ちゃちょの東京歩きブログへいつもようこそ!今日は、江戸の水不足を救った、
縁の下の力持ち、多摩川/羽村市取水口を巡ります。来週は、福生(ふっさ)です。
続けて歩いた米軍のアメリカンな町/日本酒の兄弟蔵で村を救ったところです。
出かけようとした8月13日(日)の朝だけ、8㎜/hの土砂降り。また、布団に
潜っちゃったけど、実はこの後31.7℃の真夏日にまで、晴れ上がりました。
大失敗!台風7号のU字型蛇行で大気が不安定になっていただけだったんだね。
改めて、世間のお盆休みも明けた8月16日(水)に出発!最低24.8℃、最高30.4℃。
熱帯夜じゃなかったし、真夏日と言っても0.4℃午前10時に30℃超えただけです。
24日台風9号、25日10号発生。長期予想でも、9月中は残暑と多雨が続きます。
台風9号はどんどん強くなり、30日(水)に九州に最も近づきます。
さて、散歩先の東京都羽村市及び福生(ふっさ)市は、東京都の奥多摩
地区の入口です。
これは簡略化された路線図だけど、JR中央線の立川まで新宿から快速で30分、
立川からJR青梅線各停で23分です。(拝島から3つ目が羽村、青梅の4つ手前)
実はオレンジ色で出てるように、西武線からも拝島までつながっています。
立川は、7月28日の日野を歩く!でお世話になった多摩モノレールも
通っているJR中央線の中核駅。また、拝島は、灰色のJR八高戦と、橙色
のJR青梅線・五日市線の3方法分岐点で、かつ西武線との接続駅なんですね。
羽村市は、東京で最も人口が少ない市です(2023年7月1日54,009人)。
また面積も9.9㎢と、全国で7番目に小さい(東京では3番目)。縄文時代
の遺跡は出たけど、弥生時代は出土してません。1991年、やっと市政へ。
と、ここまで地理的な位置を確認したところで、今回の散歩コースは、
JR青梅線・羽村駅からはじめて、JR(西武)拝島駅まで、戻りつつ辿ります。
今週は、玉川上水・取水口や作家・中里介山の生まれ故郷の羽村市です。
来週は引き続き、福生市側を訪ねます。
今回は、肝心な箇所で行ったり来たりして、37,532歩も歩いてしまいました。
10時から18時近くまで歩きました。東京も都心を離れると、道標どころか
コンビニもあきらめが肝心。地元で車を持っている人との差が大きく出ます。
地元/練馬区・西武幾袋線/石神井公園駅を8:59発の急行飯能行き。
ひばりが丘で、各駅停車に乗り換えて、秋津/新秋津でJR乗換です。
これがJR武蔵野線から、JR中央線立川経由・JR青梅線へ早く入る方法です。
秋津9:13着。正味5分のJR新秋津までの400mを急ぎます。JR新秋津側から
来る人もいて混んでいますが、落ちるお金はゼロ。本来の駅間150mを連絡通路で
結ぼうと西武側は提案しましたが、当時国鉄だったJRは拒否しました。
西武秋津駅はそれでも接続のおかげで2019年、1日の乗降客数が8万人を突破、JR
新秋津駅開業の1973年時の25,304人より増え、今や西武線全体の乗降客数9位の駅。
この狭いすき間の右側タリーズコーヒーの裏がJR新秋津駅です。
JR新秋津駅。黄色い垂れ幕に、西武鉄道秋津駅は⇒と、今は書いてあります。
JR武蔵野線は、貨物輸送線だったので、旅客輸送用に切り替えての連絡通路の
用地取得は、国の外郭団体だった国鉄には、発想がなかったと想像されます。
1番線の9:20発のJR中央線接続側に乗ります。2番線は、東京駅まで
遠回りだけど乗り入れてます。東京駅地下4階にある京葉地下ホームです。
JR中央線接続/西国分寺駅9:24着。9:30中央線はなんと青梅線乗り入れ
の直通電車でした。立川で乗り換えなし。乗り入れ進化で便利です。
羽村着10:04。台風7号の影響で4分遅れ。ドアを見てびっくり。全部のドアが一斉に
開かず、あけたいとき、「あける」のボタンを押すようです。じゃ「しめる」って?
