前回のブログより続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12395785002.html

 

しばらく、ブログ更新をお休みしていました。

ようやく、「言葉を書き留める気力」が湧いてまいりました。

 

久しぶりのブログ更新で何を書こうかと悩んだのですが、今、一番書きたい事を

書かせて頂こう!と思いました。

 

それは、故郷に御鎮座であった神社の古の祭祀についてです。

 

私が所有する「麻郡神社私考」(平成復刻本)

「麻郡神社私考」とは

相良家二十二代の藩主「相良頼喬」の命により、球磨郡の宗社であった青井大明神(現在の国宝青井阿蘇神社)の大宮司青井采女佐大神惟董が、調査研究して元禄十二年(1699年)十二月に完成し献上したものであります。

参考 ウィキペディアより「青井家」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6

 

この麻郡神社私考の中に、私の住む集落に御鎮座であった数々の神社様についての記載が残っていました。

今までにも、数回、ブログ等で取り上げさせて頂いていたのですが、その中で、私が完全に見落としていた内容がありました。

それは「中嶋大権現(中嶋神社)」の古の祭祀についてでした。

 

非常に大事な事だと考えましたので、今回は、勝手ながら、麻郡神社私考の記載内容を写真で御紹介させて頂こうと思います。

 

麻郡神社私考 表紙

 

旧球磨郡久米郷宮原村鎮座 中嶋大権現(中嶋神社)の記述

 

 

 

上記の記述で、私が完全に見落としていた祭祀とは、最後に書かれていた2行です。

 

七月七日社壇ヲ出シ奉テ神衣ヲ更(カユ)

是ヲ御濱出ト云

 

中嶋大権現(中嶋神社)の御祭祀

御濱出 七月七日 社壇を出し奉りて神衣を更(カユ)

 

七月七日といえば「七夕」です。

冷静に考えてみたのですが、中嶋大権現(中嶋神社)の別当寺であった「竜泉寺」。

「竜泉寺」の観音堂が今に残る「宮原観音堂」であり、現代「宮原観音堂」では

毎年8月9日に「御夜祭」と言う祭りがあり、当日は特別に御開帳が行われます。

「御夜祭」は現代「毎年一律8月9日」になっていますが、「8月9日」に限定された理由は・・

明治以降「この日に決めた」その年の8月9日が調度「七夕」の日だったのではないのか?

「御夜祭」とは「七夕」を指すのではないのか?

 

七月七日、七夕に神衣を更(更衣)する祭祀・・・風習?

日本全国の神社様にどれだけ「この祭祀」を行う神社様があるのだろう??

さらに「御濱出」とは一体?

濱(浜)・・? 浜と言えば「海辺」を想像しますが、ここ、私の住む集落は、海よりは遥か遠い場所です。

「御濱出」の意味とは・・?

 

非常に興味が湧いてきて、早速ネットで「七月七日 神衣」と言うワードで調べてみました。

すると、日本全国の中で、わずか「1社」の神社様、中嶋大権現(中嶋神社)と同じ祭祀を行う神社様を見つける事が出来ました。

そこは福島県双葉郡浪江町に御鎮座の苕野神社(くさのじんじゃ)でした。

 

苕野神社(くさのじんじゃ) ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%95%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

苕野神社(くさのじんじゃ)は、福島県双葉郡浪江町にある神社である。 旧社格は県社。延喜式式内社の陸奥国百座のうちの一座ある。
祭神

高龗神・闇龗神、五十猛神、大屋津姫神・抓津姫神を祀る。

 

由緒
由緒書によれば、起源・創立年代は不明だが、社伝によれば第12代天皇である景行天皇の御世に勧請され、元正天皇(715年)の御代には社殿を創建したという。

桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという。
苕野神社は標葉郡の神社の中で唯一の式内社であり、古来から郡民や領主などから篤い尊崇を集めていた。保元年間の1156年、請戸に館を築いて標葉郡を支配していた標葉左京大夫平隆義は、苕野神社への敬神の念がことに篤く、神社へ神領を寄進し社殿を造営するなどし、標葉氏の氏神として崇めたという。明応元年(1492年)に相馬氏の所領となると、相馬氏からも尊崇を集め、社領の寄進や社殿の造営が行われた。

 

