★「基本書か予備校本か」という愚問 の続きです。
基本書を読む (ならば)→ 司法試験に合格する。
この命題は、受験界の有力説のひとつとして昔から根強く支持されています。
ロースクール時代以降、この手の主張は以前より広く受験生の支持を集めるようになりました。
しかしながら、基本書を読むことと司法試験に合格することの間に、まともな関係性はほとんどありません。
全く関係がないとは言いませんが、少なくとも、基本書読み(≒インプット学習)をメインに据えるような勉強法が、試験合格の観点から著しく合理性を欠く方法であることは確かです。
今回は、基本書の読解よりも、もっと広くインプット教材によるインプット中心主義的な勉強全般を問題にしたいと思っているので、「基本書」というワードは「予備校本」と読み替えていただいても結構です。
今回は論文の処理手順を例に、
基本書を読んでも論文が書けるようにはならない
という主張を具体的に述べてみたいと思います。
論文の処理手順には様々なものがありますが、ここではとりあえず以下のように整理します。
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
全然違う整理の仕方をする方法論もありますが、今回は大体こんなところでご容赦ください。
一般的な処理手順と比べてそれほど大きく違ってはいないはずです。
(なお、①②③…とは別にabc…を使ったのは、この部分にも独自の意義があるからです)
この①~⑥を相対的に上位のレベルで思考し→構成し→論述することが、論文が書けるようになること(≒司法試験に合格すること)です。
言いかえれば、この①~⑥を万遍なく書ける能力を鍛えることが、司法試験における論文学習です。
さて、ここから今日の本題に入ります。
この①~⑥の中で、基本書(インプット教材)によって身につけることができる部分はどこでしょうか?
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
答えは…もう色分けしてしまっているわけですが、言うまでもなく、赤で書いた③④の部分です。
この③④(=法律論)を体系的に漏れなく記載しているのが基本書です。
前回のエントリーで、「基本書を読めば、基本書が読めるようになる」と書きました。
その言葉に繋げていえば、まさに③④を勉強すれば、③④ができるようになるわけです。
つまりは、法律論を勉強すれば、法律論ができるようになるのです。当たり前のことです。
一方で、この法律論以外の部分は、基本書にはほとんど、あるいは全く書かれていません。
どんなに目を皿のようにして探し回っても、どんなに力を込めて行間を睨んでも、法律論以外の部分を基本書から見つけだすことはほとんど不可能です。
したがって、あなたがどんなに必死に基本書を読んだところで、その勉強によって修得できる内容は、どこまでも法律論の部分に限られます。
「法律論を勉強すれば、法律論ができるようになる」とは、
「法律論しか勉強しなければ、法律論しかできるようにならない」ということです。
これもまたあまりにも当たり前のことです。
どんなに嫌でもこの事実は変えられません。
というか、必死に③④の勉強をし続けて、いきなり①とか②とか⑤とかの能力が身についたら、それはただのオカルトです。現実の話ではありません。
次も非常に重要な論点です。
それでは、①~⑥の中で、論文を書くにあたって、核心となる部分はどこでしょうか?
合格者はこの部分ができたから司法試験に受かった。
不合格者はこの部分ができなかったから司法試験に受からなかった。
そういう合否の分岐点になる重要な要素は、①~⑥のうちどれでしょうか?
①~⑥のうち、どれができるようになることが、実質的に論文が書けるようになることなのでしょうか?