閉めないとドアが開いたまま、電車は走るのか?「あける」だけで降りてしまいました。
電車外側には、「あける」ボタンしかありませでした。
電車は出たけど、内側の誰かが席を立って「しめる」を押してくれたんだ、ああ。
立ち止まって熟考しているうちに、ホームからは、誰もいなくなってしまいました。
とにかく10:04に到着。羽村駅改札です。すぐ次の10:08の青梅行きが
来ちゃいます。時刻表示だけが、本来の時刻をしめしているのかな。
開閉ボタンといい、ここの時刻表示のズレといい、東京郊外は感覚が狂います。
改札を出るとすぐ、割と親切な地図があります。字が小さいけど、降りて右(東)
側のまいまいず井戸を見て、またこの架線橋を渡って、左(西)側、歩10分の
玉川(多摩川)取水口です。お寺坂という1本道を道なりに降りていくだけのようです。
東側から見た羽村駅です、駅から中2階の渡り廊下があって、左にある3階建ての
西友に直結していました。後から調べると、青梅線に西友は、2つ先の河辺駅、羽村、
福生と3軒だけありました。全国7位の出店数でもここは、それだけ。五ノ神1-8-14。
ここの西友は、食品中心で、2階に服、薬、化粧品、日用品、文具もあるね。
3階は、電化製品だったのだろうけど、女性スポーツ施設「カーブス」と100均
に貸していますね。石神井公園の西友は58年間の命で、2022年閉店(不便!)。
なにしろ、外資のヘッジ・ファンドが筆頭株主(80%所有)で切り捨て主義。
2022年のJR羽村駅の乗車人数で11.439人/日、乗降客数はほぼ倍と思われます。
4系統のバス路線が、1990年代に廃止。残った3路線も1日1往復のみです。土日のみも。
代わりに1時間1本の市営循環ミニバス「はむらん」が4コース100円で運行しています。
JR南側の2つの街道の自家用車交通量は半端じゃありません。
なんだ、西友の裏が目的地でした。
五ノ神神社。五ノ神1-1。601年創建の古社。数戸から江戸時代ニ十戸、明治24戸、
昭和初期50戸。熊の五社大権現を祀ったので、今の地名が生まれました。
宮大工が1862年に今の本殿を造りました。御祭神は、天照皇大神(アマテラス
スメオオカミ)、素戔嗚尊命(スサノオノミコト)、天児屋根尊(アメノコヤネノ
ミコト)、伊邪那美命(イサナミノミコト)、事解能男命(コトサカノオノミコト)です。
境内に鎌倉時代に掘ったまいまいず井戸があります。羽村は1536年三田氏が
支配していました。地表直径16m、深さ5.5m、地底直径4m。脆い砂礫の上に
火山灰のある武蔵野台地の国分寺崖線からは、地下水脈まで距離が長く、垂直に
掘れませんでした。東京都指定史跡。1960年まで使用。
架線橋を渡って、駅西側に出ます。開発計画がありましたが、市民と
争議になり、計画撤回の判決が出ました。地味な町で、少しのお店、民家と空地。
(市議会は、新緑会と公明党4、令和かがやきと共産党3,新生会2,
市民ネットワーク1,世論1、自民もわずか1。国政/都政と別)。
と急に、羽村市羽東1-13-15に、羽村市観光案内所(羽村市観光協会)がありました。
清酒「はむら」は、多摩川最上流の羽村市内唯一の水田「根がらみ前水田」
と地下水で、隣の福生市の石川酒造に造らせたフルーティーかつ濃厚な酒です。
田植え前に酒粕を田に施し、アミノ酸(ロイシン)は10倍と豊かな香りがします。
720ml1760円。ふるさと納税返礼7000円分。東京米の醸造は難しい。
根がらみ水田にアマガエルが4匹並んだ「居心地いいね」の写真は、記念写真展で
2022年環境大臣賞だそうです。
ゆるキャラ、「はむりん」は、水のしずくに頭に桜の花、体は羽村橋のケヤキ、
