先週末の渋谷禅では、人間関係のいざこざがどのようなメカニズムによって引き起こされ、具体的にどうすれば争いが起こらず、たとえ自分が苦手だと思っている相手とも、和やかに会話できるようになるかを話した。
冒頭、ブッダと龍樹が人と会話を交わす時、共通してどのような関わり方をしていたかを話し、続いて、仏教で言われる「縁起」が、私たちのセルフ(自己)イメージを作り出す上で、どのような働きをしているかについて述べた。
そして、そのセルフイメージ(偽のアイデンティティ)が、否定的なものであろうと、肯定的なものであろうと、相手との分離感を生み出し、未来に完全性を求める探究が果てしなく続いてしまうこと。
たとえば、自分のことを「不完全な存在だ」と認識しているなら、自分に足りない何かを獲得することばかりに夢中になり、相手の話に耳を傾けられなくなること。
また、自分は壊れやすい存在だと思い込んでいるので、相手との間に自己防衛のためのバリアを築き、オープンでいられなくなること。
そして、自分の考えと合わない人に出会うと、相手を非難したり、無視するようなリアクションが起こり、人間関係をますますこじらせる悪循環に陥ってしまうことを話した。
しかし、「この人と一緒にいると居心地が悪いな」と感じる相手こそが、自分にとっての先生であり、具体的にどのようなことに気づきながら、その人との時間を過ごすと、自己防衛から出てくるリアクションではなく、慈悲に満ちたレスポンスが生じるようになるかを伝えて、3時間の講座を終えた。
お知らせ
7月3日(金)〜7月17日(金)の期間、ノンデュアリティ・プライベートセッションは、大阪・梅田で行います。
ちょうど渡部建がワイドショーを賑わしていた時期だったので、なぜ、仕事もプライベートも順調に行っていた彼が、これまでに築き上げてきたものを台無しにしてしまうような行動を止められなかったのか、その理由について詳しく話した。
一度、何かの依存症になってしまうと、人はその行動がよくないことだと理性的に100%理解していたとしても、その行動を止めることができない。
その理由は、依存的な行動を繰り返させている衝動が、脳の理性的な機能を司る大脳新皮質ではなく、快楽中枢から生じたものだからだ。
一度、何かの依存症になると、その行動の繰り返しにより、脳の快楽中枢がハイジャックされてしまうので、本人が、理性的に自分の行動を抑えようとしても、既にその行動はオートパイロット状態になっているので、行動を止めることはできない。
それゆえ、依存症からの回復は、かなり難しいものだと世間では思われている。
確かに、理性に訴えかけるアプローチを何度繰り返しても、快楽中枢から生じる衝動は、理性的な考えを事もなげに乗り超えてしまうので、依存的行動を止めることは難しい。
しかし、アプローチを変えて、何かを欲する「衝動」というものが、そもそもどのような構成要素によって成り立っているかを観察し、その一つ一つを理性で制御しようとしなければ、依存症からの解放がひとりでに起きだすことを伝えた。
依存症に苦しむ人たちに、理性面からアプローチしても、それは全くと言っていいほど機能せず、泥水(依存症)の中にクライアントを置き去りにしたままになること。
しかし、「泥中の蓮」を自ら経験した者なら、泥水(依存症)は悪いものではなく、蓮の花を咲かせる絶好の機会に変えられることを伝えて、4日間のファシリテーター養成講座を終えた。
お知らせ
6月27日(土)開催の渋谷禅は、オンラインでの開催になりました。
最近、気温が上がって、Tシャツを1日に何回も着替えるようになり、洗濯物が溜まっていたので、「よし、明日、起きたら、真っ先に洗濯しよう」と心に決めて眠った。
そして、今朝、目覚めたら、天気がよかったものの、洗濯をしようと決めていたことをすっかり忘れてしまっていた。
そして、いつものように、英語の勉強をやろうと思い、教材を手に取り、今日、学習することになっていたページを開くと、こんなフレーズが出てきた。
Ah,before I do that, I need to do my laundry as it’ll be rainy for a while from tomorrow.
あ、勉強する前に、洗濯しなきゃ。明日からしばらく雨だから。
「偶然にしては、あまりに出来過ぎている」と驚きつつ、私はこのメッセージに従い、本を置いて洗濯機を回しに行った。
そして、洗濯機が回り終わるまでの約30分、英語の学習に戻り、強烈な実感を伴いながらこのフレーズを完璧に表現できるようになった。
私がたとえ、やるべきことを忘れても、人生はあるがままで完璧。
Life is complete just as it is.
お知らせ
人間関係の問題は、相手に問題があるのではなく、無意識のうちに作動している自分の思い込みから生じています。
そのメカニズムを知り、問題から自由になりたい方は、6月27日(土)開催のオンラインによる「渋谷禅」にご参加ください。
先週末にオンラインで開催した「お金を求めて働き続ける欠乏サイクルからの解放」では、「泥中(でいちゅう)の蓮」の話をした。
ここで言う「泥中」とは苦しみ(切羽詰った心理状態)のことで、新型コロナの感染拡大によってこれまでのように仕事ができなくなり、金銭的苦境に陥った時も、まさに「泥の中に置かれた状況」と言える。
普通に考えると、このような状況は避けたいものだが、「泥中の蓮」を経験的に知っているなら、心理的な苦しみ(泥中)は、仏性(蓮)が目覚める絶好の機会になり得るので、苦しみが避けるべきものではないことがわかる。
でも、シンキングマインドは、苦しみの中に陥った時、なんとかこの居心地の悪い状況から早く脱出しようと、出口(解決策)を探し、もがき続ける。
そして、皮肉なことに、もがけばもがくほど、泥の中に沈んでしまい、泥から出られなくなる。
では、どうすれば、泥の中から出られるようになるかというと、もがくのを(シンキングマインドを)一旦止めて、苦しみの原因がどのような思い込みから生じているのかを自分で確かめてみる必要がある。(これを仏教用語で「止観」という)
止観すれば、苦しみの原因がわかり、根本的解決に向かうことは確かなのだが、ここで再びシンキングマインドが働き出すと、蓮が咲くことはなく、再び泥の中に沈んでしまう。
シンキングマインドは二元性の次元にあるものだが、蓮が咲くのは泥水の中ではなく、泥水の上で咲くものだからだ。
だから、より正確にいうなら、「泥中の蓮」という表現は誤解を生む可能性がある。
泥中(苦しみの中)に沈む経験なくして、非二元性の意識の目覚めが起こらないことは確かだが、苦しみを生み出しているマインドの次元(泥中)に蓮が咲くことはない。
だから、正確に言うなら、「泥上の蓮」といった方が的確かもしれない。
実際、蓮の花は、泥水に接して咲いているわけではないのだから。
先週末の講座が終わってから、ふと、こんな考えが浮かんできた。
お知らせ
6月27日開催の「渋谷禅」は、会場の都合により、オンライン開催に切り替わりました。
緊急事態宣言が発出されてから、外出自粛要請と休業要請がきびしくなり、新型コロナ拡大以前に普通に行けていた所に行けなくなった。




