さて、前回に引き続き、今回は元寇、2回目の弘安の役について記して行きます。

文永の役後、元の皇帝クビライは、引き続き幕府へ書状を送り、「降伏して我々に従え」的な主旨の事を伝えて来ます。これに対し、北条時宗は、頑として拒否。使者の首を刎ねます。完全拒否です。記録では、そうしたやり取りが数回あった模様です。そんな中、中国大陸では、元に歯向かっていた唯一の大国、南宋が遂に元に滅ぼされます。またまた元の領土は拡大し、アジアで敵対しているのは、この時点で日本ただ一国のみとなってしまいました。こうなると、クビライも勢いに乗ってきます。何としてでも日本を支配下に治めたいと、強く思うようになったようです。そこで、元は第二回日本遠征を計画します。前回は元側も日本の事があまり分からず、手探り的な遠征でしたが、今回は本気でした。絶対に日本を取るぞという姿勢がみられます。元軍の兵士の総数、何と54万。船数4400叟。これは、世界史的に見ても当時世界最高の軍勢だったそうです。これに水夫を入れると、総数不詳。現在でもよく分かっていないようです。内訳は…

  ①東路軍→4万 高麗軍主力の部隊(朝鮮半島より侵攻)

  ②江南軍→10万 旧南宋軍の部隊(上海付近沿岸部より侵攻)

  ③モンゴル軍→40万 モンゴル兵による主力部隊(主として南宋軍と連携)

こうした情報は鎌倉幕府にも伝わっていたようです。ですが、当時の我々のご先祖様達は怯みませんでした…

 で、一方の日本側はというと、文永の役から弘安の役まで7年あった訳ですが、様々な角度から、元軍を分析していた事が記録から分かります。彼等の戦の戦術、戦略の分析、彼等の持つ兵器の特徴等々です。この点はまるで孫子の兵法に倣った武田信玄的でもあります。戦う前に、敵を丸裸にしてしまおうというものです。また、前回の自分達の反省も怠りませんでした。あの戦いは何故負けたのか、何が足りなかったのか、等々です。こうした中で、僕は大きく二つの改善、工夫があったなと見ています。

   改善・工夫その①防塁の建設→騎馬戦得意の相手をそもそも上陸させない→得意技の封印

   改善・工夫その②水軍の活用→①達成の後、水軍を活用し、海戦に持ち込み勝機を見出す

上記の①②は、前回見られなかったものです。

 元寇防塁は、博多湾沿岸部に今もその痕跡を見る事ができます。約20キロに渡って作られたようです。おそらく当時としては、一大公共工事だったのではと思われます。工事には武士のみならず、一般の民、百姓も参加し、まさにオールジャパンで汗を流し作ったのではないかと思います。ですが、これがまさに大きく戦に寄与し、日本の勝利に貢献しました。

 また、水軍ですが、この当時日の本一の水軍と謳われていたのが、瀬戸内海、現在の愛媛県松山市に拠点を置いていた『河野水軍』です。河野氏は、この当時、鎌倉幕府の機関、京都の六波羅探題より命を受けて国内の全水軍を統轄する権限を与えられていました。まさに先の大戦時の海軍軍令部のような立場にあった訳です。また、河野水軍は、遡ること源平合戦の折、源氏に与し、源義経と共に戦い、平家一門を壇ノ浦で討ち滅ぼした際の源氏の水軍という過去がありました。今回の河野水軍の棟梁が、河野六郎通有という人で、伊予の御家人でした。身長190センチの大男で、怪力の持ち主でもあり、剛勇無双の者と、当時の記録では記してあります。さらに、この人選については、当時の帝、亀山天皇をはじめとする朝廷も喜んだとの記述もあり、当時朝廷にもその名が知られていた事が分かります。因みに海音寺潮五郎氏の歴史小説、『蒙古来たる』では、この武将が主人公として描かれています。興味おありの方はご一読をお勧めします…この河野水軍には、もう一つ有名なエピソードがあります。それが『河野の後築地』と呼ばれるものです。当時全員の兵士武将達が防塁の後ろに陣を布いていたのに対し、河野水軍の兵士武将達は、防塁前の浜辺に陣を布いていたのです。目の前は海。そこには元軍船が対峙した状況でした。これを当時の人達は『何という勇気だ…』と称賛したのだそうです。ですが、僕はこう思います。彼等は水軍。海の男にとって船は刀と同様に自分の命そのものだったのではないか?うっかり船から離れた所にいて、敵に火矢でも射られたら大変です。また、シーパワーである彼等の得意とするのが、海上ゲリラ戦。何時でも仕掛けられる様、準備していた為ではないかと思うのです…いささか夢が無いかもしれませんが…何故こう思うかというと、先の大戦時の戦艦大和の生存者の方がおっしゃっていたからです。海軍兵である彼にとって船は、大和は自分の命そのものだったとの事でした。時代は違っても、同じ日本人として、海で戦う男として、この点は一致するのではないかと思うのです。

 

 

 

 

