答案の書き方について | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

処理手順の進化史 からのつづきです。

 

前回、「紛争構造型」が処理手順(思考方法)として最善の方法論であると述べました。

今回は、その思考をもとにした答案の書き方について、2つの型を提案します。

 

 

【あてはめ一貫型】

【1】あてはめ→【2】条文→【3】論点→【4】あてはめ型

 

答案の書き方といっても、ここで別段特殊なことを書くつもりはありません。

予備校の解答例のような一般的な答案の形をここで否定するつもりはありません。

ここでは新たな型を提案するのではなく、既存の型の説明の仕方を変えてみたいと思います。

 

受験界で今でも広く答案の型(=答案の形の説明の仕方)として用いられているのは、前回も紹介した「事案の問題提起→論点の問題提起→論点の結論→事案の結論」という型です。

「問題提起→結論型」と命名したこの型のどこがダメなのかは、前回のエントリーで詳しく述べました。

もっとも、「問題提起→結論型」で十分に答案が書けるという方には、今回の話はどうでもいいです。

これから説明するのは、あくまでも私個人が、「こう説明されないと納得できない」と思って考え出したパターンです。私自身は答案の形をこのようなパターンで説明している受験生・講師を見たことがないので、かなり独特な説明方法だということをご了承ください。

従来の「問題提起→結論型」、今回提案する「あてはめ一貫型」、どちらも説明の仕方が違うだけで、既存の答案の形を説明している点は同じです。答案構造の説明としてどちらが腑に落ちるか、という観点からお読みいただければ幸いです。

 

答案の形をどのように説明するか、細かく分ければそのパターンは何通りもあると思います。

私自身は、自分なりに考えた末に、以下のようなパターンに辿り着きました。



【1】あてはめ

   ↓

【2】(メイン)条文

   ↓

【3】論点(規範)

   ↓

【4】あてはめ

 

 

このようなパターンです。

あてはめが2回出てくること、しかも最初に登場するところが特徴です。

 

※ちなみに、論文問題において、その成立の当否が検討される主役の条文のこと、すなわち、原告が主張する条文のことを、当ブログではメイン条文と呼んでいます。

 

なお、この4段階のパターンには、原則形態と例外形態があります。

 

原則形態は、

【1】あてはめ

   ↓

【2】(メイン)条文


です。

 

ここで事案処理は基本的に終了です。

この原則は非常に重要なのできちんと意識しておいてください。

 

この原則形態で決着がつかない場合に限り、論点の発生という例外形態の出番になります。

 

論点が発生する場合にはじめて、

 

   ↓

【3】論点(規範)

   ↓

【4】あてはめ

 

と続いていくことになります。

 

原則は、【1】→【2】で終わりです。

この点をしっかりと意識していただいた上で、本論に入ります。

 

まず、なぜ、あてはめが最初に来るのでしょうか。

ここでまず、従来のあてはめの定義を変更したいと思います。

 

◆あてはめ = 条文の要素事実とのイコール関係(言い換え関係)を確認する作業のこと

 

↑このようにあてはめを定義し直します。

 

「条文の要素」は要件であることが多いので、ここから先は単純に要件と呼びます。

 

つまり、要件と事実を照合し、両者が同じものであることを確認するのが「あてはめ」です。

 

受験界では、あてはめとは、論点解釈によって立てられた規範と事実を照合することを言います。

つまり、規範=事実の確認作業のこととされています。

 

新司法試験はあてはめ勝負は本当かでは、このような一般的意味であてはめを定義しましたが、今回はあてはめの意味を上記のようにより広く解したいと思います。

 

そもそも、従来の意味でのあてはめにおいても、規範=事実の確認作業は途中経過でしかなく、最終的には要件=事実が確認されるところまでいかないと事案処理は完了しません。

 

言い換えの連鎖で書いたように規範の機能は、要件=事実が直ちに言えない場合に、要件と事実の間に置き石のように割って入ることで、要件と事実の間に往復可能な通路を作ることにあります。

 

つまり、規範の意義は、規範=事実をいうためではなく、要件=事実をいうためにあるのです。

したがって、要件=事実の確認作業をあてはめと呼ぶほうが、よりあてはめの本質を表しているように思われます。

 

