一本足の父と暮らしている私
  • 19Aug
    • ⑳感激

       さあ、いよいよ今日からリハビリ専門の病院。 初日はどこも同じ入院手続き。父の場合は転院だけどね。 病院によっていろんなことが違うので、初回の説明はよく聞いておく必要がある。 特に気になる部分はしっかりと突っ込んで聞きましょう!  私の場合、父の食事形態や、どこで誰がどのように介助するのか。日中の過ごし方がどうなのか。等々。  説明を聞くうちにとても安心して任せられると感じた。 毎日毎日休むこともなく日に2回から3回のリハビリ三昧。3度の食事は毎回必ず車椅子で食堂へ出て、見守りや一部介助を受けながら。食事形態もとろみをつけて誤嚥に注意しながら。 流石であります! さすがリハビリが専門の病院だけある! 1日3回の食事を日勤の多い昼食のみでなく、朝食も夕食も車椅子で食べられるなんて、本当に感心したものだ。当然それが出来るのも、回復期病棟だからである訳だが、私はあえて担当看護師に聞いてみた。 回復期病棟でなかったらどうなのかと。 彼女は答えた。「回復期病棟でなくても、食事は出られる人は食堂に出て食べてもらっています。リハビリの頻度は下がりますが。」 素晴らしい! そうです!そうなのです! 入院患者にとって、入院生活程平坦でつまらないものはない。手術や抗がん剤治療などの目標とするべき治療のある急性期病院ならいざ知らず、毎日毎日同じことの繰り返しが続く回復期。 楽しみと言えば食事くらいではないか。 個室であっても大部屋であっても、床頭台に向かって一人黙々と食べる食事なんて美味しくもない。例え家族でなかったとしても、周囲に誰かがいる環境というのは脳にも良い刺激になる。 何より父の場合は、自分で動けない訳だから、食事の度に車椅子に乗せてもらえるという事は、リハビリ以外で動く機会が得られるという事だ。 リハビリが億劫であったとしても、食事という、人間が睡眠に次いで本能的に欲する欲望、その所謂「食欲」によって、動く機会、意欲が得られる。 これまでの急性期病院での生活と違い、日中に散りばめられた1日3回のリハビリ。父がその生活スタイルの激変に、疲労困憊していても、食事となれば意欲が出るというものだ。 前頭葉が壊れてしまった父にとって、食事はとても強い欲求だった。動く機会の原動力としては最高であろう。 また更に、私は担当看護師に早速こう告げた。  「高次脳機能障害で、重度の認知症、一本足で高齢者という問題だらけの父ではあるが、施設に任せるつもりはない。 私の住む自宅を改修し父と共に暮らす所存である。 だからこそ、私一人で介護ができるように、リハビリを行って頂きたい。私の身体も若くはない。 軽介助で車椅子移乗できるように、 それを目標にリハビリ、 宜しくお願い致します!」

  • 12Aug
    • ⑲移送

       急性期の病院にお世話になって2か月。いろいろあったけれど、ようやく転院の日を迎えた。その昔、母を病院移動させる時は、親切に案内してくれるスタッフ等いなかった。 今は便利になった。 世の中には介護タクシーなるものが存在している。 介護タクシーとは車椅子やストレッチャーのまま乗り込めるタイプのタクシー。事業所によっては介護職員が介護することで乗車する、普通の車で行っている介護タクシーもありはするが、一般的には前者が多い。 車椅子での乗車は出来ても、リクライニング式車椅子やストレッチャーでの乗り込みが出来る車で介護タクシーを営んでいる所は限られる。 我が華桔梗ではどんな方でも受け入れできるよう、マルチ対応な車を用意している。また更に、酸素吸入しながらの移動や、特別な配慮が必要な患者であっても看護師が在中していることで対応が可能であるところが華桔梗の強みである。 問題は父を何で移送するかであった。「何で」とはつまり、車椅子かストレッチャーか、という点と、「誰所有の」という点である。まず先の車椅子かストレッチャーかという点で語るなら、その時の父の現状でいうと、車椅子に座位出来る程上半身が安定せず、ストレッチャーに大人しく仰臥出来る程認知レベルがないという事である。 父は高次脳機能障害という重度の認知症を抱えている。それ故、様々な指示は入らない。ストレッチャーで横になった状態で約30分、大人しくしていられるかというと無理であった。 では車椅子はどうか。 前述したようにリハビリがそんなに進んでいない状態での転院であり、長時間の座位保持が難しい。褥瘡もまだ深いものが残っている。特に認知レベルを考慮すれば、前に倒れ掛かって転倒の危険さえある。 次に、後者の誰所有かという点であるが、転院先の病院が先に車椅子でも提供してくれるはずもなく、また入院元の病院が貸してくれることもない。 自宅で使うのであれば介護保険の福祉用具の貸与というサービスを利用すれば車椅子など一カ月数百円で借りられる。しかし父の場合転院であり、自宅に帰って車椅子をレンタルするのはまだ当分先の話である。 リアルな医療現場ではこのような問題があることを知っていたからこそ、我が華桔梗では介護タクシーとして、入院患者家族が安価で借りられるようにストレッチャーも車椅子も常備しているのである。 しかし父の場合はそのどちらにも問題があり、何で移送するかを考える必要があった。理想的なものはやはりリクライニング式の車椅子で角度を自由に変えられるものが良い。状況に応じてフルフラットに出来ればなお安心である。 こうして父は華桔梗の介護タクシーによって無事転院移送が完了したのであった。大きなリクライニング式車椅子を乗車させても2名の家族や荷物も運べる介護タクシー華桔梗。 皆様どうぞ宜しくお願い致します!

