非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」 -9ページ目

非二元|自分を見失わず幸福に生きる「技と知」

より多くのお金を求めて働く貨幣経済の中で、自分らしく輝きながら、他者と共に幸福に生きる「技と知」を、ライフコーチの矢沢大輔が提案。

昨日、東京から大阪の実家に帰省する途中、京都で食事していこうと思い、行きつけの割烹料理屋に電話を入れると、20時半からの予約が取れた。

この時間からでは食べ終わってから大阪の実家に向かうには時間的に無理があるので、昨夜は京都のホテルで一泊していくことに決めた

そして、予約した時間に割烹料理屋に着くと、私より少し遅れて、30代くらいの女性が入店し、私の隣の席に通された。

彼女は、初めての来店だったようで、どのように料理を注文すれば良いのかよくわからず、さらにお店の人から「万願寺」があることを説明されても、万願寺がなんなのかもわからず、かなり戸惑っていた。

そこで、私のわかる範囲で、どう注文すれば良いかを説明してあげた。




そして、一夜明け、今日、私はバスの1日乗車券を買い、京都の神社や禅寺を巡った後、そろそろ大阪の実家に向かおうと思い、京都駅行きのバスに乗った。

京都駅にバスが着き、座席から立って前方の降車口に向かって歩き出すと、前の席に座っていた女性も立ち上がり、私より一歩先を行く形で歩き出した。

よく見ると、その女性は、昨夜、割烹料理屋で隣り合わせた彼女ではないか!

バスを降りてから、「昨日、お隣にいらした方ですよね」と彼女に声をかけ、「昨日に続いて、今日も同じバスに乗り合わせていたなんて、もの凄いご縁ですよね」というと、彼女も目を丸くしてびっくりしていた。

彼女をキャリーバッグを引いていたので、「これから、どちらに戻られるんですか?」と訊ねると、新幹線で福岡まで」と応えてくれた。

「あー、だから昨日、万願寺と言われても、なんのことかよくわからなかったんだ。私は東京から来ていて、これから大阪の実家に戻るところなんです。お気をつけてお帰りください」と声をかけ、彼女と別れた。

最後に、なぜ、このような出会いが起こるかについて、書いておこうと思う。

昨夜に続き、今日も、彼女と出会ったのは、偶然でも必然でもなく、彼女と私が別々に存在していないことを現実が教えてくれているからだ。

しかし、「自分と誰かとが別々に存在している」という分離の思考(ストーリー)を信じているなら、その思い込みにより、非二元性の現実は見過ごされ続けることになる。

お知らせ
ノンデュアリティ ・プライベートセッションは、新型コロナ感染予防のため.、当面の間、電話またはLINE電話でのみ行っています。


先週末の渋谷禅では、人間関係のいざこざがどのようなメカニズムによって引き起こされ、具体的にどうすれば争いが起こらず、たとえ自分が苦手だと思っている相手とも、和やかに会話できるようになるかを話した。


冒頭、ブッダと龍樹が人と会話を交わす時、共通してどのような関わり方をしていたかを話し、続いて、仏教で言われる「縁起」が、私たちのセルフ(自己)イメージを作り出す上で、どのような働きをしているかについて述べた。


そして、そのセルフイメージ(偽のアイデンティティ)が、否定的なものであろうと、肯定的なものであろうと、相手との分離感を生み出し、未来に完全性を求める探究が果てしなく続いてしまうこと。


たとえば、自分のことを「不完全な存在だ」と認識しているなら、自分に足りない何かを獲得することばかりに夢中になり、相手の話に耳を傾けられなくなること。


また、自分は壊れやすい存在だと思い込んでいるので、相手との間に自己防衛のためのバリアを築き、オープンでいられなくなること。

そして、自分の考えと合わない人に出会うと、相手を非難したり、無視するようなリアクションが起こり、人間関係をますますこじらせる悪循環に陥ってしまうことを話した。


しかし、「この人と一緒にいると居心地が悪いな」と感じる相手こそが、自分にとっての先生であり、具体的にどのようなことに気づきながら、その人との時間を過ごすと、自己防衛から出てくるリアクションではなく、慈悲に満ちたレスポンスが生じるようになるかを伝えて、3時間の講座を終えた。


