m(__)m> )

 

先に書いた江戸幕府が成立した直後の「幕府降伏王政復古祈願の令旨」に深く関わった地は、ご紹介した過去ブログをお読み下さればお解り頂けますが、前々回のNo200 千早振る神の残せし姿 極意秘密 と縄文時代の日本国外への脱出でご紹介した黒原山(くろばるやま)の頂上付近『あまひき嶽』に御鎮座の「雨引明神」様であり前回のブログでもご紹介した、私の住む旧宮原村とお隣の旧岡本村であります・・

 

今から6年程前、関東にお住まいの歴史研究家の方から

黒原山は古代九州アイヌの守護山であり、権利の主張を表している

また久米族の守護山でもあり、権利の主張を表している

白髪岳は 辰韓系の部族の守護山であり権利の主張を表している

と言うご教示を頂いた事があります。

 

辰韓系・・つまり後の新羅を建国した方々ですが、私は最近度々書いたように

古代南九州(霧島周辺・球磨郡を含む等)の縄文文化を形成した方々は7000年前の海底火山 鬼界カルデラの破局噴火から逃れて、海外にも移動されたのでは?と推測致しております。(ど素人ながら・・)

その方々が、火山が安定した時期に戻って来られて、さらに、海外に新たに進出したのでは?と言う推測は何度もブログ内で書かせて頂きました。

つまり・・

白髪岳は 辰韓系の部族の守護山であり権利の主張を表している

のではなく

白髪岳は 辰国を建国した部族の守護山であり権利の主張を表している

と言う事なのではないのか? と考えています。

辰国 ウィキペディアの記述では

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%9B%BD

辰国(しんこく、?-?)は『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。

民族系統は不明であり、群小の国々の総称なのか一国の名なのかもわからない。

とあります・・・

「ある書籍」に記されていた事 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12433956906.html

※東族古傳に従えば、新羅の赫居世・昔脱解・金閼智(之を三姓の祖と為す)は熊襲族の三姓にて、我が筑紫(九州)より傳従した者としてある

※當時囎唹玖摩(※曾於・球磨)の二郡は熊襲の本拠なれば、宇豆の名は遠く海外に聞こえたものと察しられる。
※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。

鳥が先か卵が先か・・・

 

プロローグはこの辺りまでとして

早速 今回のテーマ「神事『御神体の御更衣』と御拝殿内の八角形と白髪神社様の鶏さん 」のお話に入ります<m(__)m>

 

お正月早々、大きな御力のお導きを受けました。(マタマタ・・と言う御方 ご勘弁を<m(__)m>)

1月4日、主人がようやくお正月休みとなりましたので、遅くなりましたが、地元の岡原霧島神社と、何十年も伺っていなかった隣村『上村』(現あさぎり町上)の白髪神社様に初詣をさせて頂きました。

岡原霧島神社様で、宮司様とお話する機会があり、前回のブログで書かせて頂いた内容をお話したのですが、宮司様は「良く勉強されていますね。ただ、残念ながら私は全く解らないのですよ・・」とおっしゃいました。

 

お話を伺い、御拝殿の中をふと見ると、いつもの光景が・・・

①御拝殿内の八角形

岡原霧島神社 昨年4月撮影 天井からの光景をよくご覧下さい<m(__)m>

 

八角形・・あっ!

実は、昨夏、球磨郡出身のす~み~様が帰省なさった際に、す~み~様と御一緒に多良木町の王宮神社様にお参りに伺ったのですが、その時に王宮神社様の宮司様からとても大切なお話をお聞かせ頂いていたのです!

 

多良木町 ご鎮座 王宮神社様 御祭神 神武天皇様

拝殿内 天井からの光景をよくご覧下さい。

 

王宮神社様の宮司様からお伺いした事は、この天井から広がる飾り?(正式名称をお聞きしたのですが、忘れてしまいました(*_*) ) についてでした。

中心に立って上を見上げると『八角形』の形になっているのです。

結界が張られていて、球磨神楽はこの『八角形』の中で舞い、神々様に御奉納させて頂くとのお話だったのです!

