★今回のエントリーでは、受験界で通常用いられている一般的な意味であてはめという言葉を使っています。
すなわち、論点解釈の上で立てられた規範に問題文の事実をあてはめる、という意味です(狭義のあてはめ)。
このような狭義のあてはめは、司法試験の合否を決する最重要要素ではない、というのが今回のテーマです。
一方で、あてはめの意味をより広く解し、あてはめとは条文に事実をあてはめること、と定義した場合、
このような意味でのあてはめ(広義のあてはめ)は、司法試験の合否を決する最重要要素ということができます。
この広義のあてはめの重要性については、別途エントリーを立てて論じていますのでそちらをご覧ください。
【論文試験の核心部分はあてはめではない】
前回、基本書を読んでも論文が書けるようにはならない で論文の処理手順をこのように整理しました。
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
その上で、
・基本書によって身につけられる部分を③④、
・合否を分ける核心部分を①②⑤(とab)、
と主張したのですが、本題に入る前にこの主張を少し修正します。
どう修正するかというと、完全解を書くという観点から特に重要で難しい部分は、たしかに①②⑤だと思うのですが、論文試験で合否を分けるのは、あくまでも「①→②→」のところまでだということです。
すなわち、
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
この部分までだと考えます。
ここまでで論文試験の勝負(合否)は実質的に決まっています。
一方で、⑤(あてはめ)の出来不出来は、合格を前提とした加点自由に過ぎません。
すなわち、⑤(あてはめ)は合否を分ける核心部分にはならない(場合が多い)のではないかと思います。
実際の勝負は、法律論の導出という前提部分で大方終わっているのです。
実際には、⑤が勝負の分かれ目になる問題もあるとは思うのですが、それはあくまでも皆が法律論の導出部分までミスをしないような例外ケースです。
ちなみに、あてはめは正しい法律論(規範)が立てられたことを前提に、そこではじめて評価の対象になる部分です。
言いかえると、法律論(規範)を立てる段階で間違ってしまったら、そこから正しいあてはめをすることは永遠に不可能になります。
したがって、「法律論は間違ったけれど、その代わりにあてはめで稼ぐ」(法律×あてはめ○)なんていうのはあり得ません。そんなのは法律の構造上不可能です。
可能なのは、「法律○あてはめ○」か「法律○あてはめ×」のパターンだけです。
つまり、前提的に大事なのは、あくまでも法律論の部分なのです。
ここからも、まず優先すべきは、法律論を正しく抽出できるようになることだといえるのです。
今回は、新司法試験はあてはめ勝負という受験界の「あてはめ信仰」に異議を唱えてみます。
【あてはめ信仰は正しいか?】
受験界ではよく「新司法試験はあてはめ勝負」と言われます。
上の処理手順でいうと、⑤こそが論文試験の合否の核心である、というのです。
このような「あてはめ信仰」は、特に新司時代以降、受験界の半ば共通認識となっています。
しかしこれは本当でしょうか。
実際に再現答案を検討してみると、この信仰にずいぶんと疑問が湧いてきます。
上位から下位(不合格者)まで、様々な種類の答案を検討してみると、あてはめ部分がよくできているのは、予備校やローの教授が作成した参考答案の類を除けば、ほとんどがいわゆる上位合格答案(一桁台のものからせいぜい100番・200番くらいまでの答案)に限られることが分かります。
一方で、合格ライン+10点~20点くらいの普通の合格答案に目を転じてみると、こういった普通の答案のあてはめ部分は、極めて出来が悪いものが多いことに気づかされます。
というか、いま「出来が悪い」と遠慮がちに書きましたが、実際はほとんどあてはめらしいあてはめがなされていないような、法律論一本勝負の答案も数多くあることが分かってきます。
「新司法試験は問題文が長いから事案分析や事実の評価やあてはめが命だ」と言われますが、実際に再現答案を幅広く見てみると、それが一部の合格答案にしか当てはまらないものだということが分かってくるのです。
同じ合格答案でも、あてはめができているものもあれば、できていないものもある。
それが実際の姿です。
受験生たちが強調するほど、一般的な合格者のあてはめ能力は高くないのです。
もっとも、合格者であれば、法律論の抽出部分は相対的に的確にできています。