  • 05Aug
    • ⑱協議

       さて、こうして晴れて(?)父は一本足になりました。 ベッド上での生活は相変わらずではあったけれど、毎日のリハビリで関節の可動域は拘縮(固く固まって動かなくなること)を免れ、ベッド上での筋力訓練で足の筋肉もかろうじて残っていた父。 一本だけの話だけど。 そうなると次の段階では、如何に移動するかになってくる。救急搬送された病院で過ごした期間は約2か月。 あっという間だった。 だけど、脳卒中の場合重要且つ長期間に亘るのはむしろこれからの、「その身体で生活するためのリハビリ」な訳で。 そうなると、リハビリ専門の病院に移る方がいろいろ良いことがあるのです!例えば、急性期の病院は治療することに重きを置いているので、リハビリは二の次。また、制度の関係で、2カ月以内に回復期病棟への転院ができれば、リハビリの回数がまるで違う!  ここが多きなポイントであります! 急性期の病院は治療が終われば退院しなければならない。自宅に帰れる状態でなければ転院となる訳だが、 皆様、病院というところが全て同じではないのです! 個人病院、総合病院、それだけの違いではないのです!自身で分からなくても大丈夫。近頃はたいてい大きな病院には必ず連携室というものがあり、そこには専門知識を持ったスタッフが必ずおります。但し、重要なことが一つ!本人が無理なら家族でもいい、自らの意思や希望を自分発信で伝えること! 以前にも述べたが、急性期の病院は非常に大きな組織である。大きな組織だからこそできる治療や検査がある一方で、大きいからこそ個人責任が問えない部分があり、マンツーマンで最後まで付きっきりで導いてくれる人等いない。だからこそ、患者発進でああしたいこうしたい、これは出来ないか、こうなら出来るか等と、どんどん探っていくべきなのである。そうでなければ全てが受け身になってしまい、その結果に満足できればいいが、出来なかった時に訴訟になるのだ。 父の場合、私は早くから自宅復帰を申し出ていた。施設に入れるなんて恐ろしくてとてもできない。だって父を人に任せれば、担当者の良し悪しで下手すれば寝かせきりにされてしまう。介護は肉体労働で、その人にとって本当に良いことをしようと思えば、介護する方は汗をかく程に疲れるのである。それでもそれを強いてやれるとしたら・・・ それはその人の心が如何に美しいかということである! 病院では家族と担当医師と看護師と連携室のスタッフで、今後についての協議がなされた。私達が望むことはリハビリをしっかりやれる場所。父の場合酷い褥瘡(床ずれ)もあったので、褥瘡も診れる医師のいるところ。協議の結果、病院が決まった。次にそこに移るための条件がクリアできるかの協議。全てを打合せ、その目標に向かって病院側に協力してもらうのである。 病院側へ意思や希望を伝えることはとても重要な事なのである。

  • 29Jul
    • ⑰左足

       余談かも知れないが、ここで切断された左足がその後どうなって処理されるのかについてご説明しておこう。 病院で医師の手により切断された左足は、適切に処理しなければ大事件になってしまう。お分かりのように、人の生身、肉体の一部なのだから、発見場所が場所なら殺人事件。しかし病院では、そうそうめったにないとはいえ、手術によってやむを得ず手や足を切断することはあるわけで。 通常のように、まだまだ多い病院で迎える死。患者さんが亡くなって、ご遺体となったなら、医師により死亡確認、死亡診断書が出され、霊安室、あるいは葬儀社の搬送車にて死亡退院し、自宅か葬儀社で葬儀を終えて、火葬、埋葬。これが一般的である。 しかし父の場合、ご遺体ではなく、左足。切断した病院からは、一応どうするかと聞かれます。家族の同意が必要だから病院は必ず意思を確認。 嫌、持って帰ります? 無理ですから~ 実は方法は二つ。家族が持ち帰って、火葬場で焼いてもらう方法。もう一つは病院お任せコース。 そこは迷わず病院お任せコースでしょう! お願いしますの一言で、書類に著名。後は業者が火葬場に運んでくれて、火葬場の人が焼いてくれて。あ、一応、灰はどうしますか?ってことも確認してくれます。 要りません!こうして父の左足は無事適切に処理されました。処理費用七千円なり。 父の左足処分について姉と話したが、切断した身体の一部を家族が持ち帰ることってあるんだろうかって。きっと見えないようになってはいるであろうけど、火葬場まで運ぶにしても何だかね... 病院任せになんてしない、火葬場までも私の手で!なんて思いからかな?ま、姉も私もドライなんで、そこは迷わずお任せでした。火葬場で焼いてもらった後の灰について、いる?記念にとっておくのかな?何の記念?海にまいたり、ツボに入れて飾っておくとか?父が自分の意志で決断できる状態だったら、きっと取っておきたいといっただろうな。何でも几帳面にとっておくタイプの人だったから。小さな壺とかに入れて、儂の左足じゃとか言って、知人が来るたび見せて話す。絶対やりそう!ま、私の頭はもう一本足になった父の介護の事しかなかったから、失った左足そのものの追憶なんてどうでもいい話で。姉と二人、要らんね!即決でした。

  • 22Jul
    • ⑯切断

       その日は父にとって、嫌、私達三姉妹にとっても記念すべき日であったろう。左足の切断手術を担当するのは整形外科の医師。切断の手術前後にだけ関わる。いきなり表れて淡々と手術の説明をする医師。わかっている。彼にとっては単なる依頼された仕事の一つに過ぎない。自分のしなければならない仕事をするのに、患者家族の心情など関係ないのかも知れない。でも…その冷静さは、何だ?何なのだ?全くの初対面で、その医師の人柄なども全くわからない。本当は心優しい方なのかもしれない。その日はとても忙しく、早く仕事を済ませたかったのかも知れない。にしても、これから貴方の手によって、私の父は左足を失うのです。この場所が病院でなかったら、貴方が医師ではなかったら、世間を震撼させるような凶悪犯罪ではないですか?医師にとって、看護師であってもそうかもしれない、人の命の尽きる様を目の当たりにして、いちいち泣いて悲しんでいたのでは仕事にならない。手術の内容によっては患者の手や足を切断しなければならないこともあるだろう。日常業務の中で人の死にも身体を切り刻むことにも慣れ切っているのかもしれないが、患者家族にとっては、皆、それが初めての経験であることを、とても衝撃的な出来事であることを、どうして理解してくれないのか。せめて一言、「出来るだけご負担のないように手術させてもらいますね。」とか、「出来るだけ綺麗に縫合させてもらいますね。」とかというように、悲痛な患者家族の気持ちを労わる様な言葉かけをして欲しかった。その一言があれば、例え父の身体が人体実験のように、めったにない切断手術の教材となっていたとしても、家族はそれを微塵にも感じないであろう。外科医になるために、医師達がどんな経験をしているか、私はとある外科医本人から聞いたことがある。その話を聞けば、外科医が殺人鬼との違いを保つのであれば、人を労わる気持ちを決して忘れてはならないと思う。命の大切さや、家族の想いに心を寄せることは医師として何よりも大切なことだろう。かくして、父の左足切断手術は淡々と終わり、病室に戻ってきた父には確かに左足がなかった。とても短くは残っていて、その部分を見つめては、大腿骨も切ったんだな、とか、先端部はどんな風になっているんだろう、麻酔が切れた時激しい痛みは感じないんだろうか、などと考えていた。明らかに大きく足の長さに開きのある父の姿を見つめながら、もう歩くことは完全に不可能だろうと感じていた。そしてその後のQOL(生活の質)について、何処にゴールを定めるべきかと思案する日々であった。

