ロースクール進学のリスク | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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社会人がロースクールに進学することのリスクは、よく話題になるところです。

 

一部のロースクールには、仕事を続けながら夜間で通えるところもあります。その場合であれば、ロースクール進学のリスクは、もっぱらお金と時間だけということになりますから、意欲のある社会人なら積極的にチャレンジしてもよいのではないかと(個人的には)思います。

 

しかし、仕事を辞めてロースクールに進むのは、間違いなく巨大なリスクです。一度失ったものは基本的に取り戻せません。現在のように転職が難しいご時世では尚更です。

 

このように、社会人のロースクール進学が危険な行為であるという物言いには、相当以上の説得力があります。このリスクが意識されるゆえに、社会人のロースクール入学者は毎年減少し続けているわけです。

 

ロースクール進学を考える社会人に熟慮が求められるのは当然でしょう。

 

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しかしです。これは不思議とあまり議論されることがないですが、22歳で(つまり新卒で)ロースクールに進学することも、社会人のロースクール進学に勝るとも劣らない巨大なリスクを抱えた行為です。

 

日本のように極端に偏った新卒主義を採用している社会では、とりあえず22歳でどこかに就職しておくことの重要性が極めて高いからです。

 

日本で22歳という年齢は、「職歴あり」の経歴を身につけるための最大のチャンスです。

最高値で自分を売るという意味では、文字通り最後のチャンスともいえます。

 

新卒でロースクールに進むのは、その大事な機会を自ら放棄する行為に他なりません

新卒者という「プラチナチケット」を放棄してしまったら、その後は「中古品」として、リサイクルショップで自分を売ることしかできません。

 

もちろん司法試験に受かれば、あなたの価値はそれ以上のものになります。

ですから、受かることを前提とすればすべて何の問題もありません。

社会人の場合もそれは同様です。

 

しかし、問題は受からなかった場合です。すなわち、三振した場合です。

 

22歳でローに入って、未修に三年通って25歳、三振するような人は傾向として連続三振りはしないで途中受け控えたりするでしょうから、三振したころには30歳くらいになっていることになります。

つまり、三振した時点で「職歴なし・30歳・ロー卒」という地位が確定することになるわけです。

 

この「職歴なし・30歳・ロー卒」という地位は、社会でどのような評価を受けることになるでしょうか。

私が思うに、おそらくは、「30歳までフリーターをやってました」(≒30歳まで何もやってませんでした)というのと大差のない、極めて低い評価しか与えられないのではないかと思います。

 

新卒で(=職歴を身につけることなく)ロースクールに入学し、結果三振することは、このような悲惨としか言いようのない地位に自らを追いやることを意味します

 

新卒者の方は、この現実をもう少しシビアに認識するべきです。


 

一般論として、就職・転職市場を、「採用のされやすさ」順で並べれば、

 

①「職歴なし」の(22歳の)新卒採用

     ↓

②「職歴あり」の中途採用

     ↓

③「職歴なし」の中途採用

 

ということになるでしょう。

 

 

さらに、この①②③を使って、社会人と新卒者のロー進学のリスクを一言でまとめれば、

 

◆社会人がローに進学するリスクは、

①で得られた利益を放棄して、②参入のリスクを負う

ことであり、

 

◆新卒者がローに進学するリスクは、

①で得られるはずだった利益を放棄して、③参入のリスクを負う

ことだといえるでしょう。

 

 

このように、司法試験という「賭け」に対して、①の利益(既に職を持っている利益・将来職を持つことが決まっている利益)を差し出している点では、両者のもったいなさは、実は同等なのです。

また、法律家という「受かった場合に得られる利益」にかんしても、両者は同等です。

さらに、リスクについても、②か③かという違いはあるものの、両者は五十歩百歩といえます。

(もっとも、どっちが「五十歩」でどっちが「百歩」なのかは重要な問題なので後述)

 

このように、「差し出す利益」「得られる利益」「負うリスク」いずれについても、社会人と新卒者の間に大きな違いはないのです。

では、ロー進学のリスクが云々されるとき、なぜ社会人のリスクばかりが取り上げられる傾向にあるのでしょうか。なぜ新卒者のリスクが叫ばれることはほとんどないのでしょうか。

 

その理由は、社会人という地位が、「職」という実体と既に結びついているからです。
すでに得ている「職」は、既に獲得した実体として、はっきりと目に見えているものです。

現在社会人であるという事実は、いわば、既に引き渡しの済んだ物権みたいなものなのであって、リアルな実在感(自分の支配下に置かれている実感)のあるものです。

それゆえ、その地位を手離すことへの喪失感(=もったいなさ)も強く自覚されるのだと思います。

 

一方で、新卒者という地位は、「職」という形ではいまだ実体化していないものです。
いわば、契約締結後・引渡し前の物権、あるいは実体化していない“権利”みたいなものです。

