この世に、こんな衝撃的なことがあるなんて…

 

 今でも、まだ信じられない。

 

 あの人が、もうこの世に居ないなんて…

 

 

 その日、私はいつも通り仕事をしていた。

 

 主人の父から電話があって、出ると、慌てた様子で主人が死んでいると言う。

 

 またまた寝ぼけた事を…と、私は全く信じていなかった。

 

 でもきっと、どこかで倒れて起き上がれないのかもしれないと思って、急ぎ帰ることにした。

 

 運転中、主人の弟からも電話が来て、

 聞いた?あれはだめだよと言う。

 

 いやいや噓でしょ?

 何言ってんの?

 

 そう思いながら、自宅の駐車場に車庫入れしようとすると、既に誰かが入れている。

 

 誰?誰の車?

 

 路駐して、車を降りると、主人の弟が、

 

 見てきて、もう駄目だから。

 

 そういう傍らで、町内の人が、どこかに電話をかけている。

 

 車庫の車はこの人のなんだ。

 

 私はどこにかけているのですか?と言いながら、胸の鼓動を抑えつつ、速足で主人の元に。

 

 救急車。

 

 電話をかけていた町内の人がそう答えている。

 

 そして、私が家奥に入って行くと、そこには布団の中で、冷たく、硬くなっている主人が居た。

 

 もう、救急車を呼んでどうにかできるレベルではない。

 

 それは一目瞭然だった。

 

 警察に連絡しなくちゃ…

 

 110番したのは私。

 

 でも、あまり覚えていない。何を話したのか。

 

 先にサイレンとともに救急車が来て、救急隊員が入ってきた。

 

 私が呼ばれて、蘇生出来る状態でないことの説明を受けた。

 

 そんなこと、貴方達に言われなくてもわかる。

 

 そう、心の中で思いながら、ただただはいと返事していたように思う。

 

 パトカーが来て、警官が来た。

 

 噂を聞きつけて、町内の別の人もやって来た。

 

 この人、完全なる部外者なのに、家の中にまで入ろうとする!

 

 名を呼び、何をする気ですか?と聞くと、宮司の様子を…等と。

 

 部外者ですよね?

 入らないで下さい!

 

 そうはっきり言ったのに、結局この人、家の中まで入った!

 

 何?この人?

 主人の遺体を見たいの?

 見世物じゃないわ!

 とてつもなく失礼極まりない人!!!

 

 そう、この人が主人に町内会の副会長を押し付けた人です!

 

 私の怒りはMAXに。

 

 そんな頃、黒塗りの大きな車が来て、刑事が私に話を聞きたいと言う。

 

 私は開口一番、

 

 部外者を追い出して下さい!話はそれからです!

 

 と言ってやった。

 

 刑事はその人に声をかけ、関係者以外の方はお引き取り下さいと言っていた。

 

 そしたらその人、自分は町内会の役員だというの。

 

 何?だから何?

 役員だと偉いの?

 

 こんな時に、人の家に勝手に入る事が出来る程、偉い立場だとでも言いたいの?

 

 貴方、主人の急死に関して部外者でしょ!

 

 私は怒りとともに、その人を睨みつけていた。

(この時のことは宮司もとても怒っていた。呼んでもないのに、勝手に上がり込んできたってね!)

 

 さて、それから後は、刑事に聞かれることに、素直に答えて、ただ、時間だけが過ぎていった。

 

 ふと、あ、連絡しなくちゃ…でも…

 

 私はスタッフ一人にだけ話して、極秘事項だと告げ、その日の後のことを任せた。

 

 刑事たちは、主人の遺体を調べる。

 

 他殺の可能性、事故の可能性等々。

 

 そして私の元にやってきて、どちらの可能性もないので、司法解剖は行わないが、家族が希望するなら死因を特定する為の解剖は出来るがどうしますか?と。

 

 私は迷わず解剖を依頼した。

 

 泣いて、混乱して、喚いたりすることもなく、私はとても冷静だった。

 

 冷静に、主人が何の前触れもなく、突然にこの世を去った理由が知りたかった。

 

 それは主人が私にそうしてくれ!と言っているようにも感じた。

 

 遺体は唯一の証拠。

 その人を死に至らしめた理由がそこにある。

 

 主人の身体に、解剖の為とは言え、メスを入れ、傷をつけることには、とても申し訳ない気持ちもあったが、私には主人の真実を語る責任があると強く思った。

 

 解剖は大学病院の法医学の名医がしてくれるそうで、日程は少し先になった。

 