  • 15Jul
    • ⑮決断

       私達三姉妹は電話で数日話し合い、父の未来について想像したり、様々な状況を想定して天秤にかけたりした。 もし仮に左足の褥瘡が感知するとして、それには一体どれくらいの時間がかかるのか。半年か、一年か。わからない。それより短期間でない事だけが確実な事実だ。そしてまた、もし仮に完治したとして、その左足が一体どこまで動くのか。脳外科の医師からは後遺症として左半身麻痺が残ると言われている。首も右にばかり向いてしまうし、左側には意識も行きにくい。確実に左半身麻痺の強い症状が出ている。 因みに私は看護師であったが、姉は臨床検査技師、妹は歯科衛生士である。亡くなった母が自身も看護師だった訳だが、私達三人も全て医療系へと育てていったのである。おかげで今こうして母亡き後でも、父の一大事に皆で知恵を絞れるというものだ。 父の左足を切断したとして、装具は作るのか。歩行はどうするのか。排泄は?車椅子生活?いろいろ考える中で、私達を決断させたのは、母が亡くなってからの父の言動であった。 母が亡くなって父は毎日寂しい思いをしていた。広い家にぽつんと一人。話し相手は一方的なテレビだけ。だから早く逝きたいというかと思えばその逆で。父は母の死を目の当たりにして、母の死後、死がこれまで以上に怖くなったようであった。口癖は「死にたくない」の一点張り。近所の内科に足しげく通っては、薬を貰い、点滴に通い。どこか調子悪ければ、直ぐに診てもらって紹介状をもらって。大きな病院に行って即検査。そういう通院にはいつも付き合わされたものだった。 そう、父は死にたくないのだ。 父が一番望んでいることは、死への回避。ならば今、ボロボロの左足を抱えていることはきっと父の意向に反することではないか。もし、父が左足の切断後に、その事で私達を責めたとしても、父の命を最優先に考えた結果だと説明すれば納得もしてもらえるかもしれない。 だから私達は決断した。左足を切断しようと。 そして医師に告げ、病院は淡々と切断手術の段取りへと入っていくのだった。 この決断が間違っていたとは言わない。むしろ、重度の認知症で自分自身を悲観することさえ出来ない父にしてみれば、この決断はむしろ正解だったと言えるだろう。 お荷物を切り捨てたおかげで全身状態は格段によくなり、安定もしてきた。 でも… でも今、懸命で、日々継続的なリハビリによって、多少の機能を維持する左手を見ていると、もしも今父に左足があったなら…と思ってやまない。 片足で生活するその不自由を、身をもって体感している私としては、この時の決断を本当に良かったのか…と今でも思い悩む日々なのである。

  • 08Jul
    • ⑭選択

       人生には様々な選択が訪れる。 仕事を辞めるか続けるか。右に行こうか左にしようか。どちらにせよ、自分のことは決めやすい。難しいのは誰かの事を当人に変わって選ばなければならない時だ。まして、本人が認知症で自身の考えを伝えられないとしたらなおさらである。 父は難しい選択を迫られていた。左足についてである。父の褥瘡は前述してきたようにかなり酷いもので、左足の脹脛は筋肉組織が見えているほどであった。来る日も来る日も皮膚科集団の褥瘡処置は行われる。食事が開始になって、流動食から普通食軟飯軟菜レベルになっても、それとこれとは関係なく、待てども待てども包帯の量は一向に減らなかった。 そんなある日のこと、医師集団からの提案。 左足を切断しませんか。 医師の説明はこうだ。  左足の褥瘡があまりに酷く、このまま洗浄処置をしていても、元のように綺麗に組織が盛り上がってくるかわからない。もし仮にそうなったとしてもとてつもない時間がかかる。その間、そこからの感染により命を落とす可能性もある。だから問題の左足を切断してはどうか。 左足を股関節から10cm程残して切断するというのだ。それで毎日の皮膚科集団の洗浄処置はなくなる。感染症のリスクもなくなる。左足と共にね。 私達三姉妹は、直ぐに家族会議。医師達には暫く時間を貰った。妹は大阪だし、私達姉二人は忙しい日常を抱えているしね。  問題は父が何を望むのか。左足を失えば身体障害者。父はそれに耐えられるのか?片足を失えば歩行はどうなる?排泄時のトイレはどうなる?父は?父ならどう選択する?私達三姉妹はそれぞれ意見し合い、迷い、様々な憶測で父の未来を想像しては悩み合った。もしこれが母だったら?父のこの選択、母ならどうする?元々左半身麻痺は残るだろうと言われていた訳だから、このまま左足が残っていても、以前のようにスタスタ歩くことは出来ないだろう。だがしかし、例え動かなかったとしても、立位保持の為のささやかな補助にはなったであろう。自身の体重を左右の足に分けて支える訳だから、男性らしく立位での排尿も可能かもしれない。それに対して、左足を失えば、片足での立位保持。そりゃ高齢者には無理ですわ。「排尿は洋式便器に着座して」が必須となるだろう。義足を付けたり、松葉杖を突いたりして歩行が可能だろうか?父の認知レベルでは不可能であろう。つまり左足を切断するという事は、その後の一生、車椅子生活確定という事なのだ。こんな大事な決断を本人でない私達がしてもいいのか?嫌、本人に冷静且つ知的で正確な判断能力がないのだから仕方がない。とは言え、こちらにしますと簡単には言い難い選択であった。