答案で最初になされるのは、このような意味でのあてはめです。

それだけではありません。論文処理は、実は最初から最後まで一貫してあてはめです。

答案の全過程で一貫してあてはめだけをしているのが、司法試験の論文問題の処理です。


  <原則形態>

【1】 事実と要件のあてはめをして、

       ↓

 (全てのあてはめが済んだ場合は)

       ↓

【2】 条文を提示して終了。



  <例外形態>

【1】 事実と要件のあてはめをして、

       ↓

(あてはめにくい要素があった場合は)
       ↓

【2】 条文を(疑問形で)提示した上で、

       ↓

【3】 間に規範を介在させて、

       ↓

【4】 再度あてはめにチャレンジする


 

やっていることは実は↑これだけです。

この点を意識すると、従来の説明の仕方より、ずっと答案が書きやすくなると思います。

 

少し遠回りをしますが、なるべく丁寧にこの点を説明していきます。

 

条文は、想定される具体的な紛争を解決するために予め規定されたものですが、ある程度の量の紛争を一つの条文でカバーするべく、抽象的な文言を使って書かれています。つまり、具体的な紛争(事実)を束ねて抽象化しているのが個々の条文です。

 

つまり、たとえば民法典という箱の中には、日本で起こる全ての民法上の紛争が、個々の条文に整理・分類される形で、圧縮されて詰め込まれているわけです。

 

突然ですが、ここで、あなたが法律の完全なシロウトとして、友人の法律相談を受けるとします。

友人は、法的に意味のあることからないことまで様々なことを語りますが、だんだんと分かってきたのは、友人が何らかの損害を受けていて、お金を払って欲しいと望んでいることです。

そこで、あなたは「損害賠償」という文字が書かれている条文を探します。ところが、損害賠償といっても、415条や709条などなど、実に様々な条文が存在していて、それだけではどの条文を選べばいいか見当がつきません。

仕方ないので更に頑張って、その友人が脇見運転をしている車に接触して怪我を負ったことなど、具体的な事実をひとつひとつ丁寧に検討していきます。そして、その事実に似た文言を探します。

 

そうやって、最終的にどうやら709条という条文がそれっぽいなと気づくわけです。

「それっぽい」とは、その条文が当該事実に一番似ているということです。

 

この、一見シロウトのような思考の運びこそが、根源的に正しい法律家的思考です。

事案をみて、脊髄反射のように「あ、○○の論点だ」とか、「これは○○の法理を論じさせたいのかな」などと考えるのは、法的処理としては最低の思考です。

 

あくまでも愚直に、日本語の自然な感覚として、発生した事実に似た条文を探してくることが、法的処理の正当なスタートの仕方です。

たとえば、709条の要件を簡略化して処理してみます。

 

要件を、①故意・過失  ②因果関係  ③損害の発生

それに対応する事実を、(1)  (2)  (3) と考えます。

 

この場合、先ほどの原則形態による処理では、答案は次のようになります。

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り(2)そのことによって、Bに(3)怪我を負わせたため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

↑これが法律処理の原則形態です。

 

ここでなされているのは、間違いなくあてはめです。

ここでは、①=(1)、②=(2)、③=(3)が確認されています。

 

司法試験は問題文の事実を使うことに配点を設けていると考えられるので、上記のように事実を使って論述するほうが試験的にはいいのですが、本当をいえば、法律論で通しても構いません。

 

【1】 Aは、①過失によって、Bに③損害を発生させ、①と③には②因果関係が認められるので、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

↑これでも本当は構いません。

 

なぜ構わないかというと、要件と事実の言い換え(イコール)関係が成立しているということは、すなわち、法律論と事実のどっちを言っても構わない(どっちを言っても同じ)ということだからです。

たとえば、「富士山」と「日本で一番高い山」の言い換え関係が完全に自明な形で成立している場合(自明というのは、わざわざ間に理由を挟んで三段論法にしなくても意味が通る、ということです)、ある人が「富士山に登ってきた」と言うのと、「日本で一番高い山に登ってきた」と言うのは、表現として同じです。両者には微妙なニュアンスの差異はあるものの、どっちを言ってもお互いを言ったことになります。

 

もし一番丁寧な表現をしたいなら、

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り(=①過失)、 (2)そのことよって(=②因果関係)

    Bに(3)怪我を負わせた(=③損害を発生させた)ため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができる。

 

以上

 

という感じで、法律論と事実を併記するのが、書き方としては一番丁寧です。

もっとも、普通は事実のほうを記載すればOKです。

 

