こんにちは、皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、前回邪馬台国の事を書いた時の続き、後編です。邪馬台国と大和王権の関係性について述べてみたいと思います。前回は、中国の文献魏志倭人伝をもとに、邪馬台国の事や女王卑弥呼の事を述べました。日本の何処かはよく分からないがそんな国があったらしい。で、こんな国だったようだと言った内容でした。じゃ、その後その邪馬台国は一体どうなったのでしょうか?大和王権との関係はどういうものだったのでしょうか?

福岡県山門郡の現風景

 

 前回、邪馬台国の所在地について『九州説』と『畿内説』の事をご説明しました。江戸時代の学者 本居宣長が『九州説』を唱え、同じく学者の新井白石が『畿内説』を唱えたという話ですね。で、これよくよく調べると新井白石は後にこの自分の意見を撤回し、何と九州説を支持し始めたんです。それも場所まで具体的に述べています。それが筑後国山門(ヤマト)と言いますから現在の福岡県南部の久留米市に近い山門郡辺りだと言うのです。全く大転換もいいところです。で、こうなると邪馬台国=九州で決まりでしょと言いたいところなんですが、やはり畿内説を推す人たちも多いんですね。なので、今だに明確には場所が特定出来ていないようです。そうした人たちの一部では、邪馬台国=大和朝廷説、即ち邪馬台国が後に大和朝廷となり、日本統一を果たしたという説さえあります。で、これを推す人たちの一部の意見によると、記紀神話に登場する天照大御神のモデルこそが卑弥呼だという説まで飛び出します。という事は、この国の起源は、邪馬台国という事になります。また、この論争については歴史学者などのいわゆる玄人の学会の人々のみならず、何か歴史に興味のある作家さんやジャーナリストなんかの素人さんも本出したりしていて、何だかなって感じではあるんですよ。

 『邪馬台国=大和朝廷なんて事言うなら、記紀読めば書いてあるんじゃない?だってアレ天皇家の事書いてあるんでしょ。』なんて意見出て来そうですね。ハイその通りです。古事記も日本書紀も天皇家の事が書いてあります。私も若い時に古事記の概略本みたいなのを買って読みましたが、どこにも邪馬台国なんて記事は出てきませんでした。なので、この辺の事はホント気を付けないと…大体、邪馬台国=大和朝廷説なんて言う人たちは、おそらくですが、記紀を信じていません。信じていないからこそそんな、私に言わせれば突拍子もない意見が出せるわけです。因みに私コーネリアスは、信じています。で、この点については、歴史学者の間でも色々賛否両論あるようで、特に、欠史八代、即ち第二代天皇綏靖天皇から第九代開化天皇までの8人の天皇は居なかったとする説があるんですが、学会ではこれが定説になっているようです。理由はこの辺の記紀の記事が常識離れ(例えば天皇の年齢百数歳とか)している箇所が多く、信憑性に欠けるからだそうです。すると、これは前回私が記した事ですが、纏向遺跡の箸墓古墳の主の話ですが、ここには孝霊天皇の娘、皇女が眠っている筈なんですが、孝霊天皇は第七代天皇なので、学会的には、『その天皇は居ないから』と一刀両断。すると、此処は誰の墓?となってしまうわけです。で、邪馬台国卑弥呼が登場してくるわけです。そこは卑弥呼の墓ではないかと…この説を唱える人によると、孝霊天皇の皇女とされている女性=卑弥呼なんだとか。個人的には、それはどうかなと思います。で、この記紀について信じないという話はどうも戦前からあるみたいです。

 で、何でボクがこの点に拘るのかと言うと、ボクは個人的に記紀の記事を信じていますが、コレがどうなるかで歴史が変わってしまうからです。つまり、上記のような邪馬台国が大和朝廷の起源だったなんて説も堂々と登場してくるからです。私はこれは違うと思います。少なくとも当時古事記を書いた我々の先祖たちは、後世の我々に何かを伝えたくてこれを書いた筈。なので、素直に信じればと思うわけです。確かに、難解な部分、現代の常識に当て嵌まらない部分も多々あるかと思います。この点は私はいわゆる『読み解き』だと思います。例えばですが、聖書などもある意味そうです。特に旧約聖書アレなんかは間違いなく今の常識全く通用しません。仕方がないですね。全編いわゆる『神の啓示』の書ですから…しかし、だからこそキリスト教の世界には聖書学者や神学者、そして牧師が居るわけです。おそらく学会の中には、記紀を荒唐無稽だと否定ばかりする人たちだけじゃなく、正面から真摯に取り組んでいるそうした学者さんもおいでだと思うので、個人的にはただ一言、『頑張って下さい!』とエールを送るのみです。私の個人的結論から言いますと、邪馬台国と大和王権は別の国、共同体だと思っています。そしておそらくですが、両方とも此処九州に存在していたと思います。そして、邪馬台国については非常に朝鮮半島、大陸と密接に関係があった国ではないかと思っています。