ウィキペディアの記述、御祭神の項に七月七日の御祭祀について記されていました。

祭神について
苕野神社の現在の祭神は高龗神・闇龗神、五十猛神、大屋津姫神・抓津姫神であるが、「奥相志」には祭神についての諸説が記されている。
 

九柱の神女説

大昔、人皇の初めの頃に奥州標葉郡苕野(現在の請戸地区)沖から磐楠船(クスノキでできた頑丈な船)が岸に漂着した。船の中を除くと、九柱の神女がおり、神女の放つ霊光と美しい顔は尋常ならざるものであった。苕野の浜に住んでいた阿部という強者はこれを怒り怪しんで、矛を片手に九柱の神女へと向かっていった。これに対し、村の新汐渡媛という夫婦が阿部を叱り制した。そして、夫婦は神女たちを尊崇して小さな建物を作り神居とした。朝になり神居に行くと、瑞雲が建物を覆い、薫香が匂い立っていた。これを見て信仰心を刺激された新汐渡媛夫婦に対して、神女たちは「私たちは東国に留まり、私たちを信仰する人々には国家安全・武運長久・子孫繁栄の願いを叶え、横難横死を防ぎ、とりわけ海上の逆波を鎮めて船に乗る人々の災難を取り除きましょう。苕野小島に宮居を建てて、そこに苕野の神として祀りなさい」と伝えた。夫婦は喜び、神女にいわれたとおりに小島へ神女たちを祀った。それ以来、海上で風のため船が進まなくなった時に苕野の神へ祈ると、逆波は鎮まり運行が容易になると伝わった。養老年間には、元正天皇が苕野の神について耳にし、九柱の神像をつくり宮居に納めて祀った。その後、苕野小島が波の影響で崩壊したので陸地へ遷座したという。

毎年7月7日には神衣を奉り、神主は顔を覆って神体が身につける衣を新しいものに取り替える神事が行われた。

 

天竺もしくは震旦国王の妃説
正徳年間に記された「寺社好問誌」によれば、請戸の神社の祭神は天竺もしくは震旦国王の妃であると書かれている。王と王妃は不仲であり、王は妃を空舟に乗せて海へ流してしまった。妃を乗せた空船は漂流し、請戸の沖へと流れてきた。時に、村人の阿部氏という者が海に漁をしに出ており、漂流する空船を怪しんで、遠海へと引っ張りだしてしまった。海上で釣りをしていた村人である荒氏という者が、阿部氏により沖へと追いやられた空船が波に乗ってやってくるのを見た。荒氏はこの空船を接岸させて船内を覗いてみると女性がいたので、上陸してこの女性を養った。その後、小祠を波打ち際近くに建てて、この女性を村の守り神として祀ったという。 中略・・

毎年7月7日には「御召初め」という神事があり、麻単衣を新調し、神官が神像が身に着けている衣を取り替えたと記されている。

 

新羅国の女神説

元禄年間に藤橋月船という者が記した「標葉記」によれば、古老の話では、苕野の神は新羅国からやってきて請戸の小島に現れた女神であるという。この時初めて、阿部氏と荒氏はこの女神を信仰し、阿部氏は特に何もしなかったが、荒氏は小島に社を設けて女神を祀った。その後、保元年間にいたり、標葉氏の祖である平隆義が標葉郡を領有するようになると、請戸明神を鎮守神と定め、社領の寄付や社殿の修繕を行い代々篤く崇敬したという。

 

※年7月7日には神衣を奉り、神主は顔を覆って神体が身につける衣を新しいものに取り替える神事が行われた。

※毎年7月7日には「御召初め」という神事があり、麻単衣を新調し、神官が神像が身に着けている衣を取り替えたと記されている。

 

私の住む集落、旧球磨郡久米郷宮原村に鎮座であった中嶋大権現(中嶋神社)の

御祭祀と全く同じです・・・

 

しかし、苕野神社(くさのじんじゃ)の御祭神は

高龗神・闇龗神、五十猛神、大屋津姫神・抓津姫神を祀る。

 

中嶋大権現(中嶋神社)の御祭神は霧島神宮同體であり

御祭神

天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
木花開姫尊
彦火火出見尊
豊玉姫尊
鵜鷀草葺不合尊
玉依姫尊
神倭磐余彦尊

 

御祭神は異なりますが、苕野神社(くさのじんじゃ)と中嶋大権現(中嶋神社)の祭祀は

全く同じであると言う事が解りました。

 

ウィキペディアの苕野神社(くさのじんじゃ)の記述の中に幾つか気になる記述があったのですが、その中で特に気になったのは

※保元年間の1156年、請戸に館を築いて標葉郡を支配していた標葉左京大夫平隆義は、苕野神社への敬神の念がことに篤く、神社へ神領を寄進し社殿を造営するなどし、標葉氏の氏神として崇めたという。

ここです・・・

 

標葉左京大夫平隆義

参考に日本の苗字七千傑様のサイトで平隆義この方の系を拝見させて頂きました。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113d.htm

 

標葉左京大夫平隆義 この方は・・・椎葉隆義

椎葉氏・・椎葉氏!!

一体・・どう言う事なのだろう!!?

椎葉って・・・以前から何度もブログ内で書いているように家の親戚には「椎葉家」があります。

旧宮原村に御鎮座の中嶋大権現(中嶋神社)の御祭祀を調べたら・・

偶然か!?・・椎葉氏に繋がってしまいました・・・

標葉郡を支配していた標葉左京大夫平隆義・・・椎葉隆義

標葉左京大夫平隆義、この方は桓武平氏繁盛流「岩城氏」の方です。

参考 日本の苗字七千傑様サイトより桓武平氏繁盛流 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113.htm

 

球磨郡久米郷と旧陸奥国「福島県双葉郡浪江町」

共通の御祭祀と共通の「姓」・・椎葉氏

不思議な偶然を発見した気分です。

 

苕野神社(くさのじんじゃ)