とても大切な『八角形』のお話をお伺いしておりました!

私は4年程前に、岡原霧島神社様で御奉納された球磨神楽を拝見した事があったのですが、確かに『八角形』の中で球磨神楽を舞っていらっしゃいました。

その時に、岡原霧島神社の宮司様が『球磨神楽はお面は付けません。球磨神楽は神様へ御奉納させて頂くものであり、一般の大衆を楽しませるものでは無いからです』とおっしゃった言葉がとても心に残りました。

王宮神社様のお話は後日、詳しく書かせて頂きますが、飾られているお写真の方々は日露戦争以降、戦争でお亡くなりになられた王宮神社様の氏子の方々だとお伺い致しました。

『八角形』は球磨の神社様の御拝殿の中で結界作る為の大切な『形』でもありました・・・

 

2020/01/12 追記

ブログ『まにまに。~心のままに神社巡り~』 の佐月様からコメントにて、御拝殿・神楽殿内の八角形について、とてもありがたいご教示を頂きました。ご紹介させて頂きます。

 

天井から延びている8本の細い縄は
ヤツジメ」と呼ばれ、その中心は北極星を現し
【陰陽】月・日
【五行】火・水・木・金・土の意味があるそうです。
御幣は稲妻を表し、
天井の白いのようなものは「ゆきふね」と
いうそうです。

 

佐月様は一昨年、青井阿蘇神社様に伺われた際に「ヤツジメ」をご覧になられて、ご自身のブログにもお書きでいらっしゃいました。

佐月様、ご教示ありがとうございました。

 

②7月7日の御神事『御神体の御更衣』

初詣からの帰宅後、年末年始と慌ただしく過ごしていた為に拝見する事が出来なかった皆様方のブログを拝見していた時の事です。

 

まにまに。~心のままに神社巡り~ の佐月様のブログを拝見して一瞬目の前に光が差したように感じました。

まにまに。~心のままに神社巡り~ の佐月様の日向國二之宮 都萬神社 を拝見していた時の事でした。

https://ameblo.jp/may-199704/entry-12562428197.html

 

佐月様にはご了承頂きましたので、ご紹介させて頂きます。

佐月様 ありがとうございました。

 

日向國二之宮 都萬神社

◆御祭神
木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと
約五百年前より続いている特殊神事 更衣祭が毎年7月7日に行われます。
伝説では天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことは木花開耶姫命このはなさくやひめのみことを妻にと思召しになられましたが、
天津神(瓊瓊杵尊)と国津神(木花開耶姫命)との結婚とのことで、
事勝国勝長狭神ことかつくにかつながさ(別名を塩土老翁しおつちのおじといい伊耶那岐神の御子)を仲人に立て婚姻の儀礼を行いました。
そのお嫁入りされる時の古事そのままの姿をおつくりし、晴れの婚礼衣装を
木花開耶姫の御神像にお着せし、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ花嫁姿になられる有様を行う神事で、この神事が我が国婚礼儀礼のはじめであるとされます。
この日に奉納される白衣の枚数によってその年の豊凶や天候が占われるそう。

以上  まにまに。~心のままに神社巡り~ の佐月様の日向國二之宮 都萬神社より

 

★約五百年前より続いている特殊神事 更衣祭が毎年7月7日に行われます。

 

私はとても驚きました!

何故ならば、過去ブログ『古の祭祀 故郷の神社』でご紹介させて頂いた、

中嶋大権現の御神事『御濱出』と全く同じだったからです!