私の考えは、
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
青字で示した、①→②→ と ⑤ の部分です(すなわち、①②⑤とabです)。
多くの合格者に同じ質問をしても、ほぼ同様の答えが返ってくるものと思われます。
⑥(結論)の利益衡量に基づいた価値判断・妥当性感覚(相場感覚)も無視できない重要な要素なのですが、このエントリーでは扱いきれないので、今回は⑥の話は省きます。
もちろん、③④を不要と言いたいわけではありません。
しかし、合否の分岐点になるのは、あくまでも青字の部分です。
この①②⑤(とab、とりわけb)が、論文試験の核心部分です。
核心とは、重要な部分であると同時に、ここが最も難しい部分だということです。
どんなに頑張っても司法試験に受からない(論文が書けるようにならない)受験生は、③④ではなく、①②⑤ができないから受からないのです。
逆にいえば、この①②⑤ができるようになれば、論文を書くことは難しいことではなくなります。
つまり、論文が書けるようになることとは、①~⑥のうちの①②⑤ができるようになることをいうのです。
そして、当然ですが、①②⑤を鍛えたいなら、その①②⑤が記載された教材で勉強しなければならないはずです。
上記処理手順に、あえてaやbを加えたのは、この部分に独特の難しさがあるからです。
たとえば、憲法は条文(③)が少ないため法的主張の導出(b)にはあまり困りませんが、それ以前の生の主張を言い当てる段階(a)が難しいことがしばしばあります。
逆に、民法は生の主張(②)が少なく(物よこせ・金払えしかない)、この段階で間違えることはほぼありませんが、数多くの条文(③)の中から適切な法的主張を探し出すこと(b)が難しくなるわけです。
条文(③)や論点(④)を知っていることと、それを必要に応じて導き出せる(a・b)ことは、全く別の能力です。
基本書によって身につくのは条文(③)や論点(④)などの知識であって、aやbというプロセスではありません。
ここでもう一度基本書の話に戻ります。
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
たしかに、基本書を読めば③④(=法律論)が身につきます。
しかし、すでに述べたように、この法律論部分は論文試験の核心ではありません。
①②ができないから受からない、あるいは、⑤ができないから受からない受験生はたくさんいます。
しかし、「法律論“だけ”ができないから受からない」などという受験生は存在しえません。
一定以上勉強した人で、法律論の理解・記憶ができていない人などまずいないからです。
(もちろん、およそ司法試験受験生とは呼べない怠け者受験生は除きます)
失権した受験生でも、最後まで法律論部分を理解・記憶できなかったという人はいないはずです。
もっとも、法律論(③④)を理解・記憶していても、必要な文脈で③④を的確に想起(b)できない人なら存在します。
しかし、既に述べたように、この部分(b)は基本書では鍛えられない能力です。
そして、この部分こそが、論文試験の核心なのです。
この論文試験の核心部分(①②⑤)を、基本書の精読(③④)でカバーすることは不可能です。
論文が書けるようになるという目的のために、一生懸命法律論を勉強するというのは、ようするに、目的 と ほとんど関係ない部分を一生懸命鍛えていることに他ならないからです。
このような 目的 と 手段 がズレた勉強(鍛えるべき場所を間違えた勉強)をしていたら、どんなに頑張っても目的が達成されることはありません。
何度も引用しているチャートでいえば、基本書ばかり読んでいると(=法律論ばかり鍛えていると)、
やがて・・・
①問題文の分析
↓a
②生の主張
↓b
③法的主張
↓c
④解釈(論点)
↓d
⑤あてはめ
↓e
⑥結論
こんな感じの、お腹のあたりが異様に膨れた「法律論メタボ」になるだけです。
(このネーミング広めたいなぁ・・)
メタボに必要なのは、栄養(③④)ではなく運動(①②⑤)です。
つまりは、問題を解くという運動が必要なのです。
もっとも、「知識の習得はいずれにしても必要なのだから、その限りで基本書を読みたい」という方がいるかもしれません。
もちろん、そうしたいなら、(法律論を身につける限りであれば)そうしても構いません。
しかし、実際に答案に記載する法律論(≒論点)の内容は、基本書の記述よりもはるかにシンプルで短いフレーズのようなものです。
また、あてはめ部分と違い、ほとんど自前の言葉を要することなく暗記で(も)対応できてしまう類のものです。
内容の理解も、実はあまり必要とされていません。
覚えたものをそのまま吐き出せば、それで最低限の体裁は整ってしまいます。
理解していても、していなくても、得点に影響することはほとんどありません。
もちろん、論点の規範を覚えておく必要はあります。
さらに、論点がなぜ発生するのかを理解しておく必要はあります。
つまり、条文の文言の意味を理解しておく必要はあります(論点の発生原因とは、~結論の妥当性を欠く場合を除けば~条文の文言と事実との間に生じた齟齬に尽きるからです)。
