※このエントリーは2018年に書かれました。
論点とは、解釈に争いがある点、すなわち争点のことです。
解釈とは、条文・概念を言い換えることです。
規範とは、論点部分の解釈(解釈に争いがある点についての解釈)のことです。
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解釈が必要になるのは、ある条文の適用・不適用をめぐる争いが起こった際に、当該条文の意味が明確にならないと、条文の適用・不適用ができず、紛争が終結しないからです。
通常、条文の文言は抽象的に書かれているため、それだけでは紛争に適用するのに“言葉足らず”なことが多いのです。
これが解釈が必要になる理由です。
このように解釈とは、ある条文の抽象的な文言を、もっと具体的な別の表現に言い換える作業のことです(この「別の表現」の中に規範もあります)。
解釈によって、条文の抽象的文言を、より意味が豊富に読み取れる具体的な別の表現に言い換えることで、条文と事実とを照合しやすいようにするわけです。
厳密にいうと、
・解釈=別の表現(言い換え)
・規範=論点化した別の表現(言い換え)
です。
もっとも、この2つをきちんと分けて使うのはとても面倒です。
したがって、ここから先、「別の表現」は全て単純に「規範」と呼ぶことにします。
(本当は「別の表現」のほうが「規範」よりも広いのですが、今回は「規範」のほうを主題化したいのでその方針でいきます)
ここからが今回のエントリーの本番です。
実は、この解釈(言い換え)は完璧なものではありません。
解釈によって立てられた規範は、元の条文の意味の全体を表しているわけではありません。
解釈によって、その文言の言葉の可能な意味の範囲全体が確定されることが本来は理想です。
しかし、そもそも規範とは、具体的な紛争を解決するべく目的志向的に作られたものにすぎません。
つまりは、当該紛争を解決するという目的のために、とりあえず暫定的に作られたものにすぎません。
(といっても、言葉の機能上そこはもうそうするしかないわけですが)
したがって、どの規範も、その条文(文言)の普遍的な意味を表現し切れてはいないのです。
だから、既存の論点では想定されなかった新たな紛争が発生し、それが既存の規範では解決できそうもないと判断されるに至った場合、法律家は、同じ条文を解釈しているにもかかわらず、その場でもう一度別の規範を創造してみせなければならないことになります。
だから法律学には終わりがないのだともいえます。
解釈によって立てられた規範は永遠に不完全であり、規範が完成を見ることは永遠にありません。
この解釈→規範の不完全性が「火種」となって、そこから新たな紛争が発生してきます。
つまり、この不完全性(火種)がある限り、法律家の仕事(紛争)が途切れることはないわけです。
いわゆる未知の論点とは、既存の規範では上手く適用・不適用が判断できないケースのことです。
「今度の紛争では既存の規範は使えません。よって、新しい規範を作ってください」ということです。
このように、規範は、ある程度抽象化されており、したがってある程度の汎用性が想定されてはいるものの、結局はある一定の類型に収まる事案が想定されていて、その類型に収まらない事案のことまでは考慮されていないものなのです。
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抽象的なことを言ってきたので、ここからはイメージを交えて具体的に説明します。
よろしければ、「必要性」と「許容性」について の【おまけ】のところに書いた図を先に見ていただけるといいかもしれません。
条文の文言をボールに見立てます。
ボールを手に取って、太陽に翳します。
すると、ボールと同じ大きさの影が地面に映ります。
この影が、いわゆる文理解釈によって導かれた、その条文の言葉の可能な意味の範囲です。
次に、同じようにボールを手に取って、今度はライトに翳します。
すると、今度はボールよりも大きい影が地面に映ります。
この影が、法律学で最も一般的な条文解釈(拡張解釈)によって導かれた、言葉の可能な意味の範囲です。
