「言い換え」の連鎖 | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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法律の学習は、全て条文です。

 

法律学は条文を勉強しているだけですし、論文試験は条文を解釈しているだけです。

 

全ては、条文に始まり条文に終わる

これが法律学&司法試験です。

そして、条文の解釈とは、条文の言い換えのことです(『法哲学』 P.222)。

 

解釈に限りません。定義だって「言い換え」ですし、説明だって「言い換え」です。

大雑把にいえば、小説の感想だって広義の「言い換え」といえます。

問題に対する解答だって、問いを答えに「言い換え」ているにすぎません。

 

全ては A=B という等式の左右を行ったり来たりしながら「言い換え」ているだけのことです。
 

ちなみに、今回のエントリーの「=」(言い換え)とは、だいたいのイコール(≒)のことです。

あんまり厳密には考えないでください。

なぜ「言い換え」が必要なのかというと、人は言い換えることではじめて“分かる”からです。

 

「分かる」とは、その言い換えから何かしらの納得(意味)が得られるということです。

 

厳密な解釈・定義という言い方がありますが、そういう論理の飛躍の一切ない厳密な言い換えが本当にあるとしたら、それは「A=B」でも「A=C」でもなく、「A=A」であるはずです。

AをBと言ってしまった時点で、既に本当の意味での厳密さは失われて、そこには言葉のズレが生じてしまうはずなのです。

 

(定義)

富士山は、日本で一番高い山である。 (富士山=日本一高い山)

 

こう定義したとしても、ひょっとして日本には富士山より高い山があるかもしれません。

富士山が阿蘇山のように大噴火して削られたら日本一ではなくなります。

日本がネパールを併合したら日本一高い山はエベレストになってしまいます。

そうなれば、定義は書き換えなければならなくなります。


このように、A=B」という形で、右辺にAとは別のBを立ててしまった段階で、「A=B」という文章の厳密な論理性は失われてしまうのです。


視覚的にも明らかなように、AはどこまでいってもあくまでAであり、Bではありません。

AはAだからこそ、Aという呼び名があり、その呼び名に相応しい固有の機能を有しています。

同様に、Bもまた、Bという呼び名とともに、Bに固有の機能を有しているはずなのです。

 

本来は、AがAであり、BがBである以上、本当の本当は、「A≠B」という言い方が正確なはずです。

それを強引に「A=B」と言って何かを「分かった」ことにするのが、我々のことばの作法なわけです。

 

もしも本当に完全に「A=B」なのだったら、AとBが言葉として併存する意義は失われてしまいます。

そういうケースでは、AかBのどちらかが言葉としての機能を失うことになる(死語になる)はずです。


もし厳密な論理性に固執して、「富士山とは、富士山である」(A=A)と言うとすれば、これなら厳密な論理(=厳密な言い換え・繋がり)は守られますが、今度は何も「分かった」ことになりません。

 

分かった」ことにするためには、是が非でも、富士山を何か別の表現に「言い換え」なければなりません

 

何を言いたいのかというと、私たちが何かを「分かった」(≒論理的だ)と感じる本当の理由は、その論理(言い換え)が真の意味で厳密だからではなく、むしろその論理(繋がり)が断絶しているからに他ならないのです。

 

断絶という語感が強すぎるなら、飛躍と言いかえてもいいです。

 

「A=A」という厳密な論理(言い換え・繋がり)が放棄にされて、論理がAからBへと飛躍する(そしてその飛躍を私たちがどういうわけか承認する)ことによって、私たちは何かを「分かった」(論理的だ)と感じるわけです。

 

「A=A」では分からなかったものが、「A=B」に飛躍すると分かるようになる。

このように、厳密な論理が真の意味での厳密さを失うことによってはじめて、私たちは何かを「論理的」と感じることができるわけです。

恐ろしいことに、厳密な論理性を犠牲にすることが、「論理的」という実感の根拠になっているのです。


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・・・と、ここまでは余談です。内容的にはどうでもいい話です。

●ことばの操作は「言い換え」によって成立している

●論理操作なんて偉そうなことをいったって別に大したことはしていない


↑これが余談で言いたかったことの全てです。

あらゆる学問や言語活動は、このように「言い換え」によって成立しています。

 

法律学も同様です。

 

条文の文言を起点に、そこから延々と 言い換えの連鎖 を繰り返す

そして、必要ならば最後に条文に帰還する

 

これが法律学・司法試験で行われていることの全てです。

 