平均的な合格答案を分析すると、一般的な合格者はこの法律論の部分を落としていないことが分かります(不合格者は、この法律論の部分が書けていなかったり、不正確だったりします)。
以上の点から、実際の合否を分ける基準は、あてはめ部分ではなく、正しい法律論を導き出せるか否か(上記処理手順でいうと「b」までの部分)にある、とみるのが妥当です。
つまり、受験生のあてはめ信仰は、客観的な事実に基づかない一種のドグマなのです。
【あなたは本当に再現答案を読んだのですか?】
受験界に多い、「あてはめが合否を左右する」「あてはめに評価を加えないと受からない」などの主張をしている方へ。
そういうことは、どうかお願いですから再現答案を根拠に言ってください。
出題趣旨や試験委員の威光を借りて、それだけを頼みの綱にして言うのはやめてください。
それは、自分の頭とからだを使うことを全部放棄した、新興宗教の信者の生態そのものです。
あなたはどこまで不真面目なんですか。
再現答案を分析することが、そんなに怖いですか。
あなたは、出題趣旨を読む努力は惜しまないくせに、なぜか大事な再現答案を分析する努力は見事なまでに怠り続けます。
たぶん、出題趣旨を読むのは自分の頭を働かせずに済むので楽だからでしょう。
でも、本当はそれだけではない、と私は思っています。
あなたは、きっと本当のことを知ってしまうのが怖いのです。
本当のことを知ってしまったら、今とは違う本当のこと・当たり前のことをしなければならなくなる。それが怖いのです。
自分が愛している「神様」の言葉が、実は結構いい加減であることが判明してしまう。それが怖いのです。
それが怖くて怖くてたまらないのです。だから、いくら説得してもダメなのです。
まあ、あなたが「神様」を好きなのは勝手ですが、問題は、あなたがとにかく必死に他人を巻き込もうとすることです。
あなたは心の底では不安の塊なので、自分の考えを自分の中に留めておくことができません。
不安から、とにかく一人でも多くの他人を巻き込みたがります。
たとえば、あなたは、わざわざ他人のブログに出かけていって、そこで神様の教えに反する意見を見つけては、わざわざ「教義にはこう書いてあるぞ」とお節介にコメントしたりします。
ロースクールや予備校で、神様の教えに背いて罪(試験勉強)を犯している仲間を見つけては、彼らを折伏しようとします。
まるで、そうすることが信者の務めであるかのように。
私には、あなたの信仰心がよく理解できません。
あなたの考えが本当に正しくて、相手が間違っていて、それが気に入らないのなら、放っておけばいい。
それでも説得したいなら、客観的な証拠を集めて、証拠と論理で相手を説得すればいい。
本当に説得力のある内容を語っていれば、他人のブログなど訪れなくても、そこにお節介なコメントなどしなくても、他人のブログの引用などしなくても、(このブログがそうであるように)勝手に参拝者は向こうからやってきます。
あなたの発言には、そのような説得力がありません。
だから、黙っていては信者が増えません。だから、あなたは、わざわざ「布教」に打って出るのです。
わざわざ他人のブログに出かけて行って、そこに神のお告げをペーストし続けるのです。
もっとも、あなたは、神様のお言葉が、実はかなり怪しいのではないかということも薄々知っています。
だって、あなたは、神様の権威という空手形を根拠にものを言っているに過ぎないからです。
自分では何も考えず、神様の口を借りて「司法試験って○○なの」と言っているだけだからです。
根拠は、ただひとつ。「だって、神様がそう言ってるんだもん」 これだけです。かなり強引です。
この無理矢理感は、あなただって心の底では強く感じているはずです。
ここに、再現答案という最強のバイブルがある。これを読んで、神様の○○というお告げを検証すれば、さらに信者を増やすことができる。罰当たりな不信心者たちに、神の裁きを下してやることができる。 よ~し再現答案読んじゃうぞ! ・・・う~ん、でもちょっと待てよ。もし、検証できなかったらどうするんだ? 神様のお告げが、ほんとは間違っていたと分かっちゃったらどうするんだ。 ・・・そんなの耐えられない。いやいやいやいや、耐えられないんじゃない。だって神様だぜ!。間違ったことなんて言ってるわけないじゃん! うわっ危ねぇー。もう少しで『情報局』とかいう奴の口車に乗せられて、再現答案読んじゃうところだった。神様、僕はもう迷いません。神様のお告げを検証するなんて、そんな不敬は二度と企てません・・・。