麻郡神社私考より

旧球磨郡久米郷宮原村鎮座 中嶋大権現(中嶋神社)の記述

 

 

七月七日社壇ヲ出シ奉テ神衣ヲ更(カユ)
是ヲ御濱出ト云


日向國二之宮 都萬神社様の御神事

約五百年前より続いている 毎年7月7日に行われる特殊神事 更衣祭

中嶋大権現(中嶋神社)の御神事
御濱出 七月七日 社壇を出し奉りて神衣を更(カユ)

 

全く同じ御神事でした・・・
前回のブログを書いた直後でしたので、私は佐月様を通じて神々様から
『まだまだ、勉強が足りません』とお言葉を頂いたような気持ちになりました・・・

何年間も 御濱出 について調べていたのですが、ようやく御神事が木花開耶姫命様、

岡原では吾田鹿葦津媛尊様にお繋がりであった事が解りました。

佐月様には心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。
 

確かに、木花開耶姫命様(吾田鹿葦津媛尊様)は中嶋大権現様でお祀りされていらっしゃったのです・・私はそう考えました。
私の地元も 
其故を詳にせず。 ・・・であります・・・

「球磨」は約3万年前の石器時代の遺跡も発見されており、縄文時代に至っては九州内で2番目の遺跡数の多さから、過去ブログでも私は「縄文時代における九州2位の大都市であった」と表現しております。
其々の時代が複雑に重なり合っていて、ここに弥生時代の遺跡もからみ、其々の遺跡を残した人達が同じ「部族?」であったとは断定する事は出来ず、「複雑に重なった」事により、お祀りになられている神々様も祭祀も複雑になっているのでは・・?と考えました。

黒原山は古代九州アイヌの守護山であり、権利の主張を表している

また久米族の守護山でもあり、権利の主張を表している

前回、今から2000年前にも満たない倭国大乱について触れましたが、「この地」はそんな新しい時代からを始まりとするには到底無理がある・・と痛感致しました。

もっともっと奥が深い・・つまり、複雑に入り組んだ「超古代・古代」の繋がりが理解出来ていないと、地元の神々様を勉強する事は出来ない・・と改めて考えました!

 

ここでふと考えたのですが

御濱出   とはどう言う意味なのだろう??と・・

御濱・・御浜・・どちらの浜なのか??

さらに

中嶋大権現の御神事 十月朔日 五蓈供

五蓈供 とは?? こちらもしっかりと勉強したい!と思いました。

 

所で、ご紹介した麻郡神社私考 中嶋大権現の記述写真の最初に『中嶋輿』と書かれている事にお気づきになられた方もいらっしゃると思います。

③球磨の神社様の『輿』とは

麻郡神社私考平成復刻版の巻末に 神道大系 月報69 昭和62年11月 に記載の

佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について と言う文書が添付されています。

拝見すると 輿(与)について詳しくお書きになられていらっしゃいました。

 

二、 本書の特色 

相良藩の神社行政は、慶長元年、青井大明神の球磨宗社昇格により改革されたといってよい。

以前は、青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、北は黒肥地の王宮大明神、中は上村の白髪大権現の支配であった。

与は十四与、二三四社、別当与二十社は寺院に付属していたのである。

寛文十二年に初めて寺社奉行が任命されているので、「私考」の出来た元禄十二年頃は寺社奉行の支配下にあった。

この与は行政機構につながるもので、藩命を伝達したり、祭や神楽奉納等はこの与の協力によって執り行われたものと思われる。

以上 佐藤光昭氏 「麻郡神社私考」について より

 

★以前は、青井宮は下球磨五与(くみ)三十五社を支配し、上球磨は南は宮原の中嶋大権現、北は黒肥地の王宮大明神、中は上村の白髪大権現の支配であった。

『中嶋輿』の意味についてご説明致しました<m(__)m>

 

★中は上村の白髪大権現の支配であった。

④上村の白髪神社様で拝見した事

最初に書きましたように、岡原霧島神社様に続いて、数十年ぶりに上村(現あさぎり町上)に御鎮座の白髪神社様にお参りさせて頂きました。

 

あさぎり町上ご鎮座 白髪神社様

御由緒

御祭神  鵜戸神宮御同神

主神       鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)

同殿神御父   彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)

同殿御息    彦五瀬命 (ひこいつせのみこと)

同殿御息    稲飯命 (いないのみこと)

同殿御息    三毛入野命 (みけいりののみこと)

同殿御息    磐余彦命(神武天皇)