名札は根がらみ前水田に秋から春に植えるチューリップです。2013年7月23日に、
はむら夏祭りでデビューしました。
稲荷神社。羽東2-14-1。御祭神は、宇迦之御魂之神(ウカノミタマノカミ)、
建速素戔男尊(タテハヤスサノオノミコト)、玉祖命(タマノオヤノミコト)です。
中世末に禅林寺の西南にあったのを遷座しました。付近の東ヶ谷戸の鎮守でした。
境内の八雲神社から、1919年立川市の町から譲り受けた山車が4月第二日曜の祭礼に出ます。
本殿は、1846年宮大工が造りました。
両脇に神社やお寺があり、多摩川取水口へ下りる「お寺坂」は、江戸時代まで
もっと急で細く長い坂でした。坂の途中に、往復して荷車を引く馬が一息入れられる、
豊富な湧水の、馬の水飲み場がありました。羽東2丁目。今は底はコンクリートです。
禅林寺。羽東3-16-23。臨済宗建長寺派です。創建は中世末です。
東谷山と号します。切妻瓦葺四脚門の山門は文久期(1861-1864)の
もので、天井に雨乞いで水をかけた竜の絵がうっすらレリーフされています。
1789年、田沼意次の通貨改革の失敗、天明の大飢饉などで、都市に出てきた
貧農民層が全国で一揆を起こしましたが、羽村も狭山を襲った名主層の犠牲者
を称えた、羽村市史跡・天明義挙記念碑があります。
禅林寺観音堂です。名主島田氏の寺として1593年開山。鎌倉建長寺の
「天下禅林」の二文字をいただき、寺名にしました。
羽村は、戦前の著名な大衆作家の先駆者・中里介山の生まれ故郷です。有名になっても、
仏教の上求菩提下化衆生を理想に六畳一間で暮らし、失恋を乗り越え、独身を貫きました。
個人雑誌を出したり、道場や塾を開いたり、さまざまな社会活動にも貢献しました。
中里介山(1885-1944)は、小卒です。貧しい家庭で育ち、仏教思想の曼陀羅世界
を根幹とした、独自の風格を持つ大衆文学です。30年間、書き継いだ未完の大作
「大菩薩峠」は、谷崎潤一郎、芥川龍之介、菊池寛なども愛読しました。
「大菩薩峠」は、青空文庫で全文無料で読めます。長いですがサクサク読みやすく、
登場人物が個性豊かで、大菩薩峠~江戸~京都と地理/歴史も学べ、なんでもありの
読後の達成感は大きいです。国民文学の傑作です。戦後時代小説に影響を与えました。
実際に大菩薩峠は、山梨県塩山市と北都留郡の境にある、標高1897mの日本
百名山の1つで、山頂休憩30分でよければ新宿を朝7時に出て夕方5時に戻れます。
甲斐の源義光(1045-1127)が峠越えをするとき、八幡大菩薩に祈念した説があります。
中里介山は、もう禅林寺の一部分。大々的に、墓地案内図があります。
本堂裏手の石段を登って、細い道を渡り、もう1つの墓地へ行きます。
中里介山居士の墓。作家名が戒名なんですね。本名、弥之助。腸チフスで、
隣のあきる野市の病院で1944年没。享年59歳。羽中4-11の水車小屋
で生まれ、羽中4-5の精米業の家で育ちました。小学校卒。電話交換手、
小学校代用教員、新聞記者などをしながら、苦学しました。
禅林寺より多摩川沿いの高さ2mの崖に、羽根橋のケヤキがあります。羽東3-18。
幹回り5.5m、高さ23.5m、根元の北側は崖上に、南側は崖下に扇状にはびこり、
幹は直立して崖下から4mに南西に大枝に分かれ樹姿は壮観です。都内有数の名木。
樹下の湧水が木の成長を助けています。東京都天然記念物。
散歩のおばあさんに「どこが玉川取水口ですか?」と尋ねたら、
「ところであんた、これから先、福生まで店は何もないから、今のうち、
食べ物を買っておいた方がいいよ」と教えて下さったのが、羽東3-6-24
にある、セブンイレブン羽東3丁目店でした。奥多摩街道を民家の中を、
160m北へ行くと現われ、おにぎりで腹ごしらえできました!