  • 01Jul
    • ⑬進行

       褥瘡とは本当に恐ろしいものである。同一部位の長時間圧迫によってそれは発生する訳であるが、原因であった圧迫を除去しても、それで全てが救われた訳ではない。  父のように三日三晩同一姿勢で居たならば、救出されて違う姿勢になっても、圧迫が取り除かれて、不潔な状態から清潔な状態に改善されても、一旦長時間の圧迫によって壊れた組織というのは、まるで氷の上に落ちた熱湯のように、じわじわと周りの組織を巻き込んで組織破壊を進行させていく。 それはどこまで続くのか。 赤ちゃんのように新陳代謝が豊富で細胞分裂も物凄い速度で行われるならば、例え壊れた組織がそこにあっても、周りの組織がカバーしてどんどん治癒へと向かっていくだろう。しかし高齢者は、ましてや体力の落ちている状態では、元々代謝も緩慢だし、細胞分裂も必要があっても上手くできなかったりで…組織が治癒して行こうとする速度より組織破壊の方が遥かに早く…父の褥瘡もこうして進行して行った訳である。 ある日の昼食後。私が父に食後の歯磨きを介助していた時のことである。普段は病院のスタッフが担当しているようであったが、その日は時間的余裕があり、私が行うことにした。 父の大変汚れた口腔内を磨いていると、前歯と上唇の間に何やら膿のようなものがある。まるで疣のようにそこにあり、不審に思って歯ブラシで触れると父はとても痛がった。 いつからあるのか? 看護師に尋ねると、把握していなかったようで、医師に報告するとの事であった。それから数日間、看護師による口腔ケアが行われ、私はそれに付き添った。 いったいこれは何なのか? 看護師に尋ねてもわからない。医師からの説明もなかったが、やがてそれが何なのか、皆が知ることになる。 穴が開いたのだ。 皮膚に。 そう、褥瘡の進行によって。 父は三日三晩同一姿勢で居た時、左半身が圧迫された状態だった。顔面も例外ではない。自身の重みによって圧迫が継続され、顔面にも創処置のガーゼがあったのだ。 初めは単なる傷だった。しかし組織破壊が進み、膿となり、壊れた組織が綺麗になくなった時、父の皮膚に穴が開いたのだ。 鼻の下あたり。それは正にあの膿が溜まっていた場所。つまり顔面皮膚の浸潤によって奥へと進んだ組織破壊の残骸が口腔内に溜まっていたという訳である。 穴の大きさは直径5ミリ程度。完全に貫通しており、太いピアスも出来る程である。その光景は家族としてかなりショッキングであった。 医療スタッフの方々も稀にみる事例であった。訪室した医師に相談すると、年齢的に自然治癒は難しいので(自然治癒出来る程小さな穴ではないので)、縫合するとの事であった。 今でも父の顔にはその傷の跡が残る。その傷を見る度に、私はあの穴の開いた父の顔を思い出し、胸が締め付けられるのであった。

  • 24Jun
    • ⑫仕事

       世の中にはありとあらゆる仕事がある。 皆、様々な理由で仕事している訳であるが、大半の人は生活の為に仕事をしているのではないだろうか。 好きな仕事、嫌いな仕事、いろいろあるとは思うが、仕事をしてその対価として給料を貰うならば、可能な限り質の高い仕事をするべきではないか。自他ともに認める質の高い仕事がもし仮に自身の能力不足で提供することができなくても、せめてそうあろうと最大限努力はして欲しいと思う。特に、医療、看護、介護の世界では、その仕事の良し悪しで、人の身体状況のみならず、時には命さえも左右するものである訳だから。  病院で食事セッティングされている父を見た時、時代は変わったなと感じた。 私が年を取ったという事か。 今どきの若い者は…と話したくなる気持ちがわかる。 それは、新人看護師なのか、新人介護職なのか、重度の脳血管性認知症である父の昼食時のセッティング。脳出血の後遺症で左半身麻痺の父である。  ベッドアップはしている。 サイドテーブルもベッド側に差し込んである。 当然その上には配膳された父の食事がある。 だがしかし、それだけである。 父の身体はベッドの屈曲部分と父の腰の位置が合っていない為、頚椎が屈曲位になっているし、サイドテーブルの高さも父の座高からして高すぎる。つまり、誤嚥予防について何の理解もしていない者が行った食事セッティングという事だ。 家族が来るから配膳だけしたのだと言おうものなら言語道断。 ならば何故、サイドテーブルをベッド側に差し込んでいる? 現に父は非常に食べ難い姿勢のまま食事を始めているではないか。 私は父に話しかけながら、説明し、納得してもらってから、食事を中断させ、父の姿勢を正した。 まずはベッドをフラットにして、父の身体全体をベッドの上側(枕側)へ移動。それからベッドアップ。まだ自力で良い姿勢を保てない父なので、背部や首の後ろに柔らかい枕やクッションを入れて姿勢を保持。そしてベッドに食事が置かれたサイドテーブルを差し込む前に、ベッドの高さを調節。低すぎても高すぎても食べ難い。全て整えてから食事を再開してもらった。 ほら、食べやすい。 それは口への運びの速度、食べこぼしの数、飲み込む速度等から見て取れる。 仕事の調整がつかず、昼食の開始に間に合わなかった途端にこの始末。 配膳して、食事セッティングしてと言われたので、やった? それはそうだ。確かにそれも仕事だ。言われたことをやっていない訳ではない。しかし、一口に食事セッティングと言ってもその相手が誰なのか、つまり誰の食事セッティングなのかでやり方は変わる。 配膳にしても食事セッティングにしても、嫌、それだけではない。トイレ誘導にしてもおむつ交換にしても、それが誰の介助なのかでやり方は多種多様である。 その患者が安全に安楽にその行為を行えるか、そう自分で考えて最善の方法を取る。 それが仕事の質というものだ。

  • 17Jun
    • ⑪誤嚥

       父は初め、絶飲食であった。脳に障害を起こし、意識もない状態であった訳だから当然である。 意識が戻り、全身状態が落ち着いて、ベッドアップの許可が出れば、次は飲み込み確認して食事が開始される。いきなり普通の食事は出さない。液体に近いものから徐々に固形物に戻していく。重要なのはその進め方。つまり飲み込み確認しながら続ける事である。  この時期の父は自分では食事をすることもできないので、当然介助者による食事介助を受ける。 この時、食事介助する者が誤嚥予防に関する正しい知識を持っているかどうかは非常に重要なポイントである。 病院だから、看護師だから、介護福祉士だから大丈夫という事は決してない。担当した者その人が正しく行えたかどうかが問題である。介助が不適切だと患者は誤嚥する。誤嚥とは食物等を誤って気管に流し込んでしまうことである。 それの何がいけないのか? 健康な人でもお茶で噎せた事があるのではないかと思うが、気管は食物を消化させる場所ではないので、当然身体は拒絶反応を起こす。それが咳嗽反射。つまり咳き込むという行為。しかし、高齢者ではその咳がないこともある。 高齢者は加齢によりあらゆる反応が緩慢であるからだ。 そうして気付かぬ内に誤嚥を繰り返し、熱を出す。誤嚥性肺炎である。現在でも高齢者の死亡原因に肺炎はかなり上位に上ってくる。様々な要因が肺炎には考えられるが、この誤嚥性肺炎もその一つであり、体力の乏しい高齢者であったなら、それが死因となるのである。 父は流動食(ドロドロした液体状の食物)開始後数日で熱が出た。タイミング的に誤嚥を疑った私はすぐ病院に出向き、食事の様子を観察した。 やっぱりだった。 姿勢。 正しく飲み込むには姿勢が重要である。約一月の絶飲食により、ただでさえ飲み込む動作を忘れかけているであろう父に対して、ベッドアップしてはいても、頚椎を屈曲位にしていては、飲み込める物も飲み込めない。 これは任せておけないな。 私は家族として病院側へ誤嚥性肺炎の疑いについて打診した。病院はすぐに父の流動食を中止。レントゲン撮影、抗生剤点滴を経て、食事が再開される時には毎回のようにSTが介助してくれた。STとは言語聴覚士という資格を所持したリハビリ部門の職員である。幸い担当してくれた方は確かな知識と技術の持ち主で、安心できた。しかし、一日3回ある食事の全てをSTに介助してもらえるわけもなく、私は姉と相談し、食事介助を分担で担うことにした。食べることは生きること。生きる為に食べるその行為で、誤嚥性肺炎という死因を作ってはいけない。仕事が忙しくても時間を作って病院へ出向き、食事介助をした日々であった。ナースステーションから遠く離れた個室で食事セッティングされている父を見た時、ゆとり教育の弊害か、家族がやらねば父は死ぬ、そう思った瞬間であった。