・・・と、まあ、どうせこんな感じなんでしょう。
こんな具合ですから、あなたの布教が説得力を持つわけがありません。
あなたは、ただただ不安なだけなのです。
不安だから、その不安を誤魔化すために、出題趣旨に書かれていることは真実だとわざわざ他人の家まで出かけて行って言わなければならないのです。
私がここまで自信を持ってそう言ってしまえる根拠は2つあります。
①一つは、私自身が再現答案を読んだからです。
再現答案を読んで、出題趣旨の要求が、現実に遊離して過大であることをきちんと自分の目で確認したからです。
②もう一つは、もし万が一、あなたが出題趣旨・再現答案そのどちらもきちんと読んでいるとしたら、あなたの信仰の正統性は、まず何よりも再現答案を根拠に主張されているはずだからです。
ところが、現実はそうなっていません。
出題趣旨は、論文試験の現実を、神様が解釈した言葉です。
再現答案分析は、論文試験の現実を、受験生自らが解釈することです。
もし、両者が完全に一致すれば、その受験生は、自らの見た現実をもって、神を正当化するはずです。
ちょうど私が、自らの見た現実をもって、神の言葉を阻却したのと同じように、です。
ところが、あなたは、あなたが信じる神の言葉を、ただ念仏のように繰り返すのみです。
それは、あなたが確実に再現答案を読んでいない何よりの証拠です。
このように、あなたは、本当にやるべきことを、何ひとつしていません。
また、自分が本当の意味で試験分析をしていない後ろめたさを常に抱えています。
そういう不安や後ろめたさがあるから、あなたは他人を巻き込む押しつけがましい行動に出るのです。
どうか皆さんは、適切な資料を用いて(出題趣旨は絶対的な資料ではありません)、きちんと自分の頭で判断してください。
そうして、不安に憑りつかれた受験生から自らを防衛してください。
【あてはめ信仰が生まれた理由】
では、なぜこのようなドグマが生まれたのでしょうか?
根本的な理由はひとつだと思いますが、角度を変えて3つ理由を挙げたいと思います。
理由①
受験生の間にあてはめ信仰が発生した最初の理由は、新司(ロー制度)発足時に、試験問題の長文化によって事実を取り扱う部分(特にあてはめ部分)の重要性が高まったはずだという先入観や期待が受験生の間に芽生えたことにあります。
新司法試験(ロースクール制度)の発足時は、とにかくこれから(新司)は何でもかんでも今まで(旧司)とは変わっていくんだ、という期待や願望のようなものが受験界に満ちていました。
たとえば、これから新たに司法試験(ロー)に参入する受験生にとっては、自分がこれから受ける試験は従来のような古くさい(大変で時間のかかる)試験とは違う、もっとエレガントな試験になるはずだと期待されていました。
旧司組の受験生にとっては、今まで自分を否定(不合格に)してきた古い試験が刷新されて、これからは新しい土俵で勝負ができるようになるはずだと期待されていました。
このように、形は違えど、全受験生がいわば呉越同舟のような形で、新司は旧司とはずいぶん違う試験になるはずだ、という期待を先行させていたのです。
そうした「ずいぶん違う試験」の象徴的な要素として、あてはめ部分の重要度が大きく変わることが望まれたのです。
こうした、何としてでも旧司と新司の間に差異を見出そうとする受験生に共通の願望が、あてはめ部分に結集し、受験生の「あてはめ信仰」というバイアスが用意されることになったのだと思います。
ちなみに、新司が旧司よりも圧倒的に受かりやすくなったのは事実です。
ただ、その理由は、論文試験のあり方が大きく変わったから云々ということではなく、単にロースクールという参入障壁ができたからです。
一定の貧乏受験生を土俵から排除したことが、司法試験易化の最大の理由です。
また、後述しますが、完全解を書くという観点からいえば、新司のあてはめ部分の重要性は旧司のそれよりも著しく高まったといえます。
もっとも、それは完全解を書くための重要性です。相対的にみれば、あてあめは、合-否ではなく合-合の分岐点にしかなり得ません。
理由②
2つ目の理由は、受験生の教材に起因するものです。
すなわち、受験生が勉強素材として参照している答案が、学者・予備校作成の解答例や上位合格者の再現答案に極端に偏っていることです。
同じ合格答案でも、上位から下位までその出来には様々なバリエーションがあります。
本当の意味で合-否の分岐点を探るには、不合格者の答案を分析する必要だってあるはずです。