言い換えに争いがない場合を、定義と呼ぶことが法律学では多いです。

言い換えに争いがある場合を、論点と呼ぶことが法律学の習わしです。

言い換えに争いがあってもなくても、言い換えることそれ自体が、解釈と呼ばれることが多いです。

解釈の結果立てられた条文の言い換え(具体的表現)は、規範と呼ばれます。

このように、定義解釈規範も、すべて条文の文言や概念の「言い換え」です。

基本書の説明も、全ページが条文の「言い換え」です。

これら各概念に明確な線引きの基準はありません。
 

たとえば、定義の場合には「限定的な言い換え」という感じのニュアンスは入りますが、それが解釈とどう違うのか、完全に明確に説明することはできません。

あまり物を考えない合格者の中に、「法律の試験なのだから規範は必ず立てなければならない」とか、「規範を立てない事案処理は裸の利益衡量だ」と言っている人がいますが、全て勘違いです。

 

規範は、条文と事実とをうまく接合できない際に、その橋渡し役として必要になるだけです。

事実の評価も同じです。要・不要は事案との関数です。

 

もし、法律問題の処理において「それ」を除いたら裸の利益衡量になってしまう規範があるとすれば、それは条文だけです。

その他の概念は、定義でも規範でも評価でも、言われるほど厳密でも重要なものでもありません。

たとえば、当初は事実の評価として発案された表現が、
後続事案で反復して使用されるうちに、いつしかその表現が規範となっていく・・・なんてことが法学の歴史には多々あったはずです。

法学の概念なんてその程度のものです。

 

このように、定義・解釈・規範といった基本概念にさえ、想像するほどの厳密性は実はありません。

実際には、法律学は「言い換え」しかしていないのです。

 

しかしそうなら、やっていることは全て「言い換えの連鎖」それだけなんだ、と単純に捉えれば、法律の学習は一挙に明快なものになります。

 

ちなみに、今回こんなことを書く気になった理由は、論文基礎力養成講座のエントリー で、答案の冒頭で条文を示さないことがあることが、(それがたとえ「ことがある」程度であっても)思考の手順としてどんなにマズイことなのかを是非とも指摘しておきたかったからです。

 

法律問題の処理は、まずは原告の生の主張から導出された条文(=メイン条文の提示から始まり、そのメイン条文という形で示された主張の成否が判断されて終結するものです。

 

それ以上でも以下でもありません。

徹頭徹尾、ひとつのメイン条文が成り立つか否か、それだけを検討しているのが法律問題です。

 

条文が提示されることなく、いきなり何だかわからない「常識的な主張」みたいなものが検討されることは100%ありません(そういうのは「法律問題」ではありません)。

 

生の主張は、それが法律問題である限り、必ず特定のメイン条文に言い換えられます。

どうしても言い換えられない場合は、法律問題にはなりません。

 

※先に進む前に、下記の【言い換えの連鎖の図】をご覧いただけると助かります

 

次に、メイン条文の要素(≒要件・効果)が、事案とイコールの関係といえるかすなわち、要件・効果を個々の事実に言い換えられるかが検討されます。

(逆に、個々の事実を要件・効果に言い換えられるかと言っても同じです)

解釈の結果立てられる規範とは、要件・効果と事実との言い換え関係をより確実なものにするために、要件・効果をもっと具体化した表現に言い換え直したものです。

 

つまり、要件・効果事実に直接言い換えることに無理があるなと感じた場合に、まずは要件・効果をより具体的な表現である規範に言い換えてから(まずは要件・効果と規範をで結んでから)、次に、その規範事実との言い換え関係を確認することで(規範と事実をで結ぶことで)、晴れてメイン条文から事案至る「言い換えの連鎖」を完成させようとしているだけのことです。

 

このように、規範という名の「言い換え」を間に介在させることによって、条文と事案との間に往復可能な通路を作ることが、規範の機能です。

 

事案・生の主張・メイン条文・要件効果・規範・個々の事実・結論…こういった諸要素を、相互に言い換えまくって一本の論理にまとめているのが、法律学で行われていることの全てです。

実際にやっていることは、このようにかなり単純なものなのです。


したがって、規範(論点)をスキップして条文と事案の「言い換え」を認定してしまっても、一本の論理として成立するならそれでも良いわけです。

法律問題の処理で不可欠なのは、条文と事案の対応関係の確認です。

論点をスキップしても、この確認は(ある程度)できます。

「論点を思いつけなかったけど合格できた」みたいな体験談をよく聞きますが、論点抜きで事案を処理できてしまうというのはそういうことです。


大事なのは、こういった杓子定規な処理(=言い換えの連鎖)がきちんとできているかどうかです。

論点が書けているかどうかなんてことは、条文を処理する(言い換えの連鎖の)過程で必要になる派生的な問題に過ぎません。

論点を出すことも、三段論法(※【補足】参照)で書くことも、結果であって目的ではないのです。

 