こうして地面に映し出された影全体が、その条文(文言)の言葉の可能な意味の範囲全体です。
ある事案の事実が、この影の内側にあれば当該条文は適用されます。外側なら不適用です。
このイメージを前提にもう少し話を進めます。
皆さんが予備校やロースクールで学んでいる規範こそ、あるいはこの影全体を示していると思われる方がいるかもしれません。
しかし、先ほども述べたようにそれは違います。
規範もまた影ではあります。
すなわち、その条文の言葉の可能な意味の範囲の“一部 ”ではあります。
しかし、どの論点のどの規範も、影全体をカバーしているわけではありません。
解釈は永遠に不完全なので、規範は、常に影全体より狭い範囲しかカバーしていないのです。
つまり、ある条文の言葉の可能な意味の範囲(影全体)の中には、
①規範によってカバーできる領域 と、
②そこが影になっているということだけが何となく分かる領域 の2つがあるわけです。
②は一種の自然な言語感覚として、「そこが影になってる」と「何となく分かる」領域のことです。
「そこが影だ」と分かるということは、影になっていない部分については、「そこは影じゃない」と分かるということでもあります。
この感覚はけっして怪しい(曖昧な)ものではありません。
日常用語を例に挙げて説明します。
たとえば、先入観・偏見・既成概念・固定観念・思い込み・独断…等々の簡単な日本語で考えてみましょう。
それぞれ非常によく似た言葉ですが、皆さん、これらの言葉をおおよそ正確に使用できるはずです。
しかし一方で、これらを一つ一つ正確に定義(≒規範化)できる人は、ほとんどいないはずです。
定義できないということは、先入観なら先入観だけを単体で取り上げて「正確に説明しろ」と要求されても、その言葉をきちんと説明する(つまりは定義づける)ことができないということです。
偏見でも固定観念でも、どれでも同じです。
ある意味では、私たちはこれらの言葉をよく分かってはいないのだといえます。
ところが、それにもかかわらず、私たちは「○○は既成概念とは言えるけど、固定観念とは言えないよ」といった風に、全ての言葉を非常に高い精度で使用・判別することができます。
仮に数十個の具体例をぶつけられても、ほぼ100%、「その例は思い込みにあたるよ」とか、「その例は独断じゃなくて先入観というべきだよ」といった判断ができてしまうはずです。
このように、説明はできなくても、私たちにはその言葉の意味が「何となく分かる」わけです。
「何となく」といっても、けっして正確性を欠くわけではありません。
定義は言えないのに、言えないまま、言葉の使用・判別について、正確な判断ができるのです。
「何となく」しか分かっていないのに、しかし極めて正確に分かっている。
不思議な感じがしますが、この「何となく分かる」こそが、言葉の本来的な機能です。
むしろ、本来的に怪しいのは定義のほうです。
だって、定義なんて、辞書によって書いてある内容はそれぞれ違うからです。
もっとも、違うとはいっても、それぞれの定義を示されれば、皆さんも「なるほどね」と、それらの定義が当てはまることが「何となく分かる」はずです。
あるいは、「さすがにそれは違うんじゃないの?」と、ある定義が当てはまらないことがこれまた「何となく分かる」はずです。
なぜ、定義さえ言えない人が、ある定義を示されて、それが「当てはまる」とか「当てはまらない」とか言えるのでしょうか。
これではまるで、定義が言えないにもかかわらず、その言葉の本当の定義(意味)を知ってるみたいじゃないですか…。
なぜなのか。
答えは簡単です。
その言葉を知っているかどうかは、まず何よりもこの「何となく分かる」という言語感覚の有無によって決まるからであり、この感覚は、定義が言えることに先行しているからです。
定義とは、この「何となく分かる」という感覚を、後で強引に不正確な言葉に置き換えたものにすぎません。
定義は、その人がその言葉の意味(影全体)を了解しているときに限って、あくまでもその意味からの帰結として、暫定的に(=不完全なものとして)生み出されるにすぎません。