「権利を持っている」という点では、社会人が既に手にしている(職歴ありという)地位との利益的な差は、実はないはずです。

ただ、新卒というこれから行使できる権利は、現実の「職」という形では未だ実体化していません。

それゆえ新卒者は、価値ある新卒者という地位を、危険な賭け(司法試験)に差し出してしまうことに、社会人ほどの喪失感(=もったなさ)をおぼえないのだと思います。

 

しかし、新卒だろうと社会人だろうと、司法試験という「賭け」に差し出さなくてはならない利益大きな違いはありません

 

「現に所持している100万円を捨てる」ことと、「100万円を貰える権利を放棄する」こととの間に、本来価値的な差はないはずです。単に、前者のほうが喪失感が強く出るだけのことです。

ちゃんと想像力が働く人であれば、両方とも同じだけ「もったいない」と感じるはずです。

 

その意味で、ロースクールに進学することが社会人にとってリスキーな行為である一方で、新卒者にとっては普通の進学行為(それまでの中学→高校、高校→大学と同じプロセス)に過ぎない、と捉えるのは、かなり楽観的に過ぎるものの見方だと言わざるを得ません。

 

・・・・・

 

ここでひとつ考慮し忘れた条件をいえば、弁護士事務所への就職のしやすさという点では、若い方ほど有利であるということはいえるでしょう。ですから、私も新卒者のロースクール進学のリスクを必要以上に大きく煽るつもりはありません。

 

ですが、問題は受からなかった場合です。

「リスク」というのは、失敗した場合にはじめて顕在化する概念なのですから、そういう意味では、失敗した場合のリスクの大きさこそ注目されるべきなのです。

 

もし、社会人経験が1年でもあれば、たとえ失敗した場合でも、「職歴ありの再就職」という形で再スタートを切ることができます

こちらはまだしも普通の光景といえないこともありません。

 

しかし、新卒でロースクールに進学した方は、もし失権すれば、「職歴なし・30歳・ロー卒」という地位から新たに職探しをスタートしなければならなくなります

こちらは全然「普通の光景」ではありません。

 

先ほど、社会人と新卒者の進学リスクは「五十歩百歩」であると書きましたが、実際は、受からなかった場合のリスクは新卒者のほうが大きいと考えられます(五十歩百歩ではありますが)。

 

三振者のその後の人生が伝えられることは、その人数の多さに比してあまりにも少ないです。

しかし、多くの「職歴なし・30歳・ロー卒」の辿る道が、楽しくロー生をやっている頃には考えもしなかった残酷なものになっているであろうことは想像に難くありません。
 

特に昨今のように、即戦力ばかりが求められる(企業が社員を0から育てる気がない)状況の中では、法科大学院卒という頭の良さやそれまでの努力が、正当に評価されることはあまりないでしょう。

逆に、頭の良さはプライドの高さに、三振という事実は要領の悪さに、それぞれ読み替えられてしまう可能性が高いと思います。

 

繰り返しますが、社会人がロースクールに進む際のリスクの採り上げられ方に比べて、新卒者のロースクール進学のリスクは、不当に軽く見積もられています

まるで、そんなリスクなどないかのように扱われているとろこさえある、と言っていいです。

 

しかし、いくら入口で危険を知らされなかったとしても、出口の悲惨さに違いはありません。

入口が入りやすくなったからといって、安易にロースクールという門をくぐるべきではありません。
 

現時点でさえ、ロースクールに入学した学生の半分が三振するという現実があるわけです。

そこに今後は予備試験組という強者が、毎年少なくとも100人単位で参入してきます。
さらに、予備試験の合格者数が(司法試験の結果如何では)200人、300人と増えていくかもしれない中で、全体の合格者数のほうは削減されていく可能性も示唆されています。

事態は楽観を許しません。

 

これからロースクールの進学を考えている学生さんには、こういった現実をきちんと認識された上で、新卒者という「人生最高のプラチナチケット」を、司法試験という巨大なリスクを伴った「賭け」に本当に差し出してしまっていいのかという点について、もう一度冷静に考えて直してみることをおすすめいたします。

 

 

 

 

 

 

 

【小さな追記】 「司法試験に入ってきてはいけない人」

 

ずいぶん昔の話なのですが、新卒者のロースクール進学の危険性を訴えた当エントリーが批判を受けたことがありました。

その内容が恐ろしい勘違いを含んでいるように私には思われたことと、そういった(司法試験やロースクールに対する)根本的な勘違いに対して注意を呼び掛けておく必要があるように思われたので、若干追記をしておきます。

 

その「批判」の内容を一言で要約すると、下記のようになります。

「このエントリーに書かれたロースクール進学リスク論は、誰でも就職できる状況を前提にしているようだが、今は就職できるかどうか自体が難しい状況なのに、この管理人は現実が分かってないんじゃないか

