元町散策の次に向かったのは、函館市船見町にある「外国人墓地」。

何の下調べも資料もなく行った為、撮った写真はランダム極まりないのですが、後にネット上で見つけた下のマップを参考に写真を整理してみます。

 

「はこだて外国人墓地散策マップ」(はこだて外国人墓地散策の会) より抜粋

 

1954(安政元)年のアメリカ・ペリー艦隊の水兵が葬られた「プロテスタント墓地(F)」に始まり、1859(安政6)年にロシア人墓地(A)、1870(明治3)年にカトリック墓地(現聖パウロ修道女会墓地・C)、1876(明治9)年に中国人墓地(現中華山荘・E)が加わりました。正式には、1870(明治3)年、米・英・独・露・中の在函5カ国の領事からの要請を受けて協定が結ばれ、現在の外国人墓地に。そのほか、一般の宗教関係の墓地も隣接してあります(「函館市公式観光情報 はこぶら」より)。

 

 

マップEの中国人墓地で、メイン通りにある正門です。

自由に出入り出来るような感じだったので少し入ってみたのですが、実際はどうなのか判断がつかず、すぐに止めました。よって具体的にお墓は見ていません。

 

 

 

(左)メイン通りをずっと進み、正門方向を振り返ったところ。

(右)海側の小道へ回って、裏門からメイン通り方向を見たところ。向こうに先ほど見た正門が見えます。

 

 

 

(左)海側小道がずっと延びていました。

(右)小道を進むと、もう一つ裏門が。

中国人墓地とその隣のプロテスタント墓地(マップF)の説明板が並んでいました。

 

 

「函館中華山荘」

『函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9年(1876年)に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始める。

当初の面積は、184坪(607㎡)しかなかったが、大正8年(1919年)に隣接の土地を買収し、466坪(1538㎡)となった。

この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。

墓地内には、総檜造り瓦屋根の祠堂や「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡のほかに、知られているだけでも9基の石碑と4基の木碑がある。

この墓地は代々の華僑団体が管理を行っており、毎年、清明節(春分後15日目)と中元節(旧盆)には、祭祀が営まれ、紙銭を焚いて墓祭を行い、先人の冥福が祈られている。 函館市』

 

 

マップFのプロテスタント墓地です。

 

 

 

「外国人墓地(プロテスタント墓地)」

『山背泊といわれたこの地区は、開港後、函館寄港中に死亡した船員や在住外国人を葬る墓地として使われ始めた。

古くは安政元年(1854年)に没したアメリカ・ペリー艦隊の水兵や、翌年にはイギリス艦隊の水兵の墓碑が置かれたほか、当時日本との国交はなかったものの、多数の病人発生により、急きょ入港したフランス艦隊の水兵がこの地で葬られたとの記録も残されている。

明治3年(1870年)には新たにカトリック墓地の設置について要望があり、開拓使は、改めて外国人専用の墓地として従来の英国(プロテスタント墓地)、ロシア(ロシア人墓地)に加え、フランスにカトリック墓地(現シャルトル聖パウロ修道女会墓地)を貸付け、明治9年(1876年)には、中国人墓地(現函館中華山荘)が加わり、現在の外国人墓地が形作られた。 函館市』

 

 

メイン通りにはもう一つ、プロテスタント墓地の解説板がありました。

 

「外国人墓地(プロテスタント墓地)」

『誰ということなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいるが、必ずしも外国人ばかりでなく、キリスト教徒である日本人の墓も混じっている。

しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたと考えられている。

古くは、安政元年(1854年)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウォルフ(55才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など、40基がある。 函館市』

 

 

メイン通りからプロテスタント墓地越しに海を眺めます。

 

 

メイン通り側からのロシア人墓地です。マップAになります。

 

「外国人墓地(ロシア人墓地)」

『ここが、ロシア人墓地として公式に認められたのは、明治3年(1870)のことで、当時の開拓使函館支庁と在函5ヶ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されました。

最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)のアスコリド号の航海士ゲオルギィ・ボウリケヴィチのものです。

現在この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名や白系ロシア人7名など全部で43基の墓があります。その中には、初代領事ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の読経者で、のちに魯学校の教師として活躍したヴィサリオン・サルトフも葬られています。

故国はるかなる異郷に倒れたロシア人も、この墓地で安らかに眠り続けるでしょう。 函館市』

 