皇后神六柱を記す依って白髪十二宮とも云う

 

年代古くして不詳なるも練り札によれば建久年間人吉藩初代相良長頼四男頼村公、白髪岳絶頂の御池祠を再興すとあり、その後、暦応元年上村城主六代頼継 皆越白髪谷に勧請

更に、上村十代直頼 更正二年(西暦1456年)此の麓の地に勧請す。

此の時、青井大宮司三十三代頼吉の弟十郎宗清白髪社社職となり、代々仕へて今日に至る。

上宮白髪岳、中宮皆越白髪神、下宮上村白髪神を白髪三宮と云う。

昔より安産慈雨の神として、藩主並に郷民の崇尊殊に深く、人吉十七代相良晴広公は、当社に男子出生を祈願して出生され、片眉白かりしと、それ以後は、藩の氏女懐胎の節は青井大宮司を名代として当社に月参せしめ、安産の上は、白銀十二匁奉納の事を恒例と定むと、尚、尚元禄十一年三月七日青井大宮司五十一代大神惟董 息女安産のお礼として、金大幣を奉納す。

又、天保三年八月大干魃あり青井社、雨宮社と共に当社に家老を名代にて、雨乞祈願あり、怱にして慈雨に恵まれしと云う。

今日、日に日に御神徳弥増、郷民の崇敬弥々篤し。

(以下 略させて頂きました<m(__)m> )

 

鳥居

 

御神殿

 

御神紋

 

ブログ『No201(追記あり) 多良木町出身の東宮内舎人の御方 郷土の名、山河をけがさないようにと』https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12560735606.html

でご紹介させて頂いた、上皇陛下が皇太子殿下であらせられた昭和37年、球磨郡市をご夫妻で御訪問された際に、上村白髪神社にも御出でになられていらっしゃった事が解りました。

 

御拝殿にてお参りをさせて頂いた後、境内を拝見していると、至る所に鶏さんがいらっしゃる事に気が付きました。

 

古い石灯篭の上の鶏さん

 

 

石灯篭 (奉納された御方々のお名前の部分は隠させて頂きました<m(__)m> )

 

 

鶏さんと横にいらっしゃる御方は、最初はお猿さんかと思っていたのですが、帰宅して写真を良く見ると、お鬚と髪の毛がおありになられます・・・

もしかして、猿田彦命様では!? とようやく気が付きました。 <m(__)m>

 

鶏さんと猿田彦命様・・・この事に気が付いてからは、とても気になってしまい眠れなくなってしまいました・・・ので・・早速調べました(p_-)

 

コトバンク様 常世長鳴鳥(読み)とこよのながなきどり より

https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E9%95%B7%E9%B3%B4%E9%B3%A5-1378645

日本で最初に文献にが現れるのは《古事記》においてである。天照大神が天の岩屋戸に隠れ,世界がことごとく闇になったとき,八百万(やおよろず)神が常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)命に舞わせて,天照大神を呼び出す話で,鶏はまさに,太陽を呼び出すものとして立ち現れている。

以上 コトバンク様 常世長鳴鳥(読み)とこよのながなきどり より

 

※八百万(やおよろず)神が常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を鳴かせ,天鈿女(あめのうずめ)命に舞わせて,天照大神を呼び出す話

 

天鈿女命様の御主人は・・・猿田彦命様

あっ!!\(◎o◎)/!

 

「鶏」さんをさらに調べると とても詳しく記されていらっしゃるサイト様を拝見する事が出来ました。

「神使の館」様 (トップページ)

http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/01sinsi.html#tori

 

「神使の館」様サイト内 鶏~ニワトリ  天宇受売命(アメノウズメノミコト)の長鳴鳥(鶏) より

http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/tori/niwatori/niwatori.html#top


「天の岩屋」に隠れた天照大神を外へ迎え出すのに共に大役を担った、天宇受売命(アメノウズメノミコト)と鶏(ニワトリ)は「ワンセット」とみなされ、さらに、鶏は天宇受売命の神使としても扱われるようになった。
猿田彦命と天宇受売命は夫婦とされ、一緒に祀られることも多い。