・・・と、まぁ、ざっと言うとこんな内容でした。

 

まず、この方が指摘する就職難の状況(2010年代の半ば頃までの状況)を認めるとしても、当エントリーの主張には何ら関係がない(私の主張に対する批判にはなりえていない)という初歩的な議論の作法の問題は脇に置きます。

そのうえで、こういう「批判」がでてくる状況に、私の想定を超える要素があったので、一言付け加えておくことにします。

ロースクール設立以降、ロースクールや司法試験をめぐる夢物語や勘違いが横行する事態に一言もの申したかった身としては、正直こんなことまで言わなければならないのか、という虚脱感がありますが、
やはり、どこかに(小さい字で)書いておかなければいけないことだったかなと思います


それは、何百社もの会社にエントリーしながら、ただの一社からも内定が出ないような能力あるいは学歴(というよりもっとはっきり言えば大学名)の持ち主までもが、「司法試験」とか「ロースクール」とか言いだしちゃうのは原則ダメですよ、ということです。

 

もちろん、能力がなくても、学歴が低くても、司法試験に挑戦したいという人はいるでしょう。

例外的になら、「そういう人」がいてもいいと私も思います。

 

たとえば、職を持っている「そういう人」が、その職を持ちながら、趣味・道楽(と傍からは見えるかもしれない)として、予備試験を受け続けるのは構いません。

受からなくても経済的に何ら困ることがないという「そういう人」が、ロースクールに入ったり専業受験生になったりするのも構いません。

 

しかし、あくまで一般論としていうならば、「そういう人」は司法試験に入ってきてはいけません

 

そんなことをしても、99%以上の確率で予備校やロースクールに何百万円ものお金をむしり取られ、就職の条件がさらに悪化するという事態を招くだけだからです。

 

あまりにも自明の話だったので、こういうことは今まで書かずに済ませてきましたが、このブログを書いていた時代(2010年代前半)から状況が変化しているように思えたので、あえて下品な追記をしておきました。




 


【小さな追記の追記】 「司法試験に入ってきてはいけない人」かどうかを分ける<境界線>

 

下品な追記をしたので、ついでにもっと身も蓋もないことを書いてみようと思います。

 

私はこのブログの中で、司法試験のことを、①正しい②努力をすれば、「誰でも受かる」試験だと書いてきました。

もちろん、(頭では分かってはいても)①②を遂行できない人間の如何ともしがたい性についても強調してきましたが、その反面で、「誰でも受かる」というレトリックを多用してきたことも事実です。

 

なぜ今回この話を採り上げるのかというと、上の【小さな追記】で書いたような司法試験の状況の変化の中で、このレトリックも批判にさらされるようになってきたからです。

 

その「批判」を一言で要約すると、

「どんなに①正しく②努力したって、絶対に受かるとは限らないよ」

 ↑このような言い方をする人が現れはじめています。

 

昔はこのような批判を口にする人はあまり見なかったので、私も最初は少し戸惑いました。

だって、それって要するに、自分の能力に自分自身でダメだししているようなものだからです。

 

ともあれ、今までこのブログで書いたことがなかった司法試験のもう一つの側面について述べてみようと思います。

 

今まで私が安心して「誰でも受かる」というレトリックを用いてきた理由は、上記の①②を揃えても司法試験に受からないなどという、つまりは「そういう人」が、司法試験受験界に紛れ込んでいることはほとんどないだろうという判断があったからでした。

 

 

特に、勉強会の経験を基にそう判断していました。

 

 もちろん、私だって、ほとんど先天的に受かりそうもない種類の人間が、実際に存在するであろうことは容易に想像できます。

たとえば、現時点で日本語が全くできない30歳のイラン人が、数年内に司法試験に合格することは不可能に近いでしょう。

1日しか記憶を保持することができない脳の病に侵された人が、司法試験に合格することは(そのままでは)絶望的です。

 

このように、①②を揃えたところで、どうやっても受かるはずのない人は、当然存在します

 

とりあえずこのイラン人を司法試験における能力の最底辺に据えることにしましょう。頂点には東大生を置きます。

イラン人は①②を揃えても100%受かりませんが、東大生は①②を揃えれば100%受かります。

 

頂点から最底辺まで、人間の能力が連続的な分布をなしていることを考えると、頂点(東大生)からずーと下に降りて行ったどこかの時点で、「①②を揃えても100%受かるとは限らない」という段階が訪れることになります。

 

つまり、東大生(頂点)からイラン人(最底辺)までの中間領域のどこかに、

「①②を揃えれば100%受かる人」 と 「①②を揃えても確率的にしか受からない人」 を切り分ける<境界線>

が引かれることになるのです。 

 

この<境界線>とは、簡単にいえば、どんなに①正しいやり方で、②努力したとしても、この線から下にいる人は絶対に受かるとは言えない ということを教えてくれる基準のようなものです。