件の問題集の話に戻りますが、実は、彼は方法論本のほうでは(理屈としては)そのように書いているのです。

ところが、肝心の答案のほうが全くそうなっていません。

 

すでに述べたように、法律問題がメイン条文の言い換え以外の何ものでもない以上、この問題集のように、答案の冒頭で条文を示さない「ことがある」というのは、(たとえそれが「ことがある」程度のものであったとしても)その本の著者に正しい法的思考の手順を踏む習慣が全くないということを、著者自らが暴露してしまっていることに他なりません。

 

真に優秀な合格者や実務家であれば、条文を示さずに答案を書いていくなんてことは、声を出さずにしゃべれと言われているようなもので、普通は努力したってできる話ではありません。

 

私がここで言っているのは、通俗的に言われる「条文は大事だからなるべく引用しよう」みたいな話ではありません。

そうではなくて、そもそも条文を提示することなく、たとえ1通でも答案を書いてしまえること自体が本来はおかしなことなのだ、と言いたいのです。

 

条文を示さずに、いったい何と何の「言い換え」をしようというのでしょうか

私には、条文を提示することなく法律問題が処理できてしまう思考回路そのものが意味不明です。

 

おそらく著者は、条文ではなく、似た問題の言い換え(類推)によって問題を解いているのでしょう。

そのような思考は少なくとも私には真似できませんし、また、真似すべきでもないと思います

 

 

【言い換えの連鎖の図】

 

 事案(メイン条文の要素の言い換え+法的に無駄な事情)

    ┃┃

生の主張(メイン条文の言い換え)

    ┃┃

メイン条文(生の主張の言い換え)

    ┃┃

メイン条文の要素(個々の事実の言い換え)

    ┃┃

 規範(メイン条文の要素の言い換え)

    ┃┃

個々の事実(メイン条文の要素の言い換え)

    ┃┃

 結論(当該事案の言い換え)

 


このように、個々のステージを行ったり来たりしながら、各ステージ間の対応関係をチェックしているのが法律問題の処理の全てです。

 

※特に大事なのは、赤で書いたメイン条文個々の事実をイコールで結ぶことです。

各ステージは全て一つのことの言い換えです。

その「一つ」とは、最も抽象的にいえば条文の文言ですし、最も具体的にいえば個々の事実です。

このように、抽象と具体との間を行き来する(言い換え合う)のが法律問題の処理です。


すべては、抽象から具体、具体から抽象へ、言い換えの連鎖が行われているだけです。


たとえば、「交通事故にあって怪我をした。なんとかしてくれ」という人がいたとします。

 

その要求を、「なんとかしてくれ」→「お金が欲しい」→「損害賠償」→「709条」・・・という形で、最も抽象的なレベルまで「言い換え」ていきます。


こうして交通事故の事実が、709の要件に言い換えられ、要件①②③…と事実との対応関係が検討されます。

ここでたとえば要件③を事実にそのままの言葉では言い換えにくいなと感じた場合、要件③を解釈して一旦規範に言い換えます。

言い換えてもその本性は要件③のままですから、規範=事実と言い換えられるなら、事実=要件③と言い換えてもよい、ということになります。


このように、法律問題は全部が全部「言い換え」です。

司法試験の問題・答案も同じです。

司法試験の問題文には法的に無駄な事情が含まれているという点はありますが、問題文のほとんどの部分、また答案の全ての部分が、特定の条文の特定の要素の言い換えです。


皆さんが普段読んでいる基本書・テキストだってそうです。

全ページ、全行、全文字が、特定の条文のどこかの要素の言い換えなのです。


こうして、問題文・答案・テキスト、どれを見ても、すべてが条文(要件・効果)で彩られたモザイク模様に見えてきたら、あなたの法律学習はいよいよ最終局面に近づいてきたと言ってよいでしょう。


司法試験の学習で「条文が大事だ」というのは、耳タコなくらいよく聞く台詞です。

受験生は皆、「そんなの知ってるよ、あったり前じゃん」と思っていると思います。

しかし、さすがにここまでしつこく論じられると、「条文が大事だ」という台詞に、通常考えられている以上の重大な意味があるということに気づかれたのではないでしょうか。


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法律の学習においては、法律(条文)を重視すること

試験勉強においては、試験問題(過去問)を解くこと

 