お知らせ

7月3日(金)〜7月17日(金)の期間、ノンデュアリティ・プライベートセッションは、大阪・梅田で行います。

 

一週間前に終えた非二元ファシリテーター養成講座では、人は何に対しても依存症になり得ることを伝えた。


ちょうど渡部建がワイドショーを賑わしていた時期だったので、なぜ、仕事もプライベートも順調に行っていた彼が、これまでに築き上げてきたものを台無しにしてしまうような行動を止められなかったのか、その理由について詳しく話した。


一度、何かの依存症になってしまうと、人はその行動がよくないことだと理性的に100%理解していたとしても、その行動を止めることができない。


その理由は、依存的な行動を繰り返させている衝動が、脳の理性的な機能を司る大脳新皮質ではなく、快楽中枢から生じたものだからだ。


一度、何かの依存症になると、その行動の繰り返しにより、脳の快楽中枢がハイジャックされてしまうので、本人が、理性的に自分の行動を抑えようとしても、既にその行動はオートパイロット状態になっているので、行動を止めることはできない。


それゆえ、依存症からの回復は、かなり難しいものだと世間では思われている。


確かに、理性に訴えかけるアプローチを何度繰り返しても、快楽中枢から生じる衝動は、理性的な考えを事もなげに乗り超えてしまうので、依存的行動を止めることは難しい。


しかし、アプローチを変えて、何かを欲する「衝動」というものが、そもそもどのような構成要素によって成り立っているかを観察し、その一つ一つを理性で制御しようとしなければ、依存症からの解放がひとりでに起きだすことを伝えた。


依存症に苦しむ人たちに、理性面からアプローチしても、それは全くと言っていいほど機能せず、泥水(依存症)の中にクライアントを置き去りにしたままになること。


しかし、「泥中の蓮」を自ら経験した者なら、泥水(依存症)は悪いものではなく、蓮の花を咲かせる絶好の機会に変えられることを伝えて、4日間のファシリテーター養成講座を終えた。


お知らせ

627日(土)開催の渋谷禅は、オンラインでの開催になりました。

 
昨夜、寝る前に、天気予報を確認したら、明日は晴れで、明後日から雨が降る予報だった。


最近、気温が上がって、Tシャツを1日に何回も着替えるようになり、洗濯物が溜まっていたので、「よし、明日、起きたら、真っ先に洗濯しよう」と心に決めて眠った。


そして、今朝、目覚めたら、天気がよかったものの、洗濯をしようと決めていたことをすっかり忘れてしまっていた。


そして、いつものように、英語の勉強をやろうと思い、教材を手に取り、今日、学習することになっていたページを開くと、こんなフレーズが出てきた。


Ah,before I do that, I need  to do my laundry as it’ll be rainy for a while from tomorrow.

あ、勉強する前に、洗濯しなきゃ。明日からしばらく雨だから。


「偶然にしては、あまりに出来過ぎている」と驚きつつ、私はこのメッセージに従い、本を置いて洗濯機を回しに行った。


そして、洗濯機が回り終わるまでの約30分、英語の学習に戻り、強烈な実感を伴いながらこのフレーズを完璧に表現できるようになった。


私がたとえ、やるべきことを忘れても、人生はあるがままで完璧。

Life is complete just as it is.