しかし、多くの受験生が理解に時間を費やしている論点の理由づけについては、意味を分かっておく必要は必ずしもありません。
極端な話、仮に理由づけが中国語で書かれていたとしても、私たちはその意味不明な中国語の文字列を機械的に暗記して、答案用紙に書いてくればいいだけです。
司法試験で求められる論点の「理解」とは、実はその程度のものです。
規範は暗記しておけば十分ですし、理由づけに至っては意味不明の中国語でも構わない。
そう考えると、多くの受験生が論点「理解」に膨大な時間を費やしていることがいかに無駄か「理解」できると思います。
論文試験で論点が書けている受験生は、論点の中身を理解しているから論点が書けているのではありません。
論点の中身ではなく、論点の使い方(発生原因)を理解しているから論点が書けているのです。
この2つは表現としては微妙な違いですが、司法試験対策としては本質的で決定的な違いです。
どちらに多くの勉強時間を割くかによって、その受験生の論文力は全く違ったものになるからです。
さらに、法律論(≒論点)部分は、①②⑤と違い、配点が少ない部分です。
予備校本の論証例のような定型的表現であっても、基本書に書かれているような重厚な学術的表現であっても、はたまた、サブノートに書かれているような箇条書き的表現であっても、内容に間違いがなければ、得点的な差はほとんど(あるいは全く)生じないはずです。
↑こういうところを否定したがる人は、ちゃんとした再現答案分析をしていないことがほとんどです。
下の【補足】で、その点をもう少し詳細に指摘しておきました。
つまり、法律論の習得は、たしかに前提として必要となる部分ではあるのですが、この部分の修得を勉強のメインに据えたり、わざわざ難しい基本書で法律論を身につけようとしたりすることは、労力(時間)対効果の観点から、得点効率が低い手段だと言わざるを得ないのです。
このような得点効率の低い勉強に、多くの勉強時間を費やすのは無駄でしかありません。
こんな得点効率の低い勉強に、わざわざ浩瀚な基本書を用いる必要はないと私は思います。
法律論の習得は、予備校テキストで済ませてしまうのが、最も効率的な方法です。
今回のまとめです。
★基本書を読むこと(③④)と論文が書けるようになること(①②⑤)はほとんど別のことです。
★よって、基本書読みをしても論文試験の核心部分を鍛えることはほとんどできません。
★さらにいえば、基本書読みは、法律論を習得する場合にさえ無駄の多い学習法です。
ようするに、上記①~⑥の能力は、それぞれが独立した別個の能力であると考えなければいけないのです。
そのように、きちんと意識的に、パーツごとに、分割して考えられるべきなのです。
パーツごとに分割して考えれば、「③④(法律論)を鍛えたら、なぜかいきなり①②⑤もできるようになった」なんてオカルト話がありえるはずがないことは、誰にだって理解できるはずです。
それが分からないのは、①~⑥を、漠然と、丸ごと全部ごっちゃにして、だらしなく、そしてテキトーに考えているからです。ようするに不真面目だからです。
そうやって全てを曖昧に誤魔化して、ぼや~っといい加減に考えているから、
『③④法律論を理解・記憶したら、あ~ら不思議、論文が書けるようになってしまいました~』
・・・などという、途方もない詐欺話にコロッと騙されるのです。
論文が書けるようになりたいなら、①~⑥のパーツは、すべて万遍なく鍛られなければなりません。
①~⑥は、ひとつずつ、注意深く、誤魔化しなく、意識的に鍛えられなければなりません。
そして当然ですが、①~⑥のすべてを満遍なく、確実に身につけたいなら、実際にその①~⑥が記載されている教材で学習する以外に方法はありません。
特に重要な①②⑤(a・b)の部分がきちんと掲載されている教材を使わなければ話になりません。
長々と書いてきましたが、それが③④基本書ではありえないという点だけは、今回確認できたかと思います。
(では、どういう教材が相応しいのか、についてもすでに答えは出ているはずです)
論文の処理手順を要素ごとにきちんと分けて分析してみれば、誰だってこんなのは当たり前の話だと簡単に分かるのですが、逆にイメージだけでぼんやり考えていると、いつの間にか・・・
『基本書を読んだら → 司法試験に合格する』 とか
『基本書を読んだら → 論文が書けるようになる』 とか
そういう論理の飛躍した嘘話が出来上がってしまうのです。
すべからく受験生は、
★自分がいま、①②③④⑤⑥ の、どの部分を鍛えようと思っているのか
★その教材、その勉強が、①②③④⑤⑥ の、どの部分を鍛えることに役立つのか
を、きちんと意識しなければなりません。
それさえできていれば、大きく道を間違えることはないはずです。
【補足】
受験界には、私が主張する「短い論証説」に対して、
・司法試験はバランス感覚が試される試験だから、長い論証で利益衡量をする必要があるとか
・司法試験では学術的な到達点に対して敬意を示す必要があるから、長い論証が必要だとか
・司法試験では説得的な文章を書くべきだから、説得に足る量の長い論証が必要になるとか