司法試験で大事なことは↑これだけです。

司法試験には「司法」と「試験」しかありませんから、これで全部です。

これ以外に重要なものは何もありません。


受験生の中には、条文の重要性を「当たり前」と受け流す人がいますが、皆さんはこの「当たり前」から目を逸らすことなく、日々の学習を行っていただきたいと思います。


優秀な人は、この「当たり前」から汲み取る意味の量が半端ではありません

「当たり前」に感動し続ける洞察力と、「当たり前」に居座り続ける忍耐力を持っています。

対して、多くの人は、「当たり前」から意味を汲み取れないので、すぐに別の方向へと逃げるのです。

このブログで何度も問題にしている教材の浮気(or手を広げる行動)は、このような「当たり前」から意味を汲み取り続ける能力(の無さ)という観点から説明ができる現象です。
「潰す」とは?

 

もし、条文を重視することが当たり前でつまらないことだと思えてきたら、そういうときこそ、それまで以上に自らの意識を条文に縛り付けてください。

どれだけ当たり前と思ったとしても、「当たり前」にはどこまでも終わりはなく、
「当たり前」にこそ終わりはないからです。

 

 

 

 

 

【補足】 三段論法という勘違い

 

法律問題の処理で大事なことは、条文を起点とした言い換えの連鎖を完成させることです。

よく言われる、三段論法で論じることではありません

 

司法試験や法学の世界では、しばしばこの三段論法が異様に神格化されている光景を目にします。

 

そうなってしまった理由として、

「論理」に対するナイーブな信仰(無理解)

論点的思考の原則化

があると思います。

 

①多くの受験生が、論理が言い換えの連鎖にすぎないことを理解しておらず、三段論法に何か「論理の本質」のようなものが示されていると信じ込んでいます。

 

②たしかに、論点付きの問題では、(結果として)答案は三段論法になりやすいといえます。

しかし、法律問題の処理で、論点が登場するケースは異常事態です。

ところが、多くの人が論点研究を生命線とする法学者のプロバガンダに洗脳されて、この異常事態を原則と取り違えています。

 

しかし、三段論法は本質でも原則でもありません。

補足としてこの点を確認しておきます。

 

 

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昔、ロースクールの演習で、実務家教員から、論点がない問題を三段論法で処理するよう指導されたことがありました。

しかし、論点がない問題を無理やり三段論法で書こうとすると、以下のように不自然で無駄な表現を強いられることになります。

 

刑法は199条で殺人罪を規定している。

    ↓

甲は乙を殺した。

    ↓

したがって甲には199条の殺人罪が成立する。

 

これが、実際に私が書くよう指導された「三段論法」の答案です。

ここには「199条」と「甲が乙を殺した」という2つの要素しかありません

 

本来は、要素が2つしかなければ、

 

甲は乙を殺したので、

    ↓

甲には199条の殺人罪が成立する。

 

と書くのが自然です。

 

このような「A→B」2要素の繋がりで完結する論理を、ここでは「2段論法」と呼びます。

 

実際、論点付きの問題になると、ほとんどの人がこの部分を「2段論法」で記述します。

 

甲は乙を殺したが、

    ↓

甲に199条の殺人罪が成立するか?

 

という感じです。

件の実務家教員も(普段から何も考えずにボーっと生きてるからでしょう)そうしていました。

 

なぜ、全く同じ部分を処理しているにもかかわらず、あるときは「2段」になったり、別のときは「三段」になったり、一貫性を欠いた場当たり的な記述になるのでしょうか。

 

その理由はおそらく、論点付きの問題だと、論点の展開部分で存分に三段論法が使えるので、それ以外の部分は安心(?)して自然な「2段論法」にできるからです。

 

逆に、論点が出てこない問題だと、三段論法を使う場所が見つからず、「三段論法ドグマ」に洗脳された受験生(合格者)はそのままでは不安(?)になるので、答案のどこかを無理にでも「三段」にしなけらばならないと思ってしまうのでしょう。

 

一部講師の中に、事実が条文へと帰結することが「三段」の根拠と考えている人がいるそうです。

法律答案が条文へ帰結するのはその通りですが、先ほども述べたように、条文に向かってまっすぐ帰るだけなら答案は「2段」にしかなりません。

したがってこれは勘違いです。

 