お知らせ

人間関係の問題は、相手に問題があるのではなく、無意識のうちに作動している自分の思い込みから生じています。

そのメカニズムを知り、問題から自由になりたい方は、627日(土)開催のオンラインによる「渋谷禅」にご参加ください。

 

先週末にオンラインで開催した「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」では、「泥中(でいちゅう)の蓮」の話をした。


ここで言う「泥中」とは苦しみ(切羽詰った心理状態)のことで、新型コロナの感染拡大によってこれまでのように仕事ができなくなり、金銭的苦境に陥った時も、まさに「泥の中に置かれた状況」と言える。


普通に考えると、このような状況は避けたいものだが、「泥中の蓮」を経験的に知っているなら、心理的な苦しみ(泥中)は、仏性(蓮)が目覚める絶好の機会になり得るので、苦しみが避けるべきものではないことがわかる。


でも、シンキングマインドは、苦しみの中に陥った時、なんとかこの居心地の悪い状況から早く脱出しようと、出口(解決策)を探し、もがき続ける。


そして、皮肉なことに、もがけばもがくほど、泥の中に沈んでしまい、泥から出られなくなる。


では、どうすれば、泥の中から出られるようになるかというと、もがくのを(シンキングマインドを)一旦止めて、苦しみの原因がどのような思い込みから生じているのかを自分で確かめてみる必要がある。(これを仏教用語で「止観」という)


止観すれば、苦しみの原因がわかり、根本的解決に向かうことは確かなのだが、ここで再びシンキングマインドが働き出すと、蓮が咲くことはなく、再び泥の中に沈んでしまう。


シンキングマインドは二元性の次元にあるものだが、蓮が咲くのは泥水の中ではなく、泥水の上で咲くものだからだ。


だから、より正確にいうなら、「泥中の蓮」という表現は誤解を生む可能性がある。


泥中(苦しみの中)に沈む経験なくして、非二元性の意識の目覚めが起こらないことは確かだが、苦しみを生み出しているマインドの次元(泥中)に蓮が咲くことはない。


だから、正確に言うなら、「泥上の蓮」といった方が的確かもしれない。

実際、蓮の花は、泥水に接して咲いているわけではないのだから。


先週末の講座が終わってから、ふと、こんな考えが浮かんできた。


お知らせ

6月27日開催の「渋谷禅」は、会場の都合により、オンライン開催に切り替わりました。

延期になっていた「非二元ファシリテーター養成講座」が先週末から始まった。

冒頭、「ファシリテーターの仕事は、クライアントにリバレーション(無条件の自由)を経験してもらうこと」と伝え、そのリバレーションとは何かについて、最近私に起きた事例をあげ、こんな説明をした。

新型コロナの影響で、3月の末から、突然、講座を開いていた会場か借りられなくなり、4月の1ヶ月の売上が8万円まで落ち込んだ。
(この額は、私が住んでいるマンションの家賃にも満たない額)。

ところが5月になると、半月間だけで売上が60万円を超えた。

こういう話をすると、売上が落ち込んだ時に、何か有効な対策を講じたから、売上がV字回復したように思われるかもしれないけど、私は実際、売上を下げようとも、上げようともしておらず、ひとりで売上が上下していたこと。

そして、売上が下がる現実も、売上が上がる現実もパーフェクトな現実の流れあり、その流れと一致していると、どちらの状況であっても等しくリバレーション(解放感)を経験できることを話した。

普通に考えると、売上が下がり、預金通帳の金額がゼロに近づいたり、借金生活に陥ったりすると、お金を返済し終わるまで、心が落ち着かなくなり、精神的な重圧を感じながら、借金返済のための労働に勤しむことになる。

その重荷から解放されるのは、借金を返し終え、金銭的余裕ができる日まで持ち越されることになる。

でも、これは、二元性のマインドがつくり出したストーリーに過ぎない。

マインドは、借金を返し終え、問題が消えた時に解放感を感じられるものだと信じているけれど、本当の自由(リバレーション)は、借金の最中にも感じられるものであり、この自由を経験していると、どんな出来事も大事(おおごと)ではなくなり、お金に増減に縛られることなく、ライフの変化をあるがままに楽しめるようになることを伝えた。

お知らせ
今月30日(土)開催の「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」は、オンライン開催となりました。