 その為、主人の遺体は解剖が終わるまで警察が預かることに。

 

 犯罪者でもないのに、警察が主人の身柄を、遺体を預かることがとても嫌だったが、死因を知る為の解剖のほうが大切だった。

 

 宮司、主人の父は、もう何も考える事が出来ず、全てを放棄していた。

 

 私は主人の弟と相談し、通夜や葬儀の大筋を決めた。

 

 後は、連絡して翌日に帰ってきてくれた長男と相談しながら…

 

 今から数年前、主人は神社の神事をするだけでなく、神社関係の事務をする仕事をしており、自宅から通勤していた。

 

 ある時、急にその仕事に従事する人数を減らされて、そのしわ寄せが主人に偏るようになった。

 

 主人は上手く人に頼れない人だし、仕上がりにもこだわる人だったので、次第に仕事の時間が長くなり、休日もどんどん仕事に費やされるようになった。

 

 私はこんな働き方をしていたら、絶対鬱になるからやめて欲しいと懇願したが、主人は組織に対して従順な人で、期待に応えようと彼なりに頑張っていた。

 

 元々酒好きではあったけど、とにかくお酒には強くて、どんな人も驚くほどによく飲む。

 

 それなのに、嫌なことは嫌だと、はっきり言えない性格で、ストレスを抱えるとお酒に逃げるタイプでもあった。

 

 私がデイサービスをオープンさせる頃、主人はうつ病で入院していた。

 

 私が起業したのは、主人がうつ病になり働けなくなったからだと勝手に誤解した下世話な輩も居たようだけど、違いますから!たまたまタイミングが重なっただけですから!

 

 だいたいこれだけの事業の計画と実行、どれだけ時間かかると思います?主人がうつ病発症してから始めたんじゃ間に合わないですから!

 

 ま、わからないと思いますけどね!

 

 主人の入院は措置入院だったように記憶している。

 

 主人の同意は得られていなかった。

 

 というか、私は診察と言って主人を連れ出していたし、主人の飲酒が自傷行為だと医師にも指摘されていたので。

 

 専門医に診てもらって、いろいろ納得のいく話が沢山聞けた。

 

 お酒を飲む人がうつ病を発症すると、ストレスを抱えてお酒の量が増える。

 

 沈み込み、何もやる気が起きない心を持ち上げようとお酒を飲むのだそうだ。

 

 お酒の量は増え、自分でコントロールできなくなり、止まらなくなる。

 

 単なるアルコール中毒と誤解されることが多いがそこにはうつ病が潜んでいることがあるのだと医師は話していた。

 

 主人はその頃、話しかけても反応がとても鈍くなっており、それについても医師が思考停止という症状だと教えてくれた。

 

 入院する病棟をどうするかと医師に相談され、私は閉鎖病棟を希望した。

 

 うつ病患者が回復期に自殺企図がある事を看護科で学んでいたからだ。

 

 主人は2カ月ほどで退院できたが、医師からは完全に治った訳ではなく、今後も注意が必要だと言われていた。

 

 主人は仕事にも復帰したけれど、職場での周囲の反応は、やはり主人に強いストレスを与えた。

 

 だいたい、神職の世界は互いに先生と呼び合う、私に言わせれば異質な世界。

 

 大きな組織形態があって、圧は巨大。

 

 うつ病を稀有なものと差別的に考える人たちの中で、主人は懸命に普通の人間に戻りましたと主張するかの如く、必死に仕事に臨み、そしてまたストレスを抱えていった。

 

 朝起きれない、お風呂に入らない、食事をしない。

 

 そんな究極に悪い時は、もうお酒すら飲まず、部屋からも出ず、何日も何日もただ眠る。

 

 時々死んでいるのではないかと、呼吸を確認しに行った程である。

 

 たまに部屋から出てくると、主人は人相も変わるほど、げっそりとやつれていた。

 

 何度も病院に行こうと話しても、入院の経験が主人の首を縦に振らさなかった。

 

 こんな時、母が居てくれたなら、と、どんなに悔やんだことか。

 

 結局、主人は職場で夜を明かしながら仕事して、疲れ果て、所かまわず眠り、職場の床で眠っているところを朝になって出社した人に起こされることもあり、会社を解雇された。

 

 私は勿論主人の味方だった。

 

 主人が望むので、忙しい時間を割いて、労働基準局に主人とともに訪れて、労災の申請もし、事情聴取にも協力した。

 

 でも、大きな組織が簡単に労災など認める訳がない。

 

 会社にとって、労災認定は赤点取ったも同じこと。

 