また、「法学では条文の言い換えが許されない(?)から三段論法になる」…みたいな、ちょっと理解不能な主張をする講師がいるとも聞きました(私もその動画をみましたが訳が分かりませんでした)。

こちらは二重の勘違いをしています。

 

まず、そもそも条文は、普通に規範など別の表現にに「言い換え」られます。

そして、そのように条文が別の形に変身させられてしまうことこそが、いわゆる法的三段論法が形成される最大の原因になっているのです。

変身前と変身後の同一性の確認が、三段論法の大前提的な機能を果たすため)

つまり、言い換える(変身する)からこそあなたの大好きな「三段」がでてくるのであって、言い換えがなければ「三段」になる必然性などないのです。

 

彼らは、法律答案=「三段」というドグマに拘りすぎています。

 

なぜ「三」にしなければならないのか。

それは、そこに論じるべき(繋ぐべき)意味の要素が3つ(A→B→C)あるからです。

2つ(A→B)しかなければ2でいいし、4つ(A→B→C→D)あるなら4つを繋がなければなりません。

 

「3」に特権的な意味などありません

三段論法が「三」なのは、定義上は文(命題)が3つあるからです。

しかし、文(命題)が3つになる本質的な理由は何かというと、そこに意味のある(繋ぐ必要のある)要素が3つあるからです。

 

このように、文の数ではなく、A→B→C…という要素の数・繋がりで考えることを強くおすすめしておきます。

 

どうして文ではなく要素でカウントしたほうがいいのかというと、

・要素が「3」の場合は、たまたま文(命題)の数がすっきり「三」(三段論法)になりますが、

・要素が「1」の場合は、文(命題)は不成立

・要素が「2」の場合は、文は「一」(一段論法)

・要素が「4」の場合は、(カウントの仕方によりますが)文は「六」(六段論法)

・要素が「5」の場合は、(上記に同じ)文は「十」(十段論法)

…となっていって、もう論理も整理もあったもんじゃないからです。

 

現実の論理は、法律学習者が大好きな「3」に限られるわけではありません。

時には「A→B」、時には「A→B→C→D→E→F→G・・・」と、要素の数はどこまでも必要に応じて決まるだけです。

 

この点、要素のつながりで考えていれば、相手が「1」だろうと「26」だろうと、ただ淡々と矢印を追っていくだけです。

「D→F」も「A→Z」も、すべて「A→B」と同じ、「2段論法」の連鎖(=つながり)として思考できるようになります。

すべてが「原因→結果」「理由→結論」「根拠→主張」といった「2段論法」で構成されていることが見えるようになります。

 

一方で、文(三段)に拘っていると、要素「1」を扱えないですし、要素が4以上になると途端に処理不能になってきます。

また、論理の基本形態が、A→B(原因→結果)の「2段論法」であるという原始的な事実が見えなくなってしまいます。

 

三段論法の本質は、

A→Cの「2段論法」が不安定なときに、間に「理由B」を介在させる

という点にあります。

 

(A)ソクラテスが→(C)死刑になる

 

そう聞いたとき、弟子たちは(B)「なぜだ!」と叫んだことでしょう。

A→Cが、それだけでは納得のいく論理になっていないからです。

理由B(ex.不敬神の罪で裁判にかけられ有罪になったため等)を示されてはじめて、(心情的にはともかく)論理としての納得が得られるわけです。

これが、意味のある3つの要素が論理的(有意味)に繋がった「3段論法」の典型例です。

 

(A)ソクラテス→(B)人間→(C)死ぬ

 

という法学入門にもよく挙げられている例文は、したがって三段論法の本質を理解させるための例文として、お世辞にも上等な文章とはいえません。

なぜなら、(A)ソクラテスが→(C)(一般論として)死ぬ と聞いて、(B)「なぜだ!」と叫ぶような馬鹿はいないからです。

「ソクラテスが(一般論として)死ぬ」なんてことは、理由を必要としない自明な事実です。

ですから、ここでの理由B(人間だから)は、全体を三段論法っぽく見せるためだけに捻じ込まれた、無意味で無駄な要素でしかないのです。

 

こんな無意味で無駄な要素を介在させたところで、納得(意味)の総量は1mgも増えません

 

人が納得(意味)を得るためにいくつの要素が必要かは、状況・文脈によって異なります。

人は納得するときは「1」でも「2」でも納得しますし(極端にいえば「0」で納得することさえあります)、「4」でも「5」でも納得しないときは納得しません。

 

「3」に何か論理の本質のようなものが示されているのではないかというあなたの考えは、したがってただの勘違いです。