★このブログは、2011年7月から2012年12月まで本体部分が書かれ、その後、約11年にわたり断続的に加筆・修正を行ってきましたが、2023年12月をもって完全に終了しました。
(2024年1月1日)
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ブログのおすすめエントリーを、50個選んで貼り付けておきます。
・勉強法関係
・司法試験・ロースクール関係
・予備校関係
・その他
以上の4つのカテゴリーに分類しました。
タイトルの文字を大きくしているエントリーは、おすすめのものです。
をつけたエントリーは、特におすすめのものです。
記事の多くは、黒字の本文と、青字の補足部分に分かれています。
他にも、ピンク字の補足部分や【補足】や【追記】として内容を付加した部分等があります。
こういった本文以外の補足部分は、最初は無視していただいて構いません。
勉強法関係
試験勉強における目的意識の重要性と、手を広げることの危険性について書きました。
「集約型」と「拡散型」という概念を用いて、上の記事を図式的に整理し直しました。
【追記】で司法試験=宗教説を唱えるとともに、脱洗脳のための一つの方法を提案しています。
勉強には学ぶ順序があること。そして、あたりまえの「基本」の重要性を指摘しました。
【補足】で、「基本」が当たり前すぎて差がつかないという勘違いに釘を刺しておきました。
「肢別本なんか潰しても全然足りないよ」なんて嘯く人は、まず肢別本を潰していません。
司法試験の問題が解けるようになりたいなら、司法試験の問題を解かなければなりません。
基本書を読んでも、基本書が読めるようになるだけです。当ブログの勉強法の核心です。
【補足】に、センスの良い受験生とセンスの悪い受験生の発想の違いを書いておきました。
基本書を読んでも、論文が書けるようにはなりません。
その論理を、子ども(あるいはロースクールの教授)にも分かるように明快に説明しました。
【補足】で「問いに答える」という試験の本質と、論証や答案の長さとの関係を説明しました。
論文試験の合-否を分けているのは、あてはめ部分ではなく、法律論の出来不出来です。
また、司法試験のような相対評価の試験において、合格ラインを意識することは必須です。
判例など知らなくても、合格答案は書けます。
事前に知っていることで墓穴を掘る(つまり知らないほうがいい)場合だってあります。
【補足】に、攻めの勉強法のリスクについて書いておきました。
短答においても、判例集の重要性は低いです。短答でも、合格ラインの意識は必須です。
なお、事前に知識を習得することが正当といえるための3要件を挙げています。
民法の基本書を分野別に揃えること ~あるいは「必要性」と「許容性」について~
その勉強が正当といえるかどうかについて、必要性・許容性の観点から判断基準を示しました。
また、司法試験の「司法」にあたる「法」および「法解釈」のイメージを図で表現しました。
「えんしゅう本じゃ足りない」と言うのは、実際にえんしゅう本を潰してからにしてください。
法律学あるいは法律問題の処理は、徹頭徹尾、条文の言い換えです。
事実、言い分、条文、規範、・・・全てがお互いを言い換えっこしているだけです。
【補足】に、「三段論法という勘違い」を付け加えました。
2018年の新エントリーです。論点・規範中心学習のメリット&デメリットを述べています。
条文を自然な日本語として素直に解釈すること(言語感覚を磨くこと)の重要性を書きました。
また、2つ上のエントリーで書いたイメージ図を、より具体化・類型化して載せています。
司法試験の合否は「基本」で決まります。背伸びをした「応用」は真の需要ではありません。
根源的に試験に強いタイプの受験生は、試験に強いだけでなく、学校の成績も良いものです。
「理解」とは、その人が何をしたいかという「目的」との関係で定義されるものです。
問題を解く前に知識の理解に走る愚を指摘しています。
司法試験の問題を、問題文の長さ別に分けて、それぞれの意義を考えてみました。
上の記事の続き。新司型問題の本質は旧司型(中文)問題に他ならないことを論証しています。
受験界の論文指導のレベルは極めて低いです。ほとんどが感覚に頼った指導をしています。
地図を持たずに歩き出せば間違いなく遭難します。目的地に到達したいなら地図は必須です。
法学テキストは、条文という本物を分かりにくく加工した偽物(=加工食品)にすぎません。
基本書も予備校本も予備校講義も、所詮は偽物の解説であることを自覚してください。
名付けて「スピードぐるぐる勉強法」。手を広げずに早く回す。一種の効率的な記憶法です。
司法試験受験生以外の方からのアクセスがものすごく多い記事でした。
抽象的なひとつの真実は、具体的な個々の事実よりもはるかに重要です。
再現答案には前者が示されています。出題趣旨には後者しか書かれていません。
【雑感】に、特定の合格者にアドバイザーの資格があるかどうかの基準を示しています。
失敗の意義