この【1】→【2】の原則形態の部分では、あまりにも簡単に要件=事実が確認されているために、ここでなされているのがあてはめであることに多くの受験生が気づいていません。しかし、ここでなされているのは、正真正銘、あてはめに他なりません。

司法試験の論文問題では、通常、論点が出題されることで、規範定立の後に手の込んだあてはめが待っているために、【1】→【2】の原則形態で展開される事実=要件の照合作業をあてはめと気づかない受験生が多いだけなのです。

 

話を戻します。

 

このように、法的処理は、要件と事実を結びつけ、メイン条文の成立を認定するところで基本的には完了します。

 

【1】あてはめ

    ↓

【2】(メイン)条文

 

あくまでも↑これが事案処理の原則形態です。

 

現実の実務でも、事実認定で争うことはあっても、法解釈で争うケースは非常に少ないと聞きます。

したがって、実務における基本形態もこの【1】→【2】まででしょう。

 

ところが、司法試験では、論点という例外形態が出題されることが多いです。

 

論点が出題されるということはどういうことでしょうか。

 

論点が出題されるとは、すなわち、【1】の段階で全てのあてはめが完了しないということです。

言いかえると、要件=事実が簡単に認定できない要素が事案に存在しているということです。

 

このような例外形態でのみ、一部のあてはめが後ろに回されることになります。

 

先ほどの例を使っていえば、

 

【1】 Aは、(1)自動車の運転を誤り、(2)そのことによって?、Bは(3)怪我を負ったため、

        ↓

【2】 Bは、709の損害賠償を請求することができるか?

        ↓

【3】 ②因果関係があるか問題となる。 ⇒ ②=相当因果関係(②の規範への言い換え)

        ↓

【4】 (2)=②相当因果関係の範囲内といえる。 ⇒ (2)=②因果関係ありといえる。

        ↓

【5】 全てのあてはめが済んだので、709の損害賠償請求ok。

 

以上

 

これが例外形態の答案作成のパターンです。

(最後の【5】は、成立し損ねた【2】の反復なので、無理にパターンに含める必要はないでしょう)

このように、メイン条文(709条)の前と後に、要件の割り振りを行うのが、例外形態の特徴です。

要件の割り振りとは、すなわち、あてはめの割り振りに他なりません。

 

上の例でいえば、①③が709条の前に割り振られ、が709条の後に割り振られています。

 

まず、

【1】問題のない要件(あてはめ)がメイン条文の先に出て、

【2】メイン条文を引っ張り出します。

 

そして、

【3】問題のある要件がメイン条文の後ろに回って、

【4】再度あてはめが試みられます。

このように、行われていることは一貫してあてはめなのです。

この答案スタイルは、民法だけでなく、憲法や刑法など全ての科目に妥当します。

コツは、公共の福祉論やTb→Rw→S を、メイン条文の要件論として読み込むことです

そのような読み込みは、刑法という学問の前提ですし、憲法のほうも半ばそうだといえます。

 

公共の福祉の範囲内や構成要件該当性・違法阻却事由の不存在・責任阻却事由の不存在等を、個々のメイン条文に内在する広義の要件と考える、つまり、全ての条文にそれらの要件が書き込まれていると考えるのです。

 

そう考えれば、原則・例外どちらの形態においても、メイン条文の要件の割り振りが行われているだけであることが分かります。

こうしてあてはめの意義を、事実=要件を確認する作業という意味に広く解すると、要件はメイン条文を引っ張り出すための“理由”として機能していることが分かります。

(要件-効果は、原因-結果、理由-結論の言い換えなので当然なのですが)

 

ここで、要件が「理由」として健全に機能するために必要なのは、メイン条文の要件の多くが、三段論法などのややこしい手続き抜きに、素直に、ダイレクトに、事実と結びつくことです。

 

逆にいうと、仮にメイン条文の要件の全てが、規範に言い換えられなければならないものであったり、事実を詳細に評価が必要なものだったりした場合は、私たちはメイン条文を想起すること自体が困難であるか、場合によっては不可能なはずです。

 

どういうことか、いまちょうどTVに宮崎あおいが出ているので、彼女を例に説明します。

 