くさの・・・九州の草野氏は日下部氏に関係しているとの記述を書かれていらっしゃる方のサイトをつい最近拝見した事がありました。

その事を突然思い出してしまいました・・・

 

民族学伝承ひろいあげ辞典様サイトより

高木神2 日下部氏の源流狗奴国・熊襲/検証・現場資料付き

https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55777329.html

 

こちらのサイト様には、私が以前御紹介した「京が峰横穴墓群の靫」の写真も掲載されていました。

 

再度、読ませて頂いて、特に目を引いたのは以下の記述でした。

※①草野は草壁すなわち日下部に通じることが多く、例えば豊前国仲津郡の蒭野(くさの)郷が平安期には草野荘(福岡県行橋市の草野一帯)となり、この地に日下部氏の有力者が居住していた。このことは『本朝世紀』長保元年(999)三月七日条に見えており、記事には蒭野荘の前検校と見える早部信理(法名寂性)は「日下部信理」の誤記と分かる。筑紫では、筑前国には嘉麻郡に草壁郷、筑後国にも山門郡に草壁郷があって、ともに日下部の居住地であったとみられる。

※②人吉こそが日下部の源流である。つまりそこは南九州に多い川上神社信仰のメッカになる。

※③川上神社
この神社群も全国的にあるが熊本・鹿児島が最も多く、川上とは熊襲首魁だった川上タケルのことである。これを「ひじり川上」といい、あるいは大人(おおひと)、弥五郎などと別称する。いわゆる現地先住氏族で抵抗勢力と記紀が書いた熊襲である。
球磨川沿線はそれらの日下部・川上・熊襲の痕跡と靱のデザインで満ち溢れている。そして例の免田式土器発祥地なのだ。
 球磨川へ南下する途上に、幣立宮(へいたてぐう)、猿丸太夫神社(祠)、阿蘇山の古墳群、阿蘇神社、阿蘇国造神社、ストーンサークル、修験の痕跡、石造文化遺跡、石橋、ヤマトタケル景行天皇の巡幸の痕跡、城南町の古墳群、クルソン渓谷、石人、装飾古墳、平家落人伝承地、高木神社、新羅神が神霊スポットのパノラマのように集合している。その線がすべて日田・朝倉、そして田川へと向かうのである。地名山門郡。
この山門郡の地名こそは狗奴国が新天地である近畿で盆地に名づけたものであろうと見える。

※④草とは熊襲が旅をする人々だったから「旅草」として吉見神社の地名となっている。その吉見神社そばに緒方三郎神社が存在する。三郎は大分の大神氏出身を自称する宇佐神宮の神人(じにん)集団である。彼らは五箇庄平家部落の人々を五木上流へ隠れさせたとなっており、謎の武家集団である。蛇の子孫。

 

「くさの」の地名から

私が、今までブログに書いてきた事

『古代の球磨』・『靫』・『平家落人』・『親戚に本姓大神氏が多い(緒方氏・尾方氏・星原氏』等が繋がってきた事に

驚き、鳥肌が立ってしまいました・・・

 

球磨郡久米郷の中嶋大権現(中嶋神社)と陸奥国の苕野神社(くさのじんじゃ)

御祭祀が全く同じである・・・

『七月七日社壇ヲ出シ奉テ神衣ヲ更(カユ)』

 

さらに、苕野神社(くさのじんじゃ)の記述で気になっていた事は

※明応元年(1492年)に相馬氏の所領となると、相馬氏からも尊崇を集め、社領の寄進や社殿の造営が行われた。

 

相馬氏

相馬藩と相良藩の共通点・・それは

相良氏、相馬氏、島津氏、は明治維新まで八百年以上領地替えされる事もなく続いた世界でも稀有な大名(領主)である。

と言う事です。

 

何故?替地されなかったのか・・??

豊臣秀吉・徳川家康・・・

幕府は・・何か知っていたのではないか・・・???

などと・・考えてしまうのは・・・考えすぎでしょうか・・・

 

次回は「御濱出」と木花開姫尊、古代の七夕について、勉強して気が付いた事がありますので

書かせて頂こうと思っています。

 

最後にウィキペディアの苕野神社(くさのじんじゃ)の記述を御紹介致します。

2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震により、浪江町の沿岸部は津波の被害を受けた。海のそばに鎮座する苕野神社も社殿がすべて流出、前宮司の家族も犠牲となった。

その後も近隣の福島第一原発で起きた原子力事故の影響で2012年8月現在も警戒区域に指定されており、許可無く立ち入ることができない状態が続いている。
2012年2月19日には、岡山県神社庁と岡山県神道青年会、東京都神社庁の支援を受けて仮社殿が震災前の社殿鎮座地に造営された。 

御神霊は飯舘村に鎮座する、苕野神社の分霊社である綿津見神社から賜ったものである。宮司には前宮司の三女が就任し、現在も苕野神社へ奉斎している。

 

東日本大震災により、犠牲となられた前宮司様御家族の方々のご冥福を心よりお祈りもうしあげます。

ウィキペディアに掲載の社殿の写真に「震災前」と記されていた事に心が痛みました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%95%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE#境内(震災前)

 

次回ブログ

『現代の肥人(こまひと)のパワー』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12398607353.html