 

サイト様内を拝見すると、数社の白髭神社様を御紹介でした・・

 

白髭神社様 ウィキペディアより

白鬚神社・白髭神社・白髯神社(しらひげじんじゃ)は、主に猿田彦命を祭神とする神社。

総本宮は、滋賀県高島市の「白鬚神社」である。

「ヒゲ」の漢字が3種類使い分けられており、中には白髪神社と書く神社もある。ほとんどの場合、猿田彦命が祭神となっているが、ヒゲにどの字を使うかにかかわらず、稀に猿田彦命ではなく塩土老翁神を祭神としている神社もある。

 

総本宮は、滋賀県高島市の「白鬚神社」様・・・ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AC%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。
全国にある白鬚神社の総本社とされる。

 

祭神は次の1柱。
猿田彦命 (さるたひこのみこと、猿田彦大神)
国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えることから、両社の密接な関係が指摘される。

 

社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。

後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江国・筑前国には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。

当社の周囲には、背後の山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っている。

以上 ウィキペディアより 抜粋

 

実は、白鬚神社様の記述を拝見して、あまりにも沢山の事に気が付いてしまいましたので詳しくは、次回お伝えしたいと思います<m(__)m>

 

ただ、最も驚いたのは比良山と白髪岳がそっくりの御山であると言う事です!

ウィキペディアより 比良山

 

球磨の白髪岳 (私の住む集落から望む)

 

あさぎり町免田(旧 面田)黒田地区から望む白髪岳 左横には子白髪岳も見えます。

 

白髪岳の右側の平になって見える山は連なる『大平山(おおひら)』です。

白髪岳・大平山(おおひら)・白髪神社・・・白髭神社・比良山(ひら)・・・???

 

次回詳しく書かせて頂きますがウィキペディアの記述の中に『横穴式石室』のお話がありましたが横穴式石室は九州を中心としたもので、後に北上した事は存じています。

渡来系』と言うお話もありますが・・・私が最初に書いたプロローグに繋がって行くような・・

驚いて鳥肌が立ってしまいました。

 

※垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという

垂仁天皇様

伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)様

私のブログは球磨・人吉にお住まいの方々もありがたい事に御覧頂いている事は存じていますが、おそらく、球磨・人吉の人達はお名前をご覧になられた時にすぐに気が付かれる・・

いえ・・驚かれていらっしゃると思うのです・・

伊久米伊理毘古伊佐知命様

久米は私の住む「この地域」であり「伊佐」は球磨のお隣の地域

私は過去、何度もこのお話を取り上げて参りましたが、やはり偶然とは到底思えないのです・・

西暦対応表で確認すると西暦 BC29年 ~ 西暦70年 の御方でいらっしゃる事になります。

球磨にとって重要な事は西暦 BC29年 ~ 西暦70年 この時代 だと私は考えます。

 

プロローグに繋がって行くような・・最も重要な事があります。

白髪神社様の御祭神であられる

稲飯命様は新羅王の祖ともされる御方。

さらに

三毛入野命(みけいりぬ の みこと御毛沼命,稚三毛野命)様は

神武天皇御東征の際に常世郷へ行ったと言われる御方。

常世郷・・・常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)・・・

 

常世国と言えば・・中嶋神社様の御祭神 お菓子の神様であられる田道間守様

ウィキペディアよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%81%93%E9%96%93%E5%AE%88

田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。

『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。

以上 ウィキペディアより

 

私が球磨の古代を調べるにあたって、必ずと言って良いほどご登場なされるのは

垂仁天皇様でいらっしゃいます。

 

田道間守様のご先祖様は新羅王子を自称する天日槍様。

天日槍様の従者となったのは陶人(すえびと)

陶人(すえびと)・・須恵 球磨の地名でもありますが、本来球磨の「須恵氏」の本拠地は白髪岳の麓でもある球磨郡錦町一武(いちぶ)・西村周辺でありました。

天日槍様がお持ちになられた七物の一つは 熊の神籬(くまのひもろき

 