「何となく分かる」が先で、定義は後です。
このように、言葉とは、
①定義(≒規範化)できる から → ②その意味が何となく分かる ようになるのではなく、
②何となく分かる から → ①定義(≒規範化)できる ようになるものなのです。
このことからも、「まずは基本書の理解・記憶が先で、その土台を築いた後に問題演習に取り掛かる」というインプット先行型(積み上げ型)の勉強法がナンセンスであることが分かるでしょう。
基本書の記述は、その全てが、不完全で、不正確で、暫定的で、曖昧です。
本当に正確なことは、そこには何一つ書かれていません(辞書と同じです。そういう宿命なのです。諦めてください)。
皆さんに正確にできることがあるとすれば、それは法を使うことだけです。
つまりは問題を解くことだけです。
法を正確に使うことができるようになれば、そのときはじめて、優れた基本書(「正確な基本書」ではありません)を書いたり読んだりすることもできるようになるでしょう。
これが正しい順番です。
日本語の「勉強」でも、英語の勉強でも、哲学の勉強でも、全部同じです。
(少なくとも日本語については、皆さん理解されているはずです)
受験界で当たり前とされている「常識」は、何もかもが逆なのです。
※ちなみに、正確にいうと、影全体が①②の領域に分かれているわけではありません。
説明の便宜上区別しただけで、本当は②だけで影全体を指しています。
このことは重要なので忘れないでください。
ここで、
・影の領域全体(言葉の可能な意味の範囲全体)=100
・規範の影の領域=70
・規範以外の影の領域=30
とします。
論文試験で問題文の罠に引っかかって自滅する受験生の典型パターンの一つに、既存の規範がカバーしていない領域(30)の問題を、既存の規範(70)の問題と勘違いするケースがあります。
こうした失敗をする受験生の多くは、論点・規範を起点に学習をしてきた人たちです。
彼らにとっては、条文から規範を導くことがパターン化されています。
言いかえると、「ある規範は、ある条文から導かれる」という形で、常に規範を主語(主役)にして、規範から考えるクセがついてしまっています。
常に規範から考えるというのは、規範(70)の領域に視点がロックオンされているということです。
これが、論点・規範中心学習をしてきた受験生の思考の習慣です。
そういう学習をしてきた受験生が、当局の用意した罠に引っかかるのは当然です。
彼らには、ある事案(問題)を、30の領域で迎え撃とうとする姿勢がそもそもないのですから。
論点・規範中心学習の致命的な欠点を指摘するとすれば、それは、条文をみるとそれを直ちに規範に言い換えるようとするクセが染みついてしまうことだといえます。
彼らには、ボール(潜在的な100)を示されると、それを直ちに70に圧縮して考えるクセがついてしまっています。
つまりは、その条文(≒100)→(ならば)→その規範(70) というクセです。
同時に、その事案(問題)→(ならば)→その規範(70) というクセもついてしまっています。
この思考だと、再三申し上げているように、規範以外の影の領域(30)が零れ落ちてしまいます。
もちろん、論点・規範中心学習をしている人の中にも、(条文を重視している限りでですが)その規範が、どの条文のどの文言に由来しているのか、それを絶えず意識している人はいます。
しかしその場合でも、そうやって身につく思考は、その規範→(ならば)→その条文 という形です。
残念ながら、これでもやはり、規範以外の影の領域(30)に自然に対応する能力は鍛えにくい、と言わざるを得ません。
論点・規範中心学習の人が条文を重視する姿勢は、規範部分(70)に注意を特化させてきた受験生が、あるときボールを軽視するのはマズイと思い、「この影はどこから来ているんだろう、どうしてここが影になっているんだろう」・・・とボールのほうを見上げることにした、ということです。
これが、その規範→(ならば)→その条文 という思考です。
要は、規範だけでなく、規範の発生原因となった条文も見てみよう、というのがここでいう条文重視の姿勢です。