  • 10Jun
    • ⑩信号

       人の身体は不思議である。身体だけではない。脳はもっと不思議だ。現在でも解明されていないことは沢山あって、依然謎に包まれている。だからこれは私の持論であり、いつの日か誰か博識な学者達が学術的な裏付けのもと立証してくれるのだろうと思う。 脳信号は一方向のみではない。 人が身体を動かす時、脳が電気信号を送り、身体を動かす。でも実は身体を動かすことで脳へ伝わる信号もある。と感じている。 父は、ベッド上で脳活動そのものも乏しく、家族の顔もわからない状況だった。全身状態が悪く、体力的にも厳しい中で、自分でリハビリを実施することは不可能。でも自身は眠っていても、脳活動的に乏しくても、誰かが手を動かせば、脳へは手首の関節が動いた刺激が伝わる。と思う。だから、父への身体的リハビリは、確実に脳への刺激に繋がっていると感じる。 現に父の状態は、私達が関わり日に3回身体を強制的に動かされる日々の中で、目覚ましく改善されていった。ベッド上での生活に変わりがなくても、覚醒している時間が徐々に長くなり、私達家族のことも理解できるようになっていた。時に間違い、時に名前が出てこないこともあったが、数日前のずっと眠ったままの父であるより百倍良い。  その頃の私は父の脳が目覚めてきたと感じていた。そして更に目覚めさせるには何が必要か考え、主治医の許可を得て、ベッドアップ座位から端坐位(ベッドの端に足を垂らして座る格好)へと試みることにした。 脳は不思議である。地球の重力の関係なのか?横になっていると元気な人でも眠くなるし、反して、体を起こした状態ではなかなか寝付けない。つまり姿勢と脳の覚醒状態は密接な因果関係があると言える。その証拠に父もベッド上で横になったままリハビリするより、ベッドアップしてリハビリを実施する方が、格段に反応が良い。目は開くし、発語も多いし、意欲も出ていた。 意識がなく、話しかけても反応のない人に対して、人は虚しさを感じるかもしれない。けれど理解してほしい。脳への刺激はないよりあった方が断然いいし、その刺激はどうせあるならより強く、より頻回にある方が良いのだ。脳から電気信号が送られるだけでなく、末端から中枢へ送られる信号もきっとある。だから諦めないで刺激を与えて欲しい。  いつの時代もどこの国でも奇跡と呼ばれる事例を起こすのは家族の愛である。医療従事者は仕事をしている。その仕事は日々忙しく、一人の患者に割ける時間は限られており、その様な環境で実践できるリハビリや看護には限界がある。だからこそ、そこに家族の出番が必要なのだ。割ける時間があるのなら傍に寄り添い、家族発進でスタッフに何をするべきかを問い、できることをやる。 知識がなくても大丈夫。知識は医者から借りれば良い。 身体を動かすことで脳を目覚めさせる。末端からの信号を私は信じている。

  • 03Jun
    • ⑨遅延

       父の褥瘡があまりに酷く、あまりに広範囲であった為、当然ながら父の左半身は包帯だらけ。傷の上に触れようものなら、父は強く抵抗し痛みを訴えるのだった。こうなると困るのはリハビリ部門。脳外的にはリハビリの指示は出ているが、皮膚科的にどこまでリハビリが可能なのかがわからない。 大きな組織というのは、時に不便である。専門医同士、スタッフ同士の連携が上手くいかないことが多々あるのだ。父の場合もそうであった。病室で、待てど暮らせど積極的なリハビリが行われることはなく、ベッド上にただ横たわったまま時間だけが過ぎていった。この時、私の脳裏に浮かぶのは、 このままでは関節が拘縮してしまう この刺激のない生活では脳の後遺症がなくても認知症が発症進行してしまうというものだった。 リハビリの遅延というものは恐ろしい。適切な時期に適切なリハビリが受けられないと様々な二次災害が起こってしまう。例えば、高齢者が体調を崩し床についてしまったとする。病院や施設ではこんな時安易に尿管カテーテルを挿入し、排泄の煩わしさを解消する。が、しかし、それはまさに頻回にトイレに行く必要がなくなるという訳で、その高齢者の必要最低限動くという機会を奪うことに繋がる。この間に足関節が拘縮して尖足という状態になってしまえば、(尖足とは足首がバレリーナのようにつま先を伸ばした形で固まってしまった状態のこと)その高齢者は二度と歩くことは愚か、立つことさえ出来なくなる。この事例は他院で実際にあった現実である。臥床中に関節可動域維持のための訓練を得ることが出来ていれば、この高齢者は体調が戻った後でゆっくりと歩行訓練に繋げることが出来たものを、本当に居た堪れない思いである。 さて、父の場合家族は私だ。黙って病院側のしてくれることを待っている訳がない。病室に居れば脳外の主治医も皮膚科の主治医も訪れる。それぞれに何に気を付ければいいか、何処まで許されるかを聞いた。リハビリの指示はどう出ているのかまで。 そして私は実践した。 後遺症で右ばかり見てしまう父の首を左に動かすリハビリを。痛みと包帯で動かせない左腕の、肩を動かす、肘を動かす、手首を動かす、一つ一つの指を動かすリハビリを。同じく左足。膝を動かす、足首を動かす、足の指を動かす。 私は皮膚科の処置の時、申し出て父の褥瘡処置に同席させてもらった。どこにどの程度の傷があるか知るためだ。そして包帯の上からでも傷でないところがどこかを把握した。包帯だらけの父の左半身でもこれでリハビリが実施できる。  リハビリ部門にいつのいつ頃、つまり、平日は、休日はというようにリハビリの実施時間を聞き、姉と協力し、一日に姉と私とリハビリ部門で3回リハビリの時間を作ることにしたのだった。

