9月に鑑賞してきました☆
デュフィ展 2014年8月5日(火)~9月28日(日)
大好きな大好きなデュフィの絵。
待ってました展覧会!
西はデュフィとゴッホ
東は伊藤若冲と歌川国芳
が、大好きです。
他にもたくさん好きな画家はいますが、聞かれたらまずこの方々が口から出てきます。
『私の目は物の輪郭よりも先に色を感じ取り、色の印象がより長く心の中にとどまる』
Raoul Duly(1877~1953)
Eテレ『日曜美術館』でデュフィやるよー!!と同じくデュフィ好きのN子ちゃんに教えてもらったので録画して見たところ、しょっぱなにこういう言葉が出てきました。
(この時のタイトルは”「色彩はうたう」ラウル・デュフィ”)
確かにデュフィと言えば「色彩の魔術師」と呼ばれるほど「色彩」の楽しさ、美しさが特徴的だと思います。
しかし、彼の絵は最初からこのように「色彩」で彩られていたわけではありませんでした。
今回の展示は第1章~第4章まで年代別に分かれていました。(第2章だけはちょとちゃいましたけど)
その第1章を見れば、彼の初期の特徴がわかります。
第1章 1900~1910年代 -造形的革新のただなかで
Eテレで見た番組情報と併せて書いて行きますが、彼は1877年フランスのル・アーブルで生まれます。
(はっ!カウリスマキの『ル・アーブルの靴みがき』の場所!!)
10人兄弟で貧しく、14歳から輸入会社で働き始めます。
唯一の楽しみは絵を描く事だったそうで16歳から夜学で本格的に絵を学び始め、才能をめきめきーっと伸ばし、22歳でル・アーブルの奨学金でパリへ!
当時は古典画を習っていたデュフィ。
なので作品も落ち着いた色調のものが多かったそうです。
≪夕暮れ時のル・アーブルの港≫1900年
しかし、アンリ・マティスの絵との出会いが彼を変えます。
絵画はここまで自由なんだー!!ということに気付かされますが、同時にそれは彼の苦悩の始まりでもあったそうです。
あまりにも影響され過ぎ、また、マティスに近づこうとそればかりに囚われてしまったデュフィ。
その後幾何学模様を主とした「キュビズム」が登場すると、また、その世界にそまってしまったデュフィ。
・・・なんちゅう素直な・・・ピュア・デュフィやね
画商たちの目には彼の絵はただの真似事にしか映らず、まーったく売れなかったそうですわ。
そして・・・ちょっと第2章は後回しにして、第3章から。
第3章 1920~1930年代 -様式の確立から装飾壁画の制作へ
デュフィは何年も何年も「自分の絵とは・・・」と模索し続けます。
そして、とうとう出会うのです!!
そう!デュフィの色、あの「青」色に!!
デュフィにとってとても大切な色「青」
彼は「青」を色調が変化しても本来の個性を保ち続ける唯一の色彩と考えていたそうです。
番組内で「青」は心の奥底にあった色であり、故郷ル・アーブルの海の色だったとも語られていました。
また、デュフィの画家としての素養は「海」によって培われているとも紹介されていて、デュフィ自身、フランス各地で海辺の光景を描いており、「青」はまさに画家人生を決めた色ということだそうです。
「絵画は海洋性気候からしか生まれない」byデュフィ
≪ニースの窓辺≫1928年
本当にいろんな「青」がカンバスいっぱいに広がってますねー
今まででもデュフィの絵を観ると「まー♪青が特徴的ねー」とは思っていましたが、ここまで詳しく「デュフィと青」の関係は知りませんでしたので勉強になりました。
そして「色」が輪郭線を飛び出している~!!も彼の特徴の一つです。
≪30年、或いは薔薇色の人生≫1931年
≪ドーヴィルの競馬場≫1931年
これはデュフィの体験からあみだした独自の手法だそうです。
49歳の頃、とある海岸で赤い服を着た少女がデュフィの目の前を走り抜けていったそうです。
その時、彼の網膜に少女の赤い服が残像として残り、そのことが、対象が動くことによって残る色の余韻の発見につながったそうです。
おぉ・・・
そこから色彩を輪郭という枠から解放し、さらなる色彩の自由を得、生命力を与えることに成功したそうです。
おぉお・・・
なので上の≪30年、或いは薔薇色の人生≫は彼の代表作とも言われていますが、薔薇の赤色が輪郭を飛び出していることでうつりゆく薔薇に命を与えている、ということらしいです。
そしてその下の≪ドーヴィルの競馬場≫では人が輪郭線からはみ出すことで、揺れ動く人物の残像を表現しており、また色彩が絵の中の人々に動きを与え、競馬場の賑わいまで感じさせているそうです。
デュフィは50代で名声を得ますがさらに自分自身の絵に対して探求していきます。
長くなりましたので続きます。