このようにして彼は、「なるほど。このボールがあるから、この規範部分(70)は影になってるんだ」と納得するわけです。
↑この「思考」はやはりどこかおかしいです。
だって、本当は影は一色しかないからです。
規範(70)や規範以外の影(30)や影全体(100)が、それぞれ分かれて存在しているわけでは本当はないからです。
現実に存在しているのは、ボールと影(100)だけです。
「そこが影になっている」というときの「影」とは、影全体以外の何ものでもないはずです。
この影(100)に目が行かないのは、規範の影(70)と規範以外の影(30)との間に境界線を引いて、規範部分(70)を目立たせてしまっているからでしょう。
この思考にはメリットもあります。
それは、境界で囲った規範(70)の想起が最速化されることです。
一方で、もちろんデメリットもあります。
それは、言葉という言葉に常に付き纏う宿命のようなものです。
言葉で何かを切り分けること(70を重視すること)は、常に、切り分けた言葉の向こう側(30)が認識できなくなることを意味します(少なくとも、認識できにくくなることは確かです)。
これが、論点・規範中心学習の最大の欠点です。
これだけの代償を払ってまで、想起の最速化というメリットを本当に採らなければならないのか、というのが今回のエントリーにおける私の問題提起です。
なぜ、規範を学んでからその規範の由来(条文)を確認する学習方法がダメなのでしょうか。
なぜ、その規範→(ならば)→その条文 という形で条文を意識するクセを付けても、規範以外の影の領域(30)に自然に対応する能力は鍛えにくいのでしょうか。
条文によって影(100)が作られるのなら、どのような順番であっても、条文≒100が学習のどこかで強く意識されればそれでいいのではないか、と思われるかもしれません。
たしかにそうかもしれません。
本音をいえば、条文をどんな仕方であれ重視しているのであれば、普通の受験生に比べて相対的にずいぶんマシなのは確かです。
しかし、それでも論点・規範中心学習に危険があると思うのは、以下の(1)(2)(3)の理由です。
(抽象的には全部同じ話ですが、角度を変えて3つに分けました)
(1)一つ目は、すぐ上の青字で書いたように、規範部分に対する注目の強さが、条文への自然な意識を阻害してしまう危険性が高いからです。
規範部分をわざわざ独立に把握しようと努めるのは、その部分にまさに独立の有用性があると考えるからに他なりません。
それだけの注意を特定の領域に向けながら、同時に全体に平等に意識を配るのは、なかなか真似のできない芸当です。
(2)二つ目は、影からボールをを見上げるように、規範の発生原因として条文をみることは、規範を主役と捉え、条文を規範発生の動因(脇役)としか捉えなくなる危険性が高いからです。
このように、条文を最初から規範の色合いに染められた特定の色素と見てしまうことは、条文をまずは素直な日本語として(透明な存在として)見る目を曇らせてしまう危険性が高いと思います。
(3)三つ目が一番大事なポイントです。
ここでいう「100」とは、正確には条文から導かれた言葉の可能な意味の範囲全体(影全体)のことで、条文それ自体は「100」ではないからです。
(正確にいえば、条文は「100の発生原因」です)
論点・規範中心学習の人の「条文重視」の姿勢とは、事案(問題)から論点・規範(70)を想起し、それが何条(≒100)の話であるのかをたえず意識することでしょう。
シンプルにいえば、規範(70)と条文(≒100)との間をたえず行ったり来たりすることでしょう。
しかし残念ながら、規範と条文を行ったり来たりしても、その思考の往来の中に言葉の可能な意味の範囲全体(100)は入ってきません。
そして、真の意味で「100」が意識されなければ、「30」に意識が向かうこともありません。
つまり、彼らの思考から「30」が零れ落ちてしまうのは、実は、条文(≒100)への意識が足りないからではないのです。
そうではなく、条文から自然に導かれる「100」への意識が足りないからなのです。