 

★コーネリアスの考える邪馬台国と大和王権(投馬国:ツマコク)

私が邪馬台国九州説を推す理由としては、本居宣長の意見もあるのですが、別に邪馬台国が朝鮮半島に領土を持っていた形跡がある為です。そうすると、当然ですが地理的にも近い所に本国を持つのが妥当なのではないでしょうか?畿内では余りに遠過ぎ、統治上必ず支障が出ます。また、前回お話ししました魏志倭人伝に基づく邪馬台国の民のタトゥー、黥面文身ですが、これが九州地方からはいわゆる黥面土偶が出土しているのに対し、関西地方、畿内の土偶には一切こうした黥面が施されていないのです。つまり、畿内に居た人たちには、黥面文身の風習がなかったという事になります。これはとても興味深い点であると同時に大変重要な点かと思います。また、地理的観点から言いますとこの地域、福岡県南部には筑後平野が広がっており、今でも九州の米所の一つです。多くの民を養う上での食料備蓄も此処なら充分可能であり、ここからも九州説が有力のように思えます。

 さて、ここから投馬国(ツマコク)という国の話をしようと思います。この国も魏志倭人伝に僅かながら記載があります。この国は邪馬台国を語る上でも、また日本の事を語る上でも極めて重要な古代国家です。何故なら、記紀に従えば、この国が後の大和王権、大和朝廷になるからです。そう、有名な神武東征です。魏志倭人伝によれば、邪馬台国の戸数は約七万戸でしたが、実はこれに次ぐ規模の邪馬台国周辺国がありました。それが投馬国で、約五万戸であったと記載されています。おそらく当時としては結構な規模です。で、この国が何処にあったか?現在最も有力な説が、日向国、現在の宮崎県というのです。つまり邪馬台国は、現在の福岡県、投馬国は宮崎県という事です。私の父はこの宮崎県の出身だったので、私も宮崎の父の実家には何度も行きましたし、宮崎に住んでいた事もあります。で、此処には巨大な古墳群である西都原古墳群というのがあります。なので、古代に此処に大きな国、勢力が存在していたわけです。また、邪馬台国と常に敵対していた勢力として狗奴国という国もありました。この国の所在地として有力なのが現在の熊本県です。熊本県の熊はこの狗奴が訛って生まれたとの説もあります。この狗奴国と邪馬台国の事も魏志倭人伝に記事があります。ところで、投馬国と邪馬台国は接点、何らかの交流若しくは戦争はなかったんでしょうか?実は見当たらないんです。どうしてでしょう?つまり、邪馬台国VS狗奴国は接点が、戦争があったようですが、邪馬台国VS投馬国は無かった。どういう事か?この点を私コーネリアスは、こう考えます。これは地理的問題だと。九州にお住まいの方ならすぐに分かると思うんですけど、熊本県と福岡県て、ちょっとした山々はありますが、基本平坦で平野部続きですよね。これは、JR鹿児島本線で列車に乗ったり、九州縦貫自動車道を走れば分かります。で、もし、邪馬台国が福岡県南部に位置していたとするなら、熊本県寄りという事になり、兵の移動も容易です。よって戦争は可能な訳です。また、別件ですが、実例もあります。それが明治期の西南戦争です。あの時官軍は陸路福岡を経由して熊本に入り進軍しました。有名な激戦田原坂の戦いは、現在の熊本県植木町です。なので、邪馬台国VS狗奴国の戦いは実際あった筈だと言えるのです。他方、邪馬台国VS投馬国は、福岡VS宮崎はというと、これも九州の方ならおそらくお分かりになると思いますが、戦争するのはかなり難しいです。というのは、この二つの間に大きな壁、阿蘇山を中心とした九州山地が横たわっている為です。加えて、北部九州と南九州という事で、結構な距離です。双方共にそんな自然のリスクを背負って戦争するでしょうか?戦う前に兵は疲弊してしまい、戦いにならないと思います。この地理的状況、これがボクの結論です。なので、当時九州地区でNo. 1の勢力邪馬台国とNo. 2の勢力投馬国は決して接点を持つ事も無く日本海側と太平洋側に分かれて互いに併存していたと思います。

ボクは邪馬台国は福岡、狗奴国は熊本、投馬国は宮崎と思うんですが…

 

 うーん、ここまでお付き合い下さった読者の皆様、申し訳ありません。やはり、この後邪馬台国の末路やその後の大和王権の事などを語るとまだまだ話が長くなりそうです。長話は私の望むところではありません。ですので、今回は一旦この辺で打ち切らせて頂きたいと思います。何とか前後編でまとめようと思いましたが、私の至らなさから上手く出来ませんでした。お許しください。なので、この続きは必ず近日中にアップします。今度こそ完結編としてまとめ上げますのでよろしくお願いします。