散歩には、いつもこうした神さまが、ふっと現れます。
道を戻り、取水口の前にある、玉川水神社。羽東3-8。1654年、多摩川兄弟が
上水の完成を機に創建。上水の守護神。御祭神は、彌部披能蕒神(ミズハノメノカミ)、
水分大神(ミマクリのオオカミ)。1839年筏師奉納の石灯篭が両脇に。9月5日例祭。
もともとは、多摩川へ舌状に張り出した崖の上にありました。
このすぐ右隣りに、玉川上水羽村陣屋跡。1653年完成の上水管理・水質維持に
役所を設置。現在は陣屋門が残るのみ。もともとは、取水堰に面した奥多摩街道に
面して建っていました。
陣屋跡の裏側が、写真の左端に写っていますが、東京都羽村取水管理
事務所になっています。水位監視や荒川・利根川との効率的な上水の
融通を連絡水路を使ってやっています。8月4日ブログの武蔵水路も活躍。
玉川上水羽村取水口です。羽村東3-8-32。多摩川の水を玉川上水へ取り入れる
ため、総延長600mを超す堰を築きました。1653年完成、1900年増改築。
今にも雨が降りそうな雲行きです。台風7号の余波で水量も多めです。右側に取水口。
木製の投渡堰のある取水堰で一旦、水をせき止め、多摩川の右(北)側の武蔵野台地
上層へ流れるよう、第一水門から取水、第二水門で水量調節します。小吐水門から
毎秒2㎥放流し、台風洪水時には、丸太と枝葉でできた投渡堰を取り払い下流に流し、
水位が下がった頃、また人出で丸太の堰を作り直すのは、江戸時代からの技術です。
今来た、陣屋門(現・東京都水道局羽村取水場)を含めた位置図です。
実際のそれぞれの位置を写真に重ね合わせます。第一水門から手前が
取り入れられた玉川上水です。
1900年の増改築で第一水門は、丈夫な鉄製になっています。これは、
羽村市郷土資料館の模型(あとでここにも寄ります)。
水量調整の第二水門の向こうは、離れ小島の公園で、地元の人が台風7号後
の水量を確かめながら、涼んでいました。水量が多いね。
この小島に、幕府に命じられ、庄右衛門、清右衛門の兄弟が6000両で請負い
2度の失敗を乗り越えて、1653年から8か月で完成させた勇姿が見られます。
兄が測量の差を図る間縄を持って立ち、弟が測量目印の間丈を持って片膝です。
1度目の失敗は、日野で水が砂地に吸い込まれてしまい、2度目は福生で硬い岩盤に
突き当たってしまいました。6000千両のほとんどは消え、兄弟は自費で挑んだのです。
玉川姓をもらい、自費も補填され、上水道維持管理も任されました。
43㎞を92㎝の高低差だけで、最短8か月完成の技術など詳細は、郷土資料館で。
2015年土木学会より土木遺産に認定。
1965年、新宿区の淀川浄水場の廃止後、東村山浄水場に引き継がれ、玉川上水は
一旦使命を終えますが、1986年以降、小平監視所以下に玉川上水を愛する人に
よって、自然保護としての清流が復活し、神田川まで流れています。
現在の玉川上水・新堀橋付近です。昔から日本は、水は体の一部と同じに
きれいに保とうと、古くから広く伝わっていた稀有な国だと言えます。
まず、玉川上水を羽村橋で渡ります。次に多摩川を幅2m/長さ267mの羽村堰下橋で
渡って、南側の岸へ行きます。
羽村市郷土資料館0.5km先へ向かいます。
武蔵野の路「⑤滝山・草花丘陵コース」の案内板です。②丸子・二子コースは
7月7日の武蔵小杉を歩く!で、2022年3月26日のさくら三分咲きの石神井公園を散歩、
に⑨千川・石神井コースが、出てきます。
アカシアの並木と名付けられた土手を北へ行きます。右手の岸沿いの
桜みたいなのが、アカシア?もっとミモザや杉みたいな葉だと思ってた。
河川段丘は市の占有物かと思っていたら、民家もそばまで建ってますね。
おお、ここは海から54km地点なのですね。
多摩川生態保持空間ということで建設省京浜工事事務所が、自然保護の看板
出してます。実際、何も泳いでないです。河川沿いの奥多摩道路は自動車や
トラックがひっきりなしです。
さっきの「武蔵野の道」とは違って「かたらいの路」も東京都環境局が9コース
設定しているんですね。③羽村・草花丘陵コース8㎞に該当するようです。
丘陵とか沢とか小山が多いようです。誰も歩いてないし、語らったら、110番されそう。
お、いよいよ郷土資料館まで0.2㎞=200mですね。都心のアスファルトの
道と違って先が見えません。
あれ、行き止まり?