ある日の夜、渋谷駅で「宮崎あおいみたいな女性」を見かけたとします。

顔は100%宮崎あおいなのですが、公式プロフィールでは163cmとなっているところ、その日見た女性の身長は170cmを優に超えているので、このままではダイレクトに「宮崎あおい」と認定できません。

しかし、事務所のHPを確認すると、その日彼女はNHK(渋谷)の生放送に出演していて、出演時間から換算して今この時間に渋谷駅にいることは不自然ではないようです。

このような場合に、「彼女は宮崎あおいか?」という問題提起が正当に成立します。
 

 

【1】○月×日の△時頃、渋谷駅で、その☆分前までNHKにいたことが確認されている宮崎あおいに似た女性を目撃した。顔は間違いなく宮崎あおいだ。

 

       ↓

 

【2】彼女は宮崎あおいか。

 

       ↓

 

【3】宮崎あおいの身長は163cmであるところ、その女性は170cm超なため問題となる。

⇒163cmの女性が170cm超になることは、ブーツを履いていればあり得る。

 

       ↓

 

【4】その女性はブーツを履いている。

⇒彼女は宮崎あおいだ。

 

以上

 

 

ここで何を申し上げたいのかというと、もしその日、宮崎あおいが横浜にいたことになっていて、目撃した人物の身長が170cm超あって、顔が宮崎あおいというよりはむしろ阿部寛に似ていた・・・という具合に、宮崎あおいに帰属する要素の何から何までが曖昧だった場合、「彼は阿部寛か?」と問題提起することはあり得ても、ここで「彼女は宮崎あおいか?」と問題提起することは絶対にあり得ないということです。

 

そのような問題提起を行う人がもしいたら、その人はかなり法的センスに問題ありです。

(仮に、本当の正解が、大掛かりに変装した宮崎あおいだったとしても、です)

 

このように、私たちがメイン条文を想起することができるのは、メイン条文の要件のうち少なくともいくつかが、解釈などの面倒な手続き抜きに、ダイレクトに要件=事実を確認できるからなのです。

 

裏返していうなら、法的問題が正当に提起されるためには、実は、問題の大半は問題であってはならないのです。

「事案の問題提起」とは、まずは検討対象を宮崎あおいに特定した上で、「あれは宮崎あおいか?」と問いかけるまでの部分(【1】→【2】の原則形態までの部分)のことです。

 

普通なら一見して「あ、宮崎あおいだ」と即認定して全て終わるのが原則です。

ところが、認定作業に一部問題が生じたために、いったん「宮崎あおい」の認定を留保することを宣言するのが「事案の問題提起」です。「事案の問題提起」は、このように認定の留保が宣言される場合にのみ必要となるもので、これを処理パターンの一部として説明するのは本来はおかしなことです。

には、法律処理の原則形態を無視した、非常にセンスの悪い説明方法だと感じられます。

 

また、上述のように、宮崎あおいの要素のほとんどが宮崎あおいにしか見えないからこそ、宮崎あおいは問題として正当に提起されます。この理屈が全然分かっていない合格者や講師も数多いです。

 

彼らは時々「論点になる要件だけではなく、全ての要件を詳細に検討(たとえば規範に言い換えたり)するほうが丁寧な答案になるよ」みたいな致命的勘違いを述べることがあります。

 

これがなぜ「致命的」と言いたくなるほど愚かな見解なのかはもう説明不要でしょう。

しかし、それにしても彼らはなぜこのような愚かな勘違いをするのでしょうか。

 

その理由は、彼らの脳内には「事案の問題提起」に代表される問題(=論点)中心主義的発想が奥の奥まで染み込んでしまっているからです。

 

彼らには、原則-例外という二元的発想がなく、全てを例外形態一本で考える習性しかありません。

したがって、彼らにとっては、全ての法的問題が例外形態(=論点的問題)に見えるのです。

彼らが、法的問題の全てを、詳細に検討されるべき問題(=論点)と見るのはそのためなのです。


原則形態から順に答案を作成していけば、答案の冒頭の処理は簡単です。

【1】 まず事案の中にある一つ一つの事実と、六法の中にある主要条文の要件とを照合し、

【2】 照合率の最も高い条文を、メイン条文として立てます

実際の答案にも、その思考過程をそのまま書いていけばいいだけです。

このとき、要件と照合される事実は、ほとんどが曖昧な姿をしていません。

お面で顔を隠していたり、男装していたり、見分けのつかない姿で歩いていることはありません。

宮崎あおいが阿部寛にしか見えない姿で歩いていたら、「あれは宮崎あおいか?」という問題提起自体が成り立ちません。そんなことをしていたら、誰にも見つけてもらえません。「あれは宮崎あおいか?」という問題提起が正当に成り立つためには、その人が宮崎あおいっぽいことが絶対条件なのですから。