どうでもいい事ですけれど、この解説板だけが「です・ます体」の文体でした。

解説板には新旧のタイプがあるようです(「である体」の解説板は日本文に続く英文の下に、4ヶ国語のQRコードが記されており、さらに他の同文体の解説板に令和元年の記述も見られた為、「である体」タイプが新しいと思われる)。

 

 

下は山側の通りから見たロシア人墓地。上2つの画像の反対側になります。

 

 

横に置くタイプの墓石がとても印象的(遠くから見ると棺桶に見えてしまう・・・)。

 

 

メイン通りからのマップG付近。

マップにはキリスト教日本人墓地とありますが、あまりキリスト教っぽく感じられませんね。

 

 

その隣にある南部藩墓地です。

 

「南部藩士の墓地」

『寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を直轄地(5年後には西蝦夷地も)としてその経営に乗り出し、蝦夷地の警備を南部・津軽の両藩に命じた。

両藩はそれぞれ500名ほどの藩士を派遣して警備に当たることとなった。南部藩は元陣屋を箱館に置き、根室、国後、択捉に勤番所を設け、その任に就いた。その後、文政4年(1821年)に蝦夷地は松前藩に返還されたため、両藩士たちはそれぞれ帰藩したが、安政元年(1854年)に再び蝦夷地が幕府の直轄地となると、再び東北の諸藩に蝦夷地の警備と開拓が命じられた。南部藩は箱館から幌別(現登別市)までを担当、600余名が勤務していた。

しかし、幕府が倒され明治新政府が誕生すると、箱館に箱館府が置かれて蝦夷地の経営を担当することとなり、東北諸藩の蝦夷地詰の人々は帰藩していった。

この間、多くの南部藩士が事故や病気で異郷の地に倒れた。函館で弔われた人については明治39年(1906年)から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年(1937年)にこの地に集めたものである。

現在、この墓地には、12名の藩士が祀られている。 函館市』

 

 

 

上2つはシャルトル聖パウロ修道女会墓地(マップC:メイン通りより)。

この墓地(カトリック)だけ解説板は墓地の歴史的経緯よりも、一人の偉人にスポットを当てた内容になっていました。

 

「函館市の社会福祉事業の先駆者、スール・マリ・オネジムここに眠る」

『明治11年(1875年)5月、スール・マリ・オネジムは2人のスール(修道女)と共にフランスのシャルトル聖パウロ修道女会から派遣され、元町にて孤児院・医療院・子女の学校を始め、社会福祉事業のために貢献した。

多くの孤児を養育し困窮者を救った功績に対し、昭和3年(1928年)5月にはフランス大統領から銀製賞牌が授けられた。

スール・マリ・オネジムは全国の白百合学園の発祥の地、函館白百合学園の創設者でもある。

この墓地には他に8人のスールが永眠している。 函館市』

 

 

マップDのハリストス正教会墓地を山側に向かって。

 

 

正教会墓地を今度は反対側に回って墓地越しに海を。

異国情緒あふれる印象的な光景です。晴れていればなぁ。

それと・・・電柱と電線が邪魔なのが残念。

 

 

墓地ではありませんが、付近にあった「旧函館消毒所」(函館市船見町25-18)。

 

「函館検疫所台町措置場(旧函館消毒所)跡」

『明治18年(1885年)、内務省は防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に日本で最初の常設消毒所を建設した。函館では現在地に施設が建てられ、唯一残ったこの建物は事務所として使用されたものである。
明治29年(1896年)3月、函館検疫所と改称され業務をおこなってきたが、特に昭和20年(1945年)には、敗戦による樺太方面などからの引揚者の検疫にあたり、医療や援護にと活躍した。
昭和43年(1968年)、検疫所は市内海岸町に落成した港湾合同庁舎内に移転し、平成4年(1992年)にこの施設は廃止された。
施設の中で唯一残ったこの事務所は、全国的にも数少ない初期港湾施設の遺構として、平成元年(1989年)に市の景観形成指定建築物となっている。

令和元年(2019年)、敷地の海岸では、美しい夕日などが眺められることから、市民や観光客が景観を楽しむことができる場所を整備した。 函館市』

 

現在は「ティーショップ 夕日」という、日本茶専門のカフェとして活用されています。

 

 

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