ところが、実際に受験生が本試験分析と称して参照している答案は、そのほとんどが、
(1)学者や予備校が作成した解答例・参考答案
(2)上位合格者の再現答案
これら(1)(2)に極端に偏っているのです。
このような、完全解に近いプレミア答案ばかりを参照しているのが受験生の実態です。
これでは、合格答案の圧倒的多数である普通の合格答案のイメージは形成できません。
司法試験のような相対評価の試験においては、答案全体の中の圧倒的多数である普通の不合格答案のイメージを知っておくことも、受験戦略上重要です。
受験勉強には一般にやるべきこと、そしてやってはいけないことの2つがあります。
不合格答案を分析することで、普段やるべきことばかりに向かっている受験生の意識を、やってはいけないことのほうに振り向けることができます。
また、合格答案という片側の領域だけでは、合格ライン(合否の境界線)の確定は不可能です。
「合」と「否」の両方の領域を知って初めて、境界線は確定されます。
その意味で、合格ラインという境界を知るためにも、不合格答案の分析は不可欠です。
上述のように、普通の合格答案や合格ラインギリギリの合格答案は、法律論からあてはめまで極めて良くできた上位合格答案とはかなり趣が異なります。
どちらを参考(目標)にするかで、目指す答案のイメージから日頃の勉強方法まで、大きく変わってこざるを得ないくらいの違いがあるはずです。
それなのに、司法試験受験生は皆が皆、トップレベルの答案を書くための勉強ばかりしています。
もちろんトップレベルを目指す方もおられるでしょうし、それはそれで構わないのですが、そうだとしても皆がまるで他の選択がないかのように横並びでトップを目指している光景はあまりにも異様です。
これは、完全解に近いプレミア答案ばかりを教材にしていることによって、受験生の合格答案像が上位答案のイメージに引っ張られすぎてしまっていることに最大の原因があります。
その結果、すべての受験生が最高位の受験生並にあてはめができないといけない、と思い込まされてしまっているのです。
このように、受験生が完全解に近いプレミア答案ばかりを使っていることが、「あてはめ信仰」を生む原因になっています。
ここでは挙げませんでしたが、参考答案や上位合格答案の他に、出題趣旨も「あてはめ信仰」の原因のひとつに挙げることができます。
実際にできることよりも、試験委員が「理想をいえばできて欲しかった」と思っている内容ばかりが書かれている出題趣旨もまた、一種の完全解とみることができます。
理由③
最後の理由は、受験生の主観的な姿勢の問題です。
すなわち、受験生に合格ラインという相対評価の意識が希薄であるという心理的な要因です。
受験生には、合格ラインをクリアするのに必要な実践解よりも、合格ラインを度外視した完全解を意識するという問題点があります。
この完全解ばかりを意識する姿勢が、受験生を「あてはめ信仰」に導く結果になっています。
司法試験に限らほとんどの試験に共通に言えることですが、受験生の意識というものは、放っておくとすぐに、いわゆる完全主義のほうに傾きがちになります。
検討する(目標にする)再現答案も、完璧に近いものを参照する傾向が強くなります。
しかし、(いい加減しつこいですが)あてはめ部分まできっちり出来ている100番以内に入るような上位合格答案と、合格ライン+α程度の普通の合格答案の間には、情報量・完成度など様々な面で相当の違いが存在します。
目指す答案像を上位にするか普通にするかで、日頃の対策から違ってこざるを得ないくらいの質的差異があるのです。
新司法試験のような問題文の要素が多い試験では、答案に「書きうること」と実際に「書けること」が大幅に乖離します。
言いかえると、完全解と実践解の違いが大きく出るのです。
(すでに述べたように、特にあてはめ部分にこの差が大きく表れます)
新司のような試験では、この完全解と実践解との相違を、他の試験と比べてより強く意識する必要があります。
ちなみに、単純知識型試験では、完全解と実践解は完全にイコールになります。
ところが、上述のように、実際の受験生の意識は、もっぱらあてはめが過度に充実した完全解のほうに引っ張られており、実践解(相対評価)がほとんど意識されていません。
この相対評価の意識の希薄が、「あてはめ信仰」を生む根本原因になっています。
*******
【ちょっと休憩】
ここでお決まりの反論が考えられるので、それについて少しだけ検討しておきます。
その反論とは、こういうものです。