 

ですから、メイン条文は、少なくとも一定の訓練を積んだ受験生には、はっきりそれっぽいと分かる形で、つまりはメイン条文に似た事実として、問題文にその姿を晒しているはずなのです。

 

私が再三にわたって条文の重要性を説いているのは、条文の一つ一つの文言を意識することは、文言に対応する事実を意識すること、そして両者を結ぶ認識能力を鍛えることに繋がるからです。

テキスト的・法学的な理解をいくらしても、こうした認識能力はほとんど鍛えられません。答案を覚えるような勉強をしていてもダメです。論証フレームが云々・・・なんて最悪です。

 

事実 と結びつくのはあくまで 条文 であって、テキストや論証のフレーズではないからです。

テキストいくら理解・記憶したところで、それで問題文の 事実 が扱えるようにはなりません。

問題文の 事実 を動かすことができるのは、条文 (の一つ一つの文言)だけだからです。

 

論文試験で要求されるのは、問題文の事実を、答案という形の法律論(条文)に変換することです。

一言でいえば、事実を条文に変換することです。この事実→条文の変換力こそが論文力です。

 

論文力は、条文の一つ一つの 文言 と 事実 との間を、その受験生が何回往復したか

言いかえれば、論文問題という市場で、その受験生が 条文 と 事実 を何回交換したか

 

この経験の質と量によって決まります。

 

日本では、商品と交換ができるのは円だけです。

アメリカでは、商品と交換ができるのはドルだけです。

 

同様に、論文問題という市場において、事実 と交換ができるのは 条文 だけです。

 

アメリカに円を持っていっても商品と交換してくれないのが当たり前であるように、論文問題という市場にシケタイのセンテンスや法学の深い理解を持ち込んでも、事実と交換してくれることは原則ありません。

いくら基本書を読んでも、シケタイにマークしても、論証を理解しても、論文が書けるようにならないと嘆く受験生が多いのは当然なのです。なにせ、そこで使えない通貨を使おうとしているわけですから。

 

論文問題という市場で商品(事実)が買いたければ、その市場に相応しい通貨(条文)が必要です。

繰り返しますが、それは条文だけです。条文を持っていかなければ、交換の訓練自体ができません。

テキスト的な理解・記憶を持ち込んでも、市場の中を漫然とほっつき歩くことになるだけです。

 

このように、条文(の文言)は、論文力を鍛えるために欠かせないアイテムなのです。

間違っても、ただなんとなく「法学だから条文は大事だよね」などという腑抜けた理由ではありません。

条文が大事なのは、なによりも、条文でしか事実を買うことができないからなのです。


まとめます。

 

【1】→【2】

事実は、必ず特定のメイン条文に似た姿で、問題文の上に置かれています。

それを見つけて、特定のメイン条文の要件と事実を結合(あてはめ)させればいいだけです。

 

【3】→【4】

ダイレクトに結合させられない事実があった場合のみ、要件をいったん規範に言い換えます。

そして、その規範を介在させて、再び要件と事実を結合(あてはめ)させれば終了です

 

以上が論文処理の全てです。

法律問題の処理とは、要は、事実と条文の言い換えっこをしている だけです。

それはすなわち、事実を条文に延々とあてはめ続けている ことに他なりません。

 

やっていることはこれだけです。

 

【1】→【2】

直接あてはめるか

 

【3】→【4】

言い換え(規範)を介在させてあてはめるか

 

これらの違いがあるだけで、はじめから終わりまで、法律問題の処理は全て一貫してあてはめです。

 