右の多摩川に入水する訳にもいかないし、左(南)の森を行くしかないようです。
やっと羽村市郷土資料館。羽(はね)741。あきる野市と青梅市との境の
羽村市南西の端です。裏手は草花丘陵。多摩丘陵の一部ですね。多摩川の北側が
武蔵野台地だったのです。9:00-17:00。無料。
本当に、ここは、羽村市の中でも南西の端で山深い所だとわかります。
確かに玉川上水堰からは近いけど、こんな誰も来ない所より市内に
建てた方がいいんじゃないのかな。日曜でも、ちゃちょ一人。
多摩川の自然と共に昔の人は河岸段丘暮らしをしてきました。2千年前までの
縄文時代の遺跡は出土しましたが、それ以前も後の弥生時代も出土がありません。
古代になってからは出土があります。
関東地方は、1万年~40万年かけて、△の山々からの火山灰やその風塵で、
弱酸性の粘土状の関東ローム層が積もり、作物はリンを吸収できませんでした。
また武蔵野台地や多摩丘陵では高台では、農業用水の確保が難しかったのです。
さらに、東京湾は海の浸食が激しく、塩気のない水の汲み上げも難しかったのです。
徳川家康は江戸に入府した1590年、すぐ井の頭遊水地からの神田上水を引くよう命じました。
7月21日の吉祥寺を歩く!でも、紹介しましたね。3代家光の時代には、江戸人口の
急激な増加に伴い、十分に水を確保できなくなり、水量豊富な多摩川が注目されたのです。
玉川上水は、傾斜のほとんどない平坦な地形の中、43㎞の長距離にわたって、
わずか92㎝の高低差を安定供給したのには、当時の高度な開削技術がありました。
1つは、夜に提灯を掏るした竿を立て、端から全体が見渡せるようにして
凸凹を調整しました。
もう1つの着工から竣工までの1年足らずの異例の早さですが、区間ごとに
同時に掘ったのです。
江戸側での配水の仕組みは、木や石でできた樋(とい)や桝(ます)が使われました。
船造りの技術で水が漏れないようにし、樋は、水路を枝分かれさせる、水の量や
濁り具合を確認する、ゴミや土砂を取り除く、差蓋という仕切りで先への水を止めました。
樋は入る側より出る側を高い位置にし、どんどん樋や桝が深くなるのを防ぎました。
太い石樋(せきひ)から、木樋(もくひ)、継ぎ手を経て、竹樋(たけひ)と
つなぎ、最後は屋内や屋外共同の上水井戸へたまるようにしました。
上水井戸には、底なしの桶を逆さに重ね、水道の樋から呼び樋で流しました。
実際に使っていた上水井戸の構造です。各町内の上水井戸からつるべで
汲み上げて使っていました。
ロンドンを抜く世界最大級の給水システムで、江戸市中150㎞を
網羅しました。
玉川兄弟は、上水管理を永代にわたって任されますが、3代目は、黙っても入ってくる
水道料金に対して、身に過ぎた遊興・維持管理不行き届きで江戸所払い、管理権も
剝奪されました。残念です。明治になって、初代の兄弟に限り、従五位に名誉回復。
水質を維持し、水の通りを確保するためには、たゆまぬ道具の補修、砂利除去など
十分にまじめに働く人手が必要でした。水番人は、江戸に水を運ぶ大切な仕事だったのです。
取水口付近では、水量や流れを調整するため、狭山地方などから送られてくる
竹を編み、牛枠や三角枠などの水没させる枠を組みます。
重しに、大きな丸石を柔軟なミミズのような棒状に長く袋詰めして、竹枠に詰めます。
それを水に沈めて、流れを調節しました。牛枠とも川倉水制とも言ってました。
正面の上水堰は、今も杉丸太を縦に刺し、枝で柵状に埋め、重しに石を沈めています。
投げ渡し堰と言って、江戸初期の1653年当時から、技術は変わっていません。
台風7号のときも、投げ渡し堰の丸太を外して下流に流し、また人手で作り直しました。
上水を利用した通船。これは、2022年6月5日のブログで紹介した,
川越の回りを囲む新河岸川の舟運に似ていますね。
分水を利用した新田開発も、行われました。吉祥寺の道路の区割りは、
細長かったですし、もっと所沢と川越の間でも、写真のように、細長く
屋敷ー畑(水田)―雑木林のように、開発した各戸が並んでいました。
Youtubeの例では72m×675m=5haを各戸が耕して江戸の作物としていました。
郷土資料館の展示では、台地での畑作がやはり中心だったようです。
羽村市に唯一ある「根がらみ前水田」(羽加美4-26-25)も、玉川上水取水堰の手前、
水嵩がある舌状の河川敷内です。弥生時代からの個人(複数)所有田59,000㎡を町起こし
に、日本酒「はむら」用米作りと、秋~春はチューリップ畑で賑わっています。
ここで、今の上水道水源池を見ると、利根川・荒川水系が多く、
それを武蔵水道(ブログ8月4日)、北千葉水道が結んで調整する形です。
東京都の上水は、利根川と荒川水系から80%を得ており、今は
多摩川水系からは17%にすぎません。2022年10月7日の御茶ノ水を歩く!