昨日、延期になっていたウェイクフルネスをやっと開催できた。

開催方法がオンラインに切り替わったことで、参加できなくなった人も出たけれど、遠方の方々にとっては逆に参加しやすくなり、カナダから2名の女性が参加してくださった。

講座では冒頭、般若心経の「般若」とは、「仏の知慧」のことで、この「知慧」とは、私たちが一般的に理解している「知恵(分別の知)」ではなく、「無分別の知」であることを話した。

分別の知とは、思考を通して、物事のあり様を「善/悪」「好き/嫌い」「美しい/汚い」というように二分化して理解する知恵のことだけど、無分別の知とは、思考を積み重ねて至りつけるような知ではないこと。

それゆえ、般若心経に書かれた内容をいくら頭を使ってわかろうとしても、絶対に悟れないことを伝えてから、では、どうすれば、人生の苦悩から自由になれるのか、仏の悟りをダイレクトに体験できるよう講座を進めていった。

参加者の皆さんには、「今、どんなことに行き詰まっているのか」を予め聞いておいたので、3時間ほどの時間をフルに使って、下記の問題の原因を一つ一つ溶いていった。

・プライベートセッションを終えて数日経つと、また元の状態に戻ってしまった。

・マスクをしていない人を見かけると、心がザワつく。

・腰痛と寝つきの悪さ

・朝、会社に向かう時に億劫さを感じる。

・1日おきの出勤に変わり、心が落ち着かない。

また、「直感の声に従うといい。とよく言われていますが、直感の声とマインドの声をどうすれば区別できますか」というような質問も出た。

これについては、「直感の声」と「マインドの声」を二つに分類しているのもマインドの働きそのものなので、そのような考えにとらわれるより、「何かをやってみたい」という欲求が、健全な欲求なのか、それとも欠乏感からくる自己中心的(エゴ的)欲求なのかを見抜けるようになった方が、結果や人の評価を気にすることなく、軽やかに行動が起きだすようになることを伝えた。

また、般若心経に出てくる「涅槃(Nirvana)」とは、たとえ新型コロナによって一時的に収入が途絶え、苦境に追い込まれた最中でさえ消えるものではなく、どのような状況にも影響されることなくあるこの自由さを経験していると、お金が増えようが減ろうがどちらでもパーフェクトになること(無分別の知)を伝えて講座を終えた。

お知らせ
今週末から開催の非二元ファシリテーター養成講座と5月30日(土)開催のお金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放は、いずれもオンライン開催に切り替わりました。

緊急事態宣言が発出されてから、外出自粛要請と休業要請がきびしくなり、新型コロナ拡大以前に普通に行けていた所に行けなくなった。

 
今、外出を控え、家で我慢していたら、コロナが収束しだすので、また元の日常が戻ってくる。
だから、それまで、みんなで頑張ろう。
 
そんな雰囲気が今、社会に蔓延している。
 
では、「私たちがこのまま自粛を続けたら、未来のどこかで、また元の日常が戻ってくる」というこの期待は、現実的なものだろうか?
 
5月6日まで休業要請に従い、飲食店の営業時間を短縮していた経営者は、テイクアウトメニューに切り替えたものの、売上額はかつての10分の1以下に落ち込んでいるので、緊急事態宣言がさらに1ヶ月延長されることで、廃業に追い込まれる可能性が増すだろう。
それにともない失業者も増え、今後、ますます消費活動が低迷することになるので、その悪影響は現時点で自粛要請が出ていない業種にも及ぶことになる。
 
だから、時間が巻き戻って、元の状態に戻ることなんてあり得ない。
(専門会議のメンバーの提言は、あくまで医療崩壊を防ぐ観点からのもので、それを実行すると経済が回らなくなり、家計崩壊を引き起こすことについては専門外ゆえ、まったく考慮されていない)
 