ここでは条文を「≒100」と表現しましたが、そうやって規範(70)と条文(≒100)を行ったり来たりばかりしていると、やがては条文自体が「≒70」に見えるようになってしまいます。
(多くの受験生・講師が実際にそうなっています)
「100」=言葉の可能な意味の範囲全体=影全体とは、条文を素直な日本語としてイメージするときの、そのイメージ全体のことです。
一言でいえば、条文の文言に対する言語感覚(日本語感覚)のことです。
上の青字から引用するなら、特定の文言の意味が「何となく分かる」こと。
そのイメージの全体が、ここでいう「100」=言葉の可能な意味の全体のことです。
「論点を学んで→その原因となる条文をチェックする」ことで条文に詳しくなる受験生はいますし、素読を繰り返すことで諳んじるほど条文に習熟する受験生もいますが、それは今回の譬えでいえば、ボールをよく見ているだけです。
もちろん、ボールをよく見ることは、見ないよりはずっと良いことです。
しかし、ボールをきちんと見上げても、目を下したあとに注目される影が規範(70)に偏っていれば、ボール(条文)を注視した意義は半減してしまいます。
なぜなら、条文解釈をするとは、自然な解釈をすること、すなわち素直に影全体(100)を見ることに他ならないからです。
論文処理の過程で、事実を条文に素直に言い換えたり、素直に事実を評価したり、素直にあてはめをしたり、素直に結論を導いたりすることと同様に、条文解釈もまた、条文の文言を、素直に、自然な日本語に言い換えていく作業に他なりません。
論点だけ特殊なことをするわけではありません。
すべては(自然な)解釈なのです。
それなのに、多くの受験生が、なぜか条文解釈(論点)のときにだけ、素直さを失って異様な思考をし始めます。
「異様」とは、影全体ではなく、影の一部にすぎない規範部分(70)ばかり重視することです。
そうなるのはおそらく、この規範の部分(70)だけが、学問として知識化(権威化)されているからでしょう。
図式化すると、
①事案→②条文→③素直な解釈→④あてはめ …というのが、本来の思考手順です。
すべての段階が素直な言葉の解釈によって繋がれています。
ところが、論点・規範中心学習を採る場合、③だけが特殊に変化し、
①事案→②条文→③規範→④あてはめ …という流れになってしまいます。
この流れでは、全ての必要な要素を繋ぐことはできません。
しかし、すでに述べたように、規範は不完全なものです。
既存の規範で解ける問題は限られているため、このような既存の道具以外の道具を、その場で作り出すセンスが法律家には求められます。
だからこそ、論文では既存の道具が使用不能になる領域(30)が繰り返し問われるのです。
それなのに、未だにほとんどの予備校・ロースクールが、この論点・規範を起点とした異様な思考パターンを指導し続けています。
私は、もっと単純に、条文そのものを学習の起点にすること、そして、そこから素直な解釈を繋げていくことを強くおすすめしたいです。
素直な(自然な)解釈をするとは、規範の色に染められる以前の、無色透明な日本語として、条文を読み・使うということです。
規範というバイアスを抜きに、条文を解釈することです。
このような習慣をつけると、条文を言葉の可能な意味の範囲全体(100)に変換するイメージが身につきやすくなります。
このときに身につく思考は、その条文→(ならば)→その言葉の可能な意味の範囲(100)という形です。
この形で思考をすれば、既存の論点(70)もそこに自然に入ることになりますし、未知の論点(30)も既存の論点と同じ資格でイメージされることになります。
そうなれば、論文試験の罠に引っかかることも少なくなるはずです。
この方法でも、別に規範を学ばない(覚えない)わけではありません。
単に思考の形式の問題です。
なんだ、単なる形式の問題か・・・と甘くみてはいけない、というのが本エントリーの趣旨です。