 主人へのパワハラや時間外労働が労災認定されることはなかった。

 

 彼らは、、、職場の人や上司、労働基準局の人達は、うつ病に対してあまりに無知過ぎる。

 

 まるで何もわかっていなかった。

 

 でももう、私は戦うことを辞めた。

 

 主人には、とにかくゆっくりと身も心も休めて欲しかったから。

 

 ただただ、主人は神社の事だけをして、あとは気ままに過ごしていれば良いと、私はそう思っていた。

 

 それが、通院を拒否する主人への、私がしてあげられる唯一の治療法だったから。

 

 会社を解雇され、職場の人にも裏切られたと話す主人は、一時は気分も落ちて、お酒の量も増えたけど、私から働かない事に対して、何の責めも受けない日々に、ようやくアルバイトとかしようかと話すようになった。

 

 私は、神社の事だけやればいいと、それで十分だと、夫婦の会話をしていたのだった。

 

 ストレスを抱えない日々は、嫌、今思えば、家族の為に働かなければならないという彼自身の思いも、大きなストレスだったのだろう。

 

 私から神社の事だけやっていれば、もう働かなくていいと言われた主人は、次第に元気を取り戻し、自分一人で、自分の行きたい所に出かけられるようになった。

 

 もう、治ったと、あの時私は安易にもそう思ってしまったのだ。

 

 馬鹿だった…

 

 うつ病は繰り返すのに。

 ストレスがかかると容易に再発するのに。

 

 この頃、宮司は高齢で、神事に参加もしなくなり、氏子が訪ねてきても、私達夫婦への伝言すら伝えられなくなっていた。

 

 だから、主人には宮司に変わって、氏子への対応が出来るよう、実家での滞在をしてもらっていた。

 

 昔、結婚が決まって、神社の隣に自宅を構える時、行事で使うからと言われ、間取りにもいろいろと制約があった。

 

 その為、子供一人一人に部屋はなく、高校生の娘は、中学生の妹と同室で、勉強部屋にも困っており、一石二鳥だったのだ。

 

 でも、主人は遺伝子的にも環境的にもストレスに弱いタイプだった。

 

 私のように、誰に対しても、何でも簡単に言える人間もいれば、言いたいことの半分も言えない人もいる。

 

 主人は後者。

 

 半分どころか、多くを語らず、一人で抱え込み、処理できないものはお酒で何とかしようとする。

 

 そしてまた悪循環に入るのだ。

 

 強く人に物申せる者は、何故に、言えぬ人に強くあたるのか…

 

 強き者は、弱き者を守る為にその強さを与えられたのではないのか?

 

 神社の事だけしていればいい、そう言った私の言葉に応えるように、主人は神社の仕事を頑張っていた。

 

 でもまた、強くあたる人が出てきて、事もあろうに、主人に町内会の副会長を押し付けた。

 

 もしもその場に私が居たなら、断固阻止して、絶対に副会長などにさせなかった。

 

 でも、私の留守中に事は進んでしまっていた。

 

 私は心配だった。

 

 主人にも言った。

 

 無理だよ。

 できないよ。

 再発するよ。

 

 でも聞かない。

 

 周囲の期待に応えようとする。

 

 言われていることが、ごもっともだから。

 

 働きに出ていないのだから出来るだろうと。

 

 それは、神社の仕事を知らない人のセリフでしょ?

 

 目に見える神事の裏でどれほどの準備があるか、貴方知らないでしょう?

 

 神事って、凄く疲れるって、主人が話していたことがある。

 

 わかるな。

 

 私も権禰宜を語る為に必要な資格を取りに研修を受けた時、とても緊張していたから。

 

 真面目に神様に対して、失礼のないようにと思えば思うほど緊張するというものだ。

 

 主人はこれを疲れると表現していたのだろう。

 

 でもこれも、きっと個人差があって、そんなに緊張する?って笑う神職さんも居るんだろうな。

 

 強い者に、弱い者の気持ちはわからない?

 

 1年間、町内会副会長をこなす主人は、心配していた通り、お酒の量は増えていった。

 

 主人は自分と他者との垣根が恐ろしく高い人だった。

 

 人前で酷く緊張する人もいると思うが、主人は緊張するというより以前に、とにかく人前に出るのが嫌で、出ない為に頑張る人だった。

 

 あの手この手で、いろいろ言い訳したりして。

 

 氏子であろうとも、町内の人であろうとも、訪ねていくことすら嫌だった。

 

 ましてや町内会費の徴収など出来る訳がない!