 さて、双方こうした背景の7年が経った後、遂に弘安の役が開戦となりました。場所は、前回同様博多沿岸部。先ずは朝鮮半島からの東路軍が、900艘の艦船で4万の軍勢を率いて侵攻して来ました。1281年6月の事でした。元軍は、ここから太宰府を目指しました。何故、太宰府かというと、当時日本軍のいわゆる参謀本部なるものがここに置いてあり、彼等もそれを熟知していた為です。出来うる限り最短距離でと考えれば、当然博多湾から上陸し、進軍するのが一番でした。ところがそれが出来ませんでした。それが先ほどの約20キロにも及ぶ防塁です。この遠大な防塁により、彼等は、内陸へ進めず、浜辺で立ち往生といった状況でした。防塁の奥からは、日本軍の弓矢が、雨あられ…戦況は当初から日本側有利に展開しました。そこで彼等は、防塁の無い志賀島に目を付け、ここを臨時の停泊場所としました。そこへ、日本軍が、海と陸から攻めます。志賀島近郊の海の中道方面から陸戦隊、海から河野水軍が一気に攻め、元軍はパニック状態となった模様です(志賀島の戦い)。しかし、敵軍も体勢を整え、反撃に転じ、陸上戦はかなり激しい攻防戦となりました。記録によると、双方に多数の戦死者が出たと記述があります。この時、この戦況に決定的な影響を与えたのが、海路の河野水軍でした。頭領の河野通有以外にも、肥後の御家人、竹崎季長、肥前の御家人、福田父子等も海上からの攻撃に参加し、敵の側面を突きました。これが戦局を大いに変えたと伝えられています。この海からの側面攻撃に呼応し、陸路の部隊も勢を得、一気に敵軍に攻め掛かり、戦局は好転しました。殊に、この戦で河野通有は、単身敵の船に乗り込み、肩を矢で射られながらも、太刀で敵兵を斬りまくり、遂には敵の将校(高麗人)を生け捕りにするという大活躍を見せました。そういえば今思い出しましたが、亡父(昭和6年生)が、戦前の学校の授業で、この河野通有の事を楠木正成、新田義貞に並ぶ代表的日本の忠臣であると教えられたと、しみじみ語っていた事がありました…この戦いは、2日掛かった様ですが、海陸から押しに押した日本軍の攻撃に耐えかねた元軍(東路軍)は、敗走、壱岐まで一時撤退しました。そして、江南軍及び主力部隊の到着を待つ事となりました。こうして、志賀島の戦いは日本の大勝利で終わりました。壱岐は、この頃元軍に侵攻され、地元の武士団は討ち滅ぼされ彼等の支配下にありました。そこで、ここを奪還すべく日本軍は水軍を編成。今度は長崎の松浦水軍を中心に薩摩の島津・肥前の龍造寺が加わり壱岐へ攻め入りました(壱岐島の戦い)。ここでも島内において激しい激戦が展開されたようです。ですが、この戦いの途中、江南軍が長崎の平戸に到着します。この知らせを受け、東路軍は壱岐を捨て、全軍平戸へ向かった為、日本軍は壱岐奪還を達成しました。ここで、遂に元軍は全部隊が集結。平戸沖で体勢を整え、長崎県松浦沖にある鷹島という島へ移動し、ここに暫定司令本部をおく事としました。この時、元軍艦船隊は、船同士をロープで縛り、いわゆる船の砦状態にして本部を守備する陣形を採りました。しかし、これがこの後悲劇を招きました…この時7月27日でした。

 その3日後の7月30日、運命の時は突然やって来ました。30日夜半強力な台風が九州北部に上陸。ただでさえ波の荒いこの海域は大荒れとなりました。ロープで縛られていた艦船同士がぶつかり合い沈没が相次いだと記録に伝えられています。4000艘もあった艦船は、この大型台風により、殆どが沈没し残りは僅か200艘となってしまいました。これこそが本当の神風です。その後、元軍は軍議を開き、今回の日本遠征を諦め撤退する事となり、2度目の日本侵攻も失敗に終わりました。しかし、皇帝クビライは、その後も日本侵攻を計画していたようです。よほど悔しかったのではないでしょうか?これは僕の勝手な想像ですが、ここまで来るともう大帝国のトップとしての意地とプライドでしょうね…ですが、最終的には元帝国の国家財政の逼迫が主要因となり、官僚達から説得され、実現出来なかったようです。

 

 

まとめ

 その後の中国では、何と日本脅威論が流布されたようです…南宋人の鄭思肖という人が書いていますが、それによると、『日本人はまるで狼のごとく猛々しい。たとえ相手が自分の10倍いても勇敢に立ち向かう勇気を持ち合わせている。それに彼等は皆死を恐れない。勝たなければ、死ぬまで戦う。また、日本女性もとても気性が激しい。犯すべきではない。それにしても、日本刀の切れ味は凄すぎる…』また元人の呉菜という人は『今の日本人は、かつて唐の時代白村江の戦いに負けた時の弱っちい日本人とは全然違う。あの頃よりも今は間違いなく10倍は強くなっている…』という事です。戦った相手、それも当時の世界No. 1の大帝国にここまで言わせるとは…鎌倉時代の我々のご先祖さま達は何と偉大であったでしょうか。自分もこうしたご先祖様に恥じない生き方をせねばとあらためて思う次第です。それにしても、あの時、あの状況下での、あの台風というのは、神の御業のように思えます…僕は旧約聖書コヘレトの言葉3章1節を思い出します…『何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。』…神の御加護に感謝します。アーメン!