間違っても、事案を問題提起したり、フレームに沿って論点を論じたりすることではありません。

そんなことは意識する必要すらありません。

今回提案した「あてはめ一貫型」は、このような法律処理の基本構造の理解に寄与するはずです。

冒頭から問題(論点)の発見を目的とした歪なパターン(問題提起→結論型)と比べれば、ずっと使いやすいパターンなのではないかと思います。


【紛争構造そのまま型】


もっとも、「あてはめ一貫型」が答案構造として最適とは必ずしも言えません。

この型は、答案の構造としては受験界で一般的なものですが、欠点もあります。

ひとつは、新司法試験のような長文問題では、最初の【1】のあてはめ段階が長くなり過ぎ、メイン条文の登場が相当に遅れてしまう欠点です。

さしずめ、スタートから1時間くらい経ってようやく主役が出てくる映画みたいなものです。メイン条文はその答案のテーマです。そのテーマが早い段階で現れないのが、このパターンの持つひとつの欠点です。

もうひとつは、前回のエントリーでも触れたように、法の本質は対立構造であるところ、このパターンではどうしても対立構造をそのままの形で漏れなく表現することができないことです。

よく論文指導で「反対利益に配慮せよ」と言いますが、このパターンでは反対利益の書き場所が用意されていません。ですから、この「配慮」を常に怠らない強い意識が必要になります。

別の言い方をすると、裁判官的な単線(1本)のストーリーで答案を書こうとすると、その単線のストーリーの中に、本来は反対利益(2本目のストーリー)であるはずの主張を強引に組み込む必要がでてくるのです。

 

前回のエントリーでも書きましたが、本来、公共の福祉や刑法総論や94条2項の直接適用不可などは、(形式的にみれば)被告側の対抗的主張なのですが、これらを単線のストーリーに組み込もうとすると、たとえば、個々の人権規定の内部には人権の制約原理が原初的に埋め込まれているんだとか、刑法総論は各論の規定に内在されてるんだとか(←これについてはさすがにそう考えざるを得ませんが)、類推適用をする場合にはまず直接適用ができない旨の指摘から始めないといけないんだとか…、そういう法の対立構造(本来はストーリーが2本あること)を忘れた法学的な説明の仕方(2本を1本に強引に回収する説明方式)が必要になってきます。

 

一言でいえば、話が抽象的で複雑なものになってくるのです。

答案の書き方も難しくなってきます。

司法試験でも実務でも、「単なる主張ではなく、裁判所に“通る主張”をするのが優れた主張である」との考え方があります。つまり、予め相手方の反論・利益を読み込んだ上で、裁判所に認めてもらえるような主張を提示するのが優れた主張のあり方だというのです。

 

たしかに、それはそれで現実の実務においては必要な発想なのでしょうし、対立より落としどころを重視する日本的な法文化にも適合的な思想だとは思います。

 

しかし、そういった“通る主張”(=落としどころ的・利益調整的発想)を極限まで押し進めていけば、最終的には裁判所(司法制度)自体が要らないという話になってしまいます。なぜなら、「通る主張をせよ」と言うことは、当事者に対して、実質的に「裁判官の代わりを務めよ」と命じることに他ならないからです。

 

やはり、このような最初から落としどころを探るような、言いかえると、相手方の利益を組み込みまくった単線的かつ調和的な発想は、対立構造という法の基本形態のあくまでも応用版と考えるべきでしょう。


以上の2つの欠点を克服する書き方があるとすれば、それはひとつしかありません。

 

すなわち、紛争構造型をそのまま書くという選択です。

 

紛争構造型をそのまま答案に書けば、メイン条文は答案の冒頭で提示されます。

また、反対利益も自然に示されることになります。

 

また、紛争構造型をそのまま書けば、最初に提案した「あてはめ一貫型」のように、メイン条文の前後で要件(あてはめ)を割り振る必要もなくなります
 

事実=要件を認定できる場合の要件も、事実=規範=要件という形で間に規範を介在させる必要がある要件も、いずれもメイン条文から演繹的に打ち下ろされる流れに沿って処理されるだけです。

 

このパターンなら、全てがシンプルに運びます。


【1】メイン条文

   ↓

【2】要件①②③(⇒解釈が必要なら解釈をする)

   ↓

【3】あてはめ

 

 

このように、答案構造が抽象から具体へ向かって語り下ろされるシンプルな形になります。

このパターンはたいへん魅力的です。

 

ただ、このパターンを採用することの決定的な問題点は、ここまで形式的に整理された答案を書いている受験生が現時点では一人もいないことです。

 

実務家っぽい感じがする書き方で案外いいんじゃないかと思うのですが、今のところこの書き方は受験界の支持を獲得していません。

 

10年後くらいには主流になっていてもおかしくはないかなと思います。