  • 27May
    • ⑧褥瘡

       幸いにも父は、とりあえずの命は取り留めることが出来た。 手術は必要なく、脳出血に対しては保存的治療のみで経過をみることとなった。 極度の脱水状態で、一時的に腎機能も悪くなり、透析が必要な日々も暫く続いたが、やがて危機を脱出し、父の全身状態は少しずつ良い方向へ向かっていった。 父は左半身の麻痺と脳の前頭前野の機能障害が脳出血の後遺症として残った。 通常であれば離床訓練は医師の許可を経て、翌日から進められ、一日も早く車椅子に乗り、一日も早く歩く訓練をという風にリハビリが進められる。しかし父の場合、そう簡単にはいかなかった。 褥瘡である。 褥瘡とはいわゆる床ずれの事で、父の褥瘡はかなり酷いものであった。 この褥瘡は病院到着後に発生したものではなく、三日三晩自宅のトイレにて同一姿勢で身動き取れなかったために発生したものである。 父を実家のトイレで発見した時、父の身体に褥瘡はなかった。しかし褥瘡の発生要因は、父の体内で夥しい数ほど蓄積されていたのだ。加えてその衛生状態の劣悪。  病院の清潔なベッドシーツのその上で、父の褥瘡はじわじわと進行し、ついにはその正体を現した。 左頬。左肩。左上唇。左上腕。左前腕。左手背。左臀部。左大腿。左下腿。左足背。 父は、左側が殆ど全て包帯だらけだった。特に一番酷かったのは左下腿で、壊死が進み、筋肉まで見えてしまっていた。 皮膚科の専門医もその処置の多さ、程度の酷さに圧倒されていた。 彼らは毎日父のその全ての包帯を解き、洗浄し、消毒し、治療薬を塗布して再び包帯で覆うのだった。何人も医師や看護師が同時に訪れて、皆で一斉に処置を行う。 父は正真正銘、その病院の一番の重傷褥瘡患者であった。

  • 20May
    • ⑦対応

       病院の救急処置室。 家族は廊下で待たされる。 何分も何十分も待つ間で、時折看護師が廊下へ出てきて書類の説明、検査の説明、今の状況今後の予測等々話してくれる。様々な検査がされた後、最後に医師が登場して、病状の説明をする。 父はやはり脳出血であった。 ゆっくりとじわじわ滲み出る様に出血した為、おそらく三日間放置という過酷な状況にも耐え得ることが出来たのだろうと医師は語った。しかしもう数時間遅かったなら、危なかったとも。 病院では姉とも合流し、私は事の次第を説明した。父がそんな状態で発見されたことに姉も大変驚いていたし、発見したのが看護師であった私で良かったと姉は話した。 そうであろう。 父のあの状況を目の当たりにした時、誰もが冷静で居られるとは思えない。慌てて救急車を呼ぶ人が殆どだろう。汚れている周囲をどうすればいいのかさえ、頭が回らないだろう。 大変な状況にある時、如何に冷静で居られるかは大事なポイントではなかろうか。慌てたり、頭が真っ白になっていたのでは、事は解決しない。 二十歳の頃から看護師として患者さんの死に直面してきた私は、医療とは無関係の世界で生きる人々に比べ、死に対して慣れてしまっている。 覚悟が出来ていると言うべきか。 母の時、その悲しみは、壮絶な喪失感は予想を遥かに超えたけれど、乗り越えて、今がある。 そしてこの時の私が思ったことは、次はまた父の死を迎え入れなければならないかもしれないという事であった。

  • 13May
    • ⑥救命

       救急車を呼ぶ。 もう何度目だろうか。 母の時にも経験がある。慣れたものだ。電話をすると呼び出し音が短く鳴って、「はい。119番です。火事ですか、救急ですか」と、毎回必ず第一声は決まっている。いざ再びと電話を手に取り考えた。 この状態で救急車を呼ぶとどうなるか。 父は服は着ているが、排泄物でかなり汚れているし、運び出す救急隊員の方々の衣服も汚してしまう。それに救命の為に一分一秒を争う彼らは時折土足進入である。今現在の実家の被害はトイレ内で留まっているが、救命の為とは言え土足で歩かれるときっと被害は広がるだろう。また父のこのような姿を他人様にさらしたくもなかった。 私は電話を置き、腕をまくり髪を束ね、ゴミ袋とハサミと要らないタオルを何枚も用意して、父の元へいざ出陣したのである。 まずは足場を整理して父に近づけるようにしなければ。タオルを何枚も使い、迷わず使い捨て、とにかく足場を綺麗に掃除。父の衣服は躊躇うことなく切り刻み、脱がせて捨てる。お湯を使ってタオルを濡らし、父の体に残っている排泄物は綺麗に落とし、ほぼ裸状態の父の体に大きなバスタオルをかけた。「火事ですか、救急ですか。」「救急です。」 119番にかけると先方の語り口は決まって簡潔だ。そして必要な情報のみを質問してくる。かけた方はそれに答えるだけで良い。 実家から消防署まではとても近い。5分で彼らは到着した。必ず3人でやってくる彼らはそれぞれが機敏に動きながら、決まった一人が状況について質問する。私も慣れたもので回答も簡潔。発見時の状態。最後の連絡状況、関係性。  外ではご近所の方がどうしたのかと集まりだし、遠くからこちらを眺めている。救急車に乗り込み、実家を後にすると思いきや、車はなかなか発進しない。実は良くある事で、彼らは搬入先の病院を探しているのだ。状況からして脳外科の対応が可能な病院。しかも救急受け入れの出来るところ。当然その日の救急当番病院の中から選ぶことになるわけだが、選んでもその病院に断られることも多々ある。父の場合もそうで、救急隊員からは、「救急当番病院ですが、脳外担当医が不在とのことですが行きますか。」と告げられた。明らかに脳専門医が診ないと正確な判断や治療が出来ないというのに、その専門医がいない病院へ行ってどうする。 私は即座に、「○○病院に行ってください。父は昨年から通院しています。簡単な手術もしました。継続的に通院している総合病院なので脳外科も大丈夫なはずです。」 こうして父は無事脳外専門医のいる病院に行きつくことが出来た。父の後、同じように専門医を求めて救急搬送の依頼が同病院に来たそうだが全てを受け入れることもできず、早い段階で受け入れてもらえた父は誠にラッキーだった。 救急隊員の迅速な救命処置も、最適な受け入れ病院がなければ水の泡となってしまう。救急車を呼べば必ず助かるという保証はない。これが当事者達だけが知っている救命救急の悲惨な現状である。