条文を起点に素直な解釈をするクセをつければ、その条文→(ならば)→その規範(70)という思考とともに、それと全く同じ資格で、その条文→(ならば)→その言葉の可能な意味の範囲(100)という思考を自然にすることができるようになります(というか、そういう風にしかなりません)。
このほうが一石二鳥でしょ?ということです。
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ちなみに、受験界ではよく、「判例の射程を意識することが大事だ」と言われます。
これは、論点・規範中心学習のあり方、そして、この学習方法によって生じる穴(弱点)と密接に関係しています。
論点・規範中心学習では、上記(3)で指摘したように、条文(≒100)は規範(70)と強固に結び付けられて意識されるため、言葉の可能な意味の範囲全体(100)への意識が涵養されません。
その結果、いわゆる未知の論点といわれる規範以外の影部分(30)が穴(弱点)になります。
この未知の論点を問われて失敗する受験生が多いことは、既に述べた通りです。
もっとも、穴になるからといって(穴になるからこそ)、その穴を放っておくわけにはいきません。
論点・規範中心学習を採る場合は、この穴を何か別の方法で補填する必要がでてきます。
このとき要請されるのが、既存の影(70)の応用として未知の影(30)を捉えるという方法です。
つまり、既知の規範(判例)の類推によって未知の論点に対処するという方法です。
再三述べているように、論点・規範中心学習では、特定の条文から特定の規範が想起されるよう強固なシステムが組まれています。
すなわち、(図に書いたように)条文から規範へと一直線に降り立つルートが組まれています。
一方で、規範の領域から外れた未知の論点に降り立つルートは、そこにはありません。
もちろん、それでは困ってしまいます。
そこで、論点・規範中心主義者たちは、その未知の論点に降りるためのルートを新たに創設することにしたのです。
これが判例の射程論です。
司法試験受験界(法律学会)で判例の射程論が必要とされた(今なお必要とされている)のは、この未知の領域に至るルートを作るためだったのです。
もっとも、未知の論点に「降りる」とはいっても、彼らの思考には、条文から真っすぐに未知の論点へ降りるタテのルートはありません。
彼らの思考では、未知の論点にタテに降りることはできません。
そこで、仕方なく彼らは、一度タテに降りてから、ヨコ方向に移動するルートを開発しました。
判例の射程論(による処理)とは、このヨコ方向のスライド(類推)のことです。
すべての規範・判例・解釈etc…は、いわば「条文の射程」を定める作業のことです。
その意味で、判例の射程論とは、「条文の射程の射程」を定めたものともいえます。
(つまり、条文の影のさらに下に、「影(判例)によってできた影」を作るということです)
この場合は、判例の射程論を「タテ」と呼ぶこともできます(かなり無理矢理ですが)。
法学の世界で、判例の射程やリーディングケースが重視されるのは、このように、未知の論点を既知の論点(先行研究)の応用として捉えようとする類推思考的な習性を法学の研究者が強固に持っているからです。
実は、受験界で基本問題(典型問題)と応用問題の区別が強調されるのも同様の理由です。
多くの予備校が、まずは「基本問題」と呼ばれるものを受験生に修得させ、次に、その基本問題では対処できないような問題を、その応用で処理するよう指導しています。
これも、判例の射程論と同様の類推的な思考で問題に対処しようという姿勢に他なりません。
本当は、条文=「基本」とみて、それ以降の条文の解釈・運用=すべて「応用」とみる方法もあるのです。
このように考えれば、全ての問題が平等に条文によって解決されるべき「基本問題」となります。
このほうが、基本=条文から離れずに思考する「習性」を付けやすいと思うのですが・・・。
ここで私が勝手に心配しているのは、彼らの思考には所与の条件があるということです。
それは、未知の領域と既知の領域が、境界を接している(=似ている)という条件です。
類推的思考を用いる以上、これはほとんど譲れない条件になります。