 

実をいうと、この<境界線>の話は、自分の中では(少なくともこのブログでは)ずっと封印していた内容でした。

何より景気の悪い話ですし、先ほども書いたように、<境界線>より下にいる人など、(日本の中にはたくさんいるけれども)現実の受験界にはほとんど存在していないはずだ、とある時期(2019年くらい)までは考えていたからです。

 

しかし、ブログでは封印していただけで、この「境界線問題」は、私が大昔からずっと考えてきた重要論点でもありました。

「イラン人云々…」という先ほどの思考実験は、実は10年以上前から友人たちを相手に繰り返し語ってきたものです。

 

ただ、先ほども書いたように、勉強会の仲間の中には、<境界線>より下にいる人が見当たらなかったこともあって、「そういう人」のことは基本的に無視して構わないだろうと考えていました。それで、ブログでは、「誰でも受かる」というレトリックを(レトリックと自覚しつつ)何の留保も付けずに使ってきたわけです。

 

ところが、どうも最近雲行きがあやしい。。。

先ほども述べたように、「①正しく②努力したって、受かるとは限らない」と絶望的なことを言う人が昔よりはっきり増えました。

また、私自身、実際にロースクールに通ったことで、司法試験受験生の質が著しく低下しているという残酷な事実を強制的に確認させられることにもなりました。

 

昔は、最後まで受からなかった人でも、「①②のどちらかが足りなかった」と認める人が、今よりずっと多かったです。

その理由はたぶん、まさに彼ら自身が、自分が<境界線>よりは上にいるという実感を有していたからなのだと思います。

 

ということで、今日は、このブログではじめてその<境界線>の話をしようと思います。

あまり気乗りがしないので、端的に結論だけ書いてさっと終わりにします。

 

<境界線>の上の人とは、司法試験の問題と答えを、日本語として十全に読める人です。

<境界線>の下の人とは、司法試験の問題と答えを、日本語として十全には読めない人です。

 

この基準は、司法試験を含むすべての試験に(基本的には)当てはまります。

試験(問題と答え)の日本語表現が簡単になれば、上の住人が増え、下の住人が減ります。難しくなれば逆になります。

 

境界線の上の人は、①正しく②努力すれば、(今度こそ本当に)誰でも100%受かります

境界線の下の人は、①正しく②努力したところで、ほとんど受かりません

 

下の人は、形式的には「受かるとは限らない」と表現すべきですが、実質的には「ほとんど受からない」と言うべきです。

なぜなら、そもそも①正しく②努力できること自体が稀なことなので、実際には、上の人でも多くは受からないからです。

 

このブログで散々書いてきたように、司法試験だけでなく、ほとんどの試験は過去問主義で受かります。

過去の過去問が十全に解けるようになれば、未来の過去問(本試験問題)も解けるようになる。これが過去問主義の道理です。

 

しかし、境界線の下の人は、司法試験の過去問(問題と答え)を、日本語として十全に読むことができません。

過去問を十全に読むことができない人が、過去問を十全に解くことなどできるはずがありません。

つまり、境界線の下の人は、過去問主義が要求する「過去問を読む→解く」というサイクルに入ること自体ができないのです。

 

なお、彼らに不足しているのは、過去問を読むための“知識”ではなく、言うなれば日本語の語彙であり、意味であり、論理です。

この点だけは絶対に誤解のないようにお願いします。


 過去の過去問が十全に解けなければ、未来の過去問(本試験問題)など解けるはずがありません。

 

「司法試験の問題と答えが、日本語として十全に読めるか or 読めないか」というこの基準(=境界線)は、この過去問主義という方法論からダイレクトに演繹される必然的真実なのです。

 

結論は以上なのですが、最後にひとつだけ付け足しておきます。

 

すでにお気づきの方もいるでしょうが、下の人ほど、自分が過去問を十全に読めていないという現実に気づくことができません。

「まさか、日本語で書かれた問題文と答えが<読めていない>なんてことが、他ならぬ日本人の自分にあるわけがないだろ」と、そう思い込んでいます。

同じ日本人でも、日本語の読み書きには隔絶した差が存在するという当然の事実を、下の人ほど認めようとしません。

 

このような頑なな思い込み(≒自分への甘さ)こそが、彼らを<境界線>の下の住人にしているのです。 

 

別の(身も蓋もない)説明の仕方をすれば、「①正しく②努力しても受からない人」とは、実質的にいうならば、そもそも最初から「①正しく②努力することができない人」だともいえます。

 

「①正しく②努力をしても受からない」と言うか、そもそも「①正しい②努力ができない」と言うかは、「①正しい」という言葉や「②努力」という言葉を(特に①のほうを)どれだけ実質化して考えるか、その考え方の違いにすぎないとも言えるからです。