しかし、取り巻く環境がどう変化しようと、たとえ元の状態に戻ることがないとしても、落胆する必要はない。
 
現実は、常にアップデートされていて、同じことが繰り返されたり、元に戻ったりするものではないからだ。
 
あなたが現実の流れと一致しているなら、全てが順調に展開していることがわかるようになる。
 
その逆に、現実の流れに抵抗し、不一致が起きているなら、苦悩し続けることになる。
 
もし、今、あなたが不自由さを感じ、人生に窮屈さを感じているなら、その原因は、自粛要請が出たためでも、思うように収入が得られなくなったためでもない。
 
その原因は、「私が思うように現実が変わらなくてはいけない」という自己中心的な欲求にとらわれてしまっているからだ。
 
でも、頭でこれを理解しても、自己中心的な欲求が止まることはない。
 
もし、頭で理解したらなら、「究極の自由」を求め、自己中心的な欲求がますます強まることさええり得る。
 
でも、これは、リバレーション(無条件の自由)でも、ミドルウェイ(中道)でもなく、二極性の片側に極端に偏り過ぎたマインドの一時的状態に過ぎない。
 
お知らせ
5月9日(土)開催のウェイクフルネスは、新型コロナ感染防止のため、オンライン開催となりました。
昨日、web会議システムを使って、初めて非二元ファシリテーター養成講座をやってみた。

新型コロナの感染拡大で、会場が借りられなくなり、「集合研修」という特定の形にとらわれていたのでは、いつまで経っても講座を開催できなくなると感じ、オンラインでの開催に切り替えた。

やってみると、いつもより少し多くの人が参加してくれて、みんな元気そうに過ごしていることが画面を通してわかり、開催を延期せずにオンライン開催に切り替えて良かったなと感じた。

昨日は、4人ずつ、ファシリテーターとクライアントに分かれ、4つの模擬セッションを行った。

やってみると、クライアントの口からでてくる不安や心配事は、やはり新型コロナの感染拡大に関連するものが多かった。

自分が感染してしまったら、どうなるか?
このまま収入が減り続けたら、どうなるか?

そんな不安が押し寄せて来た時、何をすれば、不安や恐れから自由になれるのか?

逆に不安が押し寄せて来た時、気をまぎらわせようとして、どのようなアクションや思考をめぐらせ始めると、延々にそのリアクションが繰り返され、問題が未来に持ち越され続けてしまうの?

この違いをクライアントが自分自身で認識できるようになるよう、どうセッションを進めればよいかを練習した。

クライアントは、自分が苦悩している理由は、自分の願いが「いつまでも実現しないこと」が苦悩の原因だと思い込んでいるけれど、実はそれが問題ではないこと。

苦悩の原因がわからないままでは、クライアントはいつまでも「自分の願い通りに現実が変わったら、私は幸せになれる」という信念に基づき、これまでと同じ行動、思考を繰り返してしまうので、何が苦悩の原因になっているのかを、その場で、クライアント自身が気づけるようになることは、この上なく有益であること。

そのために、私たちファシリテーターはどのようにセッションを進めれば、クライアント自身が苦悩の原因を自分で見通せる次元にシフトさせられるのか?
そのプロセスをみんなで再確認しあった。

そして、終わりにみんなのスケジュールを確認して、次回(後半)の実習の日程を決めたのだが、「あまり間をあけたくない」という声が上がり、さっそく今週末の日曜に後半の実習をやることに決まった。

みんなが家にいるこの時期だから、こんなふうにすんなりスケジュールを合わせて、また、みんなと寄り合い練習ができる。

Stay homeのこの時期には、この時期なりのギフト(現実)がちゃんと届けられているようだ。

お知らせ
新型コロナの外出自粛要請が解除されるまで、非二元(ノンデュアリティ)のプライベートセッションは、電話でのみお受けしています。
先日、埼玉の女性と非二元(ノンデュアリティ )のプライベートセッションを終えた後、彼女からこんな質問を受けた。