しかし、そもそも既存の規範が特定の事案を解決するべく(目的論的に)立てられたものである以上、「未知」が「既知」と境界を接している(=似ている)保証など、本当はどこにもないはずです。
もちろん、条文からの帰結として両者を捉える方針に切り替えるなら、どんな「未知」も常に「既知」に似ていると言うことができますが、ここではそういう思考を放棄した後の話をしています。
このヨコ方向のルートは、既知に似ている未知、つまりは「既知の類推で対処できる未知」が出題された場合にしか機能しません。
これはとても危険なルートです。
なぜなら、「似ている」という思考が確かな論理性を持つのは、タテ方向の解釈だけだからです。
既知→未知へと向かうヨコ方向の類推には、このような確実性はないからです。
たとえば、ある事実が、ある判例の射程内に「ない」ことが分かったところで、その事実の「不適用」を確定させることはできません。
その判例の元となった条文の射程を定めなければ、確かなことは何も言えません。
(確実な判断は、射程内に「ある」場合にしかできません)
このように、条文と規範のタテ関係は、100%の確度で「似ている」かどうかを判断できますが、規範同士のヨコ関係は、必ずしも「似ている」とは限らないため、確度の高い判断はできないのです。
未知の論点が既知の論点に「似ている」保証など全くない以上、判例の射程論(ヨコ方向の類推)で未知の論点に対処しようとするは、リスクの高い行為だと私には感じられます。
ちなみに、司法試験では(何だかんだいって)このヨコ方向のルートが機能する問題が出題されることが多いです。
それは、出題者(学者)自身が、誰よりもこの類推的思考に囚われた存在だからです。
まあ、「だったら試験対策としてはヨコの類推思考でもいいんじゃないの?」と問われれば確かにそうかもしれないなぁ…といったんは思うわけですが、しかし、全ての未知の問題がそのような類推思考一辺倒で解けるとは限りませんし、やはり私としては確実なタテ方向の思考をおすすめしたいです。
条文を起点に素直な解釈をすれば、つまりは、条文の文言に対する言語感覚(日本語感覚)で問題を解く方法を採れば、このような無理をする必要は最初からありません。
すべては、論点・規範中心学習から条文中心学習へ移行することによって、自然に解決する問題なのです。
最後に。
いきなり法的主張や論点から考えず、生の主張から考える処理手順は、今や受験界の常識です。
昔は、基本書の記述をペーストする方法や、論点想起的な方法なども提唱されていましたが、最近はそういうことを言う人は以前よりはだいぶ減りました。
しかし、なぜ生の主張からスタートする必要があるのでしょうか。
答えは、そうしないと途中で大事な要素を見落とすおそれがあるからです。
途中の見落としを防ぐために、一から処理することにしたわけです。
(この話は処理手順の進化史の青字部分にも書きました)
皆さんも、いくら一挙に本丸を突ける可能性があるからといって、生の主張をすっ飛ばして、いきなり「これは何の論点だろう」とは考えないはずです。
4段階アルゴリズムを用いなくても、生の主張からのスタートが大切であるとの認識は、今や多くの受験生の共通了解になっているからです。
条文解釈についても、この処理手順と同じように考えて欲しいのです。
生の主張から始める処理手順が、多くの受験生の支持を集めるに至ったのは、それが法的に一番自然な(その意味で普遍的な)手順だったからです。
そして、条文解釈もまた、条文を自然な言語感覚で処理することに他なりません。
多くの受験生が、処理手順のときも、あてはめのときも、普通に自然な思考をします。
ところが、なぜか条文解釈のときだけ、突如として不自然な思考を始めるのです。
とはいえ、かつての論点想起的な処理手順が、その後、生の主張を起点とする自然な処理手順に徐々に取って代わられていったように、論点・規範中心学習も、時間をかけて少しずつ淘汰されていくことになるのでしょう。
(実際、昔の受験界は今よりもずっと論点主義的だったわけですから)
そのときは、今回紹介した条文を起点とした自然な思考方法が、受験界の常識になっているはずです。