所で、皆様方、田道間守様のウィキペディアの記述の中に何回「」「タチバナ」の文字が登場したかお解りになられますか? 17回 です・・

不思議ですね・・・

常世国に橘を求めに行かれた田道間守様をお祀りの神社様は『中嶋神社』様

球磨の橘一族が宮司を務めた神社様は『中嶋大権現』(中嶋神社)

 

常世国(とこよのくに・とよのくに)について調べました。 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%9B%BD

 

非常に興味を抱いた記述を抜粋致します<m(__)m>

常世の国は神々の住まう神仙境としても信仰されている。

『日本書紀』の垂仁紀では、天皇崩御の翌年に実を持ち帰った田道間守がついに間に合わなかったことを慨嘆して、「遠く浪を踏んで遙かに弱水(河川)を渡って至った常世の国は、神仙のかくれたる国、俗のところではない。このため往来に十年かかってしまった。帰還を果たせないと思ったが、帝の神霊によってかろうじて帰ることができた」と述べている。

※遠く浪を踏んで遙かに弱水(河川)を渡って至った常世の国

『日本書紀』の編纂者の御方々は、書記を編纂されたその「地」から海を渡って弱水(河川)を渡って至る所が常世の国である・・とご存じでいらしたようです・・

大きな川を上って到達する国のようですね・・

 

今回、球磨郡の白髪神社様で拝見した事から、沢山の事を勉強させて頂きました。

私は考えました。 

御祭神は球磨のそう・・わずか2000年程前の事象では到底理解出来ない事だと、複雑に絡んだ古代の何万年も前からの歴史、重なった歴史がそこに「お祀り」なされていらっしゃると。

私は猿田彦命様は「猿」とお付きですが、決して卑下された称ではない!と言う事を理解致しました。

白髪神社様でのお姿を拝見して理解出来たのです。

きっと、古代の方々は直感的に『人間はお猿様から進化している』事を理解出来ていたのだと思うのです。

お猿さんが地球の神々様、つまり豊かな地球環境の中で進化して来られたのだと言う事を!

この事を古代の方々は神々様の思し召しだと考えられたのではないでしょうか?

お猿さんは、言うなれば 人類の本当のご先祖様です。

だからこそ、お猿様、ご先祖様を神様と崇める事は何ら不思議ではありません。

お猿さんは平地には住んでいませんね。 山に住んでいます。

だから、お猿さんを山の神様と考える事もあったかもしれません。

縄文時代までの自然崇拝の一つであったのかもしれません。

だからこそ、猿田彦命様の「猿」は決して卑下したお名前ではなく崇拝の表れだと私は感じました。

猿田彦命様は山の神様でもいらっしゃるのでは・・

 

非常に長くなりましたが、最大の不思議を<m(__)m>

球磨郡久米郷は別称がありました。

王家領 『球磨御領』は鎌倉時代の初頭に再編されました。

『久米(くめ)』『球玖(くく)』『人吉(ひとよし)』『東村(ひがしむら)』『西村(にしむら)』『千脱(ちぬぎ)』の六郷は

『人吉庄』『須恵庄』『永吉庄』『豊富郷』『豊永郷』に再編成されていきました。
しかし、実際は『豊富郷』と言う名称は後世まで殆ど使われておらず、相良家文書や藩史も
殆どは「久米郷」の表記のままです。

私の住む旧宮原村・旧岡本村・旧上村の一部・旧多良木村の一部・旧久米村・旧奥野村・旧湯前村は豊富郷

現在の水上村・多良木町黒肥地辺りは豊永郷

何故? 豊富(とよとみ)郷・豊永(とよなが)郷なのか?? 理由は全く解りません。

つまり 

とよとみ郷(久米郷)宮原村宇土谷中嶋山

           中嶋大権現(中嶋神社) は御鎮座であった

となります。 全て今回 最初に書いたプロローグに繋がって行く・・

 

次回『(速報!追記あり)大宮司様が見た「月と日と星が煌めく」球磨盆地内』に続きます。