  • 06May
    • ⑤衝撃

       その電話は例の知人からだった。 父のかかりつけの病院から電話があり、自宅へ行ったが鍵がかかっていて入れなかった。月曜から病院に来ていないらしい。  私はすぐさま実家に向かった。 鍵を開け、中へ入ると異臭がした。リビングダイニングに父の姿はない。即座に最悪の光景が脳裏をよぎった。部屋の様子も何だかおかしい。訪ねたのは平日の午後なのに部屋の電気はついていた。開けられたままの引き出し。床に転がった携帯電話。片足だけあるスリッパ。蓋の開いたお酒。床に置かれたコップ。 私は恐る恐る異臭の強くなる方へ向かった。廊下も洗面所も全て電気がついている。そしてトイレも。 凄まじい異臭と共に私は父を発見した。 父はトイレで倒れていた。洋式便器と壁の間に体が挟まったような形で。左足は正座したような形。右足は投げ出している。左手は便器と便座の間に挟み込んでいた。 異臭は父の排泄物だった。失禁に脱糞。そして父は鼾をかいて眠っていた。父は元々大変大きな鼾をかく。普段から鼾はかくが、お酒を飲むとその鼾はまた格段に大きくなる。そのことを知っていた私は、数日前の知人の件がとてもショックで許容量以上のお酒を飲んでしまっての醜態だと思った。過去の経験からお酒の飲みすぎで失禁や脱糞をしてしまう人もいることを知っていたので、父のこのような姿は初めてであったが、父のこの姿もお酒のせいだと思ってしまったのだ。 リビングでは床に置かれた父の携帯電話が鳴った。携帯を見るとかかりつけの病院からだった。代わりに出て、何度ももしもしと言ったが、先方には届かなかったようだ。向こうからも何度ももしもしと聞こえている。私はやむなく自分の携帯からその病院へ電話をかけ、大丈夫だと答えた。 病院は朝から何度も電話をかけていたと話した。電話はつながるのだが話しても声が聞こえないので心配したとのことだった。まさに今の状況だ。電話が壊れているのかと思った。そう言えば数日前に父から電話の調子がおかしいと聞いていた。また修理の件でこき使われるな…と呑気に考えながら、父の救出に時間がかかるので私はいったん戻り、子供の事を親戚にお願いし、主人にも連絡したうえで、作業服に着替え、再び父の元に戻った。排泄物を片付けながら父に近づき、声をかけると、父ははいと返事をして、目を開けた。ドキリ。その瞬間、私は自らの過ちに気が付いた。思えば片付けた排泄物は昨夜のものにしては乾燥し過ぎている。異臭も昨夜のものからにしては酸化臭が強すぎる。何より声をかけてわかった、父の目。焦点が定まらず左目だけ斜視になっている。やばい。脳だ。私は姉に連絡し、状況を説明。救急車を呼ぶことにしたのだった。今でも脳裏に焼き付いている。あの惨状。まさに衝撃的な映像だった。

  • 29Apr
    • ④奪還

       私はまず、父が暦に書き込んでいた、金額らしき数字とその横に書かれた返と貸の文字を頼りに、姉と協力して父のお金の動きを追った。驚いたことに記録を時系列で見てみると、一万円返しに来てその翌々日に2万円借りて、その翌日に二千円返して次の日には五千円借りている。 それ、貸してる金額、増えてますけど? 高齢の父ならわけわからなくなって、借りた金額をごまかすことが出来ると思ったのか。どちらにせよ、借用書を書いてまとまった金を借りる場合と比較して、このような借り方は、そもそも返す気などない人の借り方だ。 姉と二人して、貸したお金はもう返ってこないと父に話した。すると父は急に青ざめ、 そんな金額やない。桁が違う...と、2年も前からお金を貸していたことを話し始めた。 父は母が亡くなってから何かと世話になっていた知人に金銭的支援を求められ、まとまった金額を貸したという。借用書はない。返済は決まって現金でもってきて、自分で銀行口座に入れていたという。体調を崩し、自分で歩きづらかった時、付き添ってもらって、ATMで操作してもらったことがあると。おそらくこの時に暗証番号を記憶されたのだろう。簡単に人を信じてしまう父も甘い。 それから病院へ付き添いをしてもらったとき、点滴中危ないから持っていてあげると言われ、キャッシュカードが入った財布を預けたことがあるとの事。父が点滴を受ける度に父の口座からキャッシュカードで現金が抜かれていたのだ。 財布を渡してしまう父も悪い。 しかし世話になっていれば、親切心で言ってくれているものを断るのも悪いと思ったのだろう。こうして父のお金は数十万単位で抜かれていた。 そして許しがたい点はもう一つ。 父に借りたお金を返したように見せかけるために、父のいくつかある口座から現金を下ろして、それをさも自分が返済したかのように、現金で父に渡し、父はそうとも知らず、カレンダーに返金と記載していた。 母を亡くした悲しみからやっと立ち直り、一人でも頑張って生きていこうと前を向いていた父を、金銭苦で娘を頼らなければならない状況まで追い込んだ知人が、私は心底許せなかった。時折実家で遭遇したことがあり、顔を知らない訳ではない。 直観的に好きではないと感じた。 自分の嗅覚をもっと信じればよかった。あの時、嫌な予感がしたのだ。実家の台所に平気で上がり込み、自宅のような寛いだ様子で。まるで全てが自分のものであるかのようだった。私の予感は的中していたのだ。良くある話だ。独り身になった男性に金目当てで女が近寄る。 その浅ましさ。吐き気がする。 私は父からその知人の姓名、連絡先、住んでいる場所、親の名前、関係性、全てを聞き出した。そして父の携帯から連絡を取り、実家で話すことにした。 私は無表情でとても冷静に、しかしきっぱりとした口調で、こう話した。「まずは日頃から父が大変お世話になっていることに関して、心からお礼申し上げます。 実は先日父からお金に困っているという相談を受けまして、話を聞いたのですが、貴方にお金を貸していると聞いています。父から聞いた詳細をもとに通帳も遡って金額の照らし合わせをしました。総額365万円です。ここ数カ月は少額現金の貸したり返したりが繰り返されています。この借り方は返す気のある人の借り方ではありません。貴方が父から借りた金額全額をきっちり返して下さるなら、警察への被害届は出しません。どうされますか。」 その人は案外と素直に認め全額返済することを約束した。私はその場であらかじめ用意しておいた借用書に署名捺印してもらい、返済期日についても明記した。こうして、数カ月はかかったが父のお金は無事帰ってきたのである。 今となっては姉と二人、私達がはじき出した金額が貸したお金の総額であったことを祈るしかない。