こういう「長い論証説」を唱える人が結構多いです。
これらには大した根拠がありません。
こういう主張をしたければ、再現答案に基づいた客観的な根拠を示すべきです。
しかし、いくら再現答案を検討しても、長い論証説を支持する証拠はほとんど見つかりません。実際、新司時代の高得点答案の多くは、旧司時代よりはるかにシンプルな論証しかしていません。
私には、長い論証説は、主観的な「べき論」を語っているようにしか思えません。
客観的に、論証の長短に本質的な重要性があるとはどうしても思えないのです。
もっとも、長い論証説がしばしば持ち出す客観的っぽい根拠が一つだけあります。
それは、高評価答案は長い(ことが多い)という事実です。一応これは客観的事実です。
答案の長さと評価は、たしかにかなりの程度相関しています。
長い論証説の支持者は、この事実から「論証は長いほうがよい」と主張することが多いです。
論証を長くすると、そのぶん答案も長くなるからです。
しかし、この事実からそのまま真っすぐに「長い論証説」の正しさを導くことはできません。
まず、長い答案が→高評価になるという仮説は、簡単に認定できる事実ではありません。
たとえば、実力のある受験生は、一般に長い答案を書く傾向があります。
一方で、実力のない受験生は、頑張っても短い答案しか書けないのが普通です。
つまり、長い答案が高評価なのは、その答案が長いからではなく、端的に良い答案だからであって、短い答案が低評価なのは、その答案が短いからではなく、単純にその答案が悪い答案だからかもしれません。
この疑問を解決するには、実力のある受験生にあえて短い答案を書いてもらうしかありません。
しかし、こういう試みは(旧司時代にはありましたが)新司ではほとんどありません。
(ちなみに、旧司では極端に短くても優れた答案には最高評価が付いていました)
やはり、高評価答案が→長いということは言えても、そこから直ちに逆(長い答案が→高評価)が正しいとは言えないのです。
基本的には、答案の評価は、(新旧通じて)長いか短いかではなく、中身の良し悪しで決まっている、としか言いようがありません。
答案の長短と評価との関係で確実にいえるのは、高評価答案は→長いという方向だけです。
つまり、優れた答案が結果として長い答案になる、というのが正しい因果の流れであり、その因果を逆にして、答案の全体or特定のパーツを意図して長く書くことで、答案の評価を上げることはできない。
これが私の考えです。
ここまで述べてきたことを一度まとめます。
①良い答案が→長い答案になることには、正当な因果関係がある
②論証の長短と評価には、因果関係はない
これが私の主張です。
以下では、この①②を別の視点から整合的に説明していきたいと思います。
まず最初に、試験の評価において最も大切な真実を挙げておきます。
★試験において、配点は問題文にある。
↑これは、試験の評価における最重要の真実です。
司法試験のみならず、ほとんどの試験において、配点は問題文のみにあります。
問いに答える、問いを答えに言い換えるのが試験ですから、これは当然です。
試験という試験はすべて、この問いの中に答えが含まれている構造で作られています。
試験とは、本来このように疑問の余地のないほど客観的で明瞭(ゆえに公正)なものです。
反対に、問題文に答えが明瞭に書かれていない試験、問題文の言い換えでは済まない試験、何だか分からない内容的なものを頭の中から取り出してくることが求められるような試験、ようするに、問題文から隠された何らかの暗黙の了解に基づいて解答を作成することが求められるような試験は、客観性を欠く「不公正度」の高い試験です。
大学院入試(←研究者養成機関のほう)のような、狭いサークル内で処理される内輪の試験の中に、こういう不透明性の高い試験が一部あるようです。
司法試験は、客観的で明瞭で公正な試験です。
司法試験は、問いに答えれば合格できる。多くの合格者が口を揃えてそう言ってきました。
問題文の中に評価の要素は全て現れている(隠されている要素は何もない)ことは、司法試験において間違いなく信頼してよい事実でしょう。
現在の司法試験はかなりの長文です。
このような問題文の長い試験は、問題文の中に評価の要素が大量に詰まっています。
したがって、問題文のひとつひとつの要素(事実)に正しく触れれば触れるほど、より多くの「問いに答える」ことになるため、答案の評価は高くなるのです。
「司法試験は事実をたくさん使うと点になるんだよ」という風に、ここに述べたことを、何か司法試験に固有の特徴であるかのように言う人がいますが、それは本質からズレた考えです。
試験というのはそもそも、問いの中に答えの全てがその姿を現しているものです。
言いかえると、問いの中に答えの全てが含まれているものです。
問い=答え、あるいは問い>答えが試験の本質です。
司法試験で事実(問題文の要素)を使うことが点(答え)になるのは、このような問い=答えという試験の本質から演繹される必然にすぎません。
試験という試験に強い根源的に試験に強い受験生は、司法試験におけるこの「事実が点になる」という事態を、司法試験に固有の特徴とは捉えません。