『たしかに完全解を書くのは難しいと思うけど、普段準備した80の力を現場で80出すのは難しいから、普段の勉強では100(=完全解)準備しておいて、それを現場で80(=実践解)出せるようにしておくのが現実的な試験対策だ』
…と、大体このようなものです。上記のような考え方は受験界でよく見られます。
(基本書主義を採用する受験生の理屈としてもしばしば利用されています)
私はこういう考え方を、「大は小を兼ねる」的発想と呼んでいます。
少なくとも新司法試験対策としては、この考えは基本的に成立しません。
たとえばAならAという論点の中身だけを競うのであれば、「大は小を兼ねる」は成立します。
このような試験では、完全解と実践解との間に質的な相違はなく、両者はあくまでAの出来不出来の程度をめぐって争われるだけのことです。
こうした試験であれば、大は小を兼ねる=完全解の中に実践解が含まれる=完全解を目指して勉強すれば実践解に到達できる、と言えるかもしれません。
しかし、新司の論文では、何度も述べているように、上位合格答案(≒完全解)と普通の合格答案(≒実践解)は、質的な部分が異なっています。
新司では、上位と普通は包含関係にあるのではなく、ズレた関係にあるのです。
以上から、「大は小を兼ねる」的な発想は、新司対策としてはおすすめできません。
*******
最後にもう一度、論文の処理手順を示して、全体のまとめに入りたいと思います。
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
いわゆる上位合格答案は、何よりも⑤の出来が際立っています。
①~④までしかできていない普通の合格答案とは対照的です。
もちろん、上位合格答案は、普通の合格答案を目指す際にも重要になる①~④部分もよくできているわけですが、その①~④の部分が霞んでしまうくらい、言いかえれば「この答案が合格したのは⑤ができているからに違いない」と勘違いさせられるくらい、⑤部分の印象が強烈です。
(本当は、「この答案が上位になったのは⑤ができているから」というのが正しい分析です)
「やっぱり新司はあてはめ勝負だ」と強制的に思わされてしまうくらい、上位答案のあてはめの出来は際立っているのです。
実際、多くの受験生が、この単なる加点事由にすぎないはずのあてはめを、合否の実質的基準と見誤っています。
その結果、合格するための勉強を犠牲にしながら、上位に入るための勉強ばかりし続けています。
しかし、「基本書か予備校本か」という愚問 でも述べたとおり、⑤(あてはめ)を鍛えることで身につくのは、あくまでも⑤(あてはめ)の能力です。
⑤を鍛えても、⑤ができるようになるだけです。
⑤を鍛えて、唐突に①とか②とかの能力が身につくなんてことはないのです。
それなのに、多くの受験生たちは、完全解や上位答案のあてはめの出来ばかりに目を奪われ、その結果、自分が本当にすべきことを棚上げしたまま(←ここ大事です)、あてはめ部分こそが司法試験の勝負どころだと思い込んでいます。
この点で私も友人と議論になったことがあります。
その友人は、まだまだ全然正しい法律論すら導けないレベル(つまりは不合格レベル)であったにもかかわらず、新司法試験はあてはめ勝負という通念を信じて、勉強時間の多くをあてはめ対策に使っていました。
もちろん私は異を唱えたのですが、反対する私に彼が言ったのは、「NOAさん、ほんとに再現答案見たことある?ほら、法学書院の再現集に載ってた150点台の答案(※当時は系統別に得点を算出していました。150点台というのはトップレベルの答案です)、あれ見てみてよ、あてはめ凄いよ」・・・。
私は反論して、そういう極端なトップレベル答案ではなく、平均的な合格答案を見てみる必要があること、場合によっては不合格答案も見てみる必要があることetc…を提案したのですが、あまり納得してもらえませんでした(というか、なぜ納得しない・・・笑)。
おそらく彼が、そして多くの受験生が、新司法試験も法律論勝負という事実に気づかない理由は、再現答案(=合格答案)のほとんどが、法律論部分は良くできていることによると思われます。
彼らは、合格答案という限られた領域内の得点の動きしか見ていません。
言いかえると、不合格答案を含めた答案全体の得点の動きを見ていないのです。
彼らは、こんな思考の手順で間違えていきます。
①合格答案のことごとくが、同じように法律論は無難にできている。
↓
②それでいて各々の合格答案には得点差がある。どうしてだろう?