  • 22Apr
    • ③犯罪

       ある日のことである。父から電話があった。電話自体は珍しくはない。役所や年金事務所等から郵便が届くと、決まって連絡してきて、内容の説明や手続きなどの依頼があったからだ。しかしこの時の電話はこれまでと内容が明らかに違っていた。 生活に困っているという趣旨だ。  父には独居するだけに必要な年金と家があり、亡くなった母も父には十分な生活費を残していた。それなのに、父は生活に困るから私にお金を貸して欲しいと言い出した。 おかしい・・・ 実はこのような電話は今回が初めてではなく、何度か生活に大変だという話は聞いていた。年金生活の中でやりくりするには贅沢は出来ない。しかし父はこれまで母が父にそうしてきたように、ほぼ毎日のように好物の刺身を食べ、晩酌を楽しむ生活をしていた。それなのに、父はここ数週間、お金に困っていると言う。年金の支給額が変動したわけではない。だからこそおかしい。 私は姉にも相談し、親戚の法要の後で父と姉とで話し合うことにした。 そして・・・  父の話をよくよく聞いていく中で、親切にしてくれていた知人からお金をだまし取られていることが発覚したのである。 その額なんとおよそ365万円! 正確な金額はわからないからおよそである。巷に流行りの振り込め詐欺などではない。独居老人にありがちな寂しさと感謝の念を利用した誠に悪質な犯罪である。  悪質という点では銀行強盗や振り込め詐欺より悪質だ。何故ならそれが非常にグレーで、犯罪としての立件も難しく、ともすれば無罪放免になり得る可能性が高いからである。人が人の命を奪うことを肯定する訳にはいかないので、ここで殺人は除外するけれど、その他の犯罪については、誰もが犯罪と明確に判断できるという点では悪質ではなく、潔いと思う。寂しいとか、世話になったからといった感謝の念に付け込んで、年金暮らしの父から金を借り、本気で返す気などないその行為は誠に卑劣で許しがたい。 私の事だ、勿論泣き寝入りなどしない。きっちり返して頂きます!

  • 15Apr
    • ②序章

       平成26年の10月。長年連れ添った母を亡くした父は、寂しさのあまり酒に溺れた生活を送っていた。生活習慣は乱れ、昼間でも部屋を暗くしていることがあった。そのような生活では今後どんな風になるかをいくら説明しても、父は聞く耳を持たなかった。また私自身も幾分致し方あるまいと思うところもあり、強く言うことが出来なかった。ところがある日、そんな不摂生な生活が起因して、父は体調を崩し、思うように歩けなくなった。お酒と臥床時間の超過による下肢筋力の低下が原因である。幸い父と交流のあった知人が病院に同行してくれたり、食事の差し入れをしてくれたりと、様々な面で支えてくださり、数日をやり過ごした。 私はすぐさま近くやって来た3連休を利用して家族を引き連れ実家に赴き、介助なしでは歩けない父を買い物に連れ出した。娘や孫と一緒に買い物に出掛けるなど、これまでの父には全く考えられない事だった。外食も好まない父であったが、この時だけは家族の団欒を楽しみ、買い物の途中で共に食事も楽しんだ。翌日には母のお墓参りに誘い、半ば半強制的に歩かせたのである。共にいる間はお酒を飲むことはなく、家族だからこそ繰り広げられる珍道中を父自身も楽しんでいた。三日目には歩くことに介助も要らなくなり、すっかり酒も抜けてやっと話が出来る状態に。すかさずこれまでの生活、今回の失態、今後の予測を立て続けに説明し、寂しさを酒で埋めても埋まらない、そればかりか二次災害の方が大きいことを身をもって理解してもらった。  思えばこれは今後父に起こる惨劇の序章だったのかもしれない。生活の全てが自立していた父が、高次脳機能障害を持ち、一本足になってしまう事等、この時の私には全く予想出来なかった。年金暮らしの独居生活で、活動性に乏しくあったのでこのままでは認知症を発症してしまうだろうという予測はあったが、今の父の変貌ぶりを考えるとまるで天と地ほどの差。 不幸中の幸いは、父自身が今の自分を悲観的に捉える脳機能を失っていたことである。

  • 08Apr
    • ①前書

      私は今、一本足になってしまった父と暮らしている。父と二人で暮らしているわけではない。実家で一人暮らししていた父を引き取り、私の家族と共に暮らしているのだ。私には、何を考えているのか全く読めない夫と、県外で一人暮らしを満喫している息子、それから思春期真っ盛りの長女に、最近お洒落に目覚め始めた二女がいる。あと、成り行きで飼うことになった雌猫が3匹。これが私の家族だ。しかし今は、その中に一本足になってしまった父も加わっている。昨年の今頃、父は実家で悠々自適に暮らしていた。連れ合いを亡くした悲しみから立ち直り、一人での自炊や洗濯が板についてきていたのに、不幸な事に脳出血を起こし、三日三晩発見されることなく耐え忍び、救急搬送されたのである。そして今、一本足となって、私と、私の家族と共に暮らしている。脳出血により前頭前野を破壊された父には高次脳機能障害が残り、一見穏やかな紳士のように見受けられるが、父には様々な判断能力はなく、重度の脳血管性認知症という後遺症が残ってしまった。褥瘡の為、左足を切断しなければならなかった父。治療やリハビリがなされた後、どこで今後生活するかを考えた時、一般的な選択肢である介護施設という考えは、私にはなかった。何故なら、そこで父が受け入れざるを得ない生活というものが、私には容易に想像でき、高い介護料を払っても、父が父でなくなっていく様を見るに堪えないと思ったからだ。高次脳機能障害を持ち、脳血管性認知症で一本足の父。今日に至るまで、様々な出来事があり、また、要介護認定5である父との生活でも、更に様々な出来事が起こる。私はこの父に関する介護の全てを世に発信する責務を感じた。それは、仕事柄介護に悩む方々とお話しする機会が多々ある中で、皆、経験がないことに苦悩し困惑し、また、辛い現状に妥協している現実があるからだ。周囲の人は私に介護される父を見て、父を幸せな人だという。けれど、父のように看護師で介護支援専門員の娘を持たなくても、父のように暮らすことは出来る。必要なのは知る事であり、頼りになる存在と出会うこと。私にも私を支えてくれる者達がいる。介護保険制度を巧みに利用しながら今があるのだ。だからこそ、介護に苦悩している人々に私は発信することにした。私が知っていること、している事。その必要性、その意義。介護の経験や知識がなくても、知ることで突破口は見出せる。その一助になればとまた書くことにした。母を亡くして本を書き、介護事業を始めた私がその矢先に父がこうなることを、いったい誰が予測できただろうか。私は介護に生きろと天から命じられたに違いない。本気でそう信じている。