何かに成功するには正しく失敗することが必要です。手を広げると正しく失敗できません。
名付けて「絞り込み→暗記法」。シンプルな記憶法なので、誰でも簡単に実践できます。
【追記】で、答案を読んで覚える勉強法がなぜダメなのかを論じています。
論文の方法論(処理手順)の歴史を簡単にまとめてみました。
【補足】に書いたことは、私からの最重要メッセージです。是非これだけは読んでください。
具体的な答案の書き方について、2つのパターンを提案しています。
「あてはめ一貫型」と「紛争構造そのまま型」です。
中村充
10年後には、論文指導にはこの程度の精緻な方法論が求められるようになっているはずです。
「潰す」という概念に終わりはありません。「潰せた」と思ったところがあなたの限界です。
与えられた条件を極限まで切り詰めてみること
本当に必要な勉強が何か(不要な勉強が何か)を知るための思考実験です。
【補足】に、得点効率を最大化する勉強法の一例を、肢別本潰しを例にとって解説しました。
右足をヒョイと上げる競技
頭の中が些末な情報で混乱してきたら、いったん、この単純なレベルまで戻ってください。
ブログで再三強調した当たり前の論理がいかに重要であるかを【補足】で再確認しています。
試験という目的のある勉強は、目的意識が全てです。
最後にダメ押しで、目的意識を喚起しておきます。
【リンク】
司法試験のあるきかた
2017年の本試験に上位合格された“えるにえ”さんの方法論ブログです。
このブログの方法論に共感していただいた方には、とても参考になる内容だと思います。
司法試験・ロースクール関係
ロースクールに進学することは、社会人だけでなく、新卒者にとっても危険な行為です。
「司法試験に入ってきてはいけない人」について【小さな追記】、その<境界線>について【小さな追記の追記】をしました。
ロースクール制度に正当性を見出せるとしたら何が言えるか。私なりの意見(異見)です。
ロー組と予備試験組を競合させることは、ローの正当性を揺るがすことになるでしょう。
ロースクールに行くなら、絶対に既修を目指さなければいけません。
未修に行って、わざわざ自分から不利益を背負い込む必要はありません。
ロー入試小論文対策として書いた記事ですが、現代文・小論文対策全般の話でもあります。
当ブログが勧める「繰り返し→潰す」方法は、現代文&小論文対策にも有効な勉強法です。
司法試験が近い方は、今はこの記事は読まないでください。
初めて読む方は、試験が終わってから(落ちてからor受かってから)ゆっくり読んでください。
受からない可能性が高いタイプを列挙しました。該当項目がいくつもある人は要注意です。
予備校関係
講師・予備校の寸評も記載しています。講座受講の参考にどうぞ。
入門講座(講師)はどこ(誰)にすべきか?
上のエントリーの前身となった記事です。ちょっと伊藤塾講師を褒めすぎました。
反省して、司法試験の真の怖さについて、追記をしました。
予備校の入門講座は回数が多すぎます。本当はもっと少ない回数で同じことができます。
分厚いテキストには実践性がありません。コンパクト型テキストの再興を望みます。
その他
ブログの内容・目的について説明しています。
正直に言いますが、内容よりも属性ばかりに目が行く日本人気質が私は大嫌いです。
私は、属性への執着より、普遍的な論理に惹かれます。
…とはいえ、私も↑この人ほど上手にその論理を説明することはできなかったのですが。
高橋宏志『重点講義民事訴訟法』
たくさんの本を書評しましたが、結局一番よく書けたのはこれかなと思います。
やったことはやった分だけできるようになります。やってないことはできるようになりません。
これは全ての人間に共通の真実です。地頭なんてものは存在しません。
宇都出雅巳『合格る技術』
知識型試験の勉強法として最もおすすめの本です。
宇都出先生にはいろいろとお世話になりました。
お前はいったい何者なんだという疑問にお答えして…
自分の恥ずかしい過去も書いておかないとフェアじゃないと思ったので・・・。
あと、「勉強法オタクは受かりにくい」という俗説に反論しておきました。
木田元『闇屋になりそこねた哲学者』
人間は変わらない生き物です。
人が変わろうとすることには意味がないし、変えようとすることにも意味がないです。
ただ、意味がないと言っておくことには、なぜか意味があるような気がします。
最後にこっそり(私の心の奥底にある)本音を書いておきます。
一番下の中谷彰宏の本は、ブログの趣旨からは完全に逸脱しています。
ここに書かれている目的のない勉強とは、勉強することそれ自体が目的だということです。
人は、生きるために勉強するのではありません。勉強するために生きているのです。
<番外編>
2022年から2023年にかけて、最後に自由に色んなことを書いたものです。
内容は雑多ですが、主なところでは、私の(試験にかんする)個人的な思い出話。
それから学校教育制度や試験制度の時代的性格について、私なりの見解を述べています。
最後は試験の終焉?まで論を進めたので、このブログの役割は本当にここで終わりです。