そうではなく、一言でいえば「試験とは常にそういうものだ」と考えるのです。
これが根源的に試験に強い受験生の発想です。
もちろん答案の長さについても同様です。
評価が高いということは、たくさんの問題文の要素に触れているということです。
たくさんの要素に触れようとすれば(=たくさんの問いに答えようとすれば)、そのぶん答案は基本的には長くならざるを得ません。
つまり、評価の高い答案が長い答案になるのは当然なのです。
このように、問いに答えることが試験の本質である、という点から全ては説明できます。
次に、論証の話に移ります。
「事実と法律論は切り離さなければならない」
↑これは、誰もが知る法律学の原則でしょう。
事実によって、法律論の中身を変えることは原則できません。
そのような力は事実にはありません。
この「事実からの独立性」があるからこそ、法は客観的で公正な道具たりえているのです。
司法試験においても同様です。
問題文の事実は、法律論の中身とは何の関係もありません。
いくら事実の量が増えても、それで一つ一つの法律論の中身が太るわけではないのです。
もちろん、問題文の事実が増えることによって、法律論の数が増えることはあるでしょう。
しかし、その法律論の長さをどうすべきかは、問題文からは何ひとつ判断できません。
問題文という客観的情報から、論証の長短についての指針を読み取ることは一切できないのです。
このように、事実には、特定の法律論を選別する力しかありません。
その力が、法律論の内部(長さ)にまで影響を及ぼすことはないのです(あったら大変です)。
皆さんもちょっと試してみれば分かります。
問題文の事実をどれだけ多く使っても、それで法律論の中身を長くすることは些かもできません。
問題文の事実に、論証を長くする力は一切ないのです。
・客観的で公正な問題文の事実、すなわち「問い」に、論証の長短を決する力はない。
・問いに答えること。それだけが司法試験の実質である。
以上から、司法試験において、論証の長短は客観的に問われていないと言わざるをえません。
もし、司法試験が客観性・公正性を維持したまま、法律論の長さに配点したいのであれば、問いから論理必然的に法律論の長さを導けるように、問題文を構成し直さなければなりません。
つまり、その要求を、誰にでも分かる形で問題文に可視化しなければなりません。
このような措置なしに、司法試験の客観性・公正性を維持することはできません。
過去の論文試験で、「反対説を書け」という要求が問題文に露骨に記載されたことがあります。
これはまさに、反対説という法律論に配点を設けるべくとられた客観的措置に他なりません。
司法試験のような、試験委員の恣意が許されない公正な試験では、法律論に加点したいと思えば、このような客観的な措置をとる以外に方法はないのです。
このような措置抜きに、特定の法律論の充実に対して勝手に加点することはできないはずです。
つまり、「反対説を書け」などという不自然で露骨な要求をわざわざ問題文に記載したというこの事実は、法律論(本問では反対説)を書いてほしいという試験委員の切なる願いの表れであると同時に、そんな願いだけに任せて加点をするような権限(自由)は試験委員にはないということの何よりの証左なのです。
たとえ試験委員でも、客観的な問題文から論理必然的に演繹することができない内容に対して、主観的な願望に任せて勝手に加点をすることは許されていないのです。
受験生は、このような司法試験の客観性・公正性をもっと信頼するべきです。
司法試験は、受験者にとって本当に必要なことは、必ず、問題文にそのように書くはずです。
まとめます。
①高評価の答案が長いのは、問題文の事実をたくさん拾った結果です。
(論証が長いから→答案が長くなるのではありません)
②問いに答えるのが司法試験です。必要なことは全て「問い」に書かれています。
そして、司法試験の「問い」に、論証を長くする力は一切ありません。
したがって、司法試験では、論証の長さは問われていないのです。
最後に蛇足です。
もし、論証を長くしようと思ったら、問題文とは何の関係もないところで(←ここが決定的にダメダメ)事前に、馬鹿の一つ覚えみたいに、長い論証を覚えておくしか方法はありません。
「問題文に何が書かれていようと関係ない」
「私は論証を長く書くって決めたんだ。決めたんだから決めたんだ」
試験というものを、↑こういう事前に用意したことを実行することとしか考えられないことが、あなたが試験に弱い受験生であることの何よりの証です。
試験の実質は、問いに答えることです。
その場で、です。その場で、その問いに答えるのです。
予め覚えておいた固定的で確定的な答えを、答案上に置いてくることではありません。
ちなみに念のため。
本文で、「論点の理由づけについては・・・機械的に暗記して、答案用紙に書いてくればいい」と書きましたが、これは今述べた「問いに答える」という試験の実質論と何ら矛盾しません。すべては司法試験の「問い」における法律論の重要度の低さという観点から説明できることです。