 

 それなのに、そんな大変な仕事をうつ病を抱え、病み上がりだった主人に強要したのだ。

 

 それから、氏子の中にも、町内の回覧板を利用して、主人の個人名を上げ、神社の事と町内の事と、必死で頑張る主人を、誹謗中傷した人物もいる。

 

 それらがどれほど大きなストレスを主人に与えたことか。

 

 主人の突然の死は、そんな中、起こった事件だった。

 

 死因は結局、わからなかったというのが正解だろう。

 

 死亡診断書には、致死不整脈(推定)と書いてあって、検案に立ち会ったという刑事も、脳も心臓も、血管が詰まっていることもなく、多量の飲酒にもかかわらず、肝臓も綺麗なままだったと教えてくれた。

 

 そう聞いて、私はますます、主人は主人に強いストレスを与えた人々によって殺されたんだと強く思うようになった。

 

 死因調査の結果が出る前に、葬儀の事を決めておかなければならなかったが、家族葬にしておいて本当に良かったと思う。

 

 弱い者いじめのように、主人に強くあたってきた人達に、主人の亡骸を見せたくはなかった。

 

 主人が気を許していた主人の友人数名には、主人が亡くなったこと、亡くなったら知らせて欲しいと言われていたことを告げた。

 

 もはや、遺言なので。

 

 私の姉妹には流石に言っておかなければと、ラインで報告。

 

 同県在住の姉家族は勿論、大阪から妹家族も駆けつけてくれた。

 

 それでも、火葬場へは私達家族だけで行きたかった。

 

 主人の骨となった身体に、誰も触れさせたくはなかったから。

 

 主人を理解し、主人の為だけに涙を流せるのは、私達だけだと思っていた。

 

 主人と一緒に、主人の親の葬儀で、初めて神式の葬儀について学ぶ予定だったので、私は何もわからない。

 

 神事の事で分からないことは、いつも主人に聞いていた。

 

 もう聞いても教えてくれる人はいない。

 

 主人のスマホには、連日おびただしい程の電話が入っていた。

 

 町内ではほんの2カ月前に町内会長が急逝したところだった。

 

 この方も心臓が原因だったらしい。

 

 それから会長代理を2カ月務めた主人は、この春、2年目の副会長に。

 

 私はせめて任期1年で辞めるべきだと言ったのに。

 

 そして新人の会長のフォローの為、主人のスマホには、様々な人からの連絡ばかり。

 

 それを見て、私は胸を締め付けられた。

 

 きつかったと思う。

 辛かったと思う。

 

 これだけの町内の仕事を抱えながら、神社の仕事も抱えて、表に出して疲れていると言えなかった主人。

 

 町内の人の期待に応えようとしていた主人。

 

 もしかしたら、もう死にたかったのかも知れないね。

 

 お酒でもごまかせず、死ぬことで、辛さから逃げたかったのかもしれないね。

 

 主人の死後、葬儀も終えて、1週間。

 

 どこまでも青い青い青天のその空の下に、もうどこにも主人が居ないのだと思うと、悲しくて涙があふれた。

 

 どう足掻いても、何をしても、もう主人は戻ってこない。

 

 あの気怠そうな歩き方を見ることもなく、私に小言を言われて、嫌そうにでもちゃんと返事するあの声を、もう聴く事が出来ない。

 

 無気力が私を襲い、放心状態にする。

 

 でも、それでも今、私が主人に伝えたいことは、戻ってきて!ではない。

 

 

 もういいよ。

 もう頑張らなくていいよ。

 ゆっくり、ゆっくり休んでいればいいからね。

 

 助けてあげられなくてごめん。

 安らかに眠って下さい。

 そしていつも私たちを見守っていてね。

 

 

 読者の皆様へ

  長い長い投稿を最後まで読んでくださってありがとうございました。

 今月はブログの更新をいたしません。

 暫く、心を休める時間をください。

 皆様の温かいご理解を得られますよう、宜しくお願い申し上げます。

 

 

 華桔梗のスタッフの皆様へ

  何も聞かれたくない、話したくないと言った私の意図を

 理解してくれてありがとう。

 普段通りに接してくれてありがとう。

 何も聞かないでいてくれる優しさに、主人の事に触れない   でいてくれる気遣いに、いつも心から感謝しています。

 これからもどうか、今まで通りに普段通りに。

 いろいろあった5年間でしたが、私はこれからも頑張り過ぎないように頑張ります。

 息切れしない程度にしっかりついて来てくださいね。

 どうか宜しくお願い致します。