もう1年以上になりますか。
私が頚椎を傷めてから。
そう、それ以後父には入院という形で、医療と日常生活の支援を頂いています。
父は医療費が無料となる身体障碍者手帳を持っているので、私は自身の心身への負担のみでなく、経済的にも楽になりました。
今は父の年金の範囲内で支払いが済むからです。
以前、父と一緒に暮らしていた頃は、介護の費用も掛かり、心身ともに疲弊する毎日でした。
皮肉なものです。
主介護者の様々な負担は減り、代わりに生活の質が低下するなんて。
定期的に父には会いに行っていますが、父はいつ行ってもベッドの上です。
一日中、つなぎ服を着せられて、おむつ内に排便してもすぐには変えてもらえない。
私と暮らしていた頃は、排便はまずトイレであったし、おむつ内に排便の場合は発見次第直ちにおむつ交換をしていました。
父には便意や尿意の訴えがありませんでしたが、そのような人に対しても、上手くやれば、快適な排泄コントロールは可能です。
介護者への負担も軽減した方法で実施する事が可能なのです。
ただやるかやらないかという違いだけです。
でも私は今、父を委ねている病院に対して、感謝しかありません。
病院では出来ることとできないことがあるからです。
そんな制約の中で、嚥下や咀嚼が困難な父に対して、ちゃんと食事をとらせてくれている。
最近思うのは、父は今、どんな気持ちなのだろうかということです。
自分の気持ちも語れなくなった父。
私が行っても誰なのかもわからなくなってしまった父。
言葉はどんどん無くして行きました。
ただ、そのように、言葉を失えば心も失う?
そんな訳はありません。
今の状況を父が正確に理解していないことは想像できますが、おむつ内に排便して、肌に便が付着した不快感まで失くしてしまったでしょうか?
いいえ、感じるはずです。
痒ければ痒い場所を搔き、気に入らないものがあれば排除しようと試行錯誤する事が出来るのですから。
ただ、感覚は麻痺していくでしょうから、次第に不快感も薄れていくかもしれません。
問題はそれが介護者によって作られていくものだということです。
高齢者の尊厳、基本的人権、難しい言葉でさも立派な事のように表現されますが、いたって単純に、自分がされて嫌なことは人にもしないということです。
私は年をとって、誰かに援助してもらわなければ風呂にも入れない身体となっても、夫でもない異性に介護と称して裸を見られることは断じて許せないし、介護者が同姓であっても羞恥心は否めない。
だからこそ、そこには細やかな配慮が必要だし、ちょっとした言葉の端々や立ち位置にさえも気遣いが必要なのです。
この1年、主人の急逝も重なり、私は自分の進退について思い悩みました。
頚椎椎間板ヘルニアによる痛みは完治はせず、今も右手にしびれは残り、時には痛みも出現します。
もう以前のように父と共に暮らすことはできないでしょう。
でも父の現状は何とかできないものかと考える。
この6年間で、家族が頑張って在宅介護していても、何らかの要因で施設に入る人たちを見てきました。
時代は金利が上がり、介護負担割合もこの先確実に1割負担から2割負担へと移行していくことでしょう。
それでも自宅で暮らせなくなった人の為に、やはり施設は必要なのでしょうね。
やりますか。
要介護者の健康寿命を延ばせる施設を。
終の棲家計画始動します。
母にはできなかったけど、父には間に合いますように!
ご拝読、誠にありがとうございます。
次回は5月13日です。
宜しくお願い致します。