「言葉では語れない領域のことを、なぜ、こんなに熱意を持って言語化できるんですか?」

どうやら彼女から見ると、セッションをやっている最中の私は、すごく熱意を持った人物に見えたらしい。

それで、少し考えてから、私はこう答えた。

「言葉で表現するのは難しいけど、あえて言葉にするなら、気持ちいいからじゃないかな」

「気持ちいい」という言葉は、たった5文字で表された言葉に過ぎないけど、直に感じている気持ちよさは、「気持ちいい」という5文字で表せるほど浅はかなものではない。

だから、この気持ちよさは、到底言葉で表現できるものではない。

でも、私はこの気持ちよさを四六時中感じながら過ごしている。

たとえば、風呂の湯船に浸かっているだけで、とろけるほど気持ちよくなるし、体をボディブラシで洗っている時も、頭をジャンプーしている時も気持ちいい。

風呂から出てバスタオルで体や頭の水分を拭いている時も、その後、ベッドに横たわりながら音楽を聴いたり、Netflixでテラスハウスを観て大笑いしたりしている時も気持ちいい。

そして、部屋の灯りを消し、眠りに落ちるまでの間もあまりに気持ちよくて、知らぬ間に眠りに落ちてしまう。

そして、この気持ちよさは、新型コロナの感染が拡大して会場が借りられなくなり、思うように講座を開けなくなった今も、まったく消えることなく、ここにあり続けている。

今、ブログを書いているこの瞬間も気持ちいい。

だから、なぜ、非二元(ノンデュアリティ )のセッションをこれだけ熱意を持ってやっているのかと聞かれれば、「私が知る限り、これほど気持ちいいものは他になく、人に何か伝えたいことがあるとするなら、これ以外のものはないと思えるから」ということになろうか。

人生に起こる出来事につられて、苦悩している人、落ち込んでいる人を見かけたら、私はこんなふうに声をかけたくなる。

これ、試してみなよ。
その場で即、気持ちよくなるからさぁ。
僕はドラッグを一度もやったことないから、ドラッグでぶっ飛んだ時の快楽は知らないけど、非二元性のこの気持ちよさを体感するのに、ドラッグなんて必要ないから。
つまり、特定の何か(物質)に依存する必要もないし、それを買うためのお金もいらない。

しかも、この気持ちよさを一度知ったら、ほんと、何かに頼って得られる一時的な快楽なんて、どうでもよくなっちゃうから・・・と。

ここでドラッグについて少し語っておくと、日本ではドラッグの依存症になった人に対して、依存症を断ち切るリハビリが行われているが、どれだけ治療やリハビリを施しても、再びドラッグに手が伸びる可能性は極めて高い。

でも、アメリカには、長年、ドラッグにハマっていた人たちが、非二元性(ノンデュアリティ )のプレゼンスの気持ちよさを知り、ドラッグに頼る必要がなくなった人たちがいっぱいいる。
(そして、その人たちが非二元のプレゼンスについて伝えていたりする)

なぜなら、ドラッグによって得られる快楽は一時的なものだが(それ故、ドラッグの常習性が増すことになる)、非二元性のプレゼンスからもたらされる気持ちよさは、いつでもここにあるものだからだ。

みんなが探し求めているのは、この気持ちよさであって、この気持ちよさを言葉で表現することはできない。

でも、どうすればこの気持ちよさを感じられ、その逆に何が始まるとこの感覚が消えて苦しみを感じだすのか、というメカニズムなら、私はよく知っている。

だから、私はセッションで、その時点でなんらかのつらさを感じているクライアントさんに、その場でその苦しみから自由になれる方法を伝え、言葉では表現できない気持ちよさをクライアントさんに直接体験してもらうようにしている。

これ以外に、言葉では到底表しきれないこの気持ちよさを人に伝えられる方法などあり得ないから。

おそらく、こんな思いが、先日のセッション中、「熱意」となって現れていたのではないかと、私には思える。

お知らせ
新型コロナの外出自粛要請が解除されるまで、非二元(ノンデュアリティ)のプライベートセッションは、電話でのみお受けしています。