のブログでも、東京都水道歴史館を訪ねていて、ご存じのことと思います。
1つだけ代表的な現在の水源地を紹介すると、群馬県吾妻郡長野原町にある
八ッ場ダムです。東京都は今、群馬県、埼玉県などからお世話になっています。
53年間・5320億円かかり、9000万㎥の水を確保し、2019年完成しました。
470戸がこのダムのために移転してくれています。
羽村市郷土資料館の内部に留まり過ぎました。外に出ると、1930年の35歳から
1944年没まで生家にあった、大菩薩峠記念館の正門として使われてい朱塗りの門
が閉館に伴い、郷土博物館内に移設されていました。幕府に仕えた眼科医の赤門でした。
また、屋外には、江戸時代の養蚕農家・旧下田家も移設されていました。
多摩西部の農家の造りをよく残していることから1210点の生活用具と
共に国の重要有形民俗文化財に指定されています。係の人がいて、
生活していた当時と同じように、囲炉裏に焚火がくべられていました。
また、多摩川を北岸に渡り直し、南隣の福生市を目指します。足元は、
羽村取水口として、たまリバー50の出発点なのでした。さっき海から
54㎞と多摩川南岸に標識があったのと、合致しています。
たまリバー50キロのウオーキング・ランニングコースは、東京都都市整備局が
定めています。自転車で追い越す人との接触事故が増えています。自己中の人が
増えてるから、要注意です。7月7日の武蔵小杉を歩く!でも紹介しましたね。
東横線が多摩川を渡る、脇の「桜坂」は、福山雅治が歌いあげました。
多摩川上流では、秋川漁業協同組合が稚鮎を多数放流しています。
アユとヤマメを都心から60分の清流で釣れるとPRしています。
今度の大鮎釣り大会は、2023年8月27日、参加費3000円で申し込み終了。
指定遊漁証売場には、このような青い旗が立っています。
アユ・マス・ヤマメは、事前申し込み2000円(当日4000円)。
雑魚500円(当日1000円)。川辺には、白いテントが張ってありました。
また豪雨などでダムを放流するときは、50秒のサイレン、10秒休みの連続音です。
どんどん南下していきます。
道が丘寄りになると、宮崎駿の世界です。
このアスファルトの色が微妙に違うところから福生市です。
寺社仏閣を巡りながら、国道16号沿いの米軍横田基地像の福生ワールドや、
都内の2軒の日本酒製造所が血の混じった兄弟蔵であることなどは、
来週9月1日(金)アップのお楽しみに。
新太郎君は、「ここのところ、遅いじゃないかよ」としっかり家を守って
くれていました。あわてて、家の外掃き、雨戸閉め、シャワー、うがい、
洗濯をしてた後、しっかり遊んでくれました。至福のひとときです。
ここまで、お付き合い下さり、本当にありがとうございました。
お疲れさまでした。
ゆっくり休んでくださいね。
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次は、9月1日(金)に、米軍基地と東京の清酒の兄弟蔵の福生編をお送りします。
皆、元気でね。じゃ、またね。