↓
③あっ分かった。あてはめが出来ている答案が高得点を取ってる事実に気づいた。
↓
④そうか!新司法試験は法律論では差がつかないんだ。(←はい、ここで間違い!)
↓
⑤その代わりに、あてはめで差がつくんだ。(←はい、さらに輪をかけて間違い!)
↓
⑥新司法試験の論文では、配点はあてはめ部分にあるんだ。
↓
⑦新司法試験はあてはめ勝負だ。
・・・とこんな風に、途中から(④⑤から)論理が突然変異してしまっているのです。
譬えていえば、既婚男性を調べていて、仮にその男性たち全員に一定以上の収入があるとします。
その中で、より「いい女」をGetしたのがイケメンだったとしましょう。
そこである人が言うのです。
「結婚できるかどうかに収入は関係ない」(←はい、ここで間違い!)
結婚できるかどうかは容姿で決まる。
だって、イケメン度が高い人ほど女性の評価が高いから・・・と。
こういう「論理」がダメなのは、ある限定的な領域にだけ妥当している判断基準を、全体(前提)の判断に無自覚に援用してしまっていることです。
結婚の譬えでいうと、「イケメン度の高い男ほど女性の評価が高い」という既婚者の内部だけで成立している判断基準を、「そもそもどういう人が結婚できるのか」という全体の判断に無自覚にスライドさせてしまっていることです。
司法試験の話でいえば、「あてはめの出来がいい答案が上位に入っている」という合格答案の内部だけで成立している判断基準を、「どうすれば合格できるのか」という全体の判断に無自覚にスライドさせてしまっていることです。
当然ですが、既婚者という偏ったサンプルが容姿の重要性を支持していたからといって、それがそのまま結婚するのに収入は関係ないとという結論に結びつくわけではありません。
同様に、合格答案という偏ったサンプルがあてはめの重要性を支持していたからといって、それがそのまま司法試験はあてはめ勝負という結論まで飛躍できるわけではないのです。
最終的な真実を見極めるには、全ての判断資料を検討してみなければなりません。
(少なくともその必要があることくらいは気づかなければなりません)
全ての資料を検討するとは、(既婚者だけではなく)未婚者も判断資料に加えることが必要ということであり、(合格答案だけではなく)不合格答案も検討してみることが必要だということです。
そうやって全ての資料を検討してはじめて、「結婚できていない人は一様に収入が低いようだ」とか、「どうやら不合格答案は法律論ができていないようだ」といった、隠れた真実が見えてくるのです。
そこまでやってようやく、決定的な配点(合-否を分ける核心)がどこにあったのかが見えてきます。
※なお、今回のエントリーの趣旨からは余談ですが、答案の流れや答案の読みやすさ、法的センスといった点では、上位答案ほど参考になるのは当然です。こういった点に着目するのであれば、上位答案を検討する意義は大いにあると思います。
まとめます。
ほとんどの受験生は、現状のレベルは不合格者であるはずです。
今これを読んでいるあなたも、たぶんそういう普通の不合格者であるはずです(もちろん私もです)。
不合格者とは何でしょうか。
★上位に入っていないのではなく、合格ラインをクリアしていないのが不合格者です。
★上位答案が書けないのではなく、普通の答案が書けないのが不合格者です。
★絶対評価に応えられていないのではなく、相対評価に応えられていないのが不合格者です。
★完全解が書けないのではなく、実践解が書けないのが不合格者です。
★加点基準をクリアしていないのではなく、前提基準をクリアしていないのが不合格者です。
★あてはめが書けないのではなく、法律論が書けないのが不合格者です。
不合格者であるとは、法律論の抽出段階に未だ瑕疵があるということです。
これが不合格者の不合格者たる所以なわけです。
彼ら普通の不合格者たちが目指すべきラインは、まずは普通の合格者(合格ライン)であるはずです。
そして、その具体的な目標ラインは、普通の合格答案(≒実践解)として示されているはずです。
けっして、いきなりトップを目指して完全解を書くことではないはずです。
こういった合格ライン(相対評価)の意識を欠く受験生があまりにも多いのが現実です。
このように、受験生の関心が上位合格答案や完全解や加点自由やあてはめばかりに向かってしまう根本的な原因は、受験生の意識が論文試験の核心(≒合格ライン)に向けられていないからです。
今までその点を意識されてこなかった方には、一度、検討する教材(再現答案)と目標(合格ラインのイメージ)の修正を提案いたします。